2009/06/30

オーディオマニア6

 改札を出てショッピング街に入ると、遠くで LOVE ME DO が聞こえてきた。 この音は、赤盤の音である。ビートルズを聴くのは久々だと思いながら歩く COME ON COME ON という歌声に引き寄せられるように、ついレコード店を覗くことになった。これもお店の秘策かもしれないが、気分は良い。随分長い間、聴かなかった曲を聴かされると、昔の自分に戻ったように元気になるからだ。なんだ、こんな小さなスピーカで鳴らしていたのか、遠くからでも、近づいても、ちゃんと聴こえる。これが世界共通音源のなせる業なのだろうか、それとも、記憶にある自分の音で補足をしていたのだろうか。それでも40年近く変わらない音に聴こえた。

 最初に聴いたのは、確か ソリッドステート11 から聴こえるFM番組だったと思う。赤いステレオという文字の刻まれたインジケータが時々消えかけるような時代である。それ以来、熱心にビートルズを聴いたわけではないが、当時は、日本のグループサウンズも真似て演奏していたので、あれも、これも、みんなビートルズだったんだと、後から知った訳である。それにしても、色々な形で彼らの曲を聴かされたことになる。これほど世界中の多くの人たちに影響を与えた作品はない。現在でも、音楽教室はもとより、TV番組のバックや、CMなどにも多用され、どんなにアレンジされても、その場面を盛り立てて、人の心を揺さぶるような使い方がなされている。そのくらいバリエーションに富んだ多種多様な作品が残されている。

 彼らは、まぎれもなく才能集団だったが、モーツアルトのように溢れ出るがまま、ただそれを譜面に落としていたのだろうか。もしそうなら、それは神業でしかないが、そうではなさそうだ。広がるバリエーションとメッセージ性に富む楽曲は、やはり、妥協を許さぬ創意と工夫の中で、試行錯誤と、苦悩の上にも苦悩を重ねた末に生まれていたのである。さらに、アレンジをどうするのか、何の音を付け加えたらよいのか、どんな音質に仕上げるか、そこに、多くの革新的創作を加えたプロデューサーとレコーディングエンジニアがいたのである。彼らは、脇役に徹して、才能をより引き出すことや、作品に輝きを加えたりすることに長けていたと思われる。ビートルズのサウンドを語るとき、どうしてもそんな彼らの仕事を見逃せない。彼らのマーケティング力というか、新しいサウンドに対する創造力は、単純なコードを次々と発展させ、堂々とした肉付けの良い彫刻のような音楽に仕上げている。

 オーディオマニアとしては、そこに触れることも大きな意味がある。ギター1本で奏でたメロディーがどのようにアレンジされたのか、また、どう練られて完成したのか、より多くの人に聴いてもらうために、何が加えられたのかを知ることが出来れば、音の聴き方も変わるし「創作物に対する価値観」も変わる。今日紹介するのは、その要求を満たしてくれるCD3セット6枚である。もちろん、これを順番に漠然と聞いても楽しめるが、既存のレコードを聴き慣れた人には、「おっと待てよっ」て、首をかしげることも多い筈だ。そして、知らず知らずのうちに、音質の違いを聴き分ける能力も向上する。微妙なニュアンスの違いも分かり、何回でも聴いてみたくなり、聴けば聴くほど、知らなかった事をたくさん想像できるし、前よりもっとビートルズが好きになるかもしれない。 特に、「ビートルズは聴き飽きた」という人ほど聴いてほしい。それがファンとして彼らの人間関係に迫る次の手掛かりでもある。

 このCDはかなり古いが、大型のレコード店などには、まだいくつかの在庫を確認した。3作品全て日本盤で揃わないかもしれないが、洋盤も出ているので、ぜひ探してみて欲しい。
今後も、 少しづつ紹介しておきたい。 ではこちら
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2009/06/26

続デジタルカメラ27

 雨上がりの今日、朝霧を駆け抜けるように、再び深大寺までやってきた。最後の坂道がきつかったが、境内にたどり着くと、ピンと張った空気の中に鳥のさえずりが響き、かすかな香の匂いも漂う。苦しそうな自身の呼吸音がひときわ大きく伝わってくる。まだ、早すぎたか。太陽の行方を見ながら、元三大師堂の前の階段にしばらくしゃがみこんだ。

 今日の目的地は「開山堂」である。その前に、前回撮影した「五大尊池」の前に行き、昨日の雨が流れ込んでいるのを確認する。この音を発てて溢れ出ている水源は気持ちが良いくらい綺麗である。こんな状態の時に写した方が良かったな、と反省。そして何かに惹かれるように、再び「深沙大王堂」を目指して歩き出す。近づくと大量の水が流れ落ちるような音が聞こえてきた。隣の「水神苑」という料理店の中庭に滝のように水が溢れ落ちている場所がある。木々の塀が中庭をさえぎりよく見えないが、どうも断層の中程の「深山茶屋」の下あたりから流れ落ちているようだ。山門の前を通る脇溝の水はここから来ているのだろう、水車小屋の方にも流れているようだ。 深沙大王堂の裏手から「深山茶屋」の方へ上がって確認したいと思い、階段に向かって歩き始めたときのことである、ごくごく普通の水溜りのような小池に向かって、初老の紳士が手を合わせておられた。おっつ、ひょっとしたら、ここが深沙大王の湧き水を祭った場所なのか。その奥には、芭蕉句の碑まであるではないか。うーむ、深沙大王は「鋭い切替えしで、俺を翻弄させたな」と、愕然とその、ごく普通に見落としてしまう小池を眺めるのであった。しばらくその前に佇み、その小さな池をくまなく見渡し、おもむろに納得しながら「元三大師堂」まで戻り始める。朝日の輝きに気を取り直して、そろそろ、大師堂の左端にある「開山堂」への道を上がる時間が来そうだ。今日は、そこで、いつものように1カットだけ撮って帰ろう。

 写真を撮ること自体は、力むほどのことも無く簡単な作業であるが、その前に自分の心構えが重要である。不用意に散漫な気持ちでいてはならない。そのために、まず、元三大師堂に向かい、「今日は、開山堂の写真を撮らせてもらうために参りました、いい写真を撮って帰りますので、お守りください」 と礼拝をする。特別に信心深いわけではないが、最低限度のマナーといえる。ブログで紹介する写真は、多くの人の目に触れるので、そのような気持ちになるのだ。写真撮影で、よく使われる「感性」とは、このように写真を撮る姿勢というか、撮影を見守る人たちへの配慮だったり、撮影対象の気持ちを大切に想うことであったり、あるいは、その出来上がった写真を見ていただく人に伝えるべきものを熟慮する「精神構造」のことである。

 勿論、カメラを向けてはならない方角や対象もあるし、時間帯もある。もっとも、写り込んでもらっては困る者もある。露出や絞りの前に、配慮すべきことは多い。また、案外自分の力量不足によるジレンマに苦しみ、目標が絞れなかったりする時もある。経験を重ねると、自分なりの流儀の必然性を実感するのである。

 礼拝をすませてからは、気が楽になる。何処か、かつての「報道関係の腕章」にも似た安心感と責任感の同居する微妙な気分である。すたすたと坂道を上がり、開山堂へ急ぐ。勿論、開山堂でも礼拝を忘れてはならない。ここでは、率直に「いい写真撮影の為に力をお貸しください」と手を合わせてお願いをした。そのお導きによるものか、ご利益か、ロケーションも難なく決まり、楽にシャッターが切れた。 この緑に囲まれた高台から、じっと調布市を望む「開山堂」 は、一際頼もしい姿に見える。深大寺を尋ねたら、蕎麦を食べて帰るだけではなく、必ずここ開山堂まで足を伸ばして欲しい。 ご利益はある。
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2009/06/23

低GI食品2

 我々は、新しい食べ物に抵抗を示す事がある。体に良いとか、周囲からの心配など、「あなたの為だから」といわれても、なかなか食べにくい物は、続かない。しかし、何かのきっかけをつかむと、俄然好きになる事もある。そのきっかけの為に健康診断があったり、糖尿病勉強会があったりするわけで、正しい知識を受け入れることで、「思考構造の改革」につながり、健康への配慮も進むのである。最近、おやじ同士でも問題にされるようになったのが「メタボ」という概念である。見た目と健康の両方を尊重したこの評価法は、大変有意義な内容を秘めている。

 体型維持や健康のため、ウォーキングを始めたという人の最初の言葉は、決まって意外な事が多い。いつもより「腹が減って御飯が美味しい、ビールが旨い」とかである。おまけに、体重が増えたなんて話も多い。確かに、実際その通りかもしれないが、それだと体が、いまだ食欲の奴隷になったままだ。体は負荷がかかり始めると、その分のカロリーを食欲として要求するようになる。体の中には、次にくるエネルギー消費に備えるよう設計されていて、消費されたエネルギーを自からの体からではなく、まず、外から得ようとするのである。これを押さえ込んでこそ、健全な肉体への道が開かれる。もし、ウォーキングをするなら、へとへとになるまで歩くとよい。帰ってきたら、すぐに横になって転寝をしたくなるとか、夜中筋肉痛で寝られない、というぐらいになるのが良い。もちろん食事もとりたくない、ビールなんか飲みたくも無いというぐらい疲れて、食欲を忘れてしまわないといけない。ちょっと散歩に毛が生えたぐらいのウォーキングでは、体に溜まった脂肪などを使うこともなく、多少血行が良くなったぐらいでしかない。最初から、体に良い事がそう簡単に出来るはずもないのである。だから、体は甘やかしてはならない。あくまでも、限界まで使い込み、栄養分を与えないことだ。

 さて、こんな大変な思いをしなければ体型を維持出来ないのなら、食べ物を工夫してカロリーを抑える方が良いと考えるのが普通である。勿論、カロリーを抑えながら、運動をする両面作戦は大変効果があるといわれている。課題は、少量かつ低カロリーの食べ物でどのように満足感を得るかである。美味しい物は、必ず高カロリーに出来ている。

 そこで、今回の「スゴイダイズ」の登場ということになるわけだが、平素から美食を好む人には、これは絶対に、飲んだり食べたりすることは出来ないと思う。そのくらい味気ない「大豆」のみの飲料で、最初は吐き気さえ覚えるかもしれない。私も、最初これを飲むくらいなら豆腐とおからを別々に食べた方が良いとさえ思った。1度懲りると2度目はない。しかし、拷問のような4時間ウォ-キングから帰って来て、空腹を満たすのに少しづつ飲み始めると、美味しくないと思っていた物が割とすんなり入るようになる。腹が減ったら何でも美味しく感じる習性も、このようなときに役に立つようだ。 少量で空腹感もある程度満たされるのである。

 大豆自体は低GIで30程度といわれており、トマト等の野菜並みである。にもかかわらず、たんぱく質を大量に保有しているのが大きな特徴といえる。味は豆腐と大豆の生豆の中間で、少し後味に青くささがあり、通常なら決して自ら進んで飲みたいとは思わないが、たとえば、修行僧になった気分で、これを飲んで更なる苦行に挑戦するために1週間はこれで凌ぐよう住職に言われたとか、今、エンタープライズ号に乗っていて、他に食べる物が無い状況になった、1週間だけ我慢してくれと「Mr.スポック」に言われている。など最悪を想定して、とりあえず、1週間だけ飲んでみるというのも方法である。駄目ならやめればよいし、続けられるなら続けられる環境を整備するという、工夫も必要かもしれない。なぜ、そこまでこだわるかといえば、今無関心でいても、統計的に考えると必ずそれに近い境遇に直面する時期が来るからである。どうせ同じ事をさせられるならば、病気になってからでは更に辛いことになると思えるからだ。

 元々、大豆は日本古来の優れたたんぱく源で、栄養価の高いことは広く知られているし、長い実績があるので安心だ。納豆、味噌、醤油、湯葉、豆乳といった加工食品と兄弟のような関係だが、製造方法によってさらに有効成分を残す事が出来るともいわれている。したがって、どちらかといえば、大豆自体は食べやすい部類に入る食品だと言えることだ。さらに注目すべきは、中高年に必要なカリウムを多く含んでいることで、これによって、血液中の塩分濃度を下げ、血圧の低下に貢献できると思われる。もっとも、そのまま食するのではなく、少しずつ料理などの添加物として加えていくのも有効な活用方法といえるかもしれない。

 これらの「スゴイダイズ」製品がベストだとはいえないが、低カロリーの1製品として利用するのも選択肢の1つといえそうだ。成分一覧はPDFにまとめた。 最初はまずいよ。
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2009/06/19

自作料理13

 前回は、3種のチーズとトマトのパスタを紹介した。今回も、「簡単に作るパスタ・シリーズ」として、その続きになる。パスタの種類も様々だが、古くから親しまれてきた定番は定番としての親しみもあり、安心感にも似た美味しさがある。ミートソースやナポリタンは、学生街の喫茶店を思い出し、青春の後姿を追いかけてしまうが、すでに老朽化した大脳はそれに飽きてしまっている。何か今こそ大人を実感させるような、独創的で意表を突くアイデアが欲しい。

 何処か身近に、魅力的で美味そうなものは無いか、常々店内を散策しているわけで、いくら理屈を捏ね回しても、食意地の張った者の生き様は、貪欲で節度に欠け大変見苦しい。自分で自分をそう思うのである。しかし、いつもの時間にいつものように食事の支度があり、自分は、テレビを見ながらそれを、美味しいとも言わず、作り方さえ知ろうとせず、奥様の健康への配慮等も気にも留めず、当たり前のように、ただただ養鶏場の鶏のごとく、与えられたものを義務感でこなすような人には、到底理解できない世界であることも知っている。自分もかつてはそうであったからだ。それをある時、自ら打破し、作る立場に身を置いてみることで、多くを学ぶ事が出来るし、もっと早くから自覚をしていればよかったと思うこともある。そして、心のどこかで、恐らく同じような仲間はきっといるはずだし、そんな奴がいたら、俺の事をきっとわかってくれるに違いないとも思えるのである。そんな様々な想いをはせながら、黙々と「自作できる食事」を一方的にブロードキャストしているわけで、これだけは、誰が何と言おうと楽しみの1つなのである。

 そんな漫然としたある日、自分に問いかけるように、「こだわりを楽しむ大人のあなたに」と書かれたパッケージを見つけてしまったら、みんな「俺のこと?」って思い、手に取るに違いない。今日は、そんなHEINZ(ハインツ)のパスタソースを紹介したい。まさに人の心を鷲掴みにするキャッチフレーズである。パッケージを更に読み続けると、「大人向けのパスタ」 「Premium」 「イセえびのトマトクリーム」、イセエビのブイヨンにかに肉を加えました・・・とある。全く機関銃のような殺し文句の連発で、おまけに、”ハインツが経験を駆使し、「厳選素材」で味にこだわったプレミアムパスタソース”・・・とまであり、本物くささも忘れていないのだ。ただ、一般的にレトルトのソースにありがちな傾向かもしれないが、中でもHEINZのソースは、自分のイメージとして、特別に味が「人工的で強い」という印象を持っている。もっともそのほうが、強調されていて誰にでもわかりやすいといってしまえば、それまでだが、それは、「強烈なくどさ」として、記憶に叩き込まれている。

 一方で正直者としては、何度期待を裏切られても、騙されるし、そうされればそうされるほど親しみを持つという性質もある。価格が手ごろならなおさらだ。どこかで、自分のイメージしている物に近づけられるかもしれないと勝手に思っているのだろう。そんなことで余裕をかましても仕方ないが、それこそ、実際のイセエビをボイルし、身を薄くスライスし、エビのみそとクリームとトマトを加えてパスタ・ソースを作ったら美味そうだな、と想像する訳である。

 そんな思考の紆余曲折を経て、使ってみなければ話にならないので、評価用と称していくつか買ってきたわけである。中身を開けてみると、かなりいい線は出しているものの、やはり、そのままでは少々味が人工的な感じを受ける。パッケージの裏の原材料を眺めてみると、野菜(たまねぎ、にんじん、赤ピーマン、セロリ)、かに、小麦粉、トマトペースト、植物油脂調整品(植物油脂、還元水あめ、クリーム、その他)、オーストラリアイセエビブイヨン、マーガリン、食塩、全粉乳、ジャージャン(えび、食塩、その他)、魚介風味エキス、砂糖、とうもろこし油、でん粉、フィッシュブイヨン、香辛料、調味料(アミノ酸等)、着色料(ベニコウジ色素、カロチン)、香料とある。そこで、原材料の一部にあるトマトを追加し、さらにクリームの代わりにチーズ、かにの代わりにカニ缶を加えて調整してみた。すると、トマトによって生々しさが生まれ、レトルトくささを押さえられた。チーズを加えることで食感に厚みも出てきたと思う。更に、かに缶の風味が上品さを加えて1ランク上の感じになった。これなら結構使えるかもしれない。お勧めである。

 HEINTZのパッケージには、フィットチーネで作った見本の写真が載っているが、こちらは、ディチェコNo.11 1.6mmにし、ベビーリーフは、苦味の利いた緑から、爽やかで軽い赤葉に変えてみた。
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2009/06/16

続デジタルカメラ26

 今までに、いくつか深大寺周辺を写真で紹介してきた。1.門前のもみじ風景、2.粗碾蕎麦と松本清張、3.桜並木が続く野川沿いに深大寺へ、4.深大寺本堂概観、といったところだ。これからも、まだ続くことになりそうだ。深大寺の寺名の根源でもある、「深沙大王(じんじゃだいおう)」という「水の神様」を象徴している場所を探し求め、今日は再び深大寺に戻ることにする。

 確かに、深大寺周辺にはいくつかの沼にも似た小池が散在しており、鯉なども放されている。それらを単独で眺めていても、水が湧き上がっている様子は見当たらない。そこで、門前から西へ「道脇の水路」の上流へ向かって歩く。「元祖鴨田家」の先には、亀島弁才天池、道路の反対側には「甘味あめや」とか、蕎麦の「一休庵」、さらに「青木屋」の前を通り、先へ行くと「深沙大王堂」に出る。このあたりに、その水源らしき池があっても良いはずだが、それらしい場所は見当たらなかった。水かさが増す雨降りの翌日にでも再び足を運ぶことにしたい。そんな日は、きっと水音が聞こえてくるに違いない。諦めて、再び方向を山の手にとり、深沙大王堂の裏から延命観音の前を通り、深大寺の乾門をくぐり「元三大師堂」に戻る。それにしても、あの道の脇を流れる豊富な水は、いったい何処から流れて来るのであろうか。 うーむ、そんなことは、分からなくてもよい、高いところから低いところへ流れるに決まっているし、この土地柄からして、染み出る水源はいつか突き止められる。とりあえず、また探すということにしよう。

 そこで、もし、仮にではあるが、自分がこの土地に社寺仏閣を建てるとしたら、どのように立案するのだろう。そう考えれば、また別の答えが見出せるかもしれない、と、智慧を巡らせる。三鷹と調布の大地の境目ともいえるこの場所は、絶壁のような急斜面が目立つ。寺は、その斜面を背後に抱く事が望ましいし、湧き水が出ている象徴的な場所も、条件の1つになる筈である。その湧き水が人を潤し、邪悪なものを流し去り霊験新たかといえる場所こそが、信仰の中心になるのが望ましい筈である。そういう視点で深大寺全体のロケーションを眺めると、どう見ても、ここの元三大師堂のある一段高いこの位置こそが、最初の創建物にふさわしい場所といえそうな気になってくる。現在では、背後に神代植物園への道が開かれているが、きっと昔は、修練者の獣道だったに違いない。推理の根拠として、開山堂というのが元三大師堂の背後にあることからも、 妙に現実味がある。

 そんな、自分なりの勝手な空想を思い巡らしながら階段を下る。本堂を横目にしながらふと思い出す。以前から、納得のいかない事が1つある。実は、バスを降りた参拝客は、山門に向かって深大寺に至る。その正面には本堂が位置している。この参拝客が進み、拝む方角は「鬼門」に当たるのである。それは、この元三大師堂と本堂が山門を軸として、おおよそ30~40度角度をつけて建てられていることからしても、それを意識していると思われる。実際それを示唆するように石畳も角度をつけて敷いてある。実は、前回の「本堂概観の写真」でも、僅かに正面からオフセットした位置から撮影してあるのは、その鬼門を外したかったからに他ならない。 もしその推察どおりだとすれば、深大寺は、わざわざ鬼門線上に山門と本堂を建て「邪悪な者の出入り」をこの場所で封鎖し、その先にある調布市を守ってくれているのかもしれない。そう考えると、一挙に見透しが良くなり、すっきりするのである。

 そうならば、調布の市民としては、たいへん「ありがたいお寺」と言えそうだ。昔の偉い住職の「社会の営みと庶民を邪悪から守る願い」が込められているのかもしれないが、それを知るすべは無い。だから、我々庶民としては、深大寺を美味しい蕎麦の頂ける場所という風に考えても良いし、ウォーキングの目的地としても良い、また、森林浴のできる神聖な場所と考えても良い、時たま訪れて、昔から変わらないこの場所を慈しんでも良い。勿論、写真撮影の対象としてもよいのである。信仰の対象は、実は理由なんぞ何でも良く、庶民が無邪気に楽しんで「愛されるべき場所」であれば良いし、そのために強い力で「守られた場所」とも思えるのである。ただ、「そんな崇高な住職の願い」に感謝を忘れないようにしたいものだ。

 ということで、今日の写真は、湧き水のある場所で、深大寺本堂と元三大師堂の30~40度開いた狭間にある「五大尊池」である。 上に見えるのが本堂と元三大師堂を結ぶ廊下である。住職は、ここを通って行き来するようだ。
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2009/06/12

弁当シリーズ5

 今日、新宿のホテルの喫茶店で人を待っていると、一眼レフのカメラを抱えた「年配の集団」が入って来て近くに座った。全く騒がしい。耳が遠いのか興奮しているのか分からないが、みんな声が大きい。聴こえてくる話の様子から、どうも、カメラ教室のようで、カメラを始めた生徒さん達である。撮影練習で、課題が与えられているらしい。とまあ「お金と時間」があり余っている人の集団だ。さしたるテーマや目的も無く、カメラを購入し、おまけに使い方まで教わる。うまくいかないと「そのカメラか、あるいは教え方」が悪いように言われかねないが、全ては、すぐ「次のカメラを買ってもらう」ためで、先生方も言い訳に忙しそうだ。

 写真が楽しいのは、本来その数倍人生を楽しんでいる状況があるからで、たとえば、夫婦で世界一周旅行でもしていれば、カメラの活躍する場所はある。ただ、本当に「お金がある」ならカメラマンを雇いたいところだ。あるいは、身近な話題では、何か習い事でもしていて、先生の創作物の完成プロセスを写真にしておきたいとか、自分も習い始めの記録として残しておきたいとか、写真は、あくまでも対象に付随するもので、その範疇を越えることはないと思うのである。勿論、冠婚葬祭、お孫さんの撮影には大いに利用できるが、身の回りにそれほど撮影する対象は無い筈である。 美しい物なら、やはり実物が良いに決まっている。

 ただ、撮影を始めるとか、創作に時間を使うということは、自分に「足りない物を探す」とか、自分が「新たな発見をしたい」という向きには、とてもよい手段だと思える。「優れた写真を見て、自分も同じように撮りたい」と思ったときに、初めて向上心が湧き、そのために、あらゆる努力をする。その努力こそが楽しみなのであって、1つ1つ階段を踏みしめて「技術と感性」を磨き、その貴重な時間を実感し、生涯続けても時間が足りないほどの充実感を味わえる、と思えるのではないだろうか・・・と推察する。推察を続けると、ある時、そうやって積み重ねた足跡を振り返ると、かつての発言や作品の中から「自分の未熟さが露呈し」恥ずかしく思ったりするわけで、そういう反省を含めて、あらゆることに謙虚になれるのである。また、人から何か教わろうとしたときに、その価値を十二分に知ることになるのである。 それにしても最低限度の「熱意とやる気」が必要なことは言うまでも無い。

 さて、デパ地下で購入する弁当も、私にとっては、その「優れた写真」の1例のようなもので、お手軽で優れた料理を色々食べてみることが、自分で何か料理を創作するときの一種の勉強なのである。その手口というか、創意も大いに参考になるからである。ちょっとした工夫に感動し、自分の知識に加え、いつか真似っこ、あるいは応用してやろうと思うのである。また、和食のお店で「これは美味いなあ」と思っても、ただ「美味しい」だけで終わってしまっていては、向上できないし、「料理長がいかがでしたか?」と感想を求めに来たときに、ちょっとした会話でもして、何かを教わりたいし、そのときのためにも「基礎知識を養成」しておきたいのである。そのために、平素からトライしているのであって、そんな、越えることの出来ない一線を意識しつつも、限りなく近づきたいと願うことで、初めて「感性が磨かれ、成長できる」と思うのである。

 そういう観点で、写真も、料理も、趣味といえる自覚があるならば、安易に「自分が満足すればよい」と言い放っていけない。それを耳にした人は、なんだ「それだけの、つまらん おっさん」と思うに違いない。何のために歳を重ねてきたのか。やはり、常に「熱意をもって、目の前の実体から学び取り、それに挑む」心構えと真剣さが必要なのである。今、「隣にいる年配の集団」に、そんな激を飛ばしたい気持ちである。 「渇」!

 今日は、ホテルオークラの6月の新メニューである。ありがちなメニューだが、なかなか真似のできない遠い2品である。
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2009/06/09

自作料理12

 3日程前、「朝顔の種」を数種類と土の再生材を買ってきた。夕方から、枯れてしまった鉢植えを解体し、再生材で新たな土壌を作って大き目の鉢を再構築して「朝顔」を植えた。そんなに早く芽が出るわけは無いのに、朝に夕に覗き込み、期待に胸を膨らませている。朝顔を植えたのは、小学校の夏休みの宿題の時以来である。「明日は雨だから芽を出さない方がいい、あさってにしろよ」とか、何故か少年に戻ったような気持ちで小さな種に話しかけるのである。花が咲いたらここで報告したいと思うが、まだ芽も出ていないので、いつ頃になるか見当もつかない。

 さて、今回は昨年の「自作料理シリーズ1~6」の続編になるパスタである。どんな食材を使うにしろ、買出しが面倒な時がある。雨が降っているとなおさらだ。そこで、少々保存のきく食材を使ってボリューム感のあるパスタにしたいと思い、すたすたと近くのイトーヨーカ堂へ出かけ、3種類のチーズと3種類の野菜を買ってきた。これらを使って作ることにするが、今回も、何の専門的な心得も必要ない。3種類のチーズを溶かしてそれにトマトを加えてソースを作るだけである。3種類のチーズの中には、「ゴルゴンゾーラ」は欠かせないので、これだけは外さないで欲しい。そして、1つだけこだわって欲しいことは、チーズもトマトもケチらずたっぷりと使うこと、これが「美味しさ」の秘訣である。

 チーズとトマトのソースは、ボリューム感とさっぱりした後味が心地よい。 実は、この組合わせは、色々チーズを変えてみたり、だしや酒類を加えてみたり、トマトを加減してみたり、適度(飽きるぐらい)に試作を繰り返してみたが、あまり凝って色々面倒な事をするよりストレートなのがよかった。簡単に仕上げて、さくっと頂くのが即席風でよい。また、その試作を何日か続けて食べてみたが、割と飽きが来ず、この組み合わせは、なかなかいけてると思う。困るのは、イタリアのシェフのように太ったことだ。やはりチーズのカロリーは高いので、いくらたっぷりと、といっても適度に抑えてほしい。 また、塩分を控えたい方も、パスタを茹でるお湯に投入する天然塩も適度に抑えてほしい。

 作業の効率を上げるため、パスタを茹る時間内にソースを作るのが良いが、初めてソースを作る場合は、パスタを茹でるためのお湯が沸きあがるまでに、大まかな段取りが出来ている事が望ましいと言われている。お湯を掛けたら、野菜の前加工から始めてほしい。パセリをきざむとか、ベビーリーフをお皿に敷くとか、チーズを切ってフライパンに入れておくとか難しいことは一切無い。お湯が沸いたら、パスタと天然塩を投入する。その数分後、トマトをパスタと一緒にお湯の中に入れて、皮に亀裂が入ったら引き上げて細分化しフライパンへ入れる。次に、フライパンごと火に掛けてチーズとトマトが溶けるまでゆっくり攪拌する。パスタの茹で具合と比較しながらフライパンの火力を調節し、すこし溶け残りがあるぐらいで待機する。このタイミングで、少し酒類を加えるのも良い。パスタが茹で上がったら、笊に上げ、よく湯を切ってからオリーブオイルで攪拌し、パスタがくっつくのを防ぐ。そして、仕上げにフライパンへ移し、ソースと攪拌する。少し水分が残っているくらいでお皿に盛りつける。そして、きざんだパセリを上からかけると出来上がりである。 少々水っぽい仕上がりになったら粉チーズを加えて調節して欲しい。簡単な割には美味しい筈である。

 PDFの方は、今回から、こまごました途中プロセスの写真は割愛した。細かい不明な点があれば、自作料理の1~6を再び閲覧して欲しい。
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2009/06/05

ディスカバリー3

 家族の写真は、行事等の後に整理してアルバムに収めてあるものだが、仕事で使わなかった古いポジ・フイルムは無造作に缶の中にはいっていた。幾つもの缶にバラバラになって20年くらい眠っていたので、分類をするつもりで整理を始めたら、懐かしいのがいくつか出てきた。ついつい、見入ってしまうことも多い。ライトボックスの上にフイルムを置いて覗き込む。これ自体も今では懐かしい手法だが、そのフイルムの中からは、つい昨日のように古い記憶が次々とあふれ出す。画像と記憶というのは極めて密接な関係を備えているようだ。

 当時は、ページレイアウトをしていくと、まれに原稿の文字数が少なくて、空きスペースが出来てしまうことがある。そこで、そのスペースの穴埋めを用意しておくようにする。一般的には、関連するイラストを作ってもらって挿入したり、本文に関連する用語解説の原稿を起こしたりするわけだが、いつも、素材選びに苦しむことが多かった。そんな背景もあって、常々主たる目的は無くても、ちょっとした写真を撮って準備しておくことがある。趣味で撮影しているわけではないので、ある程度の許容範囲を持った写真でなければならない。テレビのニュースなどでよく使われる「参考映像の類」と同じ用途になる。ここにあるのは、そんな目的で撮影され、実際には使われなかった没の写真群である。それでも、今は楽しかった思い出である。「自分で同僚を撮ったもの、同僚が私を撮ったもの、カメラマンに注文つけて撮影してもらったもの、など様々だが、写真を並び替えると、当時自分が発した言葉や行動まで思い出される。

 ・・・・・雑誌作りや編集には、素朴な疑問に応えられる探究心が重要な役割を果たす。人は、どのような世界に身を置いても、ごく素朴な疑問を解き明かすために、時間がかかる事がある。この時間は、修行にも似た苦痛を伴うが、いつしか幾つもの要素が1つ1つ繋がって連携し、全体を見通せたときの喜びはひとしおである。たとえば、NTSCのカラー信号の3.579545MHzと水平同期信号の15734.24Hzの関係を知った時のようなものである。あとは、推理力と根気さえあれば、自力で知識を整備する事が出来る(付随する記憶まで戻ってきたようだ)。雑誌の役割はそのあたりまでだが、それを理解したいという動機が生まれるまでが大変なのである。それには、手順が密接に関係してくる。学ぶべき知識は、自分が考えなくてはならないし、趣味でも仕事でも同じだが、どこか「興味とか面白そうな部分」を見つけることである。その時初めて、自分に足りない物が分かってくるからだ。

 雑誌は、伝えたい事をひた隠しに隠し、少なからずそのテーマに絡んだヒントを提供し、次から次へと引っ張ってゆく。読者の「毒解力」に任せ、自ら考えてもらい、そして、何らかの衝動を引き起こさせるのが狙いだ。そこで、原稿には常に「おおっ」と思われる様な鋭利な切口や「そんなの嘘だ」と思えるような提案が必要であり、写真には、それらしい現実味を加える重要な役割がある。どのページを開いても、眺めただけで読者が興味を見出せる仕上げになっていなければならない。そこに、読む、観る、手持ちの知識と関連付ける、といった立体的で「妄想のような要求」が生まれ、深く掘り下げて本質に迫ってみたいと渇望するようになるのである。このような編集手法は、知識人ほど引きこまれやすい。

 MOVEment を読んでくださった方々は、まさに、そんな読者が多かったと思う。映像技術にこだわるあまり、製品の構造や形状、部品配置にも一歩踏み込み、スペックには表れない僅かな性能差を探求し、さらにその実質的な価値判断にまで言及する。時折、アンケートはがきで、意表を突くようなリアリティーのある反応に、当時は閉口したものだ。しかし、その期待に少しづつ応えていくことで、いつしか、自分もその本質が良くわかってきて、気付かないうちに、成長していたのである。実際に読者の人たちが、全てあのような映像機器を駆使していた人たちばかりではなかったと思うが、編集方針ともいえる検証、あるいは実証主義的なコンセプトに共感していただけたと考えている。また、そのような、徹底したこだわりのある人たちを巻き込めたことが、当時の編集屋としての誇りになっていた。読者を育てるつもりが、実は、自分が読者に育てられていたのである。
 ということで、今日はかつて「読者だった人への専用ページ」を作ってみた。没写真によるリメイク版「撮影現場編」といったところかな。読者で無かった人でも、機材を見て懐かしく思われるかもしれない。
ではこちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21234&app=WordPdf

2009/06/02

ハイドランジア

 そろそろ、湿っぽい季節になってきた。じめじめした日が続く。そういう時期に必ず思い出すのが「あじさい」である。雨にぬれていても、活気のある花を咲かせ、際立つ美しさは印象派の代表格である。雨のしずくが花や葉の間に残り、レンズのようにキラキラと輝く。「あじさい」は雨降りの日が特に美しい。

 神代植物園では、先週あたりから「あじさい」が咲き始めている。カレンダーを眺めながら、そろそろ写真を撮りに行くのに良い時期かなと考えていた。あじさいの花はタイミングを逃すと花の外周部から徐々にきばんでしまう。ただ、最近はどうも本能的に、人ごみの風景を嫌うようになってしまい、今ひとつ踏み出せなかった。おまけに、背の高いあじさいは撮影しにくいし、雨の日に脚立を持って撮影に行くのも難儀だなぁ、と自分に言い訳ばかりしていた。

 そうこうしているうちに、ある日、家内が大きな袋を提げて帰ってきた。春先あたりから、次から次へと幾つもの鉢植えを買って来ることがあったので、また、花の鉢植えだと、おおよそ見当が付いていた。ただ、家に来た鉢植はしばらくすると、すぐに枯れてしまうので、そろそろ、植え替えをするシステムにしないと駄目かと考えていた。家内は、花があると上機嫌で、花を褒め称え、日々が楽しそうに見える。枯れると機嫌が悪くなり、再び新しいのを買ってくるというのが習慣になっているようだ。

 最近は、花が枯れるたびに人のせいにする。私の体から「花が枯れるような毒」が出ているからだというのである。確か、昔からそのような逸話がささやかれていた背景もあるのだが、あるテレビ番組で、三輪さんが花や木は部屋に置くと「邪悪なものを吸い取る」と話していたので、益々それに関連付け、主張に大いなるバックボーンを得て自信を増したように訴えている。

 その大きな袋には、「あじさい」の鉢植えが入っていた。玄関に設置し、「よし」と気合を入れながら、これで「しばらくはもつわ」と、いたくご満悦のようであった。 私は、責任を感じたわけでもないけれど、朝に夕に水をやり葉水も欠かさなかった。暑い日は、風通しの良いところに移動させたり、時にはモーツアルトも聞かせた。小さな鉢植えだと、ついつい給水や日光の事を忘れてしまいがちだが、大きい鉢植えだと存在感もあり、家族のような気持ちで世話をするようになる。まあ、私の「毒を吸い取ってくれている」と思えば可愛いいもので、 愛情を注ぐ甲斐があるというものだ。

  しばらく日が経過しても、珍しく「あじさい」は元気一杯で、頑張ってくれている。やっと花も咲きそろい始めたので、神代植物園は諦めてこちらを撮影することにした。大きな「あじさい」の室内撮影は照明が面倒だが、それでも、撮影中ことあるごとに声を掛けて誉めると「輝きを増してくる」のは不思議だ。
ではこちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21230&app=WordPdf