2010/10/29

ハロウィン

いわゆる、イギリス、アイルランドやアメリカなど、白人主体国家と考えられているアングロサクソンの、カトリック系の収穫感謝祭をハロウインという。日本で言うところの、お盆と秋のお祭りを一緒にしたようなお祝い行事で、この時期は、ここ数年来、国内でもハロウインに関連するグッズが店頭を飾っている。日本人は、昔から商売となれば何でも外枠で取り扱う傾向にあるが、ハロウインの宗教的な背景やそのお国柄、民族主義などを知った上で取り扱うのが望ましい。もちろん、日本国内には宗教上の紛争問題はないが、基本的に他宗教の行事を面白半分で取り扱うことは、お勧めできることではない。

  人類は、太古の昔から目に見えない「大きな力が存在」していることを信じてきた。その人の手が及ばないくらい大きな自然の力は、神の支配と考えて豊作は神の恵みとし、災害は神の怒りとして崇めて来た。毎年10月31日には神に感謝し、来年も豊作であるようにと願う、感謝と願いを神に伝える大切さも、後世に継承してきたのである。そして、人の力の未熟さも謙虚に受け止めるようにと戒めたといえる。その考え方は、何も自然を相手にした農産業だけのことではない。我々も、今年は、健康に恵まれていい仕事が出来たので、来年も頑張ります。と感謝し、願いを込めて祈り、今日、そして明日も精一杯頑張らなければならない。そのためにも、頑張りの邪魔をされないように、自分の身の回りに寄ってきそうな悪魔を追い払っておく必要がある。悪魔は、いつでも何処でも身近に存在し、気が緩みかけた瞬間 「人を悪への衝動」へ誘い込む。そんな気分で「魔が差さない」よう注意をしなければならない。

 そこで、まずシンボルともいえる、このハロウインのいくつかのグッズと魔除けを購入することになる。日本人は昔から「本質よりも、形から真似る」のが得意とされており、まずは、子供達は、普通の八百屋などでは見かけないオレンジ色のカボチャをくりぬき、刻み目を入れ内側からろうそくで照らす。カボチャ(最もハロウィンらしい対象)を入手できなければ、プラスティック製を購入すればよい。一般的に、ハロウィンを祝う家庭では、怖い顔や滑稽な顔を作り、悪魔を怖がらせて追い払う習慣があるので、同じ様に真似て製作し、部屋を行きかう廊下や階段、窓際などに配置する。次に、それらしい美味しい物を用意しなければならない。お母さんの手作りケーキやお菓子でも良いが、KALDI のお店など、カボチャ風のランタンを販売しているお店には、ハロウイン用のお菓子類も用意されているので、一緒に購入してくると良い。例として、PDF写真の中にある人形型やボール型のチョコレートのほかに、ポップコーン、クッキー、ビスケット、ケーキ、キャンディー類などがある。

 そのカボチャをくりぬいた形のシンボルは、様々に工夫を凝らした商品が販売されている。もともと、これは「ジャックが悪魔と取引をして得た、火の魂で作られたランタン」なので、灯がともる構造になっているが、今日は、上の写真の「シンキング ジャックオーランタン」(単三電池3個必要)を見ていただく。彼は今静かに眠っているが、前を人が通ったり、ジャックの顔に手をかざしたりすると、それに反応してジャックの目と口が開きライトが光る。同時に「HAPPY HALLOWEEN」など、いろいろの言葉を、まばたきをしながらしゃべり、大変滑稽で面白い。わいわい、がやがやと騒がしくても声が通るように、大きな声でしゃべる。どちらかと言えば、静かにハロウインを楽しむ方には不向きである。
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補足 面白半分 面白そうな気分だけで取り扱うこと。真剣さに欠けること。

補足 魔が差す:悪魔が心や体に入り、一瞬の判断や行動を誤ること。取り返しの付かない最悪の事が多い。それは、あたかもブレーキとアクセルを踏み間違えた時の感覚だと言う。また、考えの浅い出来心も、この範囲の行動として扱われる。このような事を起こさないように、平素から行動の先々を深く考えて、たとえ悪戯と思っても誤解を与えないように、いつも注意をしておきたい。

2010/10/26

昭和の流行歌8

 今日も、昭和の流行歌を代表する2枚のCDを紹介したい。1つめのCDは、クレージーキャッツのベスト版で、ディスク・レコードをCD化した製品になる。音声は、当時の音響技術を反映してモノとステレオの混在となっており、原版はかなり古いことが分かる。恐らく1960年代の前半頃と思われる。さて、いつの時代も、世の中を 「斜めから見る」、「ひねって眺める」とか、「口にしにくい本音」で迫る時に、一寸だけ面白いと感じる側面を垣間見ることができる。 普段は気が付かないことでも、クレイジーキャッツの歌詞にあるような際どい人間関係描写は、より具体的でシビアな経済関係の上に成り立つとして捉えることが出来るし、その延長線上で社内のサラリーマン観を戒めてもいる。さらに、全体を通して、この右肩上がりの先にある、繁栄による壮大なロマンを感じるのである。当時の激しい競争は、サラリーマンと言えども「社内で営業をする為に出かけているのと同じ」であった。そんな切実な気分を反映しているせいか、空前のヒットに繋がったと推察される。一方、現代のサラリーマンは、社内で「給料が同じなので、無駄を省き、できるだけ働かない方が、省エネでお得」になると考えるらしいので、今では流行らない。まさに時代が変わったといえよう。

 このCDには、そんな右肩上がり経済のダイナミズムを感じさせる曲ばかりが集められている。これらの曲がヒットした後、その曲にふさわしい映画(東宝クレージー映画)も作られてきた。植木 等さんがサラリーマン役で、歌詞のイメージをそのまま演じるといった「笑いが止まらないくらい楽しく、愉快で、勇気の沸いて来る映画」なのである。かつては、お正月の深夜番組で5年おきぐらいに何度かシリーズで登場していたが、最近は見かけなくなってしまった。何度見ても、やっぱり笑えて楽しいが、身近なことに置き換えてみた時、自分には、とても真似出来ないが、それを簡単に出来たら人生がどれだけ楽しいか、と思ったサラリーマンは多かったに違いない。それによって、多くの若者が勇気付けられた。

 2枚目は、テレサ・テンさんのベスト版である。台湾から来た女性歌手はみなさん個性的であったものの、テレサ・テン(鄧麗君、デン・リージュン)さんは、どのようなジャンルの曲でも綺麗に歌う人であった。台湾のみならず、中国、東南アジアでアジアの歌姫として君臨し、絶大な人気を誇り、レコード売り上げ枚数で群を抜いた実績を残している。ジュディーオングさんも、欧陽菲菲さんも同じだが、歌詩の中の英語部分の発音が優れているので、そこで外人さんである事を思い出すことがあったが、彼女達は日本語の歌詞を「心をこもめて丁寧」に歌っている(そうでないチャンもいた)。ここが最大の魅力だったのである。しっかりした音程感はもとより、声質も魅力ではあるが、丁寧に気持ちを込めて歌うことによって、歌詞の内容がより哀愁を帯びて聴こえ、片言のように聞こえてくる部分には一種の可憐さを伴っていたのである。

 作曲家:三木たかしさんと、作詞家:荒木とよひさ さんの名コンビで作られた「つぐない、愛人、涙の条件、時の流れに身を任せ、分かれの予感」は、ご本人のヒット曲を収めたものだが、それ以外の曲は、真夏の果実(作詞作曲:桑田佳祐)とか 人生色々(作曲:浜口庫之助)などのカバーが収録されており、彼女の歌唱力の幅の広さを実感する事が出来る。あと、例のヒット曲「空港」は、作曲:猪俣公章さんと 作詞:山上路夫さんの作品。さらに、おまけで、李香蘭(本名旧姓 山口淑子)が歌った「何日君再来」の日本語バージョンが収められて、新旧入り乱れて広いファン層を意識したCDになっている。テレサ・テンさんは亡くなられて既に15年経っており、CDの種類も数量も少なくなっている。1枚選ぶとしたら、やはり「何日君再来」の収められているこちらがよい。
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 補足 先月、クレージーキャッツのメンバーで、「ガチョーン」で一世を風靡した谷啓さんが亡くなられた。犬塚 弘さんは、置いていかれたような気持ちと語っておられた。ご冥福を祈りたい。

 補足 モノ:モノフォニックの略で、モノーラルの略ではない。対比する言葉が違い、モノフォニックに対してステレオフォニック、モノーラルに対してバイノーラルとなる。モノーラルとステレオを対比して使うのは間違いである。

2010/10/22

逸脱する病院ビジネス

  リーマンショックの3年ぐらい前だったと思うが、病院の経営状態は急に悪くなっていた。医療費節減の為の薬価引き下げで、病院の倒産が増えていたのである。その他にも整理統合、合併、閉鎖、経営交代などで新聞を賑わしていた時期で、それは、日本の医療がみしみしと音を発てて崩壊にむかっていく予兆でもあった。病院の半数以上が赤字になったと言われ、我々納入業者に対して、「まけてくれ、まけてくれ」と頭を下げて頼み込む「用度課の連中の姿」を思い出す。今、11部屋あるオペ室の内5室使えない状態だとか、オペ用の手袋や薬剤が足りなくなっているとか、如何に苦しい状況か(オペ室の状況は誰でも心配する)を言い訳のように説明をして、費用を削ってほしいと頼むのである。いくら頼まれても、俺達には関係ない話だと、怒鳴り返すしかなかった。

  現場では、医者がメーカーからバックリベートを貰って私服を肥やしている。勿論そうでない医者もいる。例えば、体に埋め込む医療用具の会社から頼まれると、医者は、体に埋め込む必要のない人へにも、「いや、できれば埋め込んでおいた方が安心ですよ」と勧めるわけである。本人は出来れば避けたいが、回りの家族は無責任にも、先生のおっしゃるとおりにするよう勧めたりする。体へ埋め込む為には、手術も必要だし、一度埋め込むと、電池交換とかリプレースとか一生その会社の製品を使うことになる。この類は、病院も儲かり、医者個人もポッポできる。加えて、病院へ将来継続的に通わざる終えないように治療することは、病院経営の安定化を図るとして重要視されている。そういうのを20年ぐらい、まじかに見てくると、病院にお世話になるときは、必ず知り合いの先生に紹介してもらおうと思うわけである。

 医者は、知合いの先生の紹介状を持った患者や、医薬品や医療用具を扱う業者の患者を、一般外来患者とは別の扱いをする。医者にとっては、同業者もしくは関係者は身近な存在なので、神経を使うのである。一方で、一般外来はその限りではない。つまり、患者は診療される前から選別されランキングが付けられる。ランキングの上位の患者は何かと神経を注がれるが、そうでない場合は、金儲けの道具にされる可能性もある。そして、それによって一般患者は泣き寝入りをせざるおえない事態になることも少なくない。しかし、本来、医者は悪い噂が広がることを極力嫌う。経歴に傷が付くとか、学会での立場もあるので、神経を尖らせる。ところが、絶対に勝てる相手には強く出る。そういう歴史的によどんだ空気の中で、きめ細かく医者としての「個人のソロバンを弾いて採算を計算」して診療は行われていく。

 病院の中で行われる、主たる医療行為は、全て診療報酬制度によって点数に変換され、国に請求されている。それは、診療品質の違いと点数の多い少ないは因果関係はない。つまり、経験豊かな先生も、駆け出しの先生も、ちゃんと説明をしてくれる先生も、知らん振りをする先生も、かかる診療報酬は一定なのである。さらにそれを対極側まで推し進めて考えれば、独占的に診療点数加算も可能なのである。患者は一人でも、担当医として「自信を持って多くの病名」をつけさえすれば、いくらでも検査はできるし、手術も出来る。それに伴い点数はどんどん上がることになる。つまり、まじめに患者の為を考えて、控えめで適正な診療に抑えたり、最小限度の診療で済ませるよう工夫をしてきた良心的な病院ほど、早く倒産したとか、あるいは倒産する可能性があったといえるのだ。病院の経営方針が変わると言うことは、診療報酬の解釈を調整するという事でもある。

  一方、視点を変えると、最近は、クリ二カルパス通りに治療を行えば、最も効率のよい治療が行えるとして、それに全診療科をあげて取り組む病院が多い。赤字を抜け出すためには、必らず乗り越えなければ成らない条件でもある。簡単に言えば、「標準化された治療システムを構築し、それにしたがって画一的な仕事にする。特別に手間をかけたり、余計なことはしない」治療で、診療保険点数にないことは一切やらない。それが嫌なら他を当たるしかない。まあ、「所詮他人の体なので、統一的にやるべき事をやって、治ればよし、治らなければしょうがない」という考え方になる。これも、裏を返せば、「結局、我々被保険者を含めた社会全体で望んでいた」ことなのである。口先ではあくまで立派な事を言いつつ、お金を出ししぶるからである。その社会的背景から、病院は、その考えに沿った方向へ変貌を遂げようとしてきた。その中身は、不払い切捨て、病弱者切捨て、不治病切捨て、と、ごく自然で、一般的な企業の生産システム並みの仕組みを構築するようになってきたのである。今後は、さらにシビアになると考えられる。

 人は、元気なうちは医療費を無駄なお金のように考えているが、大病をしたら、もっと丁寧に治療をして欲しいと思うに違いない。今まで病気などをした事がない人は、昔の概念で病院を訪れて、身を任せることは、少しためらった方がよい。少なくとも、入院をする前には、それなりに病院や医者を調べておくべきである。ま、認識の甘さを捨ててもらうために、今日は、医療業界関連としては、珍しくまともで、それらをよく取材してあると思える本を見つけた。このような取材を通して、業界の内部を垣間見るのも、氷山の一角とはいえ参考になると思う。
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補足 理論派で学者タイプの先生もいれば、手術の大好きな先生もいる。普段患者と話すことは時間の無駄という先生もいるし、仕事熱心な先生もいる。また、リスクを避けたがる先生もいて、これらはある程度、端から見ていても判断はできる。しかし、治せる先生と治せない先生の区別は難しい。

2010/10/19

鬼太郎茶屋

   
    「ゲゲゲの女房」という朝の連続テレビ小説の影響はとても大きく、我々のような古い世代の妖怪ファンをも懐かしがらせ、さらに近頃は子供達からも絶大な人気で、ついつい調布までお出掛けになる家族連れも多い。調布駅前から天神通りには、その妖怪たちのモニュメントが待ちうけ、監視の目を光らせている。また、調布駅と布田駅に程近い旧甲州街道沿いに、この妖怪たちのグッズを販売したり、資料を公開している「調布市観光案内所ぬくもりステーション」があり、一通り妖怪たちの履歴や得意技を知ることが出来る。妖怪たちとは、ゲゲゲの鬼太郎を筆頭に、水木しげるさんの表現する妖怪の世界のキャスティング達である。それぞれ特徴があって、適度に個性的で怖いが、やっぱり懐かしいと思えるような、幾つになってもそこには微妙な距離感がある。

 この、我々と妖怪たちの間にある、磁石の同極に作用するような微妙な距離感こそが、水木しげるさんの表現する世界なのである。日本昔話に出てくるような妖怪は、徹底して分かりやすい悪柄で、子供を食べてしまったり、人を騙したりと、何処までもその距離を広げてゆきたい気分になるが、ここに登場する鬼太郎率いる妖怪たちは、知的で正義感が強く、義理人情にも厚く、みんなが力を合わせて社会をよくしようとする優れた妖怪たちなのである。もちろん、知的な妖怪なので悪戯は大好きである。しかし、妖怪なのに命がけ(死なない)で人を救うことに挑むこともある。そんな時、ぐぐっと彼等に近づきたいと思うわけである。

  今日紹介する鬼太郎茶屋は、この妖怪たちにまつわるグッズを数多く採り揃えたお店であるが、妖怪たちと一緒に遊びほうけるエリアとして、子供達にとっては妖怪の館になる。どこまでも怪しげな外観と風貌で、深大寺の門前という場所にあって異色を放っている。昼間、多くの子供達は深大寺参拝をそっちのけで、妖怪グッズを求めてここにたむろし、その中で自然に妖怪と同化してしまう程、右を向いても妖怪、左を向いても妖怪、上を見上げても妖怪、隣の人も妖怪と、楽しい時間を過ごすのである。そんなこともあって、夜は、この深大寺周囲一帯の店舗には、誰一人として残っていないはずなのだが、この鬼太郎茶屋だけは、人がいなくなってから深夜にまで、妖怪たちが集まり「売上げ促進会議」が催される事がある(PDF写真参照)。

 お店には、島根県境港市の本社から提供される、島根県の独自の20世紀梨のソフトクリームや、大山(だいせん)白バラ牛乳のソフトクリーム(各350円で、とても美味しい!)に始まり、そのほか目玉のおやじまん(120円)、じゃころっけ(150円)、お土産には、下駄すごろく、目玉餅などもある。喫茶コーナーには、ぬり壁の味噌おでん(350円)、目玉オヤジの栗ぜんざい(500円)、目玉オヤジのクリームぜんざい(700円)、壁オーレゼリー(400円)、妖怪クリームあんみつ(500円)、砂かけ寒天(400円)、妖怪抹茶セット(500円)、一反もめんの茶屋サンデー(700円)など、ほとんど妖怪の愛称が付けられている奇怪な甘味品が揃っている。お父さん向けには、鬼太郎ビールなども用意されているから大丈夫だ。
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補足1 上の写真は、日中は高い位置(店頭前)から、この深大寺門前の道を監視している。鬼太郎と目玉オヤジは、妖怪達が人間に化けてバスから降りてきたりするところをすかさず見付けておき、悪戯をしようとするとすぐさま懲らしめるのである。

補足2 妖怪たちは、平素シャッターや壁の中に隠れているため、動き出すことは出来ないが、丑三つ時には開放されるので、抜け出して深大寺の周囲を歩き回る事が許されているという。

2010/10/15

松茸ごはん

 本来の「国産松茸」を使って作ると松茸御飯は高価なものになってしまう。また、炊き込み御飯の1つでしかない松茸御飯はそのコストを照らし合わせた時に、素直に庶民が美味しいと言えるものではなくなった。さらに、松茸は「採れたてが一番芳しく、2日が保存限度」と賞味期限は短い。それ以降は、どんどん品質が低下する。これを念頭に置いて、デパートで松茸の実物を眺めてもらいたい。そこで、それを手にする価値を見出すのは難しいと思う。つまり、店頭展示されている松茸は、今や「店の品格を誇示する」象徴であり、まれに、価値を見抜けない富裕層がふらっと買って帰るぐらいである。それでも、備長炭のひちりんに乗せてみると、最後の良い薫りが出る。そして、それを裂いて食べる。ま、視点を変えると、究極のダイエット食品でもある。形の悪い物はスライスして、御飯と、醤油、出し汁、日本酒などと一緒に炊き込んで、松茸御飯にする。それでも、相変わらず国産を使う限り「美味しさ対コスト」の関係は悪いままである。したがって、現代においては、松茸御飯としては、最初からアプローチ方法を考え直した方が良いことになる。
 
 またまた50年ぐらい前の話になるけれど、母の実家は材木屋だったので、多くの山を所有していた。その中に、いくつか松茸が取れる山があって、当時は、秋口になると親戚一同が集まり、その随分奥地にある山まで松茸狩りに行ったのである。年によっては、不作の山もあって、山を変えないといけない状況もあった。松茸は乾燥した落ち葉の下にいて、子供の私でもコツさえ覚えれば面白いように採れた。そして、その場でひちりんの火に焙って醤油を掛けていただくのである。この作法は、一番美味しい食べ方である。大人は、松茸の焼ける香ばしい薫りの中で、日本酒を呑んで騒いでいた。残った松茸は、木の箱2つ分ぐらいを持って帰り、近所に配ったり、夜は松茸御飯になったのである。当時私は、そのような松茸を使った料理を大して美味しいと思わなかった。

 それでは、なぜ、松茸が高額になってしまったのだろうか。まず、基本的に天然モノしかないからである。秋口のこの時期しか採れないし、松茸が生える山自体は元々少ないのである。さらに、人が分け入る事が難しいような山が多く、しかも、その年の天候や雨の量にも影響を受けると言われている。さらに、松茸の生えてくる場所を探して歩く労力を惜しまない、いわゆる「松茸採りの名人」が少なくなったことも挙げられる。今や、国内では、それ自体で儲けを出すことはおろか、採取を楽しみにすることすら難しいのである。つまり、山の土地柄を熟知していて、労力を惜しまず歩き回る割には、成果を出しにくいというのが現実である。この悪循環が松茸の商品化を先細りにして来たようだ。今やこのことは、山へ分け入る日本の名人のみならず、中国でも、カナダ、アメリカでも同じだと思われる。

 そこで、今日は「奥信濃の味麓庵」の松茸ごはんの素で、松茸御飯を作ってみることにしたい。本物をすぐに裂いて炊き込むのと違い、だしや醤油に漬け込んである薄い松茸のスライスを一緒に炊き込む。これで薫りと出し汁による僅かな松茸の薫りを楽しむのである。この松茸御飯の調理は、極めて簡単である。お米2合をといで、そこに本品を液ごと入れる(本品は、松茸のスライスを薄い醤油、調味料などに漬け込んだ状態でパックされている)。そして、本来の2合炊きの水加減まで水を加える。あとは、炊飯するだけである。出来上がったものは、お釜の中に少しおこげが出来て、なかなか美味しい。勿論、松茸も上品に薫るので楽しめると思う。勿論そのまま戴くのもよし、お弁当やおにぎりにも丁度良い加減である。また、本品自体は酒蒸し、土瓶蒸しの材料にもよいと書かれている。使われている松茸の産地は、製造元の長野ではなく中国と書いてあった。
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補足 国産の松茸が良いという人は多い。これは薫の良い、優れた松茸を採取できる人が多かった為だと言われている。また、松茸が採れるのは、あかまつの下が多いと言われている。輸入品は、必ずしもこの限りではない。中国産、カナダ産、アメリカ産には、それぞれ微妙に違いがある。国産と同じ物を見分けるために、DNA検査を使った識別法が用いられている。

2010/10/12

石榴(ザクロ)ジュース

 昔から「ほんまか?」と思うような話題が出る「ザクロ」である。こんなものが健康を気にする世代(以降:健康世代と略す)を騒がせてきたのかと思うと少し不思議に思える。そもそもザクロなんて幼い頃から親しんでいて、実家の裏の公園(二河公園)に何本か植えてあったのを思い出す。実が熟してくるこの季節になると、仲間と一緒にもいで(もぎ取って)食べた(トゲに注意)。自転車にまたがったままザクロを割って、種の周りにある果汁を吸引し、口に残った種を遠くまで飛ばす競争をするので、あたり一面ザクロの種だらけ。そして、ザクロは愉快な思い出になった。甘酸っぱい独特の味は、この時期しか食べられないし、今でこそザクロの社会的地位はそこそこ高いが、当時は、いちじく、柿やみかんと同様で庭で育てる果実として、決して珍しい物ではなかった。この背景にあったのは、やはり農業国日本の名残であり、食料自衛の一環であったと思われる。それは、畑がある農家だけの話に留まらず、猫の額ほどの都会の家の庭でもみかん、いちじく、ザクロや柿を植えていたのである。勿論、現在でもそのような習慣は残っている。また、都会の公衆公園でも同じ様に果実が実る木を植えている地域も多い。

 一方でザクロは、木材としての評価はすこぶる高かったようだ。床の間で花を活けながら母は、背後の私に自慢そうに「あんたあ、これはねえー、ええザクロの木よ」と声をかける。私は、「あの赤い粒粒の実が成るザクロ?」と興味のない話のような振り(もいで食べてることは極秘事項)をして聞くと、「ほうよねえ~」、続けて話を聞く 「何で、そがいなものを床の間に使うんね」、「そりゃー、硬うて、強いけんねぇ、えんよー」。・・・・ 母は材木屋の娘であった。 硬くて堅牢、磨けば艶が出るが、加工は難しいとされていたらしい。そんな普段の会話の中から、ザクロの木は強く、とても大きくなる木と承知していたのである。私の「ザクロ」の知識は、残念ながらこの小学生時代から全く変わっていない。

 さて、それでは、健康世代の人がザクロの何に魅かれたのであろうか?。それは、大まかに申し上げて2つある。1つは、ザクロには女性ホルモンのエストロゲンに似た成分を含んでいるということ。これは、不妊、更年期障害、外見の若さを保つ、などに効果があるとされ、女性には重要な食品になる可能性がある。もう1つは、前立腺肥大、前立腺癌に効果が認められたと言う話である。こちらは、50歳以上の男性には朗報といえそうだ。そのほか動脈硬化に効果があるとか、抗酸化作用も強いとか、中高年向けの健康食品的な話に言及しており、男女を問わず特に50歳以上の人達が興味を引くのに十分な内容である。しかし、それらが有能な研究者の報告から得た情報とするならば、もっと正確な情報になっていると思われる。例えば、どの種類のザクロで、実、皮、種など、どの部分で効果があったか、あるいは、どのような条件下で効能が認められたのかをもっと鮮明にするはずである。そういう意味で、今ひとつ根拠に不鮮明な部分が多く、全てにおいてにわかに信じ難たい側面を備えているのである。ザクロの効能に興味のある人は、ぜひ調査・研究して欲しいが、私としては、更年期障害でもないし、前立腺肥大でもないので、今日の取り扱いは、あの懐かしい味を口に含んでみたい欲求を実感したいと思っただけのことである。そこで、最近急激に人気が上がっている「ザクロ・ジュース」なるものを買ってきた(750円/本)。ためしに飲んでみることにしたい。

 どういうわけか、独特の酸味は無くなっていて、印象より甘かった。少し、甘すぎるかもしれない。だから、確かに懐かしい味だとは思えるが、さすがにジュースだけでは「ザクロ」と言う感じは希薄になる。強い酸味や歯ごたえも記憶の一部なのである。さて、今日のpdf 写真の「ザクロの枝」は、近所の農家で分けていただいたもの。昔から、近所に生け花に使う先生がいらして、この季節は「ザクロを専門に使うらしい」と話してくれた。まだ、実は若く小さいので食用には向かないが、記念写真のつもりでフレームに入れてみた。デパートや果物専門店では、もっと大きくて真っ赤な、あるいは、真っ黒なザクロが販売されている。そちらは美味そうだ。
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 補足1 ここで言う「健康世代」とは、健康にやや不安を持ち、何かと体に良いとされるものに執着する世代のこと。特に、まだまだいけると思っている50歳以上から、やや諦めムードの漂う65歳ぐらいまでの年齢で、体調が今ひとつという人達を指す。

 補足2 ザクロに関する臨床的な報告で、信頼できると思える記述は1つとして見つけられなかった。

2010/10/08

オーディオマニア12

  一雨ごとに涼しくなって、秋の夜長を満喫しながら、やっと読書に浸れるという人も少なくないと思う。それにしても、今年は暑すぎた。しかし、本物の読書好きの人達は、時間さえあれば、暑さや、寒さはあまり関係が無いようだ。人の興味というものは、いつもより数段に集中力を向上させ、周囲の環境などを排除して没頭してしまうのかもしれない。そんなに、面白い書物があれば教えてもらいたいが、その様な人々は、古くから書物を読みなれていて、その経験によって、幅広い知識と奥深い教養を重ねているため、読解力に優れ、何かにつけて素早くピンときたり、たっぷりと面白さを実感することが出来るのである。しかし、何を読んでも、あまり面白いと感じられない、私のようなイマジネーション不足の人は、読書並みの集中を得るには、かなり落ち着きを取り戻し、それなりの条件が揃わないと始められない時がある。

 そこで、何事にもすぐに集中できない人の為に、ゆるい読書をしながらバックグラウンドで流すのに最適な、JAZZアレンジで聴けるCDの紹介をしたい。これで徐々に、イマジネーションを高めてもらえばよい。少々余談になるが、以前に、このブログでも紹介した事があるけれど、近所に、「咲蘭房」というお店があって、土曜日はライブハウスで、平日は喫茶店、そうそう、しょうが焼きの美味しいお店として紹介した。そこのマスターがもう10年位前に、お店で鳴らしていたのを聴いた事があった。こんな田舎の喫茶店なのに、高級ホテルのラウンジへ来たみたいに、結構な音を出していて、妙に落ち着くではないか!と思ったのである。こういう音が豊かに周囲で鳴っていると、何処からとも無く気持ちに余裕が生まれ、平素より数段集中力が増したり、緊張がほぐれて疲れが取れたりと、自然体に戻ろうと力が働くことがある。今年のような暑い日が続いた後は、なおさら、体が思うようにならないこともある。そこで、このCDを聴き流しながら少しづつ集中力を高めてみたいと思ったのである。

 今回紹介する、この「JAZZアレンジ」で聴かせてくれる対象には、クラシックの名曲とJ-POPの名曲が豊富に取り揃えられていて、レコード屋さんでも「JAZZで聴く」というコーナーも用意されている。何故クラシックをJAZZで聴かなきゃいけないのかと、首をかしげる風潮もあるが、J-POPはJAZZで聴くのはなかなかご機嫌である。そこはそれ、30年位前の歌謡曲をそのまま鳴らすのは、かなり抵抗もあるし勇気がいる。やはり、俗っぽくてリアリティーがありすぎると思うのである。いや、たまには良いかもしれないけれど、そう度々できることでも無い。その点、アレンジされていると、ちょっとお洒落でネイティブな感じになってくるのである。ま、近所の迷惑も十分考慮しなければいけないということなのだ。

 そんなチョイスとして、今日は井上陽水の作品集「JAZZで聴く 少年時代」と松任谷由美の作品集「JAZZで聴く あの日にかえりたい」の2枚を選んで購入してきた。J-POPといえども、私に言わせれば歌謡曲そのものだが、JAZZ風にアレンジされると凄く聞き流しやすい感じになる。もっとも、いくらJAZZ風だからといって、パラゴンやランサー101などのJBLで聴くような音作りではない。どちらかといえば、モジュラーステレオでさりげなくバックグラウンドで鳴らし、読書するとか、会社から持ち帰った仕事を処理するとか、朝食のあと2度寝をするとか、そんな、気持ちよい時間を過ごすのに最適なのである。
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補足 「幅広い知識と奥深い教養を重ね、読解力に優れている」からといって、社会生活でもその能力を生かせるかといえば、そうでもないらしい。案外「筋書き通り」に行かない事が多いようだ。

2010/10/05

栗ごはん

  先日、近所の山へ栗拾いに出かけてきた。近所といっても多摩川の先に見える丘で、歩いて行ったら片道92分もかかってしまった。現場の栗の実は、既に半分以上が大地に落ちていて、その光景は一瞬、これが海中の「うに」ならどれほど嬉しいか、などと気持ちが交錯してしまった。栗の実も、「うに」も、どちらもその防御構造が堅牢だが、栗の実の茶色いイガイガは、見た目以上に両手に刺さり、痛さに閉口した。放射状にぎっしり並んだ栗の実を取り出そうとすると、これがまた案外難儀な作業である。手袋をしていてもイガイガはしっかり手に刺さるし、刺されてしまうとジンジン痛むようなので、その先端には、微量だが触ると痺れるような物質が存在しているかもしれない。時間を掛けてしまうとこちらが不利になる。ということで、そんなに数があっても無駄になるので、大きなものを選んで50個ばかし袋に詰めて持ち帰ってきた。

 さて、この「栗の実」の利用方法として、栗ごはんしか思いつかないが、既にイガイガに苦しめられていた私の手は、鬼皮剥きを拒否しているし、さらに渋皮の剥きも考えると、凄く長い道のりに感じられる。だからといって、捨てるわけにいかないので、ぼちぼち、準備を進めることにする。まず、お米は洗浄してザルに上げ水分を取る。栗の実は30分ぐらいお湯に掛けて鬼皮を柔らかくする。次に栗の実の底面に包丁を入れ切り落とし鬼皮をむく。 残った内側の渋皮もむく。やや小さめに半分ぐらいの大きさにする。あわせて40個ぐらい用意できたら、日本酒入りのお湯にかける。栗の実の甘いのがお好きな方は、ここで砂糖を加えると良い。アクを取りながら15分ぐらい加熱する。その後30分ぐらいそのまま漬けて置くと良い。 お米を炊飯器に入れ、通常通り適切に水を加え、栗の実をお米の上に載せ、ここでも30分ぐらい放置した後に「通常モード」で炊飯スイッチを入れる。炊き上がったら、よく混ぜて蒸らしてから器に盛る。好みで黒ごまを散らす。

 そんな、梨やぶどう狩りならともかく、栗拾いなんか出来る場所もないし、栗を採って来ても後々の加工にも手間が掛かるし、そこまでするのは面倒だという人達の為に、スーパー等の店頭には、凄く簡単に「栗ごはん」が出来る優れもののパックがある。もちろん今の季節だから、数社「栗ごはんの素」が並んでいるが、今日は、石井食品株式会社の炊き込みご飯の素「栗ごはん」(=米3合炊き)で作ってみた。これを使えば、自分の手で栗の実を加工するより、はるかに素早く出来上がる筈だ。

  石井食品の「栗ごはん」は、栗の色が鮮やかに仕上がるし、御飯もやや黄味がかかり色合いもよいのでPDFの写真はそちらを使用した。作り方も凄く簡単で、袋を開けると、シロップに漬かった剥き栗のパックと、炊き込む時に入れる調味液のパックの2つが現れ、シロップを捨てて栗だけをお米と一緒にして、次に調味液を上から加えて放置する。30~40分後に炊飯器のスイッチを入れる。それだけの簡単な作業である。出来あがりの栗ごはんの写真には、栗の木の枝も並べてみた。通常は、この緑のイガイガが、茶色に変化し自然に割れて、枝から大地へ落下する。栗好きの動物達は、この栗の実が美味しい事を良く知っていて、食べに来るらしい。こうやって、実物を手にしてみると、イガイガは花の付け根にある「そうほう」と呼ばれる部分が成長したものというのがうかがえる。
ではこちら
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2010/10/01

一枚流し水羊羹

 夏場の炎天下のトレーニング・コースは、先日紹介したFUJI FILMのフォト・ギャラリーの前を通って、杏林大学病院を抜け、三鷹の森 シブリ美術館を横目に、井の頭公園から吉祥寺に抜けるコースを使ってきた。もちろん休息のないウォーキングである。7~8月は、どうしても往復166分ぐらい掛かっていたが、9月中旬からは、暑さが少し遠のいたせいか往復144分以下で行けるようになった。涼しいと体力の消耗も随分抑えられるようで快適である。杏林大学病院を過ぎると吉祥寺までは「吉祥寺通り」を進む。慣れるとわき道などを探し、日増しに増える自転車から離れて歩きたい。

 ところで、新しいルートに挑戦すると、街並みのお店が気になったり、ルートに慣れると店の暖簾をくぐってみたくなる。それ自体も楽しみなのだ。いや、むしろ、新たなお店を探すためにトレーニングコースを開発していると言ってもよい。お洒落な喫茶店、腰の強い蕎麦屋、懐かしい味の洋食屋、大納言が活きてる和菓子店、生クリームに拘る洋菓子店、など店舗の雰囲気にも興味を魅かれれば覗いてみたくなるのである。最近は、何処もお客の数が少ないので、お食事処は準備時間が長くなっているし店じまいも早い。販売店は品物の数が少なかったりして、やや疲弊感が漂よう傾向がある。シャッターが下りているお店も多い。しかし、やはり外から見ても周囲が綺麗に整備されていたり、掃除や水撒きが行き届いていると、店内にも活気が漂っているようだ。

  今日は、少々季節を外してしまったかもしれないが(まだまだいける)、吉祥寺の御殿山にある和菓子のお店 俵屋さんの「一枚流し羊羹」を紹介したい。お店も一際目立つ存在で、間口は小さいけれど、ひっきりなしにお客が訪れる。綺麗な和菓子が所狭しと並んでいて、見ているだけで楽しい。初夏の頃、暑い時にはやはり「水羊羹」だよな、と思って1個買ってみたけれど、これが、大変美味しかった。口の中で溶ける舌触りが際立ち 「な、なるほど、瑞々しいとはこういうことか」 という認識を得たのである。いくら食感が素晴らしいと言っても、それに慣れてしまうと、感動も薄れてしまうので、1夏に3枚程度に抑えるのがよい。例えるとすれば 「本小豆で一番絞りの水羊羹」 といったところ(PDFの写真のもの)。体積の割には価格は1,050円とちと高いが、虎屋の水羊羹を買って帰るより価値があるし美味しい。

  俵屋さんは、安政二年(1855年)と155年も前から、この地で創業し続けた超老舗和菓子店のようだ。包装紙にも井の頭池やその周囲の風景が描かれていて、眺めているだけで安政二年に連れて行かれそうになる。品物は、産地最高の原材料を1つ1つ集め、全て伝統の技法を使った職人の手作りだそうで、店頭には技を凝らした品物の、季節の生菓子、和風ゼリー、栗蒸し羊羹、あずき羊羹、饅頭類、最中類、羽二重餅、大納言最中、甘納豆、など、定番中の定番が並んでいて、どれも本気で美味しそうなのである。少々余談になるが、和菓子屋も分業化が進んでいて、すでに自社であんこを製造しない和菓子屋も多い。ま、一流蕎麦屋に限って専門の製麺業者から蕎麦麺を購入しているのとよく似ている。それもあって、俵屋のお上は、暖簾の裏から「出来立てですよ」といって、まだ熱い大きな甘納豆を出してくれたりする。でも、あんこ好きの私には、お店に入った瞬間の匂いで、美味しい品を作っていることはわかっているのである。今回は、絶対お勧めの「一枚流しの水羊羹」を紹介するが、暑い時期にしっかり食べておきたい。この後も、俵屋のその他のお菓子を紹介してみたい。
ではこちら
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 補足 一枚流しには、黒豆が入っているもの、つぶあんが入っているものなど、その店のオリジナリティーが生かされている。俵屋の一枚流し水羊羹は、完全なプレーンタイプ。きめ細かくこされているので、たいへん均一性に優れており食感が瑞々しい。

 補足 吉祥寺には、他にも幾つか羊羹や最中では名店はあるが、俵屋は受け継いだ伝統の職人の技の範囲が広いといえる。和菓子、羊羹、最中、饅頭、甘納豆などの技術を受け継ぎ、品物の一品一品の仕上げが奇麗だし、実に美味しい。これが老舗の老舗たる由縁である。