2010/08/31

秋山兄弟生誕の地と子規堂


  そもそも、小説を映像化すると賛否両論が渦巻く事が多い。原本を読んでいる人にとっては、自分なりの解釈やイメージという物が既に出来上がっていて、心の中に一字一句までも大切にしまってあるわけで、「映画やドラマにされてもイメージが壊れてしまって困るんだな」という人は多い。一方で、私のように小説など読まない者は、映像化されたものを、まったくもって鵜呑みにしてしまうほど単純であるし、まるで「見ることは信ずることである」のことわざの如く、額面どおり受け取るわけである。ところが、それでも、その映像からほとばしるほどのリアリティーとか、にじみ出る芸術性に魅かれ、むしろもっと詳しく知りたいという衝動に駆られる事もあるが、いまだ興味の薄い時に、多くの情報が渾然一体となってしまうのは、うーむ、いかがなものであろうか。まして、読んでもいないのに外堀を埋めることによって、理屈や事実だけで本質に迫ろうとしているのである。

 大街道から城北(ロープウエイ乗り場方面)に向かって、2本目の道を右に入ると秋山兄弟の生誕地(松山市歩行町2-3-6)がある。この場所で育ったのが、本木雅弘さん演じる秋山真之(さねゆき)と、阿部 寛さん演じる秋山好古(よしふる)で、この家は再現されたもの。庭先には、日本騎兵の父といわれる、馬に乗った好古の銅像と、向かい合うように東郷艦隊作戦参謀まで勤めた真之の胸像がある。玄関は土間のままで、奥の台所に続く。そこには、水がめや、かまどが置いてあり、実に懐かしい情景である。そして、何処からとも無く、ふっくらと美味しそうな御飯が炊き上がるさまを思い浮かべる。部屋は6畳2間、8畳2間である。裏の庭(上の写真)には、井戸の側にザクロ(写真正面の木)とその右にイチジクの木が植えてある。全体が一際合理的で質実剛健であった生活ぶりを思わせる。

 そして、もう1つ市駅の裏(松山市末広町16-3)には、子規堂があり、子規と文学仲間でもあった正宗寺の住職仏海禅師が、業績を記念して子規(正宗寺の門徒)が17歳で上京するまでの住居を寺の中に残したとされる。生誕地は市駅を挟んで反対側の花園町あたりだが、ここでは、子規の当時の暮らしぶりを知ることが出来る。まさに、香川照之さん演じる正岡子規と菅野美穂ちゃん演じる妹の律が住んでいた家ということである。ドラマでは、実際の家の場所までは特定してはいないが、真之が川を渡って子規に会いに行くシーンが多い事から、引っ越した先は、子規堂よりはるかに南の、石手川を渡った先にあったと考えられているようで、さしずめ石手川公園~祇園町あたりではないだろうか。子規堂の室内は情緒溢れる豊かさを感じさせ、秋山家よりも風情がある。子規の書斎の一部も復元されている。また、子規堂前には、夏目漱石の小説「坊ちゃん」で有名な坊ちゃん列車と、松山へ最初にベースボールを伝え、野球という言葉を作ったのも子規であることから、子規と野球の碑がある。このあたりは、仏海禅師の趣味だろうか。

 全く余談になるが、香川照之さんは、龍馬伝にも出演しており、しかも彼一人だけ岩崎弥太郎の魂が乗り移ったかの様な、圧倒的な存在感でドラマの土地柄や時代感までもリアルに再現している。確かに映像技術も大きく貢献しているが、どう見ても、龍馬ではなく岩崎弥太郎が主役の大河ドラマと考えて差し支えはない。香川照之さんは「歴史上の人物を演じる時は、その人物に失礼があってはいけない」と、とても奥深い微妙な言い回しをされているが、その言葉が示すとおり、彼は演じる人物を徹底して研究し、魂まで受け入れる程に、体系・体重はもとより、顔つき、しぐさ、息遣いまでも伝えようとしているのである。

 正岡子規は、圧倒的に多くの日本人に親しまれていて、既に子規の作品からにじみ出る彼自身のイメージというものが存在する。一方で、秋山兄弟は「坂の上の雲」を読むまで知らなかったという人がほとんどの筈で、さらに、私のように、読んでいない者にとっては、全く持ってイメージは、本木雅弘さんの秋山真之と、阿部 寛さんの秋山好古でしかないのである。当然、「坂の上の雲」の主役は、阿部 寛さんのように思われがちだが、実はそうではない。ここでも主役は香川照之さんでなければならない。つまり、正岡子規をどのように演じるかで、ドラマ「坂の上の雲」の文化水準と芸術性が保たれ、司馬遼太郎さんの訴えようとしている「対極にあるもの」がリアリティーを増すのである。香川照之さんは、ここでも試行錯誤を重ね、優れた才能を発揮するに違いない。最も注目したいし、期待してよいと思う。いやいや、期待なんて僭越で、彼は、三代目市川猿之助さんが父、浜木綿子さんが母という超エリート中のエリート俳優なのである。
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 補足 松山は伊予鉄道株式会社の「市駅」をハブ(中心軸)に見立てて考えると分かりやすい。すると、JR松山駅は1つのスポークの先になる。したがって、必ず頭にJRとつけて区別する。そこで、「JR松山駅」に着いた場合は、路面電車の市駅行きで「市駅」へ行き(150円)、市駅の裏を抜けて子規堂へ向かい拝観(50円)する。再び「市駅」に戻り、路面電車の道後温泉行きで「大街道」へ出る(150円)。
 松山観光港に着いた場合は、まず連絡バスで「高浜」まで行く(150円)。「高浜」から高浜線の横河原行きで「市駅」まで行く(400円)。
 いずれにしても、市駅の裏にある子規堂を最初に拝観し、次に大街道へ出てロープウエイで松山城を体感し、降りてきてから秋山兄弟の生誕の地を訪れ、大街道から道後方面へ向かうのがよい。

2010/08/27

松山城


 私の田舎の呉でも、「坂の上の雲」のブームが押寄せている。駅や桟橋の構内のあちこちで番組のポスターを見かける。それでも、「坂の上の雲」 すぐそこ・・とかの矢印はない。ポスターから想像するに、江田島の海上自衛隊の幹部候補生学校を見学してくるようにという「暗黙の指令」かもしれないし、松山の秋山兄弟の生誕地に赴くとか、子規堂とか、番組の冒頭で使われている三人並んだ松山城の一角を探してくるようにというメッセージかもしれない。そんなことは、誰も勧めていないが、TVの番組を通して、その明治という時代を投影しながら現場に立ってみるという、イマジネーションの貧弱な人間の興味といえば、そんなことぐらいなのであろうか。ということで、今回は本木雅弘さん演じる秋山真之(さねゆき)の足跡を松山と江田島に追ってみたい。さしずめ、松山発→呉(中継点)→江田島行きといったところ。

 少し余談になるが、幼い頃の私は、父の転勤の度に、中国・四国地方を転々と引きづり回されて、子供なりに色々苦労をした。松山と呉は小学校を2度ほど転校している。そのお陰もあって、それぞれ転校の度に勉強についていくのがやっとだったし、言葉の違いにも戸惑ってきたが、それでも、今となっては、そのことで広い範囲をふるさとにすることが出来たと思っている。瀬戸内海を挟んで岡山、福山、徳島、高松、そして広島、松山あたりまでが、いつまでも、私のふるさとなのである。

 とりわけ松山時代は、戦争物の漫画が多く、読んでもらいながら父から「若き祖父の時代」の話を聞かされて育った。もっとも、祖父の時代は、「坂の上の雲」より20年ぐらい後になるが、その話の中で明治時代のイメージを勝手に作り上げていた。「時代の潮流が大きく変わろうとする時期に、身分や家柄に関係なく学問をして、師範になるとか、エゲレスなどに留学するとか、そうやって、お国の役に立つ人間になれば、出世も夢ではないという、極度の期待感というか、わくわく感が漂って、どちらを向いてもエネルギーに満ち溢れ、若者が一際強気になれる時代」だったような話として、今でも記憶している。
 また、当初輸入に頼っていた戦艦や航空機、あるいは兵器が少しづつ改良され、さらに大正・昭和初期、より高精度で優れたものが開発されて「世界のどの国と戦争をしても、勝てるムードが漂う時代」へ突入していく様子まで説明してくれた。だから、多少年代が20年程ずれていたとしても、私にとって坂の上の「雲」とは、漠然とその実体が何か分かっているような気がするし、だから、もっと詳しく知りたい気持ちはあるにしても、決して、無防備で面白いとは思えない。

 さて、話を戻すと、かつて10年ぐらい前までは、夏目漱石の「坊ちゃん」の街であったはずだが、今の松山は、「坂の上の雲」一色といっても過言ではなかった。番組の最初に登場する、秋山好古、真之、子規の3人が並んで城壁に座っている姿は、松山城で撮影されたものとして、象徴的なシーンとなっている。私は小学生時代、毎週日曜日に古町方面山道から城山にのぼり、本丸広場で太陽の観測をしていた。山の稜線のどの位置から太陽が昇り、どの場所で沈むのかを絵に描いていたのである。その経験から、あの写真の太陽光の当たり具合をみて、複雑な松山城の中から、「ありゃあ、あそこしかない」と、ほぼ場所を特定する事が出来たのである。

 松山城は、三の丸の周囲を水堀が囲み、内側には市営プール、競輪場、博物館、美術館などがある。愛媛県庁の左側からは、二の丸へ続く道があり、この先は、二の丸史跡庭園となっている。本来の登城口はこちらで、庭園を見ながら坂道を登るとPDF写真②へ出る。二の丸から本丸へは、万里の長城の様な、山腹側面から侵入できないようにする為「登り石垣」で囲まれた部分があった。現在南側の部分は、ほぼ完璧な形で残っているが、北側は大半が破壊されている。さらに、本丸への入場には、様々に敵を欺く仕掛けがあって、厳重な防衛構造になっており、現存する国内12の天守の中でも、姫路城と同等と言われている。確かに、松山城は精巧な構造物が数多く現存して、二の丸から登城すると、その一端を垣間見ることが出来る。まさに松山城は、この街でも最高に価値のある場所なのである。
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 補足1 師範とは人の手本となること、あるいは手本になる人をさし、具体的には教師など先生のこと。師範学校とは、現在の教育大学。

 補足2 関東周辺から松山までの距離は長い。陸路を通って松山へ入る場合、東京からを想定すると、
 1.新幹線で岡山まで行き、岡山から在来線の特急に乗り換えてJR松山駅へ。
 2.寝台列車「サンライズ瀬戸」で坂出駅まで行き、在来線の特急に乗り換えてJR松山駅へ。
 3.JR深夜高速バスで東京駅から翌朝松山城の下の大街道で下車。
 4.小田急ハイウエイバスで新宿西口から翌朝尾道駅前まで行き、尾道駅前から定期バスでJR松山駅へ、等が一般的なルートで、それぞれメリット、デメリットがある。JR松山駅からは、道後温泉行き市内電車で大街道下車。一方、広島から高速艇、あるいはフェリーで高浜桟橋→市駅へ入るという海上航路という手もある。 市駅から道後温泉行きの市内電車で大街道にて下車。ロープウエイ乗り場まではすぐ。
 しかし、何といっても1番のお薦めは、2.の寝台列車「サンライズ瀬戸」で、この路線は将来無くなりそうなので、早く乗っておきたい。坂出駅で松山行き特急への乗換え時間を十分確保し、駅構内で本場の「讃岐うどん」を戴いてみよう。

 補足3 JR松山駅と市駅は異なる駅で、市駅は伊予鉄道株式会社の松山中心にある駅のこと。大街道とは、松山市を代表する商店街の1つでアーケードが500mほど続く。松山中心部にあり北端は、市内電車、三越、全日空ホテル、ロープウエイ、秋山兄弟生誕の地にも近い。

2010/08/24

フジフォトギャラリー

 どのように考えても、写真は、その撮影に必要とされる主な要素として「技術と価値判断」ぐらいしか思い浮かばない。一方、写真は感性だと言う人も少なくない。確かに、他人の写真を拝見するには、思いっきり感性が必要な時があるにはあるが、撮影者は感性だけでは撮影できない。そこを誤解している人は多い。例えば、写真を情景描写という文章に置き換えてみるとすぐに分かる。感性では文章を書けないからである。やはり、文字の並べ方には、ある程度「技術」が必要で、そこには多種多様な人生経験も活かされることになる。しかし、読み手は技術は必要なく、逆に感性の範囲で理解しているのである。したがって、読みが浅いとか、深いとか言われるわけである。

 さて、他人が撮影した写真を拝見して、何か自分の参考になるかと問われれば、それほど安易な話ではないが、ある動機付けにはなる。それは、恐らく誰でも共通していて、それと同じ写真を撮りたいわけではなので、気に入った写真を撮る為の、同じ様な機材が欲しいという気持ちになるわけである。例えば、明るい超望遠レンズが欲しいとか、超広角レンズが欲しいと思うわけで、日常では滅多に使用しないレンズだということも重々理解はしているけれど、もっと先にある、自分なりの写真は、その機材を用意することで撮影可能であると、強く動機付けになるのである。だから、メーカーの写真ギャラリーは商売上重要な役割を果たしているといえる。

 撮影技術は、2つの要素で決まってくる。まず、1つは被写体を分析・研究することで、技術は自然に磨かれてくる。シャッターを切るまでの手際もよくなり、被写体の微妙な変化をも見逃さなくなる。そして、2つ目は、意思決定する瞬間をどうするかであり、明るさや時間帯、あるいは色のバランスなど、様々な物理的制限の中で、最終的にある程度妥協しながら、経験によって決めるのである。したがって、理屈では、この2つを丁寧に積み上げてゆけば、写真は誰でも上手に撮影する事が出来ることになる。そう考えると、大して難しい話ではないが、難しくしている人達がいるのもこの世界の特徴といえる。

 さて、理屈で考えれば簡単な事でも、今すぐそれを実行しろといわれると、何から手を付ければよいか、身動きさえ取れないこともある。やはり少なからず経験を積んでいく必要がある。そこで、誰でもそこに近道が無いか捜し求めるのである。ある時は雑誌を読み、ある時はサイトを閲覧したり、そしてまたある時は、写真のグループのような団体に参加したりする。団体では、時たまテーマを与えられて、撮影後の写真をギャラリーで展示してみたりして、観覧者の反応に耳を傾ける。それもよい経験になる筈だ。その様に、写真を撮影し、評価を得て、再び撮影するというルーチンが出来上がることで、より一層深い動機付けになって、昨日よりもよい写真が撮れるようになるかもしれない。

 今日、紹介するのは、全国の主な都市に常設されたギャラリーで、我が家の近くにもあるので、時たま訪れて写真を拝見することがある。それぞれの撮影機材もさることながら、シャッターチャンスを活かした躍動美溢れる写真も多い。しかし、よく話を聞いてみると、意外に思われるかもしれないが、カメラ歴2~3年という人が多いようだ。確かに、写真に対する情熱に溢れている期間はそのくらいで、それ以上続けると、自分自身で独自の世界を切り開く事ができるのかもしれない。さらに、ここは、ギャラリーをある一定期間貸してもらえるので、仲間内の写真展示会に利用するのも楽しいと思う。詳細はHPにあるので参照されたい。ではこちら
http://www.fujifilm.co.jp/photogallery/index.html

全国レベルで地域別に写真教室・イベントなどを探す場合は、こちら
http://www.fujifilm.co.jp/photoschool/index.php

補足 京王線柴崎駅から徒歩で10分程度。

2010/08/20

昭和の流行歌7

  この曲を知ったのは、コロッケの「ものまね」からだ、という人も少なくないかもしれない。それは、唄う情景描写と言われるほど、丁寧に歌い込まれ、独自の世界を繰り広げる「ちあきなおみ」さんの歌唱力をコロッケが上手に真似たからだ。曲は「喝采」という、とても悲しい曲なのに、彼は、何と!それを大笑いに変えてしまったのである。高見を目指し、自分の芸の価値を高める為に、彼はあえて難しい曲を引き合いに出してきたといえる。さすがに、当時No.1の歌唱力を誇った、彼女の振付けと唄いっぷりの真似には、文句を付ける人はいなかったのである。

  そんな、テレビのドラマや歌番組で観るぐらいだった「ちあきなおみ」さんのCDを先ほど購入してきて、改めて聴きこんでみた訳だが、「雨に濡れた慕情」や「四つのお願い」等は懐かしさやら、「喝采」「矢切の渡し」等は、上手いなあー やら、あっという間に聴き入ってしまったが、テレビでは分からなかった「ちあきなおみ」さんの独特の世界があることも分かった。この人もいろいろな唄い方が出来るテクニックを自然に身に付け、殆どの曲をさりげなく歌ってしまうのは不思議である。数種類のアルバムをいくつかのレコード会社に跨ってリリースされているが、演歌からポップスまであらゆるジャンルをこなせるようで、今更ながら、他のカバー曲等も聴いてみたいと思える。

 もう1人、演歌の世界で、外すわけにはいかないのが「藤 圭子」さんである。とにも、かくにも、キリとした美人で、声はハスキーで商品価値は高く、ワイドな音域、端正な歌い方、どれをとっても文句の付けようが無いのである。唄いっぷりには、そこはかとなく底力のような余裕を感じさせ、浪曲師であったご両親から受け継いだ、正確な日本語の発音が魅力と言えよう。それにしても、美人に生まれると何かに付けてお得かもしれない。昔から歌が飛び切り上手な人は、持ち歌のタイトルの冠に、自らの名前を付けられることがある。例えば、「ひばりの佐渡情話」、「ひばりのマドロスさん」といった具合である。藤 圭子さんも、もちろん群を抜いて唄は上手だけれど、それにもまして「美人」であったことから、早々とタイトルの冠に名前を付けてもらっている。「圭子の夢は夜ひらく」である。

 彼女は、10年間でリリース70曲、アルバムは42レコードと、歌が上手な割には少ないかもしれない。もちろん当時の世相を反映して、私に言わせれば暗い曲ばかりだが、「飛ぶ鳥を落とす」とはこのような事を言うのであろうか、オリジナル・コンフィデンスでは、ファーストアルバムの「新宿の女」が20週連続1位を獲得している。さらに、その記録を塗り替えたのも、自らのセカンドアルバム「女のブルース」で、これも17週連続1位。総合アルバムチャートで42週連続1位という、前人未踏の記録を打ち立てている。まあ、とにかく凄い人なのである。個人的には、「京都から博多まで」、「別れの旅」、「明日から私は」、「私は京都へ帰ります」等の方が好き。さて、余談になるが、藤 圭子さんは、宇多田ヒカルちゃんのお母さんでもあり、娘さんには期待をかけた人も多いと思うが、残念ながら、どれをとっても母を超えることは出来なかったようだ。
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補足 まったく余計なことかもしれないが、ちあきなおみさんは、昭和22年生まれで、まさに団塊の世代。藤 圭子さんは、昭和26年生まれ。2人とも既に随分前から芸能活動はされていないのでテレビなどで拝見することはない。

2010/08/17

水羊羹

 井村屋の「茹あずき」の缶詰を使って、俺流の水羊羹を作る事がある。井村屋の茹あずきはよく粒が揃っているし、勿論それだけでも加糖されているので、さっぱりしたあんことしていただけるが、アルカリイオン水を加えながら、1/3ぐらい小豆を潰して、寒天と共に火に掛ける。寒天が溶けて沸騰したら、弁当箱のような四角い容器に流し込んでさまし、さらに冷蔵庫で冷やす。

 数時間後、忘れた頃に取り出して、切って食べるわけである。その断面が実に美しく、一番下には、石垣のように積まれた大粒の小豆、その上は小豆の中身がこしあんのようになって沈殿し、上の方は徐々に透明感を増すのである。表面のテカっとした光沢も一際美しい。この俺流水羊羹は、人に「どうよ」って食べさせる物でもないし、決して自慢するような作り方(早い話邪道)でもないが、昔、母が作ってくれた水羊羹とほぼ同じ食感と味になるので自分では好物になっていて、時たま気が向いた時に「よしよし、じゃ」と作るわけである。今ごろの季節には、必ず口にしたいと思う逸品なのである。

 井村屋は私にとって、幼い頃、そう50年以上前になるけれど、親しみの強い会社で、即席のジュースの素(粉末)を販売していた。「ホホイのホイでもう一杯、井村屋のジュースの素ですもう一杯」というようなCMソングをいまだに覚えているぐらいで、私にとって大好きな甘味の会社なのである。当時、まだまだ食糧事情は今のような豊かさは無く、ジュースの素といっても、恐らく、あくまでも恐らくだけど、赤と黄色の色素とクエン酸と砂糖のような物で作られていて、A4程度の大きなビニール袋に詰めて販売されていたと記憶している。それをスプーンですくってコップに入れて、水を加えて「ジュース」としていたのである。まあ、それでも、よく、そのままスプーンで口に運んでいた記憶もある。舌が朱色になってしまうので、すぐにバレて、母によく叱られた。「えへへ」って感じである。

 既に、東京に住むようになってもう40年近い。いつしか東京の味の「くどさ」にも慣れてしまったようだ。そんな田舎出身の私にとって、水羊羹の決定版といえば、やはりここの商品を外すことは出来ない。全国的にも広く知られていて、大した金額でもないのに、この季節、何処へ持って行っても、年配の方々はニコニコしながら 「まあ、まあ!立派な物を」 って喜ばれるのである。それほど年配の人達に喜ばれると、「やっぱ美味しいんだ」と思うようになる。俺流の寒天羊羹とは対極にあるものだが、最近になって、このくどさも魅力の1つと感じることもある。やっと俺もこの味が分かるようになったのか、あるいは東京風に流されたのだろうか、暑いと、思い出したように買って帰る時がある。ちと甘すぎるけど、確かに美味しい。
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補足 紹介している四種類の水羊羹には、幾つかの糖類が使われている。黒糖と和三盆糖、その他の甘味の違いがすぐに分かるようになれば、一人前である。大人になると、その甘味の違いを原材料はもとより、製造方法の違いとして話が出来なければならない。
 写真ではわかりにくいが、1つ1つの容器が逆台形の断面をしており、実物1個はかなり小さく70gしかないので、2~3個は軽くいけると思うが、何と1個160kcalである。

2010/08/13

敗戦記念日を前にして

 こんな事を書くつもりではなかった。しかし、本棚を整理していたら「HPウエイ」-シリコンバレーの夜明け-という本に目が留まり、懐かしくペラペラとめくっていた。デーブ・パッカードとビル・ヒューレットの作った会社の1934年~1994年の間の出来事、課題の解決、人材育成などの革新的な事が描かれている。その会社とは、先日も聴診器の事を書いたヒューレット・パッカード社である。いくつかのページに、文章の横に線を引いてあるところを、再び目で拾ってみた。 15年ほど前はこんなところが面白かったのかと、妙なノスタルジーを覚えるのであった。

 初めて読んだ頃は、デーブ・パッカードが米国国防総省副長官に任命されたところあたりまでで、それは覚えていたが、詳細なことは忘れてしまっていた。それは同社の製品に関することではなかったからだ。そこで、・・・へー、と思いながら続きを読み返してみる。デーブ・パッカードが国防総省においてHPの社内管理方針を適用し、兵器システムの調達や、プロトタイプ(F16/17戦闘機)プログラム、通信機器の信頼性向上などに係わっていたことについて読み進んだ頃、そこに、どこか見覚えのある、こんな記述を見つけてしまった。

 その本文をそのまま転載すると、<各軍司令部の中でも重要なのは、ネブラスカ州オハマに本部のある「カーティス・ルメイ将軍」の戦略空軍司令部と、その傘下でコロラド・スプリングスのシャイアン山にある核戦闘司令部である。ルメイ将軍は、強力なリーダーなので、これらの司令部は上手く機能していた>・・・・つまり、それ以外の各軍司令部と統合司令部の関係はあまりよくなかったという説明であった。その状況の中でもルメイ将軍の司令部は、特に指示命令系統がしっかりして優れていた。ということのようだったが、話は続いていて湾岸戦争の頃にまで至るのだが、私は、この「ルメイ」という名前が出た瞬間、琴線に触れたように愕然と読む事を停止してしまったのである。

 かつて、このブログの中の「広島の平和記念資料館」のところで、こちらも文章をそのまま転載すると、<・・・・全国各地でじゅうたん爆撃が行われてきた。東京では、昭和20年3月10日、空からガソリンをまいた後に焼夷弾を投下して皇居以外を 焦土にしている。この死者10万人といわれ、当時は、あたり一面に黒焦げの焼死体が溢れていたという。これが東京大空襲として語り継がれている。わずか終戦の5ヶ月前のことである。その後、大阪、神戸、名古屋など全国各地にある67都市を順番に次から次へと、余った焼夷弾を投棄するように空爆が行われたのである。これらは、米軍にとって終戦後利用価値のない、人々が密集した市街地を狙っての攻撃である>。・・・・とある。もっとも自分で書いているので忘れるはずも無い。

 実は、この空爆を指揮したのが、当時のルメイ少将(米軍第21爆撃兵団司令官)だったのである。では、なぜ私の琴線に触れたのであろうか、それは、当時の彼の「皮肉な報告発言」を思い出したからである。そして、既にこのHPウエイの本では、戦略空軍司令部の将軍になっていたことだ。その頃は、ベトナム戦争真っ只中であった。
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補足 HPウェイの本をめくる寸前は、しみじみと敗戦記念日を前にして、ついつい関連する放送番組を拝見して、「ただただ、酷いこと事をした、だけじゃ進歩が無いんだけどな・・」とか思いながら、心を鎮めてお盆を過ごすつもりでいた。しかし、たった、3文字(ルメイ)の名前を見つけたがために、再び怒りが沸々と燃え上がってしまった。

2010/08/10

ブラッドオレンジ ジュース

  イタリアのシチリア島で採れるブラッドオレンジを搾ったジュース2種を紹介しておきたい。夏場は、何と言ってもこのジュースが最高である。PDF写真の奥に写っているブラッドオレンジのジュースは、EU(欧州連合)規格の有機農法(完全無農薬)で育てられた完熟ブラッドオレンジを、現地の有機JAS認定工場で搾り、輸入して広島県にある有機JAS認定工場でビン詰めしたもので、徹底した「品質保証システム」で管理されているものである。手前の商品も、同じシチリア島で採れたブラッドオレンジを絞ったものだが、有機農法とは記述が無い。東急ストアで古くから販売されている定番商品である。

 実は、昨年の春先には4種のオレンジジュースの紹介をしており、その中に、この有機農法のブラッドオレンジ・ジュースが含まれている。その時は、他の3種のオレンジジュースも個性的で美味しいと思ったのだが、やはり後々いつまでも印象に残る美味しさとして、このブラッドオレンジ・ジュースが尾を引いていたわけで、自分の中でもかなり上位にランキングした商品である。だから、夏場必ず思い出したように、購入することにしている。まあ、それも、すっきりした美味しさと後味のよさに引かれてのことであり、他のブラッドオレンジジュースを購入しても、味も違うし、後味には軽く刺激性が残ったりして、そのたびに、益々、この有機農法のブラッドオレンジ・ジュースの美味しさを認識するわけである。ちなみに、写真の手前の東急ストアの商品とも明らかな違いがある。

 ブラッドオレンジ・ジュースというと、酸味が刺激的ですっぱいと思ってらっしゃる方も多く、胃腸に刺激が強いのではないかと敬遠されるかもしれないが、このジュースは、完熟で採って搾ってあるので、さほど刺激性は無い。むしろ甘味を感じるほどで、しかも体としては、ジュースに含まれるビタミンCを吸収しやすいようで、飲んだ後は疲れも取れてすっきりするのである。また、真っ赤なジュースの中に、やや黄身がかった果肉が沈殿したりして、攪拌後の色としては「黄赤」といった感じで、ブラッドなイメージは少し希薄である。 実際、手前に写っている東急ストアの方の「深い赤色」より、後ろの「黄赤」の方が、グラスに入れても美味しそうに見える。

 最後に付け加えると、EUでは、シチリア産のブラッドオレンジを法規2081/92により地理的表示保護の認定をして、伝統や地域性に根ざした高品質な食品として認めている。また、EU/イタリアの有機栽培基準は、有機JASと同等性が認められているので、海外生産輸入品といえども品質レベルは国内産と同等で、子供さんからお年寄りまで、みんな安全安心で飲めると思う。
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補足 有機JASは、農薬や化学肥料を使用しないで栽培するのを原則とされるが、自然界にあるものは使用が許されている。しかし、規定によって具体的にその品目が定められており、なおかつ、使用された物は記録に残される。それを第3者の認定機関が監査をして、認定された者だけが有機JASの認定業者になれる。もちろん海外で生産される有機農作物に関しても、海外の生産者が有機JAS認定業者になることができる。

2010/08/06

京王フローラルガーデン8

 今日は、朝からカラッとした暑さで、空には既に入道雲が鎮座してこちらを見守っている。日差しは鋭いが、既に峠は越えた感じである。それにしても、こう暑い日が続いていると、街中も人通りが少なく、しばらく歩いても人影を見かけることは無かった。いったい、何処に隠れているのだろうか。遠くで救急車のサイレンが走り抜けてゆく、誰か熱中症にやられたのか。いや違う。熱中症にやられても、そのまま放置されるはずだ。そんなことより、人が増える前にフローラルガーデンへ着かなければと、ひたすら西へ向かって歩いた。紫外線がジリジリと首筋を焼き、あっちーっ!。

 歩いている間はさほどでもないのに、信号で止まると汗が噴出す。おっと、そうだ、思ったより体温の上昇が早いので、水分を補給しなければ、このままだと脳梗塞になるかもしれない。いかん、いかん、と自販機を探す。側面に白と青で、ION SUPPLY DRINK・・・・と書いてある自販機を見つけた。よしよし、これだ。それは、涼しげな日陰にあった。百円玉を2枚取り出して指に挟んだまま、サングラスを上げて銘柄ボタンに見入る。それでも、よく見るとボタンのランプは、かすかに「売切れ」の表示が灯っていた。左から右へ、あるいは上へ2列目、3列目と追いかけても全て売り切れだ。しばらく補充には来ていないようであった。仕方なくオロナミンCにする。うーむ、なかなか楽な商売をしている大塚製薬であった。

 それでも、喉につっかえるような、久々の炭酸に苦しみながら、「元気ハツラツ」と自分に言い聞かせ、やっとの思いで京王多摩川にあるアンジェにたどり着いた。コンクリートの照り返しがサングラスの下から割り込んで眩しい。入口あたりにも人影は無く、フリーパスをチェックをしてもらって入園する。観覧者のいない、やや不気味にも思える今日の庭園だが、気持ちは徐々に安堵してきた。広範囲の風景を広角レンズで狙える安心感は、撮影を楽にしてくれる筈だ。今日の写真は、前回、前々回と組み合わせで観てもらうようにしたい。

 池に浮かんだドームに立ち入り、1枚目の「ドームの写真を撮影した場所」の方にレンズを向ける。2枚目の「小川の写真を撮影した場所」もちゃんと入っている事を確認しながらシャッターを切った。撮影した時はわかっていても、何年も経つと撮影場所が分からなくなることもあり、このような撮影は、写真としては決して面白くは無いが、自分の記録としては必然である。写真は、丁度、舞台裏を撮影した感じになる。庭園の中でもこの一帯は、池もあり、木々も多くて、一際爽やかで涼しい。1枚目の写真も、2枚目の写真も、撮影日や、撮影時間帯が異なるので少しチグハグに見えるかもしれないが、それらの写真は、今日の見ていただく写真の「中央部左端寄りの位置」から撮影している。
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補足 前回(2枚目)、前々回(1枚目)の写真とは、フローラルガーデン6と7の写真のこと。今回の写真8で3枚セットになる。

2010/08/03

パエリア風

  何かにつけてお仕着せの物では不満が残り、それなりに食材や香辛料等を加えて、どうせなら自分好みの御飯にしたいという人も少なくない。その様な、何かに付けてうるさいというか、細かいことにもこだわりを持ち、時たま、な、なるほどと思うような画期的なアイデアを出す人がいる。人の頭は、「使えば使うほど、よく動くようになる」を生活の中で実践している人達である。とは言いながらも、最初から何から何まで、本格的に自分でやらないと気が済まないかというと、実はそうでもなく、単なる自分の主張というか(わがままとも言う)、を周囲に訴えているだけのことであったりする。今日は、そんな、中途半端な人生観を周囲に押し付けているおっさん連中にぴったりの「自己満足型支援食材」から1つ「パエリア風炊き込みご飯の素」を紹介したい。

 今日紹介する炊き込みご飯は、味噌汁、そして、美味しいお漬物でもあれば、贅沢は言わないという人にもぴったりである。さっそく、その炊き込みご飯を作ってみることにするが、まず、スーパーなどに置いてあるS&B ヱスビー食品㈱のパエリア風「炊き込みごはんの素」を用意する。炊飯器には洗ったお米2合を入れ、次に、「炊き込みごはんの素」を入れ、さらに、アルカリイオン水を2合の印のところまで加え、炊飯スイッチを押すだけである。このとき、水加減で出来上がりの御飯が硬すぎたりする事があるので、少しだけ水の分量を多めにしておくとよい。かといって、炊き込みご飯には、「おこげ」ができるくらいが美味しいとも言われ、水分量はとことん微妙といえる。

 何回か繰り返していくうちに、丁度自分にあった案配が分かってくるものだが、最初は、やはり試しながら作ってみるしかない。ただ、単純に「炊き込みご飯の素」の指示どおりで作るには、案外美味しく仕上がるので、2回目からは、キャンプなどに持っていくとか、アウトドアでも楽しめるだけの自信が得られる。しかし、何か別の食材を加えて、もっと自分なりに「美味しい炊き込み御飯に仕上げたい」と欲が出てくるのも現実で、少々慎重になるに違いない。冬場なら牡蠣などを加えたりするのもよいが、夏場は冷凍のシーフードミックスなども利用できる。これには、にんにく、オリーブオイル等と一緒に炒めてから投入する。一方で、野菜を加えるなら、玉葱、いんげん、赤ピーマンなど、「炊き込みご飯の素」の原材料に含まれるものがよい(PDF参照)。このあたりの追加する食材こそ、自分の創造性を活かして美味しく仕上げて欲しいものである。ただ、何を加えるにしても、あくまでも水の加減がポイントである。

 今日のPDF写真は、冷凍シーフードミックス(海老、いか、あさり)とマコーミックのにんにくのみじん切りを、エクストラバージンオイルと一緒に炒め、辛味を増す為に、生姜の搾り汁、サフラン少々、輪切り唐辛子等を加えた。夏場は辛い方が美味しい。あと、ベーコンやパンチェスタを四角く切って炊き上げてもよい。炊き上がったら、さらにブラックオリーブの輪切りを加えて攪拌している。これも、美味しさを引き立てる食材の1つである。お皿の上の付け合せは、トマト、ボイルしたじゃがいも、レタスとバジルである。おっと、バジルは、自家農園でたくさん生育している自慢のものである。
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 補足 それ自体、特別美味しい物ではないが、ビジュアル的にはミール貝も加えておきたい。味覚で楽しむならば、炊き上がった時点でアサリバターとか、アサリの酒蒸し等を入れて攪拌すると美味しい。