2008/10/29

追加・補足

 08/10/22 梅は果実
http://www.nextftp.com/suyama/%E6%A2%85%E5%B9%B2/%E6%A2%85%E5%B9%B2.pdf

で紹介しましたPDF原稿について遅まきながら補足をさせていただきます。
ここでの表記の「A級2Lサイズ」に関しまして農林水産省に問い合わせを出しましたところ、
農林水産省の回答は、

(回答)
(1) 「野菜の標準規格」については、規格の統一と簡素化により市場取引の円滑化等を図るため、農林水産省において昭和46年から主要野菜について順次定められてきました。しかし、選別・出荷労力の軽減、生産・流通コストの縮減の一環から、平成14年に標準規格は廃止しました。現在では、生産者団体等による独自の規格により取引がされています。
(2) 果実については、農林水産省において、果実の円滑な取引に資するため必要最小限度の表示事項として「果実の全国標準規格」を定めています。都道府県によってはこれよりも細かい規格を定めているところもあります。なお、うめについては、全国標準規格には定めがなく、都道府県、生産者団体等において規格が定められていると考えています。
・・・とのことでした。
そこで、今度は製造元の「 紀州梅干し・みかんのJA紀南(紀南農業協同組合)」に問い合わせを出しましたところ、以下の回答をいただきました。

⇒品質はA級になっておりますので選別した中で一番いい梅を使用しています。
規格サイズで選果した物を塩漬、、天日干を行い、1粒毎に計測し、統計処理して平成6年に研究室で基準を作成しました。それが業界規格となっています。
梅干し2Lサイズになりますと14g以上19g未満になります。

・・・従って、紹介しているPDF原稿に、A級2Lサイズとは、「収穫後の選別で、いちばん良い梅を加工し、梅干になった時点で14gから19g未満の間にある粒を使用」という補足を入れるべきだったと反省しております。謹んでお詫びを申し上げます。

▼さらに、本文公開翌日、
「天日干しから樽に入れる際も選別し、梅干が付け上がって、商品になる際も選別いたします。」
との追加をいただきました。
修正版は、こちら
http://www.nextftp.com/suyama/%E6%A2%85%E5%B9%B2%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E7%89%88/%E6%A2%85%E5%B9%B2%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E7%89%88.pdf

秋の手軽メニュー

最近、悩みを抱えた同世代の友人から集合をかけられる事が多い。そんな時、いそいそと集合場所のファミレスに出掛けるのである。

 話はだいたい決まっている。結局 「仕事が面白くない」 と人生観までも包括する話に集約されるようだ。色々理由を聞いてもしょうがない。暫く考えて、無責任にも、「よかったじゃん、辞めて少し好きなことでもやったら?」 と助言する。しかし、他に何もする気がないようだ。最近まで親父連中は、老後楽しむのに十分なお金は持って余裕をかましていたが、株価の下落でとことん気持ちが落ち込んで、先行きに不安が広がっているようだ。本人は、これから先、「自分が今までと違った人生観をもてるよう、変わらなければいけない」ことも分かっている。でも、口先だけだ。歳を重ねると人は慎重になる。にもかかわらず、「自分が変われないことにも、不安を持っている」。そんな、自己矛盾に苦しんでいるようだ。

 それは恐らく 「好きなこと・得意なこと」 なんぞ、生産性の無いつまらないこと、と決め付けているからだ。いや、好きなことはお金がかかるばかりで、入ってこないことにも不満があるようだ。これを、要約すると、「お金を使う」ことが「好き」あるいは「得意」なのだ。しかし、そんな事に執着していると、結局、他人には「お金にシビア」と思われ人は離れていく。「人は大脳を使うために生まれてきた」のだ、お金を使うためではない。そんなことを好きになったり、得意になったりしても仕方がない(意外に多いが)。まずは、方向転換だ。そのために、好きなこと、あるいは得意なことを深く掘り返してみる必要がある。また、最初から成功を考えていたら、何も手を出せなくなるが、人は皆、自分なりに暖めてきた夢をもっている。ただ、好きなこと、あるいは得意なことは、どこかで人のため、社会のため、あるいは困っている人のため、という「大意名文」も必要だ。これを疎かにしてはならない。それは、幅広く社会を知ること、つまり、客観的に自分を評価することに繋がるからだ。そして、まず、自分に現実を突きつける。そこで、今は自分に能力がない事を徹底して認識すべきである。そのとき、持ち合わせたプライドが邪魔をするだろう。しかし、それをスッパリ切り捨ててこそ明日が見えるのだ。

 人は脅迫されると何でもやるし、嫌でも始める。ただ、動機が不足しているから、一歩が踏み出せないのだ。だから、あえて「人が嫌がる事」を話す。そして自分にも言い聞かせているのだ。自分にはこれしか残されていないと思えばやるし、選択肢がなければ、その中で頑張るものだ。最初は、好きだ、あるいは得意だと思っていたことも、出来なくて落ち込むこともある。しかし、やっていくうちに大脳も徐々に順応して活性化してくる。3ヶ月で大脳は順応した体制を内部に作るのだ。すると、少しづつ面白くなり、いずれ上手に出来るようになるものだ。それを乗り越えたら、毎日が楽しくてしょうがない筈。さらに、その知恵で何でも制覇でもできるような気分になるものだ。たとえ、それで大成功できなくても、そのようなプロセスを踏むと、大脳は、体に良い物質を分泌するようになる(これこそが大脳を使うために生まれたという由縁だ)。それによって、充実感、爽快感、をはじめ、どこからとも無くファイトが沸いてくる。そして、その物質が減ると、再び増やそうと努力する。また、その「気持ちのよさ」を味わいたくなるのだ。とどのつまり、「好きなこと、得意なこと」は、自己最大の「普遍のリサイクル資源」なのだ。大切にしよう。

・・・・そんな話をすると、その同世代の友人は少し元気を取り戻す。でもそれは長く続かない。不足している成分が他にもある。人は、ビタミンやミネラルが不足すると気力が薄れてくる。持続力もなくなってくる。そんな疲れた同世代の親父には、これが必要だ。その栄養素は、私の田舎の近くの海で取れる、この貝にたっぷり入っている。それが「お手軽メニュー」に用意されたファミレスを紹介する。今日は、特別に話が廻りくどかったかな。でも、牡蠣を食べたら少しだけ思い出してほしい。
では、こちら
http://www.nextftp.com/suyama/%E3%83%87%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BA/%E3%83%87%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BA.pdf

2008/10/25

続デジタルカメラ3

 今回からシリーズで、先日紹介したカメラ Fuji F100fd と Panasonic FX500 2台の実際の撮影画像の比較をしながら、その画質について何回かに分けて紹介する。購入される場合に、どのくらい活用できるものか想定してほしい。いや、出来れば、購入しないで知識を増やす程度にしてほしい。お散歩カメラ程度の性能(2台共)といっても用途は様々で、道を歩いていて興味のあるものをサクッと撮影するとか、記念写真、メモ帳代わり、ブログにと、人それぞれ用途や目的は異なると思うが、全体を包括して話を進めたいと思う。画質の気になるところは個人的意見を加えた。・・・というか個人的意見のみで構成している。

 メーカーはそれぞれ、歴史的背景を抱えて、現時点では、「これがいちばん良い」と思って様々な工夫をしている。しかし、ユーザーとしては、「理屈は分かったが、撮影後のイメージは違う」と考え込むことも少なくない。また、画質以前のオートフォーカス、オートホワイト、手ぶれ補正などの効き目に差があるのも現実だ。一方、撮影時にユーザーの状況判断不足を補う 「推奨モード」 も多種にわたり充実しているし、この機能を使わずにユーザーの作画意図を支援する 「マニュアル機能」 も搭載していて、どれをどのように使うか迷うことも多い(古い人間)。一方で、ユーザーからよく耳にするのは、「100%使いこなしていない」という発言だが、使いこなすも何も無い、シャッターを押すだけの事である。とりあえず、「自分の意図した画像」が撮影できれば、良しとしなければならない。しかし、「自分が意図した」と言う言葉の中に、様々な 「すれ違い」 があるかもしれない。このシリーズを通して、それも見極めてほしい。

 このシリーズはA3横のPDFになっている。「PDF変換を高画質モード」で制作し画質の劣化を抑えた(Adobe Reader Ver7.0 以降必要)。適度な「拡大表示も可能」になっている。レンズの画角が2台で異なる場合が多いが、撮影したそのままのフレーミングとし、ちょうど左右を1/2にリサイズをしてレイアウトを行っている。実際の写真はこの4倍(面積比)の分解能を備えている。また、いずれも感度を恒久的にAuto ISO400にセットしているが、2機種で振る舞いが異なる。Panasonic は被写体が明るいと自動的に感度を下げてしまう。そのため、被写界深度が2機種で異なるという現実があるが、それは、作画の領域なので評価は省く。以上、これらのルールから外れるものに関しては、それぞれのPDF上のコメントとして記載しているので参考にしてほしい。

 PDFの「上下のグレースケール」の一番外側が黒になっていることから、その隣のダークグレーと区別がよく見えるように「モニターの明るさを調整」してほしい。かなり明るくする感じなので、見終わったら元に戻すことを忘れないように。また、蛍光体、色温度など、観測するモニターによって色のバランスが異なる場合があり、個人的意見と相関が取れないことがあるかもしれないがお許しいただきたい。 初回の今回は、カメラを買うと、すぐにテスト撮影すると思われる被写体を想定して、近所の公園内の風景である。2つのカメラの雰囲気の違いを見てほしい。初回は感じをつかむだけでOKだ。
PDFの容量が大きいので、このシリーズはこちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=0FF68288DD53524E&resid=FF68288DD53524E%21711&app=WordPdf

2008/10/22

梅は果実

 祖母は、時々台所の床下から初夏に漬け込んだ梅の瓶を取り出して、なにやらぶつぶつと独り言を発していた。どうも、その様子と変化を見守っている。しかし、それを口にするのは、数年後ということになる。随分仕込みに時間のかかるものだ。今から50年くらい前の田舎の伝統的光景である。

 それは、毎年継続することに重点は置かれ、「何年もの」と書かれた札がついた状態で保存されていた。毎年その季節がくると、祖母と母は過去の経験を踏まえながら、よい梅を求めて街中を歩き回るようであった。「梅は紀州にきまっとるけんねえ」と八百屋のおばさんと話をしているのを聞いたことがある。梅干だけではない、私には関係はなかったが、梅酒も同様に瓶で漬けていたので、その季節二人は大忙しであった。 そして、その数年後は母が一人でそれを継承することになるわけだが、梅を広げて干したりするので、珍しく手伝うこともあった。私としては止めてほしくなかったという記憶がある。それには私なりに理由があった。

 母も億劫になったのだろう、そのうち、「買うたほうが早いんよねえ」と度々説明するようになり、いつしか自然にその年中行事は終了した。それでも良かったが、少し困る。昔は、そのようなイベントが毎月のようにやってきたし、そのイベントの前は、「勉強しんさいや」って言われることはないのだ。 これは、常々その言葉で抑圧された私にとって「自由で快活な動き」が出来る唯一の時間帯だったからだ。

 一方で、目がしょぼしょぼするくらい「すっぱい」 梅干に、子供心に閉口したものだ。「何で食べんのんねえ、食べんさいや」と、きつい口調の言葉が、いまだに耳元に印象深く残っている。いずれ、成長するに従い、梅干の効能やら、手間と時間とお金をかけているという母に洗脳されて、徐々にこの赤い実を受け入れていくようになる。そして、いつしか、「梅干」と言う言葉を耳にしただけで体が反応し、唾液が出るという条件反射を備えるようになってしまった。

 今日は、その大いなる苦痛から開放され、もっとモダンで現代風の、全く「すっぱく」ない梅干を紹介する。日本の家庭では、梅干はどこにでもあるので珍しくもないが、私のように梅干きらいの方にお勧めしたい。この「薄皮の果実」を連想するような梅干は、何の併食がなくても、単品で「美味しい」。 これと同様なものを食べた経験のある方は、そんなことはないだろうが、これを初めてご覧になると「唾液」が溢れてくるかもしれない・・・。 うふふ。
ではこちら。
http://www.nextftp.com/suyama/%E6%A2%85%E5%B9%B2/%E6%A2%85%E5%B9%B2.pdf

2008/10/18

神田シリーズ7

 宮内庁御用達の「神田の藪蕎麦」へ行くには覚悟が必要である。
 ここも、明るくかん高い声で「いらっしゃい~」と広い店内のどこからともなく、山彦のように何度も声をかけられる。「はいはい、はいはい、と首を縦に振りながら、いつもの席に座るのが常連の作法と言える。ここで迷うようでは一見の証明だ。

 お店はなかなか風情のある店構えで、「夕方には、江戸前の大工の頭領が、仕事帰りに一人で一杯ちびちびとやっている。明日の仕事の段取りを考えながら顔を赤らめ、目もうつろになりがちで、最後にざる底に残った1本1本を、やっとの思いで拾い上げて口にし、いつしか手を上げて支払いを済ませ、ほろ酔い加減のまま帰路につく」。そんな、こだわりの一流職人が通うお店なのだ。また、時折、店の前には黒塗りのベンツが何台も入口を覆う。恐らく天皇陛下(昭和)も今日は同じものを召し上がるのかなあ~と思ったものだ。それも老舗の証明なのかもしれない。なのに、決して敷居は高くなく、価格もわずか(?)に高いぐらいの設定だ。では、覚悟とは、何か、それは蕎麦屋なのに「蕎麦が少し柔らか」なことだ。

 この店は神田を代表する蕎麦処で、暖簾を大切にしたお店である。一流とは、どの料理も一切、手を抜かず、多くの工程を厳密に管理して生まれる、洗練された「変わらぬ味」を維持することでもある。毎日通っても、時々訪れても、何年かに一度しか行かなくても、同じでなければならない。それを、まさに「神田やぶそば」に学ぶわけである。 そして、このことにこそ「蕎麦が少し柔らか」な謎を解く鍵がある。

 えへん、それは、”教えられねえな”。 蕎麦修行を重ねれば、おのずと分かることだ。
 世の中には、自分の経験や論理的考察だけでは、どうにも分からないことが数多く残されている。知っていること、あるいは、経験した事以外はすべて知らないことである。それは、いくら歳を重ねても永遠に続くことなのだ。食べて美味しいと思う客と、美味しいものを提供す職人の間には、そのくらいの大きな隔たりがあることを認識しなければならない。もっとも、それは、蕎麦に限ったことではないが。 どれだけの客がそれを実感しているかどうかは分からないが、とにかく客は多い。

 少し道がそれるが、蕎麦だけなら美味しい店は沢山あるし、多少風情のある店も少なくない。辛口の蕎麦つゆを出す店もいくつかある。「家の近所にも美味しい蕎麦を出す店はある」と思われる人もいらっしゃるに違いない。そのとおりだと思う。あるいは、「セブンイレブンの蕎麦も美味い」と思う若者も多いだろう、私も全く同感である。そのことに異論を挟む余地はない。好きなものは、どの様式や形状でも好きなのだ。少々食感が違っていても満足する。それも、これも、「美味しい蕎麦を知れば知る程」そうなってゆく、蕎麦とはそういうものらしい。
では、こちら
http://www.nextftp.com/suyama/%E8%97%AA%E8%95%8E%E9%BA%A6/%E8%97%AA%E8%95%8E%E9%BA%A6.pdf

2008/10/15

自作料理2

 自分がイメージする目標に近づくことは難しい。しかし、常にそのようなイメージを抱いて生きていくことは、とても大切なことだ。

 理屈も分かっている、手順は明解だ、コツも得ている。しかし、何度やってもうまく出来ない、いや、そうなれない。このようなことは良くあることで、とても苦しみを伴う。そんな時、自分で目の前の机を叩いて、「何でだ!」と自分に渇をいれ、「反省と見直しを迫り、さらに謙虚になるよう」指導する。いわゆる「自己拷問」だ。しかし、それも、歳を重ねると徐々に耐え難いことになってしまう。素直に反省すれば、楽になれるのに、「出来ない理由」を自分以外のものにしようとする。

 普通なら、そこで「自分に足りないものは何か」を探し始めなければならない。もちろん、そう決意出来た人は、努力できるし、その方法もある程度理解している。毎日毎日「それは何か」を模索し、僅かな手がかりも見落とさないよう注意する。人間は、考えてこそ進歩があり、苦しんで成長するのだ。分かったような理屈を言葉にして自己流に固まっていては、進歩がないし、その崇高なイメージに絶対に近づくことはない。謙虚になれたら、人の言うことを素直に聞く。たとえ、それがすべて承知のことでも、聞いてみることには価値がある。

 また、そのイメージの解説者になることも、自分の誤りに気が付く重要なタイミングになる。相手に旨く伝わらないことも、指摘をうけることもあるだろう。自分だけのノウハウだと思っていたことも、時間がたつにつれ、陳腐な妄想だったことに気づくことさえあるのだ。「他人は誰でも優れた知恵を持っている」その知恵を引き出すのも自分の姿勢次第なのだ。

 俺達は、その時々で様々な目標を立案し、完成イメージを抱いて階段を上る。そして、正しい手順を実行することで、頂点を極めることが出来きると信じる。もちろん、その目標の大小にかかわらず、手順やアプローチは同じである筈だ。そして、それは仕事にも大いに役に立つし、人生そのものだと思って差し支えない。

 ・・・・・と、またまた大げさに始めてしまったが、期待通り(?)今日もパスタの紹介だ。ここんとこ、毎日毎日僅かな時間を割いてパスタソースを考えて実験している。1日に2回パスタという日も少なくない。確かにお腹もきつくなった。しかし、あくまで自己流(楽しむとも言う)の練習でしかないのだ。最初は、市販のソースを併用するが、その学習の先には「飽きる」という恐怖がすぐにやってくる。だから、その都度手を変え、品を変えないと続かないに決まっている。そのために、早いうちに「食材の旨み」を体で覚えてしまわなければならない。そして最終的には、季節の安い食材を使って理論値(お湯を沸かす5分+パスタをゆでる7分)12分で作り、5分で食べ、片付け3分(合計20分)を目標にしている。これが達成できたら自作のメリットはあるし、唯一の楽しみにもできる。 今日は、まだ制作に20分もかかってしまった。 また次も頑張るぞ!
 では、こちら
http://www.nextftp.com/suyama/%E8%87%AA%E4%BD%9C2/%E8%87%AA%E4%BD%9C2.pdf

2008/10/11

有機栽培

  「これは、午前2時30分から4時30分に起きた出来事である」・・・・・先週と今週の2週続けて、ジャックバウアーに付き合った。彼は、24時間ぶっ続けで、睡眠はおろか食事や珈琲さえも取らずに、合衆国のためにテロリストと戦う。何せ、テロリストは5発もの小型核爆弾を持っているわけだから、一瞬たりとも気を抜ける時間はなかったのだ。殆どの時間は、番組シリーズ共通で、彼が現場で悪と戦う姿を、世界最高の衛星ネットワークで支援するCTUスタッフの画面で構成されている。彼は、テロリストに囚われて極限の拷問を受けても、24時間は殺されることはないので安心(先は分からない)だが、自分の家族の裏切り(普通は予測しにくいが、現実には良くある)にあっても、精神的ダメージは最小で、すぐに気を取り直して(意外に早い)に敵に立ち向かう。そして、様々に立ちはだかる目の前の邪悪をブルトーザーのように薙倒し核心に近づこうとするが、我々を次から次へと予想外の新たな課題に巻き込んでゆく。

 ジャックの、上司や大統領さえも動かす行動力は、合衆国のヒーローである事を象徴しているが、他の出演者にも1人1人個性的な性格が割り当てられていて、そこに存在する人格、心情、等が巧妙に絡み合い、急激に展開する大枠ストーリーに加えて、CTUスタッフの摩擦や苦悩を演出することにより現実感を増している。一方、悪役俳優は特別格好よい人が、これまた知的に演じているため、つい、悪役にも心を寄せてしまう人も少なくないだろう。

 よく使われる場面の平列展開による視聴者の退屈排除もさることながら、面白さの指標となる要素を徹底して調査研究した結果が巧妙に仕組まれていて、幅広い層に支持されるようマーケティングされている。 もちろん、さほど背景を考えたり、能書きなんぞなくても、無条件で面白いTVドラマなのだ。

 その番組を合計24時間見たわけだが、我々視聴者も人の子。ジャックとは違い、お腹も空けば、喉も渇く、こんな夜遅く、いや朝早い時間帯には、睡魔も襲ってくる。もちろん、台所でごそごそする時間的余裕もない。目を離せないのだ。そこで、そのような状況下でも即席で美味しい珈琲を紹介しておこう。このような24時間フルタイム活動状況は最近増えている。海外のサッカーの試合を見る時も大いに役に立つ。その珈琲の美味しさとは、世界の珈琲産地であるブラジル、コロンビア、エチオピア、ペルー、メキシコなどで、遺伝子組換え、農薬、合成肥料などを使わない「有機栽培」で育てられている珈琲豆を使用したところにある。今日は、ちまちました写真の組合わせを止めて、フイルムの1発撮りでまとめた。
では、こちら
http://www.nextftp.com/suyama/%E6%9C%89%E6%A9%9F%E6%A0%BD%E5%9F%B9/%E6%9C%89%E6%A9%9F%E6%A0%BD%E5%9F%B9.pdf

2008/10/08

甘味処

 ああ、それって苦手なんだよって言う方もいらっしゃるだろう。若い女性には嫌う人もいる。でも本来大好きなはずだ。そういう抑圧された願望や欲求が歳を重ねることで、ついに弾けてしまった。そんな人に、デパート地下、食品売り場の傍でひっそりと隠れるように、口に出来るお店を紹介しよう。と、どこにでもありそうな話題で始めたが、昨日、今日、始めた甘味処には、そんな歳を重ねた人の居場所なんかあろう筈はない。やはり老舗という、客を外から隠す暖簾が必要なのだ。その代表格とも言うべき、老舗の京都和菓子店「鶴屋吉信」の高島屋進出店である。

 老舗といっても京都の老舗は、さすがに古さが並外れている。ここは、何と創業200年である。京都には、都が出来てから、お店を出しているという老舗も少なくない筈だから、200年と言っても理屈では大したことはないのだが、それが、まさに日本の文化の誇りそのものといえる。人がまともに仕事ができる期間は約40年(年金最低基準期間)だから、その5倍にもなるのである。すると、戦後のお店や会社は、昨日、今日、始めた新参者に他ならない。また、文化のない新参者ほど、お金、お金という。他には何もこだわるものもなく、ただそれしか目的がないのだ。いや、そうなってしまうのかもしれない。

 老舗とは、結果論でもある。職人がこだわりと誇りを持ち、時代が変わろうとも、「昨日と同じ、あるいは、昨日より良きものを作る」精神を継続させてきた結果なのだ。一方、客側も五感をフルに活用して「良きもの」をかぎ分ける能力と探究心が必要で、父、母から美味しいものを食べさせられ、周りにもそのようなものがすぐに手に届く環境があり、少しづつ分かってくるのである。そういう時間を重ねた者だけが、その価値を知ることになる。そこに、文化を感じることが出来るのであって、お金さえ出せば口に出来ると思っている人には、それを感じることは難しい。それでも、「食べて美味しい」だけでは何か足りないものがある、十分な満足感が得られない、そんな何かを求め続けると、この店にたどり着く、そんな和菓子店である。

 もっとも、そんな和菓子修行をしなくても、一口で美味しさのすべてが分かってしまう品物もあるのだ。 今日は、この店の和菓子ではなく、併設の甘味処の一品から紹介する。少々お高いが、それなりの価値のあるものと、そうでないもの(あれ?)がある。それを自然に嗅ぎ分けてこそ文化人だ。決して外してはならない。
こちら
http://www.nextftp.com/suyama/%E9%B6%B4%E5%B1%8B%E5%90%89%E4%BF%A1/%E9%B6%B4%E5%B1%8B%E5%90%89%E4%BF%A1.pdf

2008/10/04

続デジタルカメラ2

 テレビのドラマ映像が最近綺麗になってきた。放送局のインフラの整備も細部まで進んで全体的にハイビジョンに対応してきたようだ。従来のアナログテレビでも十分にそれを満喫できる場合も多い。中でも、驚いているのはフイルムで撮影されたもので、かつて中高年を興奮の坩堝に巻き込んだ「武芸」番組のハイビジョン制作版である。その目を見張る映像美には驚嘆する。それは、かつての映画会社の余りある撮影技術を惜しみなく投入し、更に新たなフレームワークで構成した新作なのだが、テレビ会社が制作した台本をナメルだけのものとの差は歴然としている。1カット、1カットに美学が溢れ、一切の無駄がない。映像に多少なりとも興味を持つ者としては、参考になることが多い。人を感動させる映像美とは何かを知らしめる精神が満載されているのだ。

 少しうがった見方をすれば、「山、川、道、橋、湖、社寺仏閣、人を含めた日本の美はこう撮るんだよ、わかってる?」と見せ付けているのだ。もちろん、そういう映像の中に、あるときは緊張感、またあるときは安堵感を伝えるための雰囲気の違いを出してくる。彼らは、まさに映像のファンタジタである。もちろん、VTRで何度も繰り返し見る価値があり、見るたびに新たな発見もある。

 一方、写真用のカメラを販売しているメーカーは、訳の分からない無機質な構造写真とか、外人女性、知らない海外の風景写真をカタログに載せて威張っているが、それではそのカメラの性能が良いのか、中途半端なのかよく分からない。現実との比較が出来ないからだ。カメラは夢を売る商品で、何度も買い換えてもらわなければならないわけだから、現実にある身近な日本の美を写真にしても、レタッチがばれるとか、がっかりさせるだけだと考えているに違いない。実は、日本人は誰でも生まれながらに比較画像にうるさいのである。だから、メーカーは物理特性の一面しか強調出来なくなってしまったし、後発メーカーは、購買意欲をそそる為に、海外のレンズメーカーのブランドを活用するしか手がないのかもしれない。ただ、フイルムがなくなっていく今後は、家電メーカーの底力でもある部品開発能力、革新的な映像テクノロジー、課題を合理的に解決する発想等が、カメラに惜しみなく投入され、画期的で安価なカメラを生む可能性がある。是非、身近な日本の美を写しこめるカメラに力を注いでもらいたい。
今日はこちら
http://www.nextftp.com/suyama/FX500/FX500.pdf

2008/10/01

自作料理1

 休みの日には、お昼に何を食べようか困ることは多い。大してお腹も空いていないので、まあ、何でも良いと思いがちだ。しかし、その思考構造こそ間違っていて、逆だと言える。お腹が空いていないからこそ、美味しい料理を作るとか、好きなものを作って食べるべきだ。ここは、本来自分の独自性や創造性を活かす時間帯なのだ。自分自身で自分のお昼ぐらいは創作しよう。健康のためにも、お昼はしっかり食べて、夜を少なめにするのが原則だ。

 仕事さえしていれば、優秀な人材と言われた時代は、すでに終わっている。会社では適度に上司に胡麻を擦りながら泳ぎ回る人こそ賢いとか、時々、出来そうもない奇想天外な事をぶち上げておけば、存在価値も出た。しかし、社会環境としては、そんなの許されないし、甘くもない。何でもそれなりにこなす「自立できる男」を必要としている。休みといえば、車やオーディオをいじったり、カメラの空シャッターを切っているようでは情けない。ボーッとテレビを観ていても時間の無駄だし、小説を読むくらいなら、書き手にならないと駄目だ。

 ここは1つ「美味い料理」でも作って、周囲を驚かせてほしい。母さんからは、「お前もやっと一人前になった」と言われるかもしれないし、父さんは、「翌日、会社で息子の料理を自慢する」に違いない。これこそが親孝行なのである。安いものだ。もし、息子と二人なら、きっと尊敬されるに違いない。学校の話をしてくれるかもしれないし、「父さんなら、うちの少年サッカーチームに入れるよ」と勧めてくれだろう。美味いものが簡単に作れるマネージャとそうでない人では、歴然とした付加価値に違いがあるのだ。また、彼女を招待するにしても、「美味い料理」でプレッシャーをかけると、いつもとは違う、心地よい緊張感が生まれるに違いない。

 さらに、簡単に美味い料理を作ることは、頭を鍛えることに繋がる。「適度なプレシャーを乗り越えて喜びを味わうこと」は、大脳にとって、とても有効な行為とされている。そして、大脳の血行促進にも効果がある。会社で血の巡りの悪い、気の利かない人というレッテルを張られないためにも、様々なものへ挑戦しよう。

 そこで、休みは早起きして、お散歩やジョギングの後は、大型スーパーマーケットへ直行し食材を揃えてもらいたい。簡単に作れて、そこそこ美味い、そして手を変え品を変えながらも、適度に標準化して楽しめる、経済効率の良いものを作ろう。
 これをご覧になると、何でこんなに回りくどい話になるのか分からないと言われそうだが。
それはこちら
http://www.nextftp.com/suyama/%E8%87%AA%E4%BD%9C1/%E8%87%AA%E4%BD%9C1.pdf