2009/02/27

自作料理7

 自分で料理を作る楽しさは、様々だけれど、最も簡単に作れて誰でも好きなカレーを作ってみた。今回から何回かに分けてカレー丼と言う形で紹介してみたい。大脳を活性化するといわれているターメリックを食べるきっかけにでもして欲しい。

 ターメリックの効能については、既に昨年の8月「カレー粉末」で紹介した。しかし、先日テレビで、あのイチローも8年間、毎朝カレーを食べているという番組を観て、それに触発されるように、再び時々カレーを研究している。そんなに毎朝食べられるカレーとは、いったい、どのようなものなのだろうか。しかも、ターメリックは、加熱しすぎると効果が薄れるそうだ。そうなると、ターメリックをオブラートに包み、朝、お水で呑むのが一番良いことになるが、似たものは胃腸薬としても販売されており、これを呑む苦しさは良く知っている。

 今回紹介するカレーのポイントは、「和だし」を使うところにあり、少々変わったものに思えるかもしれないが、予想外に美味しい。これに使用する「だし」は、日本料理の基礎になるもので、普通は家庭に常備されている食材(調味料)である。通常は、いりこ、こんぶ、かつお、などを数時間水に浸しておく、あるいは、煮るなどしてその「旨味成分」を抽出するが、最近はそれらが顆粒粉末になった形で販売されており、水で溶くだけで簡単に作業は完了する。種類も豊富で、組合わせも容易になり「だし」の可能性を拡大している。水は、浸透力の高いアルカリイオン水を使用する必要はないが、せめて天然水を使用し、「だし」の組合わせによる味の違いを確認してほしい。この段階で味噌汁の「だし汁」としても使用できるので、その違いが分かるようになると重宝する。また、これらの「だし」は、醤油、みりん、お酒等と組合わせることで、煮物、煮付け、吸い物、うどんつゆ、蕎麦つゆ、など、おおよそ全ての日本料理に使われており、これらを使いこなすことは、普遍的(生涯活用)な味覚を把握することに繋がる。

 それでは、素材選びの根拠を説明しながら追ってみたい。手順の詳細は1例として添付のPDFにまとめてあるので、そちらを観ながら独自の工夫を考えてほしい。 まず、にんじんとじゃがいもは、皮を剥き裁断するが、大きく裁断すると火が通るのに時間がかかり、小さく裁断すると早い。これは一般的な熱伝導の原理で、CO2削減のためには細かく切るのが望ましい。大きく使いたい場合は、あらかじめ電子レンジで前加工の加熱をお勧めしたい。素材の密度や大きさで「熱の通る時間」が異なる事を、念頭に置いて作業を進める事が、手際のよさと食材を生かす基本となる。次に、この野菜を日本酒で煮るが、この工程で素材の臭みがなくなり、素材本来の美味しさが引出せる。日本酒は、甘い種類を使えば、最後まで甘みが残ってしまうので、辛口の日本酒がよい。玉葱はオリーブオイルで炒める。植物から採取した鮮度の高いオイルを少量使用する。また、炒める時間によって、後々の「苦味」が異なるため、この塩梅は好みで調整されたい。

 最終的な味を決める要素は、甘味、辛味、塩分、酸味、苦味、そして雑味であるが、それらは組合わされた味で評価されることから、最も重要な調整項目になる。また、油分は極力減らすことに主眼を置いているが、少しは残さないと奥深い旨味を引き出せない。一方、カレールーには、様々な動物性油分が混入しており、体に入ってからの負担が大きいため、朝の摂取には適さない。したがって、カレー粉のみの使用になる。甘味は、玉葱、日本酒、蜂蜜から、辛味は、胡椒、生姜、鷹の爪、カレー粉、ターメリック、塩分は、アンチョビ、天然塩のヌチマース、酸味は、トマト、りんご等から構成するが、りんごは甘みも強いので注意が必要だ。そして雑味は、天然素材などに含まれるミネラルによって作られ、ここでは、アンチョビ、ヌチマース、蜂蜜で構成する。 それら素材を投入する鍋は、厚手の鉄製が良い。そして加熱は、むやみに継続するより余熱を上手に使おう。また、温度を上下させることで味が染込むので、時間の工夫をしてこまめに火力を調節する。これによって、CO2の節減にも努める。 加えて、加熱中は絶対に火力の傍から離れないようにされたい。

 これらの、どの味覚も際立つことのないように、素材の組合わせは慎重に。一方、加熱と冷却の繰返しでスパイスの薫りは消えていくので、カレー粉、ターメリック、シナモン等は再び追加する必要がある。 最後に、好きなトッピングを制作して個性を出す。ここで初めてトッピングにバターを少量加え、薫りと旨味を強調する。これらが、主な流れになる。 たかがカレー丼なのに、長い手順のように思われるかもしれないが、素材や量を考え、手順を楽しむ事、これを試行錯誤ともいうが、大きく大脳を刺激するところだ。 さらに、この制作に使われた、鍋やお皿は、カレーに含まれる油分が極めて少ないこともあって、洗浄が容易である。これは、とりもなおさず体にも吸収・分解に優れている事を示唆している。

 料理は、方向性さえ間違っていなければ、自分で考えることが一番楽しい筈で、何度か繰り返すことによって、組合わせる味の予想が出来るようになり、手順も大きく改善される筈である。 ではこちら。レイアウト・デザインも一新した。どうよ。
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2009/02/24

続デジタルカメラ19

 今日は、今年2度目の神代植物園へ来て、北側エリアにいる。前回来園したときに、どうしても、この木の曲線に引き止められ、シャッターを押したい気持ちになったのだが、時間不足で撮影できなかった為である。これは、夏場に美しい花を咲かせる「サルスベリ」という木である。花が咲いている期間が長いので「百日紅」といわれ、赤、白、桃色、赤紫色の花が咲く。その時期は、あまり珍しくもないので撮影する人は殆どいない。それなのに、素っ裸になっている今頃撮影しても、「全くしょうがない」が、この弓のように曲がった曲線と表面の皮のツルツルの感じが、なんともいえず、可愛らしくもあり、逞しくもある。かといって、そのまま撮影しても、フレーム全体に色味が少なく、つまらなく写るので、夕日が落ちかける頃まで粘って撮影した。夕方は、風も強くなり、この木の弓のような曲がり具合の背景も少し分かる。この姿は、逆境に耐えて、成長していく人の姿のようで随分印象的だ。

 人は、社会に出て直接被害を被ったり、周りの人に係わり合いのあった事件を通して学ぶ事が出来る。そして、歳を重ねるごとに少しずつ「様々な学び」を通して賢くなる。それは、社会の仕組みや組織にまつわる問題、人の心の中に潜む集団心理、競争の中で生き延びる方法、など様々な社会現象に及び、自分なりに分析・応用、あるいは防衛できるようになる。これを社会に「もまれる」とでもいうのであろうか、そのような経験を繰り返しながら50歳ぐらいを契機に、やっと一人前の大人になれると言う人もいる。大人に成長するには、随分苦労するらしいし、長い時間も必要だ。しかし、一方で、80歳過ぎまで、元気で順風満帆の人生を歩み、大した苦労もなかったという人も少なくないようだ。こういう人達は、口先では簡単そうに話すが、実は、生と死の狭間の「戦争」を経験してきたのである。また、その後のドサクサの中で 「もまれ」 生き延びた人達だ。少々のことでは驚かない免疫が出来ているし、食糧事情の悪い時期にも、たくましく生きたのである。だから、どう見ても防衛能力に優れている。いや、戦闘能力にも優れているに違いない。これらの精神力が、現代社会を生きぬく底力になっている筈だ。改めて考えると、人はどこかの時点で、それ相当の苦労をして成長できるのかもしれない。

 そんな歳を重ねた人達は、口を揃えて言う事がある。「50歳ぐらいは、まだまだ洟垂れ小僧だ。これからが本当の実力だ」と仙人のように言われる。 これは、返す言葉に困るほど、なかなか奥深い言葉ではあるが、この殺伐としたご時世で今後どのような戦略をもって成長すればよいのか、よく見えなくなっている。果たして、そんな先輩方には、どのような目標意識があったのであろうか、現在は、人材を単なる設備のように扱ったり、機械のように償却してしまうのである。これからも、それは助長されるに違いない。

 ならば、将来は、それらに対しリアクション的な生き方をするだけでよいのだろうか。それ自体に必然性があるかのようだが、それで自分が本当に納得できるのであろうか。はなはだ疑問である。何もかも全て駄目だと、まとめて取り扱うような考え方は、社会の構図を注意深く捕らえているとは言えないし、分析も十分ではない。社会の中には自分の身の丈を意識し、その中で自分が納得する生き方をしたいと願っている人たちも少なくないのである。やはり、国や企業を含めた、その状況や対象をよく分析して、それに適応できる幅の広い対応力を備えることが必要と思われる。ある時は、厳格な「裁判長」のように、あるいは悟りを開いた「僧侶」のように、またある時は、「日本無責任男」のように、そしてまたある時は、悪に立ち向かいピンポイント攻撃をする「スナイパー」のように、そういうきめ細かい対応を図りながら、あくまでも自分を見失わないことである。これも人生の修行と心得る。今こそ、国内でも、地域でも、街中でも、社内でもグローバル精神ともいえる、より幅広い多様性が求められているのではないだろうか。

 この写真に写っている「百日紅」を見ながら、自分は、「まだまだ洟垂れ小僧」かあ・・と、妙にそれを受け入れてしまうのである。この木の姿の中にある、その必然性というか、事実を1つ1つ積み上げて育った形状は、植物公園の中で手厚く育てられているはずなのに、いったい何故、このような形になったのであろうか。 (初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)このシリーズはこちら
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2009/02/20

続デジタルカメラ18

 今日は、京王線の百草園へ来ている。いつものように早速現場から報告する。38年間という長い期間、京王線を利用していても、ここは1度も訪れた事がない。新宿から特急・準特急で聖蹟桜ヶ丘、各停へ乗り換えて1駅。電車の中で「百草園の梅まつり」と言う中吊り広告をみて、思い出したように、その気になったのである。自然が織り成す風景の中には、想像を超えた神秘があり、「これは美しい」と感激することも少なくない。また、それらは時間を忘れさせ、いつまでもこの時間が続いてほしいと願う気持ちになることもある。そんなイメージを抱きながら、出かけることにしたのである。とにかく、行ってみないわけには、何も分からないからである。

 電車の中吊り広告には、「現在でも豊かな自然を残す多摩丘陵。その一角に佇むのが京王百草園・・・・・約800本の梅の古木で、見事な花を咲かせ都内有数の梅の名所として親しまれている」と記述があったので、ホームに降り立つと、期待に胸を膨らませ歩き出す。駅から400m程あるらしいが、ほぼ全てが坂道になっていて、途中で度々、まだかなと上を眺めるが、意に反し坂道は急峻になるばかりだった。それでも、道の両脇には住宅やマンションが建ち並ぶ。息を切らしながら、こういう場所は、住みにくいかもしれないなあ・・と考えながら、やっとの思いで到着した。ここまでで約20分程度である。立派な門構えをくぐり、入場料300円を支払い、さらに石段を上がる。ややこじんまりとした庭があちこちに散在し小道で繋がって、それぞれの庭には、梅の花が、咲き競うように枝を広げている。石段を上がりながら左右を眺め、確かに美しく、「見事」と言う他はなかった。木々も年期の入った古木ばかりである。しかし、京都から帰ってきたばかりのせいか、それでも絵的には少々貧弱に見えた。

 園内の中央に位置する「松連庵」では、蕎麦を頂く事が出来るようだ。なかなか風情のある光景ではあるが、寒さのせいか障子が閉まったままである。僅かな磨りガラス窓の奥に大勢が蕎麦を楽しむ姿を確認でき、自分も食べてみたいが、一寸入りにくい雰囲気なので退散する。 梅が咲く季節は、受験をする子供達には大変辛い季節で、ご両親も梅の花見物などをする心の余裕はないはずである。ここにいる人達は、それをとっくに終えた人達である。

 今日は、それでも、いつもより少し暖かいので、大砲のような大きなレンズを装備した写真マニアも多いが、それを振り回すほど園内は広くない。梅のクローズアップを撮影するなら鉢植えを買って帰る方がよい。しかし、私もどこか撮影しなければならない。小さなカメラをポケットから取り出し、撮影場所を探す。大きな古木の場所には、人が群がり、長いグループになって少しずつ移動している。なかなか撮影に向いた場所は見当たらない。

 「松連庵」の西側に、丁度、「三檪庵」=木に楽しむと書いて「れき」と読む(さんれきあん)という茶室があり、その建物と梅の花を引き合いに撮影することにした。三檪庵は、昭和32年に百花園に建築され、平成11年に百草園に移築されたもの。秋田杉の無垢材がふんだんに使用されている贅沢な茶室になっており、茶会、句会、歌会などを申し込めば利用できるそうだ。この風景では「桃色の花を付けた梅」が1本しかない。それは、園内の他の場所と大きく異なり、百草園の雰囲気を伝える写真としては不適切かもしれないが、来園の記念に1枚と思うなら、人気もなく時々静まり返る、この場所が最適だ。ホワイトバランスを曇りにセットし撮影を始める。

 2つの画像は、比較しやすいよう、同じ画角になるよう後で少しトリミングしたが、それぞれのズームレンズのひずみの違いが良く分かる結果になっている。 Panasonic は、画質の調整項目を変更、エッジ+1、クロマ+1、コントラスト+1、で少々ダイナミックに見える。Fuji は、細かな調節機構はない。フレームワークは、手前にある「苔の庭石が良い」とか、じじ臭い事を言うつもりはないが、構図上ここは削除できない。かと言って空も切れないので、ほぼ撮影アングル通りとなっている。この手のカメラは、できるだけトリミングしないのが原則である。(初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)このシリーズはこちら
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2009/02/17

京都9

 たとえ10年経っていようとも、何も変わらない場所がある。そこに訪れると、昨日の続きのように錯覚してしまうことがある。そして、そこに住んでいる人も、変わっていないような気がする。今にも昔の知り合いが顔を出し、昨日の話の続きをしてくれそうだ。これが、変わらない風景の寛大さなのだろう。 京都は、そういう意味で、変わらない良さがある。しかし、その反面、何だか考えさせられるところでもある。今まで自分が「避けて、忘れかけていた」事を、今更のように突きつける。そんな冷たい風が、いつも前をよぎってしまうのだ。自分の気持ちが変わってしまっているのを、どこかで「恥ずかしく、悔いて」いないか、問いかけられているようだ。そこが、ちょっと気になる。

 それは、古くから吾家にあった、掛け軸や茶道具、あるいは、鯉幟、ひな壇や人形隊、いまどきもうこんな古臭いもの格好が悪いし、と、祖母が大切に管理してきたものを、時代が変わった、新しいものに変えよう、「新しいのは、こんなに便利だし、綺麗だ」といって、簡単に古いものを捨ててしまった「後味の悪さ」に似ているのである。そして、そういえば、もう1つ、祖父が愛していた庭も壊してしまい駐車場にしてしまった。煉瓦の塀を壊し、生簀も潰し、松の木も石灯篭もみんな壊してしまった。理由があってしたことで、決して責められるほど悪いこととは思わないが、 その価値観と動機に引っかかるのである。果たして、その選択は「経緯として」正しかったのであろうか。 それを私に問いかける。「祖母が生きていたら、なんて言うのだろう」。そんな、何もかも変わってしまった家に「お盆には、戻ってきてくれるのだろうか」。京都の風景の中には、それを後悔させるように、古いものが沢山残され、きちんと管理されているのである。

 あの西本願寺の門にある「オレンジ色に光り輝く木札」を見たときに、その「答えを教わった」ような気がしたのだ。これなら、今の人も、年配の人も、そして、木札の役割を神聖に受け止めてきた昔の人達も、ここに戻ってこれるのである。信仰のあった人達にとって、こんなに「ありがたいこと」はない。そして何も変わっていないことに安堵し、いつでも現世でお世話になった住職に、堂々と「成仏できない未練」を相談しに来れるのである。デジタル電光掲示板では駄目なのだ。人が長い間、心の中で大切にしてきた風景やその実体を、むやみに破壊したり、変えてはならないのである。京都を歩くと、そんな事を「まじめに」考えてしまうのだ。

 さて、今回で「京都旅の報告」は最後になる。怪しい案内役で申し訳なかったが、少しは楽しんでいただけただろうか。いつか、この続きを報告できるようにしたい。京都は、何故か憧れ、魅力があると言う人は多いが、これは、至極当然のことである。我々には、戦国時代の武将のように、京へ向かって出陣し、迎え撃つ敵と戦っても、上洛したいと願うDNAが残っているのである。だから、ふと何か思い出すように 「そうだ、京都に行こう」 と血が騒ぐのである。訪れば、訪れる程に何か新しい発見があり、そんな雅な美しさを土産話にできる。こんな、一貫した習性が他にあるだろうか。いや、それだけとは限らない、京都をこよなく愛する人の中には、ひょっとしたら、前世で何度か訪れていたかもしれないし、住んでいたかもしれないのである。初めて来たけれど、何故かこの道に見覚えがあったり、その風景を懐かしく感じたり、この道の先は行き止まりである事を知っていたり、そんな場所に遭遇するかもしれない。ここは、どんな不思議な事があってもおかしくないのである。
 みんな、それぞれに感じ方、見方も違うし、楽しみ方も違う。しかし、どの場面や情景でも、自分の感性が刺激される街であることは間違いない。さらに、より深い知識を持って訪れることで、ある時、「鳥肌が立つような喜び」を味わえる予感さえ覚える場所である。

 最後も、例のごとく、食べ物の紹介で締めくくることにする。もっとも、他にも、「おばんざい」や珍しく「京都ラーメン」、「京の和料理」も頂いたが、また経験を積んで屁理屈が書けるようになってから扱うことにする。「阿弥陀如来」の前で合掌し、ちょっと謙虚になったかもしれない。いや、もう十分反省している。そんな気持ちで、京都駅地下街の「洋食屋 東洋亭」を紹介する。駅前なので、列車やバスの時間調整にも使えるので、チェックしておきたいお店の1つだ。
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2009/02/13

京都8

 昔の写真が出てきて、懐かしく感じ、心が温まることがある。また、古い駄菓子屋をみつけ、そこで幼い頃食べた菓子や「くじ」をみると、うれしくなる。昔のことや、古い記憶を呼出す行為は大脳にとてもよいらしい。これは、記憶を呼出す訓練になるからだ。記憶していても、呼出せなければ、記憶してなかったに等しい。常に、「記憶する、呼出すこと」を意識して実行することが重要といわれている。また、呼出し訓練には、何かきっかけが必要な時がある。これには、臨場的な体験が有効で、検察の現場検証もそれが根拠になっている。また、ドラマなどで、気を失うような恐怖の拷問に、時折記憶が蘇ることもあり、そういう緊張感も関連があるようだ。我々も、その訓練のために、きっかけでもある「臨場感と緊張感」を併用して、努力をする必要があるかもしれない。今回は、予期せず、そんな「強引な空間」に引き込まれてしまった。

 東寺方向からJRの線路を挟んで北側にあるのが梅子路公園で、その公園の西には、梅小路蒸気機関車館があるらしい。「セカンドハウス喫茶店」を出て、ひたすら七条通りを西に進む。レジのポスターにあった「線路の円形イラスト」が頭に焼きつき、少々迷っても、「絶対に探し当てるぞ」と思い、足早に進む。JRの高架が見えると、もうすぐだ。高架の手前を「下る」。300mも進むとその看板が見えた。気持ちが高鳴るのがわかる。入口正面には、旧二条駅舎を利用した資料展示館があり、入館記念券(400円)を買って入る。そこには、歴史的な交通文化遺産が置いてあるが、これは古すぎて、あまり興味は無かった。旧二条駅舎を抜けると、奥には巨大な扇型の車庫に機関車が並んで、顔を突き出すように展示されていた。こ、こ、ここだ、ついに見つけた。ここには、日本を代表する蒸気機関車16形式18両が保存されている。その、扇型車庫に置かれた機関車の下からは線路が伸びて、円形の「転車台」に繋がっている。 これが、幼い時に遊んだ「おもちゃの転車台」の本物になるのか。実物も、ほぼ同じ構造なのだ。案外理屈どおりの簡単な仕掛けに驚いてしまった。

 今、蒸気機関車の基地のほぼ中央にいて、この「ぽぉーー、ぽぉー、ぽぉーぅー」という大音量に少し緊張気味である。大脳までも揺さぶられそうな大音量は、心の奥深くまで染み込んでいく。しばらく汽笛に身を任せていると、なぜか不安と哀愁が交錯し、「今、これが現実」か、あるいは、ひょっとして「幼い時の事なのか」分からなくなってしまった。行ったり来たりとでも言うのであろうか、このような状態は、滅多に起こらないが、気持ちの悪い状態だ。円形の「転車台」に恐る恐る近づき、しゃがみこんで線路に触れてみる。この錆びた古いレールは、間違いなく現実のようだ。幻ではない。それとなく心の落ち着きを取り戻し始めたとき、「あっ、そんなこと」と、湧き上がった記憶を理解し始めていた。

 15~16歳ぐらいまで、時たま蒸気機関車が短めの客車を引いて走っていたので、よく乗った。煙草と煤煙のこびりついた匂いの車内で、友達と騒いだものだ。それも懐かしい思い出だが、しかし、こんな錯乱を感じたのは、幼いときの「転車台」への執着心からか。その頃の汽車の絵本には必ず、蒸気機関車がこの円形の「転車台」に乗って回転している様子が描かれていて、その構造がいったいどうなっているのか、幼心にとても知りたかったのである。今、50年の時を過ぎて始めて実物と出会えて感無量である。

 記憶は、広島駅での出来事をすでに鮮明に再現していた。・・・・「ねえさん、乗せてもらおうや」「こんなもんに乗れるんかねー、でも、これに乗せてもらわんと今日は帰れんなぁー」、「ええから、あんた先に乗せてもらいんさいや」 と姉から言われ母は、私の両脇腹を持ち、高く差し出して、おじさんに手渡し貨物車に乗せた。私は、その薄暗い車内と何故か不安で「うじうじ」し始めていた。後から従弟も乗ってきた。同時に、大きな汽笛が何度か鳴り響き、しばらくすると、列車が「ガタン」と揺れ始めた。貨物車のおじさんたちは慌てて手をさし伸べ、母と姉を引っぱり上げようとしたが、二人は動き出したことに戸惑い、体が上手く動かず、ホームに置き去りになってしまった。私も、従弟も、「ぽぉーー、ぼぉー」と鳴り続ける大きな汽笛と、「カタン、カタン、・・カタン、カタン」と揺れ始めた暗い車内で、母がいないのに恐れ大泣だった。「海田市で降ろすけーのー」と、おじさんは後ろ向きに体を乗り出し、二人に向かって叫んでいた。そんな情景が何度も何度も、思い出されたのである。・・・・・おそらく4歳ぐらい、昭和32年頃のことである。

 古い記憶が蘇るときは、どことなく怖さが襲ってくる。その時の感情が先に蘇るのであろうか、京都には、「自分の過去と行き来が出来る場所がある」という。ここも、その1つだったのかもしれない。
 今日は、蒸気機関車の4枚分割写真になる。白黒部分を眺めながら少しだけ過去に迷い込んでもらいたい。左からF100fd の白黒、カラー、FX500のカラー、白黒。 (初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと) このシリーズはこちら
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2009/02/10

京都7

 とんかつ一番を出て、大宮通りを「上がる」。大宮七条の交差点(バス停は七条大宮の表記)を渡り、右手に龍谷大学、西本願寺の塀沿いを眺めながら、「立派な造りだ」と関心しながら、しばらく続く。日も暮れ始め、冷たい風がダウンの隙間から押寄せる。指先も凍えるように冷たくなってきた。なんとなく心細くなり、西本願寺の北塀へ「東入る」。ここは、あの東本願寺の壁(画像比較16)を撮った「花屋町通り」の先になる。 そこを通り抜けて堀川通りに出ると、ここも東本願寺の場合と同じように大きな道路が西本願寺の一角を避けるように走っている。

 お寺の鐘が「ごーん」と鳴り始め、観光客が沢山出てくる門があった。門の前はタクシーが待ちうけ、客を乗せては次から次へと走り去る。寒々と近づいてみると、西本願寺の「阿弥陀堂門」である。そう、ここで「オレンジ色に輝く木札」を見てしまったのである。それに魅了されるように、シャッタを切ったのだ(その画像は続デジタルカメラ17の画像比較15 http://archivetec.blogspot.com/2009/01/17.html)。 話が、ずっと戻ってしまうが、これは2つの目的を備えた画像と言うことになる。 思い出せなければ、再度そちらを見ていただくとして、西本願寺は、どうやら私にも係わり合いがあることを発見してしまったのだ。 また、余談というか私事になるが、幼い頃に祖母が「南無阿弥陀仏」と手を合わせる姿を度々見た事がある。今、思い起こしてみると、これは、祖母がわが身を振り返り、念仏を唱え、阿弥陀如来に感謝をしている様子だったのだろう。なぜなら、悲しい事があっても、嬉しい事があっても、様々な場面で、仏壇の前に行き、手を合わせる様子を見ていたからである。時には、私をひざの上に乗せ、手を合わせて感謝するようにと指導までしてくれたのだ。そうか、祖母の教えは、ここからきていたのか。

 人は、誰かに見守ってもらい、生きていたいのである。自分に、両親がいる間は、何かと心の支えにはなるが、おっと、もちろん反発もあるだろう、その反発も心の支えである。しかし、両親が浄土に旅立つ頃になると、人は、より様々な難しい課題に振り回され、さらに、その極限状態にまで追い詰められることもある。そんな時、迷いが生じたり、自己を見失ったり、苦しみに脅える。あるいは、自分自身の考えの貧弱さに失望することもあるだろう。幼い時、良い事をして「誉められ」、悪い事をして「叱られ」、ある意味で、人の道というものを両親から教わる。そして、両親が亡くなった後も、困ったとき、誰か人生の指針となるような「心の支え」がほしいと願っているのである。そのくらい、人には煩悩と言う「欲やわがまま、憎しみ」があり、表面化する事がある。そこで、大きな間違いを犯さず、正しい道に導いてもらい、納得してより良い人生を末到したいのである。 さらに、歳を重ねると、ゆくゆく、浄土でも「良い仏」になりたいと願うのである。 つまり、一言で言えば、人は誰しも「自分の歩む道を教えてもらいたい」のである。

 親鸞聖人は、様々な煩悩を「阿弥陀如来」の本願力によって説かれたのである。その説法を拝聴し、それを人生の教訓となし、実践 (=念仏を称えることを日々心がけ、阿弥陀如来に感謝し、常に自己を反省する)すれば、「阿弥陀如来」は全ての苦悩から我々を「お救いになる」とも説かれている。そして、多くの人達がその教えを守り、「南無阿弥陀仏」と唱えながら、煩悩を慎み、心豊かに生活してきたようだ。祖母も、その1人だったに違いない。 最近は「親鸞聖人」を題材にした書籍も多く出版されている。興味のある時にこそ、教えを紐解けばよい、これも、自分に対する恒久的な福祉作業だと思う。ただ、安易に解答本を見てはならない。現代社会では、課題を解決する精神力も必要だし、やや強引さも役に立つ時がある。

 話を戻そう、翌朝も再び訪れ、あの木札を見ても、光り輝く文字は、黒い墨に変わっていた。阿弥陀堂門をくぐり、阿弥陀堂の内部に入ってみる。だだっ広い仏前では、既に何人かが集い、阿弥陀如来像に向かい手を合わせ「南無阿弥陀仏」を唱えている。私も、つい雰囲気に巻き込まれ、立ち去るわけにも行かず、昔からの信仰者かのような顔をして、年配の人達に紛れ、祖母を思い出しながら手を合わせる。それでも、その阿弥陀如来像は威厳を放ち、そんな私を見透かしながらも、優しく微笑んでいるかのようだった。そこも、「ありがたい」。 外に出ると、日差しは格別に暖かく眩しかった。 目を細め、この阿弥陀堂、御影堂の屋根を見上げながら、傾斜の曲線に見とれ、しばらく眺める。気が付くと、御影堂は3月末まで工事中のようだ。工事が終わってから、再び訪れてみたい。それまでに、何らかの反省修行が必要なのだろうか。

 西本願寺を出て七条通りに向かって歩きだし、七条堀川の交差点を「東入る」。七条通りを烏丸方面に歩くと西洞院通りと交差するが、その手前にある、「銀行のような堅牢な建物の喫茶店」を見つけたので、一息入れることにした。 内部に入ると、都会を思わせるカジュアルな雰囲気と若者で溢れていた。珈琲もケーキも東京より随分安価である。何故か、若者達のかん高い声で、現在に戻ったという安心感と言うか、それも妙に心が休まる。吉祥寺、御茶ノ水あたりと変わらない若い活力を感じる雰囲気だ。

 今日は、ここを紹介するが、お会計時レジで梅小路公園にある「蒸気機関車館」のポスターを見たので、また戻る感じだが、午後から行ってみることにする(次回)。 では、先にこちら。
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2009/02/06

京都6

 東寺から梅小路通りへ帰る途中、遅いお昼を食べたいと思い、来た道を戻りながら思い出す。確かこの先の一角に「とんかつ1番」というお店がある筈だ。大工町にあり、昭和35年創業の、「安くて、早くて、美味い」と評判で、どういうわけか、クリームコロッケは遠くからも食べに来ると書いてあった。それでも、「1番」というのが気になって覚えていたのだ。大工町は全国各地に散在して残っているが、京都の大工町は広い。梅小路公園に近いらしいので、大工町の西側だ。早速、探してみることにする。

 また、少し余談になるが、京都は隅々まで格子状の道路なので見通しも良い。しかも、細部も直感的で分かりやすい。たとえば、通りから→上がる、下がる、東入る、西入る、という表記が使われていて、道路からどちらへ行けばよいか、すぐに分かる。因みに、天皇のいらした御所の方向が「上がる」である。しかも、「下る」は縁起が悪いので、あまり使われていない。ついでに、建物等は、御所からみて右左が決まる。だから東寺は左寺である。

 七条大宮交差点の1本手前を「東入る」と、人が店を覗き込むようにしていたのですぐに分かった。ここだ。周囲は、静まり返った住宅街である。店に入ると、ゆったりとした4人掛けのソファーとテーブルが3組、カウンターは5人は並べるかな?と言う程度で、15人も入れば一杯になりそうな、まさに「昭和の食堂」そのままである。もっとも、昭和35年というと私が7歳、丁度小学一年生の頃に創業したお店ということになる。このような光景は、初めて入ってもなぜか、郷愁を感じさせ、どこか懐かしい。誰でも昔がよぎる。一寸暗めの照明に、細かく区切られた磨りガラスの向こうから、光が漏れる明るさは、どういうわけか、幼い頃「通っていた病院」の食堂の窓に似ていて、古いが磨きこまれ、清潔感が漂う。そんなはずもない「蒸気機関車の汽笛」が聞こえるのは、記憶の瞑想からなのか。ほんの僅かな時間だが、昔に来たような気がする。でも空腹のせいか、無意識にメニューを開きながら目をやると、何だか「美味しそうじゃないか」と体が反応してしまった。食事を「一番」美味しくいただくコツは、やはり腹を空かせる事なのだ。

 とりあえず、一番の「とんかつ」を注文する。御飯と味噌汁をつけてもらい、計1050円である。少し前に入った家族連れ3人は、わざわざ「宝塚」から来たようだ。な、な、なんと、「ソースカツ丼(650円)」という、メニューに無いものを頼んでいる。そうか、そんなものがあったのか。ソースカツ丼は「福井の名物」だが、京都ではどのように細工がなされているのであろうか。

 東京下町あたりのとんかつ屋では、かつの衣がでかい、キャベツが山盛り、「ソースはそれね、甘いのと辛いのがあるから」、味噌汁は、具はしじみで朝から作ってあり、ちょっとしょっぱく、味噌の匂いがする、さっぱりした感じだ。これらはあくまで添え物であって、カツの大きさによって満腹感を与えることに主力が注がれている。しかし、この店のは、とんかつ自体は、ごくごく普通だがソースが違う。最初からとんかつに敷いてあり、これが、なかなか手の込んだお味で、ベースはビーフとフルーツ系を一緒に煮込んで醸造した自家製だ。僅かな酸味も無く、この味は老舗の風格を感じさせる洗練されたものである。普通のとんかつが、上品なとんかつに仕上がっているのだ。また、「ほーっ」と言った感じである。味噌汁もまた、料亭で出されるようなお味である。一寸濃い目だが味わい深いく、赤出しのような癖も無い。これら1品ごと、下ごしらえに手間隙をかけ、吟味した「とんかつ定食」になっている。まさに、「お主、この違いが分かるか」と問いかけられているようだ。

 このような、こだわりは普通ではない。これが、京都の職人流儀というのか。恐らく、彼らは、僅かな素材を大切にして、同じものでも、どのように調理したら美味しくいただけるか、常に工夫を凝らして競っているのであろう。日本海で獲れた鱈を干して棒状にし、乾燥したものを、叩いて柔らかくしてから煮付ける。そんな話を聞いた事があるが、食材入手と調理法の歴史的背景は、土地柄かもしれないが、このような「こだわりと手間」が無ければ美味しくないという、うるさい客人が多い事で、この技巧的な食文化が守られているようだ。 では、こちら。
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2009/02/03

京都5

  古い建築物に、昔の人の「知恵を学び心意気を感じる」。その1つとしてここ数年脚光を浴びた、耐震構造の象徴として知られる東寺の五重塔を見に行くことにする。京都駅のバスターミナルから西方向に向かう。目標地点を例の格子で考えると、「九条大宮」である。駅前の京都郵便局の前を通り、ローソンを左へ曲がり、ひたすらますっぐ進む。歩道橋まで来たら、左へ曲がりJRの線路に向かう。線路際の橋を渡り、線路に沿ってまっすぐ歩く。ここは、梅小路通りというらしい。左には五重塔が見える。あそこだ。このまま先に進み、左に折れれば着きそうだ。予想通り、広い通り(大宮通り)に出る。車は、JR線路を越える陸橋だが、人はJR降下を抜ける。大宮通りを200m程度南下すると、そこはもう東寺東門である。ここまで、駅からおおよそ1kmである。

 東寺を守るように門前に交番と消防署があり、この寺の重要性を物語っている。慶賀門を入ると左手に堀で囲まれた宝蔵がある。「ほー」と言った感じである。ここも、重要文化財、国宝を数多く抱え、当然「世界遺産」に登録されている。それにしても、西本願寺より西にあるのに、なぜ東寺というのだろうか、いわく因縁がありそうだ、と疑問を持ちながら拝観受付に行く。拝観料を払いながら聞いてみた。坊主は、「羅城門を挟んでさらに西側に西寺と言うのがあった」と、パンフレットを出しながら丁寧に説明してくれた。ああ、羅生門、あの芥川龍之介の・・・、いえ、羅城門です。彼は身を乗り出し、パンフレットを開き、ここに書いてありますと指差してくれた。

 その部分を要約すると、「天皇が平安京に都を遷した時に羅城門の東西にそれぞれ大寺を置いた。現在の京都は御所を初めとして大部分が東へずれているが、東寺は元の場所にそのまま残っており、一級史跡にも指定されている。東寺は、左寺とも言われ、本格的に活動を開始したのは、弘法大師の造営以降・・・」とある。また、ついでに、なんだか「ありがたそうな言葉」をみつけたので、続けると、東寺は「アショーカ王依来の伝統に従い、仏法によって国の平和が護られ、その光が世界の隅々までいきわたるように、そして、それぞれの思想が、共に侵されず共存してゆく原理を見出し伝え、共々に力をあわせ実現されていくように、との弘法大師の願いが込められている」 とある。

 弘法大師は、なんとも規模のでかい崇高なる理念をお持ちだったようだ。ここにある金色に輝く数多くの仏像だけが「遺産」ではない。それは、我々1人1人に分け与えられる、この「願い」であり、その「願いが込められた仏像」を通して、それを都度考え、行動し、継承してゆくことなのだ。・・・と、いつもと違い、妙に素直になり、罰が当たるかも知れないが、「こういう、おっさん好きだなぁ」と思い五重塔に向かう。

 五重塔は高さ55m。現在の建物は1644年に再建されたもの。最初は883年竣工、1055年、1270年、1567年、1635年と4度も焼亡されている。現在は5代目。これが、門の前に消防署がある背景なのか。この塔は、各層ごとに、軸部、組み物、軒などを組み合わせ、さらに、それを最上部まで繰り返す、積み上げ構造になっている。各木材も切り組のみで、接合部が結合されない「柔ら構造」というらしい。大地が揺れる地震には、この接合部がずれながら上層へ伝わってゆくのである。上下の層は、互いに逆の方向に動き、振動を吸収する。この構造の縮小版は、その後、様々な社寺仏閣にも適用されている。また、ここの最大の特徴は、各層と独立した中心部に、最上層部まで貫かれた「心柱」があり、これが、各層と連携し正立する復元力となって機能することである。この構造によって、破壊から塔身を守ってきたのである。しかし、木材の自然乾燥による伸縮で、各層は自由に伸縮するが、独立した心柱だけは、そうならず、後に50cm程度堀下げられたそうだ。ただ、最上層まで貫く心柱を囲む空間は、構造からして火災時には煙突として機能し、瞬く間に焼亡してしまったのではないだろうか。歴史が物語っているとおり、実物を眺めることで、火災には極めて弱いことが理解できた。それにしても、凄まじい数の複雑に組み上げられた木材と、それを4度も復元できる知恵に驚くばかりだが、一本筋の通った「心柱」と、柔軟に対応する各層の連携に、何だか宮大工の「夢を実現する心意気」を垣間見るようだ。隣にいる外国人観光客には、どのように写ったのだろうか。こいつら、何でも「ワンダフル」で済ませられるのか。

 今日は、白黒の「明暗」のあえて苦手な、暗部のガンマ特性が顕著に現れる画像比較をした。暗闇の中で「素晴らしい芸術作品」を見た後なので、こちらは、ばっさり切捨て御免。このシリーズはこちら。 (初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)
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