2010/02/16

身近な自然に挑む

 休日の暖かい日は、多摩川沿いは多くの人出で賑わう。近くに住む人の殆どが、見晴らしの良い広大な空間、整備された遊歩道、土手の傾斜の芝生、あるいは大きな木の下にある休息所などを利用して、様々な時間の過ごし方をしている。その6割はウォーキングをする人なのだが、金管楽器の練習をしている人、赤ん坊連れの若夫婦、ペットとお散歩、土手を滑り台のようにダンボールを使って滑り降りる子供達。近くに「京王閣」があるので自転車の練習をするレーサーなど、様々である。下流にある二子玉川あたりでは、休日、若者集団がバーべキューで騒いでいる。

 そんな、のどかな光景を楽しみながら、ゆっくり歩いていると、時折、のんびりムードに風穴を開けようとしてか、ニコニコしながら「Tバック1チョウ」で早足に追い越してゆくおっさんがいる。若者は見てみぬ振りをしているが、こらえても、こらえても、湧き上がる微笑を抑えきれないのであろう、目じりは下がり頬から下は今にも噴き出しそうである。力が抜けてしまうのであろうか、コースから離脱する人まで出る。子供達は、とんでもないものを見てしまった興奮で、黙り込んで「あんなのいいの?」と言わんばかりに父さんの顔を覗き見る。話に聞いている社会秩序とはまるで違う状況に出くわし、戸惑っているようだ。 いくらか暖かくなってきた?といっても、よほど早足でないと寒かろう。

 そんな、笑える多摩川でも、時折、土手と河原の間にあるススキに隠れて糸をたれている何人かの釣人を見かける事がある。それぞれ後ろ姿なので頭部から肩辺りまでしか見えないが、 夕暮れ時の後ろ姿は、哀愁を帯びてじっと置物のように、何故か感じ入るものがある。そこにあるのは、釣りという行為を通して自然を学ぶ姿がある。自然の節理のなかに身を置き、そこから自分なりに新たなセオリーを見出し、それにしたがってゲームを進める。人間が古代から備えてきた、自然を相手にした智慧を見い出だすきっかけとでも言えばよいのであろうか、虚像にみちた社会の中で、本来の人としての自分を取り戻す時間になっているのではないだろうか。

 そんな、この後姿を眺めながら、いつか写真に収めたいと、ずっと以前から気になっていた。しかし、河原の地蔵さんの写真と誤解されても困るので、何か工夫が必要である。そこで、時間のある日に、何度か通って考えた。平日は夕方からしか出られないし、太陽が落ちてからは気温が下がり釣り人は消える。風の強い日や雨の日はさすがに1人も見かけない。8日間通い、それでもいくらか暖かい日の、太陽が沈んで暗くなるぎりぎりの時間まで待ち、釣り人が餌を投げ入れる瞬間を、「置きピン撮影」で連写した(写真左の中ほどには糸も写っている)。まあ、幾つになっても、写真は練習と心得ているつもりだが、今回は修行にも似た、寒さの中での撮影であった。

 多摩川の川上では、年に何度か稚魚の放流が行われる。大半は、その時期に釣り糸をたれるわけだが、今頃、ここで釣り糸を垂れ、自然を相手にじっと待つ姿こそが、本物なのかもしれない。特別大きな魚がかかるわけでもないので、釣り上がった魚は再び放流されることになる。時の過ぎ行くのをしばし忘れて静止し、自然の成り行きを見守る。そして、あるときはそれに従う。その環境の中で自分の存在を改めて認識し、自然とどのように共存するか、そんな教えを待っているのかもしれない。
ではこちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21517&app=WordPdf

補足)「置きピン撮影」とは、構図を決めた後、ピントの合う距離を、あらかじめレンズの焦点距離と絞り値を使って割り出し、ピントの範囲を固定しておくこと。その範囲に被写体が入ったらシャッターを切る。常時追尾していても、ピントを合わせにくいスポーツや、動きが早くピントを合わせにくい小さな被写体(ここでは、竿と糸)の撮影に使われる。また、ボケた背景の中にシャープに移しこみたいものを並べる時などにも利用する。写真撮影の技法としては、1丁目1番地と言ってよいほどの基本中の基本である。