2009/01/30

京都4

 都路里を出て、高台寺の門前を北に向かう。正面には、異様な寺院「大雲院」が見えるが、その手前を左にまがると、小料理屋さんを眺めながら東大寺通りに出る。あのバスを降りた通りだ。そのまま路沿いに右へ行くと、祇園のバス停に出る。京都駅へは、清水道、五条坂バス停の手前になり、満員になる前に、ここからなら確実にバスに乗れる。

 一方、大雲院から右に入ると円山公園に出る。円山公園では、イカ焼きとか、たこ焼きとか、焼きソバなどの街頭出店が並ぶ。これは、左へ下ると分かるが、八坂神社の境内から続いているものだ。八坂神社は厄除け、「商売繁盛の神様」なので、ちょっと、お参りをする。おみくじを引くと「末吉」であった。しばらくいいことも無いらしい。「今年は、末吉が多く印刷されたのだ。もっとも、大吉を増やしても、神社の信頼感に影響するし、中吉などでは、今の社会環境にはそぐわない」、神社も今年だけは気を使う。と思いながら八坂神社を抜けると、やはり東大寺通りの祇園の交差点に出る。祇園のバス停は、ここでは少し左にある。目の前の、横断歩道を渡り、西に向かうと四条通りである。

 京都は、横に「四条、五条、七条」と北から順に南へおおよそ750mごとに大きな通りがあり、縦には、東から順に西へ、「河原町、烏丸、堀川、大宮、西大路」と大きな通りがあり、それらが格子状に重なっている。そこで、この二つの名前を組み合わせて、ある程度場所が特定できる。つまり、四条河原町とか、烏丸五条、七条堀川、九条大宮と斜めのラインになる。どちらの「通りの名称」が先頭に表記されているかは、わからない。という補足付きで話を続ける。祇園の交差点から四条河原町に出て、四条烏丸まで行くと、直線約1.4km程である。このあたりは、市内でも人出が一番多く、「京極」商店街に繋がっているので、茶房、カフェ、甘納豆屋で楽しんだり、特に女性には場所柄、呉服、和装小物、扇子、足袋等を探すには好都合である。少し余談になるが、自分の美術監督は自分自身である。美術監督には、最低限のベースになる「調査・分析と時代考証、実用性や公式性」などの知識が必要で、それらは、「様々なものを目にし、専門家の話を聞く」ことから始めるのがよい。特に老舗では、商売の王道ともいえる「物を売って、尊敬される」ことに「こだわり」を持つため、老舗のお上から指導を受けるのが、最も低コストで早道である場合が多い。そのような経緯を通して、美学の裏付けを持ち、それが自信となって、「みんな」綺麗になるのである。

 話を戻そう、四条烏丸を左に曲がり、烏丸五条、烏丸七条と烏丸通りを行く。そのまま行くと京都駅に出る。京都駅の場所に仮に名前をつけるとすると、「八条烏丸」といったところ。足早に歩きながら、「では、六条はあるのか」、と言う疑問が当然のように湧いてきた。 烏丸五条を過ぎた頃から、注意深く周囲を観察しながら歩く。

 烏丸五条と烏丸七条の間に東本願寺があり、その裏通りを「花屋町通り」というが、そこにあるバス停には、「烏丸六条」と書いてある。ここだ。烏丸五条から烏丸七条に歩いて約250mの地点である。「六条」は、今後の長い歴史の中に埋もれて行く運命なのだろうか。ならばそこで、記念に写真を撮っておくことにしよう。勿論、バス停を撮影するわけではない。

 この花屋町通りを堀川の方(西)へ向かって歩き出すと、東本願寺の「壁」が続く、なまこ壁を思わせ妙に美しい。壁と言っても、外敵から守る塀の役割である。手前には4m程の堀があり、満々と水を湛え大きな鯉もいる。その手前には、これまた立派な松が植わっている。その構図からは、倉敷や金沢を思い浮かべるが、壁の高さが全然違い、2階建てはあろうかという高いもの。手前に写っている門の軒先は、1階の屋根相当の高さである。これが、東本願寺の北面全てを囲い250m程続く。

 今回の京都の「画像比較」の撮影テーマは、白と黒を試すことに決めていた。まず、ここを、白テーマとして撮影してみる。カメラは、いずれも色温度の設定は、太陽のマークである「晴れ」にしてある。この場合、どちらのカメラも、かなり近い色バランスになるはずなのだが、Fuji が青色系、Panasonic が黄色系と分かれてしまった。さらに露出補正値を見ると、Panasonic が画像としては若干明るいにもかかわらず、それでもFuji と約1絞りも異なった値を示している。この違いは、メーカーの「反射率と露光値」におけるポリシーなので、コメントはしにくいが、少し違いが大きすぎる様に思える。このシリーズはこちら。 (初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)
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2009/01/27

京都3

 一息入れ落ち着いるうちに怪しい雲は去り、日差しが出てきたのを確認し、そそくさと500円玉を用意してお会計をする。再び店の前の三年坂を下り始める。左右には甘いもの屋、茶屋、郷土品店、蕎麦屋などが並ぶ。左手にゆるいカーブの途中に立派な門構えの「湯豆腐屋」があったはずだが、今日は営業していないようだ。営業していても、湯豆腐で4,000円弱はちと高い。そのまま、だらだらと道なりに歩くと「八坂の塔」に近づくが、途中、縮緬雑魚を少量配っている「かさぎ屋」の手前の階段を下りる。縮緬雑魚に引っかかりながら、多くの人が吸い込まれていく。ここを、二年坂というらしい。やはり、ここで転げると、二年以内に死ぬことになるので、しっかり階段を見て降りなければならない。

 もっとも、この坂は大同二年(807年)に出来たことから二年坂、翌年できた、先ほどの坂を三年坂というのが真相。しかし、みんな早死にしたくないようで、ゆっくり気をつけて歩いている。なんとも「遠まわしな警告」に「怪しい情緒」を感じてしまうのである。 もっとも、京都には「あの世への入口が幾つも開いている」とか、「自分の過去と行き来が出来る」場所もあるとか、都伝説も多い。

 二年坂を降りる途中、蒸し器から蒸気の上がるのを見ると、麩饅頭が食べ頃だ。試しに「お1つどうぞ」。少し先には、左へ入る緩やかな細道がある。ここは、全く転げそうも無いが1年坂になる。一方、そのまま、まっすぐ進むと「龍馬坂」に出る。この坂を右に上ってゆけば坂本龍馬のお墓がある。ここは、結構心臓破りの坂が続き、きつい。興味のある方はどうぞ。でも1度いけば納得する。龍馬坂でも、一年坂でも、結局同じふもとに繋がるが、竜馬坂まで行き、そこを左に下ることにする。この路の左手はこじんまりとした2階建ての茶屋が並ぶが、なんとも可愛らしい小ぶりな作りで、これを京風というのだろうか、暫く見とれながら進む。このあたりは駐車場もあり、タクシーも切り替えしている。気をつけて歩こう。右手には高台寺公園があるので、その先を右に曲がる。ここからは、「ねねの道」というらしい。「高台寺、ねね」とくれば、ここを知らない人(無礼者、ここを何と心得る!)でも漠然と想像は出来る。ここにも人力車屋さんの若い衆が多くいて、いつでも人力車に乗れるが、ここは、おっさん一人旅は誘われることも無い。たいがい男女、女二人連れが対象のようだ。また、このあたりには、時折舞妓さん姿の女性が出没するが、「舞妓さん扮する素人さん」である。京都の風景の中で、和服に憧れた女性の変身写真を撮影します、という特撮ビジネスで、まれに綺麗な人もいるが、殆どはそうでもない。・・・・とちょっとがっかりしながら、気を取り直して先に進む。

 ねねの道を50mぐらい進むと、右側には高台寺への上り道がある。左には「都路里のちょうちん」がぶら下がっている筈だ。そこの門をくぐると左手にお店がある。日陰になった店の前で、女性のグループや若い男女が震えているので、すぐに分かる。もちろん、その後に続く。寒いときは、お店の前で待つ身はつらい。長くなると、お店のお姉さんが寄ってきて「おつかいやす」といって携帯のカイロをくれたり、暖かいほうじ茶が配られる。これが、いわゆるこの店の暖簾ということになる。順番が来た女性陣は、店内に入ると俄然元気を取り戻し、抹茶尽くしの「都路里パフェ」を食べている。ではこちら
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2009/01/23

京都2

 話を続けよう。彩を出て少し坂を上ると、左に「古都夢」と言う店がある。その角を左に入り少ない階段を上る小道である。右手には、どう見ても民家なのに「優しいカイロプラクティック」という看板を見るが、つい腰に手をやりながら「そんなわけない」といつも思う。その小道を抜けると、五条坂の通りに出る。あの、危険な道の行き着く先である。全国各地から来たカラフルな観光バスが停車している。それを左手に見て、右に上がる。ここで、五条坂通りと清水道とが一緒になり、その先は清水寺へ至るが、五条坂を上がってきたタクシーがお客を降ろし、清水道から下ろうとするので、タクシーと人が入り乱れる場所でもある。タクシーは清水道を下るとき、出来ればお客を乗せたいのだろう。それを横目に注意しながら進むと、左手に七味屋がある。様々な薫り高い辛味が並んでいて、小分けして販売している。ここは、店に溢れるぐらいお客がいても、きめ細かい丁寧な対応をしてくれる。自分なりに、三味や五味を作って楽しむのも良い。ここは、まさに辛口嗜好の登竜門である。

 その店の脇を北に下りる階段があり、多くの人がそこに吸い込まれるように流れてゆく。この階段の坂を「三年坂」というらしいが、階段の左右には、京都ならではの風情を感じさせる、こじんまりとした華やかなお店が並ぶ、左右をきょろきょろしていると、階段で危うく転げてしまいそうになるが、ここは、何が何でも踏ん張らなければならない。ここで転ぶと、3年以内に死ぬと言われている。それが三年坂に残る言い伝えらしい。怖い、怖い。

 清水寺に参拝もせず三年坂を下ろうとする罰当たりなおっさんは、転んでもしょうがないと思いながら下ると、右に「イノダコーヒ」がある。昨年は、東京大丸に出来たイノダコーヒのお店を紹介した。今年も、ここ清水店に寄ってみることにする。店に入ると、商品が並べられた展示即売コーナーがあり、奥に上がると待合がある。そこで、しばし待機する。

 昨年までは、黒いスーツに身を包んだ蝶ネクタイの細身の年配のマスターが、お客を手際よく案内してくれた。肩から上を上下させず足早に店内を歩き回って指示を出す姿と、客に接するときの物腰の美しさは、店の品格を思わせるようであった。今年は、やや小太りの柔らかい感じの若い人に代わってしまった。あの姿勢の綺麗な彼は、三年坂で転んでしまったのだろうか。と思いながら席に案内され、上着を脱ごうとしたら、お姉さんが近づいてきたので、「ア、ア、アラビアの真珠をお願いします」というと、「お掛けになってからで結構ですよ」と言われた。ああ、そうだなと反省。いるよなー 「こういう、田舎者でせっかちなおっさん」と苦笑しながらコーヒーを待つ。

 大きなガラスの向こうには、怪しい雲行きにちらつく雪が舞い上がっている。ここで、しばし雲が行過ぎるのを待とう。このあたりの天候は変わりやすい。それにしても、珈琲が東京店より濃くて薫り高く感じるには、何か理由があるのだろうか。
ではこちら。三年坂を下りながらのショットだ。転げたりはしないぞ。
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2009/01/20

京都1

 人が何かに夢中になって楽しんでいる姿は、微笑ましい。ご本人にとっては一種のブームが到来していると言える。日常の家庭や会社といった煩わしい人間関係や組織から解き放たれ、武装も解除し、鎧(よろい)を脱ぎ捨て「心も裸」になる。旅行もその1つで、見知らぬ土地で、多くの人が楽しんでいる姿は、自然に気持ちの安定度を実感できる。そして、自分もそれに、知らず知らず同調し無邪気になってしまうのである。

 毎年、この時期は大阪方面に出張する。今回も帰りにちょっと途中下車して、京都を歩いてみることにした。 そこで、今回から数回にわたり、京都から報告するのでお付き合いいただきたい。お勧めのお店や茶寮、そうでないお店もある。もちろん、ここで画像比較もしてみたい。一緒に楽しんでもらえば嬉しい。

 普通なら、出張した仕事場に近い天王寺駅から梅田まで御堂筋線で出て、阪急電車で四条河原町まで行くのが安上がりなルートであるが、時折、カタカタうるさい車両に出くわすので、天王寺から乗り換えなしの、特急「はるか14号」10:51発に乗る。恐らく新幹線の次に高額なルートになるが、一番早く(京都までおよそ40分)着くことになる。既に疲れが溜った体の「ベルトを緩め」るには、この空いた車両が心地よい。

 いつものように、乗り換えの案内アナウンスが入る頃、身支度を整え、次々と前の車両に移動し、先頭車両まで行きそこで降りる。「はるか」から改札口は遠い。改札を抜けて目の前の京都タワーを見ると、もうお昼だ。すっかり仕事を忘れてしまったようで、腹も減ってきた。「急ごう」。駅前から206の市バスに乗車。乗車口はバスの中ほどか後部になる。料金は後払いの両替方式である。財布から210円を取り出し左手に握り締める。それにしても、このバスはとても混み合っている。山手線で鍛えた体にもちょうど良い押され具合で、柳のようになりながら、ぼーっと窓の外を眺める。信号待ちの静寂は乗客のひそひそ話が良く聞こえてくる。駅前から七条通りに入り東へ向かう。どの道もびっしり車で埋まっているのに、運転手は熟練のテクニックで前に進む。バス停では、無邪気になった旅行客達がこちらを指差しながら待っていた。三十三間堂前では、後ろで溢れて乗れない乗客を、前に誘導する運転手の臨機応変ぶりに心が和む。全員乗せて満杯のバスは、大きく左右に揺れながら智積院の前の三叉路を左に曲がり、東大寺通りに入る。そして、五条通りに向かい、東山五条の交差点を少し過ぎた「五条坂」のバス停で降りる(最近、少し先で停車するようになった)。ほぼ全員が降りるので、あわてることは無い。駅からの距離は4km弱なのに、渋滞と乗客の乗り降りに手間取り、おおよそ40分かかってしまった。

 降りてバスの後向に歩き、東山五条の交差点を渡る。さらに登り道の右側へ渡るが、ここは、危険な歩道だ。惰性で坂を降りてきた参拝帰りの客をかきわけ、さらに、スピードを落とさず下ってくる大型観光バスを機敏に交わし4分ほど進むと、清水新道(茶わん坂)との分岐点に出るので、そこからは、ゆったりとした茶わん坂へ進路を取る。途中、人力車屋さんが、「だんなぁ~お乗りになりやせんか?」と勧めてくれるが、「この先で御飯を食べるので」と丁寧にお断りをして、足早に前に進む。きっと、疲れているのと、腹が減っているのを見間違えたのだろう。と想像しながら、回りの参拝客を追い越し、さらに坂を上がってゆく。既に、「腹は空洞」になっている。道の先には、清水寺の三重塔が見える。もうすぐだ。茶わん坂の丁度中ほどにある「がんこ」という緑色の看板を探す。そこが最初の目的地である。 ここは、「彩」という小さなカレーのお店だ。
ではこちら。
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2009/01/16

続デジタルカメラ17

 写真は、あくまでも個人的な理由によるが、撮影しておきたい衝動は、いつ襲ってくるか分からない。それは、まさに何か、「スイッチの入る」と言える状況なのかもしれない。それをお断りして、現場からの報告をしたいと思う。今夜は、あるお寺の前を通って、しげしげと見入ってしまい、その「霊験あらたか」な夕景を眺めながら、つい手を合わせてしまったのである。お寺の門前でこれほど驚いたのは、初めてである。 おっと、もちろん私は、宗教家ではない。

 そこに、透けて見える人が立っているぐらいのことなら、それも仕方ないことであり、よくある話なので驚くこともない。普通、お寺には、この世に未練を残したまま亡くなり、成仏できない霊魂が時々訪れて、住職に相談事をすることがある。納得するまで何度も訪れるようで、住職は、他人に見えない仕事に多忙である。そのようなことは、一般的に知られていないし、住職ごと実績として広く開示されることもない。住職は、門徒も「さまよえる霊魂」も分け隔てなく接し、慰め、悟りを開くように勧めるのである。夜半、家族団らんを過ごしている住職が、「今日も来られた」と厳しい顔で、席を立ち本堂に向かうときは、必ずそのような状況にあるという。もちろん、家族には客人の姿を見ることはできないが、住職には姿、声まで聞こえているのである。このようなことは、ごく普通のことで、大きなお寺には、昼夜を問わずもっと多くのさまよえる霊魂が訪れると言われている。

 このお寺は、そのような多忙な住職達が、かつて専門教育を受けた所で、全国の「浄土真宗」系のお寺の総本山である。今、その本山の東側にある阿弥陀堂門の前にいる。門の前には、「木札」と言うのだろうか、いくつかの重要な、通告すべき内容が記述されて立つ「木製の札」がある。よく時代劇などで、法令などを庶民に知らせるための告知板として登場するものの大型版である。当然昼間は、その墨で書かれた文字を読むことができ、このお寺の起源や系譜とか、今どのような催し物をしているとか、を参拝するものに知らしめるものである。

 その木札の「文字の部分」が「夜中にオレンジ色に光る」のを観たのは、生まれて初めてのことである。もっとも、この地にお住まいの方は、よくご承知のことと思う。私は、これを観て、ひどく驚いている。古い仕掛けを大切にし、その目的拡張のために新たな技術をさりげなく適用する「旧新が渾然一体となった姿」に感動し、この夜半も、りんとして輝きを放つ「木札」を眺め、このお寺の、生死の分け隔ての無い、広範囲で時空を超えた役割を感ぜずにはいられないのである。このお寺は、国宝や重要文化財を豊富に備え、当然「世界遺産」に登録されている。

 今日は、情緒的というか、報道的というか、もちろん、木札に書かれている内容はともかくとして、何とか、この情景を伝えたかったのである。このような写真は、写されたもの自体に興味はあっても、写真そのものの出来、不出来を問題にすることは無いので、コメントは控える。このシリーズはこちら。 (初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)
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2009/01/13

続デジタルカメラ16

 被写体と撮影者の間には、「何らかの関係」がある筈である。むしろ、そうでなければ、撮影する前から論理的に空虚な作品になる。撮影に至る前に、その長短を問わず 「まつわる物語」 があってこそ1枚の写真として成立するのである。そこでは、写真の「上手い下手や、カメラの良し悪し」などの物理的な要素は小さなことである。そして、それが、その写真の真価をより高いものにする。また、これがカメラが単なる遊び道具で無い要素になる。

 誰しも、自分の幼い時の節目となる記念写真を眺めながら、撮影者(殆どが父母)が自分に寄せる愛情とか思い入れや、一種の期待感のようなものを痛感する事ができ、自分に運命付けられた使命を素直に認めたり、脈々と流れるDNAを感じて、もっと頑張らなければならないと決意を新たにすることも少なくないだろう。あるいは、内輪の家族だけが全員で並んだ、なんの変哲もない写真を見て、そこにあった「幸せの時間と空間」を思い出すこともある。これらは、時の流れを一瞬切り取ったものだが、親子や家族といった作り直すことの出来ない関係を端的に示しており、自分にとって大変価値があるものといえる。

 一方、自分で撮影した写真は、そのときの回りの環境、あるいは心情や葛藤などが、どこかに潜んでいて、撮影後にもそれは影を潜めることは無い。そして、それは後々興味深いものとなる。つまり、今となっては、「そんなつまらないことで」と思うような平常心を装っていても、その写真を撮影したときには、何か大きな意味を持っていたという証が出てしまうのである。私事で恐縮だが、ちょうど30年前の自分達の作った雑誌を見ると、「よくもまあ、こんな写真を撮っていたな」なんて、その頃の「集中した熱意」を感じ、今となっては絶対に撮れそうもないと、いたって冷静に思ってしまうのである。写真は、そのような時間軸と被写体との係わり合いを自然に包括しているので、「僅かな関係」でも無視することは出来ない。後々、残念な想いをすることにならないようにと、注意深く心がけるのである。

 前置きが長くなったが、このシリーズでも、ただ、「絵面」を追っかけた写真に留まらず、撮影者の動機についても言及してみたいと思う。 本来、写真には、そんな「心の叫び」が含まれており、それなしでは、絵面だけのつまらない写真と思えるのである。

 人は誰しも、落ち着いて物事を考えてみたいときがある。今、熱くなった場所から離れ、理屈だけでは納得しえず、自分の人生観と照らし合わせてみたり、父母の遺言にも似た言葉との整合性を図ろうとしたり、自分を取り巻く人達の幸せとは何か、など、悩みと言うより一歩前に進むために整理しておきたい課題が時々訪れる。そんな時、1人でじっくりと時間をかけて、心穏やかに、「さっき、導き出した結論を確認するように、もう1度考え直してみたい」と思うこともある。人は、そういうプロセスを踏んで、納得したいのである。そんな、考えをまとめる、私の隠れ「茶屋」を紹介してみたい。以来、幾度と無く通い詰めた場所だが、誰にでもそのような大切な場所はあるはずだ。スケッチ代わりに写真にしておこうと思ったのである。いつか、忘れ去ってしまったり、突然無くなるかもしれないからである。

 そして、ここにも、撮影時に参考になる部分がいくつか存在する。だから、あえて「好ましくない代表的な部分を1箇所」紹介しておきたい。 このシリーズはこちら。(初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=0FF68288DD53524E&resid=FF68288DD53524E%21766&app=WordPdf

2009/01/09

続デジタルカメラ15

 時計はお散歩に欠かせないツールである。最近は携帯電話の時計を頼りにしている人も少なくないが、アナログ時計の方が歩いた時間を把握するのに、直接的で分かりやすくてよい。今日はそんな、お散歩に有効に機能する腕時計を撮影してみた。この位の小さなものを撮影してみると、「お散歩カメラ」で、どこまで近接撮影が出来るのか把握できる。また、液晶モニター上どのくらいの大きさにフレーミングすればよいのかも試してみた。いつも見慣れている腕時計は、基準として理解しやすいからだ。この腕時計の実寸としては、直径35mm程度である。 余計なことだが、使い古した傷だらけの腕時計で申し訳ない。

 状況としては、出来るだけ大きく写るようにカメラをセットするが、被写体の明るさ確保や照明位置のこともあるので12cm位まで近づき(2台とも至近距離公称5cm)、次にズームで少しアップする(ファインダーのガイドライン線参照)。マクロ機構をONし、ピントを合わせながら、微調整で再びカメラを近づけるが、1.液晶モニターでは正確なピントを確認できない、2.あまり広角側に設定すると、画面周辺部のシェーディングが目立つ、3.望遠側は、被写界深度が狭くなる、などを配慮しながら、少しピントが合わせ易く無理の無いところで被写体を小さめにセットする。そして、交互にこの作業を行い、フレーム内の大きさが2台で等しくなるようなポイントを選んで(フレーム内の約1/3程度の大きさ)撮影した。カメラの設定条件は、写真のキャプションのとおりである。

 PDF掲載の画像には、上部の小さなサムネイルに示すようにフレームの中から時計を中心に、正方形(赤線)にトリミングして左右に並べた。傍に実物があるので比較しやすく、しかも、時計は止まっているので、カメラの画質の差だけといえる。Panasonic はわずかに文字盤が明るいのは、露出補正の誤差(1/3露出以下)と、ガンマ(Panasonicは暗部でよく立っている)などの違いと思える。また、色目の違いは、2機種のホワイトバランスのプリセット値が異なっているためと思われる。時計の文字盤は暗い紺色、回りのエスカッションは黒である。結果的には、画面の大きさは同じなので、カメラの解像力の差(Fuji 1200万画素、Panasonic 1010万画素)がそのまま出ている。ただし、照明光量不足の為か、Panasonicはノイズも多く、画素数の差だけとは言い切れない。

 初めて「お散歩カメラ」でマクロ撮影してみたが、結果的には比較精度として少々不満が残る。もっと照明の量や時間(精密に調整)を使えば、2つとも、もっと綺麗な写りになるかもしれないが、クローズアップと言う意味では、ある程度参考になると思う。
このシリーズはこちら。 (初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)
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2009/01/05

重ねすき焼弁当

 昨年の最多アクセス・ベスト10に入ったページの、食べ物は、「浅草今半の牛肉弁当」であった。それを意識しているわけではないが、再び「浅草今半の弁当」を取りあげる。

 牛肉弁当は、私も大好きで、度々いただくことになっている。 ここの各出店舗にも、ポイントという制度があり、ポイントが貯まると、ついグレードアップをして、今回紹介の「重ねすき焼弁当」を賞味することになる。これも、なかなか食べ応えのある一品で、上質の黒毛和牛に、たっぷりとした秘伝の割り下が染込んで、一寸辛めの関東風な味わいは、比類がなく、珍重感に心が躍るのである。価格は1,575円と、弁当として平素食べるには少々贅沢かもしれないが、ポイントを使うと負担も少ない。中味は価格を上回る上質感と充実感を備え、明らかに「ぶっちぎりの弁当」になっている。正月明けは、これでも食べて、エンジンのアフタバーナーを全開し、みんな元気に加速してほしいものだ。

 若者は、「牛肉弁当」のような、牛肉のタレが御飯に染み込んだスタイルが大好きだ。しかし、年配の方は、こちらのように、別容器にした単独で、白く輝くような光沢のご飯を好むらしい。このことを「その人達が育った時代背景や、歴史上の事実」と組み合わせて考えると、少し寂しいものがあるが、人の育ちや伝承的価値観として受け入れるなら「品格」を感じる。このような人の心の奥深く、琴線に触れる部分を商品企画に活かせるのは老舗の得意技である。いわゆる、米国風の「言い訳だけのマーケティング」では到達しえない、「お客の気持ちを大切にする」商品企画の成果でもあるが、これによって、世代の違いを巧みに捉え、きめ細かいラインナップを構成している。

 こような商業精神は、今後、本格的な高齢化社会を迎えるにあたり益々重視されるようになってゆくと思われる。特に、最近は様々な分野で「日本流のやり方」が見直されてきており、老舗の普遍的な商売の手法とも言える、「客を大切にし、長いお付き合い」をする姿勢が再び評価されているのである。

 暖簾を重んじ、老舗という歴史的文化を封じ込めた 「上品でお得感」 のある、ここの弁当群は、この不況にあっても、全く人気は衰えず、益々微増を続け、次から次へと世代を受け継いでいるのであろう。これが本来 「日本人が好む継続の姿」 なのである。ではこちら
http://www.nextftp.com/suyama/%E9%87%8D%E3%81%AD%E3%81%99%E3%81%8D%E7%84%BC%E5%BC%81%E5%BD%93/%E9%87%8D%E3%81%AD%E3%81%99%E3%81%8D%E7%84%BC%E5%BC%81%E5%BD%93.pdf

2009/01/02

続デジタルカメラ14

 深大寺の裏には、神代植物公園(都立)の深大寺門(裏門)がある。深大寺で「粗碾そば」を食べた後は、腹ごなしに植物園に寄って散策してみてはいかがだろう。深大寺の左手山道を上れば、すぐにそこに出る(入場料500円)。ここは、面積47万平方メートルの緑地帯が広がる公園である。植物園だから、広大な空間に様々な木々(4800種類、10万株)が生息しているが、よく整理されて、計画的に配置されているので、興味のある植物にも、すぐに遭遇できる筈だ。また、漠然と歩き回りたい人にも、武蔵野の自然が楽しめるように道路が整備されている。おまけに、ここの自然では生息できない亜熱帯の草花も、温室で年中花を咲かせており、少し汗ばむ空間で、平素見慣れないベコニア等の鮮やかな「原色の花々」を見ることで、案外気分転換にもなる。さらに、場所によっては、人の手が入り、植物や木々が美しく造形されている。一方で、歴史を感じさせる大木の自然の姿もあり、四季を通じていつ訪れても、溢れんばかりの自然の美しさが楽しめる空間である。

 実はここにも、森の妖精が沢山いて、私が遊びに行くと、必ず、寄ってきて、写真撮影に良い場所を教えてくれる。最近、その妖精たちも高齢化が進み、先行きが不安になってきたので、今年は、彼らのお勧めの場所を少しづつ紹介しておこうと思う。ただ、それらは若干、創作造形風で、ちょっと定型に思えて仕方が無いが、とりあえず、何回かに分けて紹介をしてみたい。

 今頃の季節は、サラリーマンにとって、4月の組織変更などで正月休みも心境複雑な(あるときは深刻、ある時は嬉しい)季節となるわけだが、サクッと忘れて、そんなものは、運命に委ねる方がよい。その時間を有効に使って、少し矛先を変えて、晴れ々とした気持ちになっておこう。 ここでは、この時期 ロウバイ、クリスマスローズ、梅、椿、洋らん などが見頃になる。正門の近くにある植物会館では、その季節柄の催物や展示会が行われているので、覗いてみるのも良い。そうした非日常を体験すると、知らず知らずの間に、おおらかな気持ちで、自分にも素直になれる。そして、過去の人間関係も案外簡単にリセットし、新たな気持ちで新組織に対応できるはずだ。

 今日は、新年最初の画像比較なので、 神代側(深大側の反対)の正門に程近い、やはり 「それらしい」、この場所を勧められた。これも、前回同様、カメラのASA感度など撮影条件が従来と少し異なるので注意していただきたい。このシリーズはこちら。 (初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)
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