2010/03/30

平和記念資料館

 ここを外して広島を語るわけにはいかないが、ここだけをみて涙が流れるとしたら、やや知識不足である。しかし、それは、くさい物にフタをして、何もなかったことにしようとする隠蔽体質の日本社会に根付くものであり、個人の責任ではない。当時の日本の軍閥には、それなりにやましい事があることを、ここを見て自覚してもらえば、今はそれでよい。

 また、戦争中は何も広島と長崎だけが空爆の被害を受けたわけではない。それ以前にも全国各地でじゅうたん爆撃が行われてきた。東京では、昭和20年3月10日、空からガソリンをまいた後に焼夷弾を投下して皇居以外を 焦土にしている。この死者10万人といわれ、当時は、あたり一面に黒焦げの焼死体が溢れていたという。これが東京大空襲として語り継がれている。わずか終戦の5ヶ月前のことである。その後、大阪、神戸、名古屋など全国各地にある67都市を順番に次から次へと、余った焼夷弾を投棄するように空爆が行われたのである。これらは、米軍にとって終戦後利用価値のない、人々が密集した市街地を狙っての攻撃である。また、運送船の往来の多い湾や海峡には、大量の機雷を投下して効率的な破壊を行っている。沖縄の空爆も同3月23日に始まり、その後、上陸作戦に変わる。1,500隻の戦艦の艦砲射撃、55万人の米兵によって、地形が変わるほどの壊滅的な攻撃を受け、洞窟などに隠れた人々は火炎放射器で焼き殺された(死者18万7000人)。4月1日には、米軍は嘉手納に上陸している。この時点で日本は全国焦土と化しており、以降、すでに軍事的には原子爆弾を使うまでもなかったが、ソ連参戦に対し戦後の日本の管理を不動にすべく、米国のソ連に対する権力誇示に使われたのである。勿論、背景には、現実の都市で威力を試してみたいという要求があった事は言うまでもない。

 さて、平和記念資料館には、原爆被害のみならず、原爆自体についても詳しく触れている。これは、焼夷弾などによる被害とは本質的に異なるためで、人が人を殺傷する手段としては、1.未来に希望を託す科学技術が関与していること、2.地球規模で人類にもたらす影響が大きいこと、そして、3.被害が人を半世紀以上苦しめて、今なお続いていること、などの理由に他ならない。平和記念資料館の中を一通り見学すると、以下の事が分かる。

 原爆開発は1939年ドイツから亡命した科学者シラードによって、アインシュタインの署名と共にルーズベルトに提案されている。1942年8月に始まったマンハッタン計画(原爆開発)は、ウラン濃縮やプルトニウムの生産に大規模な工場が必要なため、化学、金属、電機、石油、建設、自動車などの様々な分野の大企業が参加し、動員数12万人、約20億ドルが投入された国家プロジェクトであった。原子爆弾とは、質量の重い物質で核分裂を起こすウラン235が使われている。この原子核は、1個の中性子が衝突すると分裂し2~3個の中性子が飛び出す。この時のエネルギー量は、アインシュタインの質量・エネルギー等価の法則 「E=mxc2乗」を裏付け、核分裂によって消滅した質量はエネルギーとなり、熱と放射線を放出する。飛び出した中性子を次の原子核に次々と衝突させ、この核分裂を連鎖的におこし、強大なエネルギーと大量の放射線を瞬間的に放出させる。これが原子爆弾の動作原理である。PDFの左側に原子爆弾の構造を載せた。

 この爆弾が8月6日午前8時15分に広島地上600mで、目がくらむせん光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球となった。火球の中心温度はセ氏100万度を超え、1秒後には最大直径280mの大きさになり、その時の地表面温度は3,000~4,000度に達したとある。したがって、せん光が光った瞬間に爆心地から500mほど先では、コンクリートの建物は完全崩壊し、瓦からあぶくが発生し、人は蒸発して姿が消えている。爆発の次の瞬間には、周囲の空気が急激に膨張して超高圧の熱爆風となる。これが、遠く約1.4km先の建物を破壊し、窓ガラスを粉々にし、人々は致命的な大やけどを負い、同時に東海村の臨界事故のような傷害を被る。この状態は、誰も手の施しようがないものである。やけどの度合いと放射能傷害は、爆心地からの距離によって異なるが、ちなみに、爆心地から1.2km先では、その日のうちにほぼ50%が死亡している。この破壊力をTNT火薬に換算すると約16,000tになるという。これらの直接被害によって同年12月末までに14万人が死亡したと記載されている。そして、爆発時の直接放射線被害は約4km先にまで及んでいる。その後は、直接放射線あるいは残留放射線によって、次々と多くの被爆患者が亡くなっていく(広島死者24万7,000人)。これらの被害を、館内では実物、写真、当時を思い出して描かれた絵等を展示し分かりやすく説明している。これらは、想像を絶する痛ましさがあり、中でも、一番辛いのは、「大やけどによって、人は、溶け始めた体をひきづりながら、水を欲しがり大田川へ集まていく姿である」。死ぬまでの時間は長く苦しかったであろう。そして、大田川は死体で溢れたのである。

 ところで、個人的にここでも気になった事がある。それは、広島でも三菱重工広島造船所、広島機械製作所は被害を受けていないことだ。これは、全国的に見ても特定の軍事工場が無傷であるのに似ている。勿論、長崎も、呉も同じである。

 そして、復興へと続くが、戦争が終わって子供達が生き生きと育っている姿を見ると、涙目のまま笑ってしまうほどの慰めになるのは不思議である。PDFの右側の写真の廃墟になった街は、その子供達の手によって現在の広島になったのである。全国67都市も同じなので、そう思ってご覧戴きたい。
 一方、これらの体験談を被害者自身が自分の言葉として伝えるのは、精神的にも苦痛を伴うと思うが、記念公園の中では、ボランティアとして記念碑の前で1つ1つ丁寧に体験を語り継がれている光景は、誰がみても痛々しい。
 こちらに、説明の概要を並べた。
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21577&app=WordPdf

 さて、広島・長崎に投下された原子爆弾は、今から考えると4t程度の超小型の爆弾であった。それでも、あの巨大な破壊力を持っているのだから、もし、原子力発電所で超臨界が起きたら、地球に穴が開くといわれるのもうなずける。日本全国には、原子炉は64基あり稼働率65%である。国内消費電力の30%をまかなっており、貢献度は高い。一方、耐用年数を越えて稼動を止めた発電所は、そのまま放置することも危険を伴うが、しかし、解体するにしても放射能汚染した原子炉や周辺設備、コンクリートにまで及ぶ大量の廃棄物を地下深く埋めなければならない。その解体作業自体も作業員は大きく被爆の危険を伴うし、その運搬も同じである。そして、深くて巨大な廃棄穴の、場所の選定にも困っている現実があり、この件に関しては、既に日本でも行き詰っている。ヨーロッパ等では、早くから廃止の方向を決めている。チェルノブイリ事故を思い出すと、至極当然の決断である。

 そしてまた、有事やテロには、原子力発電所は攻撃対象そのものであることから、これ以上原子力発電所の新規建設は、危険を増大させる。いくらCO2削減に世界一貢献したとしても、世界一攻撃を受けやすい国にしてはならない。たとえ、1基攻撃されても、大気汚染で農作物、酪農、海洋資源までも、汚染され食べられなくなる。次の世代の子供達に引き継ぐ為に、ここは原発を減らす方向で検討してもらいたい。

 今日で広島を離れるが、勉強だと思って、1度は平和資料記念館(入場料50円)を訪れて自分の目で放射能被害を確かめて欲しいと思う。しかし、現代では、何に注意すべきかと聞かれると1番に「放射能は目に見えない」ということなのである。
補足:軍閥 本来与えられた軍の職務を越えて、思想を同じくする者同士が組織内で結びつき、事実上の権限を行使して、自由に軍内部を操ったり、その権限により何らかの思想的、あるいは自衛的見返りを得ようとする集団のこと。

2010/03/26

厳島神社

 歴史ある社寺仏閣には、多くの先人達の想い入れが潜んでいる。長い年月を現在までに伝える想いとは、何であろうか。もし、それに1つでも触れる事が出来たら、現在に生きる喜びを感じる事が出来るはずである。先人達の苦労を垣間見ながら長い歴史を感じることこそが、壮大なロマンなのである。 そして、その願いを理解し、その場に残る心意気を後世に伝えることも我々の役割ではないだろうか。

 今日は、世界遺産の宮島に来ている。早速ここからレポートする。上の写真は本社本殿の左背後から撮影した物で、遠くに見える赤い鳥居が、宮島の風景写真でおなじみの大鳥居である。この厳島神社は、今から1400年ぐらい前に原型が創建され、今の形になったのは、900年ぐらい前の平安時代と言われている。奈良時代の次が平安時代なので相当古いが、 水に浮かんでいるにもかかわらず、2度の火災にあっている。その後、修復を重ねて現在の形になったのは、500年ぐらい前になるらしい。最近では、1991 年、1999 年、そして2004 年の台風で大きな被害を受けて来たが、平安時代の様式をそのままに修復し、今日に伝えている。ここは、全国に広がる500の厳島神社の総本社で、宗像三女神(むなかたさんじょじん)が祀られている。女神様が祀られているためか、社殿を含む一帯全てが、どこまでも雅で美しく、松島、天橋立に並ぶ日本三景の1つでもある。生涯を通じて1度ぐらいは、これらを訪ねてみたいものだ。

 ここまで来るのには、広島駅から広島電鉄(略して広電)の路面電車の「宮島口」行きに乗り、約68分かかるが、料金は270円と安い。JRで来るには、広島駅から山陽本線に乗り宮島口駅で下車。所要時間は27分と早いが、料金は400円。いずれもフェリー桟橋まで徒歩2~3分。フェリーは2社あり、「宮島松大汽船」と「JR西日本宮島フェリー」で、どちらも宮島まで乗船時間10分、価格170円で15分間隔で運行されている。満潮に近い時間帯に限るが、行きは「JR西日本宮島フェリー」が良い。それは、わざわざ大鳥居に接近する航路を通るからで、ぜひとも、この大鳥居手前からの厳島神社をご覧戴いただきたい。記念写真には、ここも欠かせないポジションの1つでもある。

 さて、一般的な話は、これくらいにして、また屁理屈が始まったと思われるかもしれないが、続けよう。大昔から、宮島の弥山(みせん)の稜線は「観音の横顔」の如く美しい(確かにそう見える)といわれるぐらいで、古くは、宮島自体が自然崇拝の対象となっていた。そんな女神の宿る宮島を、庶民は対岸側から拝んでいたのである。その後、本格的な社殿が平清盛によって造営され、清盛は権力の象徴としていたに違いない。また、周辺の豪族を参拝に招く時には、必ず潮が満ちてから船で大鳥居をくぐり、神社先端にある船着場のような「火境前」から入場したのではないかと推測される。なぜなら、権力の象徴は、自分が神に近いことを誇示するため、大鳥居を必ずくぐるだろうし、本殿と大鳥居を結ぶ線上、これを軸と考えると、それに対して神社自体が左右対称に構築されていて、その軸の延長海上からの景観が一番美しいからだ。それを観ずして何の価値があるのだろうか。是非それをフェリーで確認してもらいたい。いつも、この風景を眺めながら、その様に考えてしまうので、先人達もそこに価値を見出していたに違いない。いまでこそ、フェリーを降りてから、本殿までの順路に、もみじ饅頭などのお土産屋だとか、焼牡蠣のお店、穴子飯屋、あるいは、しゃもじ屋などが軒を連ねているが、自然崇拝の時代に遡るとすると、大昔には、庶民が宮島に渡るには、潮が引くのを待って、小船を出し、鳥居の前で下船し、鳥居を歩いてくぐっていたかもしれないのである。つまり、1400年前は干潮時の海面がかなり低かったし、900年前も現在よりは1m以上低かったのではないだろうか。これはあくまで推測である。ということで屁理屈を終わりにするが、今日のPDF(干潮時の大鳥居)を見ながら考えて欲しい。大鳥居の構造は伝え聞いているとしても、そうならば、900年前に実際にどうやってこの大鳥居を基礎から構築したのであろうか。そこを考えてこそ先人達の想いを理解できるし、厳島神社の存在価値を見出せると思う。厳島神社は、ここがミソなのである。
 ではこちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21574&app=WordPdf

補足:1.もみじ饅頭は出来たてが美味しい。参道では1個ぐらい楽しんでみよう。
2.焼牡蠣は、殻付き牡蠣を焼いただけの物だが、殻付き牡蠣自体もやや大ぶりな物で市場価格は1個200円前後である。すると、焼いてある分お得と言うことになる。お店によっては3個500円で楽しめる。
3.穴子飯は、穴子を裂いてタレにつけて焼き上げた穴子が御飯の上に載っている。江戸前の穴子を食べなれた人には、煮付けと焼きの違いが、少々歯ごたえと香ばしさの違いとなって感じられる筈だ。
4.厳島神社の拝観料300円。本殿左手丘上に在るのが千畳閣、こちらは拝観料100円ここもお薦め。

2010/03/23

潜水艦あきしお


 だいたい、何でこんな物を展示するのか信じられない、と思われるに違いない。しかも、入館無料なんて「事業仕分けの蓮舫さん」の耳に入ると、入館料を取りましょう!になるかもしれない巨大な灰色と赤に塗り分けられた物体である。ここは、私の生まれて育った広島県呉市である。この上の写真の左側が「大和ミュージアム」で、潜水艦の奥が「てつのくじら館」になる。この場所は、かつての私の縄張りというかテリトリーで、小学生時代よく友達と自転車で港の船を見に来たところである。当時は、この場所自体には何にもなく、右のデパートはもちろん、写真の道路もなく、草の生えた空き地と大きな倉庫があり、松山行きとか、江田島行きの定期フェリーの出入りする桟橋が左手前にあったぐらいだが、海に向かって左側一帯には、凄まじい大きさのタンカーを建造するドック群が並んでいた。もちろん海上自衛隊の艦船や、今日の話の潜水艦なども並び、建物は殆どが明治時代を思わせる赤いレンガで作られていて、祖父の勤めていた海軍工廠を髣髴とさせる光景が広がっていた。海の色は、船の錆びのような茶色だったことを思い出す。

 いつも、話題は具体性のないことばかりで、遠くから眺めていても何も分からず、誰からともなく「わしは、自衛隊はすかん、船を作る方がええわ」とか、「何で日本は、空母を作らんのかのう」、「もう戦争はせんのんじゃけえ、いらんわいや」とか、「おまえ、戦艦に乗ってみたことあるんか」などと、いつも同じような、光景を眺めながら話したものだ。そんな、子供心をかなえてくれる時代が来たのである。ついに潜水艦が陸に上がって身動き取れない状態で、いつもそこにいるのである。こんな子供心を揺さぶる嬉しいことはない。もし、あの頃このような展示館があったとしたら、「ただじゃけえのう、またいこうや」と毎日でも通ったに違いない。最近の子供達は、どうするか分からないが、パネルの解説を暗記するまで何度も読み、実物を食い入るように眺め、説明員のおじさんから体験談を聞いたりしながら、腕を組み、おじさんと一緒に「うーむ、日本の防衛は、どうすりゃあえんかのう」と、少しだけ考えて欲しいものである。

 さて、「てつのくじら館」は、潜水艦の向こう側にあって隠れて見えないが、3階建ての建物で、1階は海上自衛隊の歴史と現状、2階は国際貢献の機雷除去活動を通して終戦から現在までを分かりやすく説明している。そして、3階は、潜水艦の機能や艦内の生活、潜水艦の変遷へと流れ、そして魚雷の変遷(補足参照)と続き、いよいよ実物の潜水艦に入艦できる。この潜水艦は、昭和60年(西暦1985年)三菱重工神戸造船所で建造され、平成16年(西暦2004年)まで現役で活躍していた物である。平成18年この展示の為に、国内最大のクレーン船で陸揚げされている。潜水艦内部は、所狭しと計器が並び、確かに窮屈に思うが合理的な設計がなされている。説明員の方に「この潜水艦、おおよそ、なんぼするんですか?」と聞いてみると、「そうじゃのう、1年に1台しか作らんけえ、高いんよのう、どうじゃろう今でも550億円ぐらいかのう」だそうで、絶対額としては確かにとてつもない価格ではあるが、この装備で、この大きさ、計器類の特殊性、精密加工機器、そしてエンジン2基と75名の宿泊施設が付いていて、おまけに騒音を出さずに水中を航行できるのだから、戦闘機に比べると、ケタ違いに安い。 それにしても、置物にしておくのはもったいない。できれば、これを江田島沖にでも浮かべて、動く潜水艦に乗ってみたいと思うのは、私だけだろうか。

 館内を回ると、子供さんが多いのかと思っていたが、案外そうではなかった。実際は、私より少し歳上の年代の人が神妙に聞き入っていたり、その連れ合いなのか、ご婦人方も多い。このような人達は、きっと幼い頃から潜水艦に興味があったに違いない。若者は、1階の売店で、海上自衛隊のジャンパーを試着してみたりして、「格好ええじゃろう」とか、つまらんことに気持ちを動かされている。それでも、説明員の方々は、どのような質問にも規律を重んじながら、極めて丁寧な対応をなされている。 

 詳しい展示物等は「てつのくじら館」のホームページがあるので、こちらをご覧戴きたい。
 今日のPDFは、何処にも掲載のない角度で実物写真を見ていただく。17mmワイドレンズで撮影しているので少し誇張されているが、 潜水艦をこんな角度でご覧になったことはないと思う。アニメーション等では良く使われる角度ではある。ではこちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21570&app=WordPdf

 ここ以外に、呉には映画やテレビドラマを鑑賞する時に、役に立つ場所があるので紹介したい。まず、映画にも良く出てくる戦艦大和は、この呉の海軍工廠で作られたものだが、あまり活躍せずに、多くの乗組員を道連れに、沖縄の先で沈んでしまった。海軍工廠は、終戦を迎えると大切な資料を全て焼却しているので、このような資料館を作るのは難しいと思うが、「大和ミュージアム」では様々な工夫を凝らしている。軍艦マニアにはたまらないと思うので、よろしかったら、こちらもどうぞ。
 そして、もう1つ、更にマニアックな場所として、江田島の海上自衛隊術科学校(旧海軍兵学校)を見学する事が出来る。最近では「丘の上の雲」でも有名になった場所である。これも興味があればホームページを参照されたい。
 補足1:関東など、遠くから呉に来られる場合は、多少言葉使いに、戸惑われるに違いない。昔の映画「仁義なき戦い」を連想させるような、違和感を感じる場合もあるかもしれないが、誰しも殺意等はない事をご理解いただきたい。
 補足2:魚雷の変遷については、古い資料(日本で最も詳しい)が唯一このブログにあるので、興味のある方は、こちらもどうぞ。
2008年6月11日投稿分 「祖父の残した一冊」の付属PDFの「8~47ページ」を参照。
 

2010/03/19

広島赤十字病院

 恐らく、この病院の敷地の上に立つのは、53年ぶりぐらいになるのであろう。何でまた、よりによって、この病院へ来ることになったのだろうか不思議なのである。この街には、他にもたくさん病院はある。勿論、仕事で来たわけではない。見舞いである。ところで、話を分かりやすくするために申し上げるが、私は昭和28年生まれである。

 この病院に、当時4歳で肺炎で入院していた私は、生死をさ迷っていた。父は、担当医から「もう手のほどこしようがない」と告げられていたが、一時期医学を志していた父は、どうも納得がいかなかったようで、自ら調査研究をし、幾つかの手立てを試みて、自分の手で息子を回復へ向かわせたのである。私自身も、父から何やらいろいろな物をスプーンで呑まされた記憶はある。さしずめ、父の臨床試験体になっていたのかもしれない。しかし、少し病気が回復してからの「ある出来事」は、忘れようとしても脳裏から離れない。今でも、鮮明に覚えている。

 そこは2人部屋で、隣は7歳ぐらいのお姉ちゃんだった。お姉ちゃんは、平素は全く元気そのもので、何故この病室にいるのか分からないほどだったが、時々調子が悪そうになる。しかし、また、すぐに元気に戻るようだった。そんな、お姉ちゃんは、私を弟のように可愛がってくれて、病棟では寂しく思うことはなかった。しかし、ある日、お姉ちゃんはベットから起きれなくなってしまった。病気が急に重くなり、お医者さんと看護婦さんがたくさん集まってきた。私は、心配でたまらなかった。いつもの看護婦さんが私に、「お母さんは、どこにおってんかねえ」と問いかけ、私は、「お風呂」と答えた。「はよう、よんできてや」と言われ、大急ぎで同じフロアーにある女風呂へ走り、「おばちゃん!お姉ちゃんが・・・・」と叫んだのである。風呂場は、丁度銭湯の洗い場のようなところに何人か並んで体を洗っていたが、私の声を聴いてすぐにおばちゃんは、私の方を向き、怖い顔で2回ほどうなづいた。私はその顔を見て益々不安を覚えた。すぐに部屋に戻ったが、お姉ちゃんのベッドは既に空っぽになっていた。廊下で、おばちゃんと看護婦さんは何か話していたが、二人はすぐに走って行った。お姉ちゃんは、結局、その日も次の日も戻ってこなかった。そして、3日後、おばちゃんは、お姉ちゃんの荷物を片付けていた。私は、「お姉ちゃんは、何処へいっちゃったん?」と聞くと、おばちゃんは、窓の外を指差し「今、あそこで焼きょうるけえ」とつぶやくような声が漏れた。私は、意味が良く分からず「わしも、そこへ行く」と泣きながら、おばちゃんを困らせ、そこへ連れて行ってもらった。病院の敷地に火葬場があり、良く分からないまま、そこで一緒に「のんの」した。思えば、それは、病室の窓から右前方にあり、時々煙突から煙が出ていた記憶もある。しばらくして、白い風呂敷包みを下げておばちゃんは戻ってきた。おばちゃんは涙を浮かべ、私に「はよう、ようなりんさいよ」と頭を摩りながら、病棟を後にした。 昭和32年頃の話である。私の幼い時の記憶は、このあたりから始まっている。

 今、病院内で風呂場とか火葬場とか、こんな話をしても、誰にも信じてもらえない。戦後64年の常識からは想像すら出来ないからだ。私自身も仕事がら全国の古い病院(特に大学病院)を訪れる度に、興味本位でその様な形跡を探してみたが、どこにも見当たらなかった。勿論、シャワー室のようなものならどこにでもある。そして、いつしか、このことは夢だったのではないかと、記憶を消し去ろうとまでしてきたのである。勿論、誰にも話したことはなかったが、今、この病院の前に立って「赤い十字」をみると、やはり夢ではなかったのかと疑問にさえ思い、誰かに聞いて確認したいと思うのである。恐らく、現在80歳ぐらいの、この病院の関係者はご存知だろう。くどいようだが、今、この病院の前に立っている自分が不思議で仕方ないのである。なんで、この病院に来なければならなかったのか。 (つづく)

 ということで、今日は、広島へ来ているので、数回はこちらからの投稿になる。まず、当時の面影すらないこの病院を紹介しておこう。

 この広島赤十字病院には、原爆患者を専門に治療する目的で、昭和32年に原爆病院が併設されている。原子爆弾による放射線は、直接人の染色体を傷つけ、あるいは切断する。そして、染色体は元に戻ろうとするが、異なる染色体同士が結合することがある。ここが手をつけられない要因になるのである。一方、強力な放射線を浴びた物体は放射線発生源にも変化する。つまり、あの「黒い雨」も大量に放射線を含んでいたし、家族を探しに現場に入った人達も被爆した。さらに、患者自体もそうであり、看護をした人達も被爆したのである。また、被爆後、数十年にわたりこの影響と思われる症状が出る。5年後白血病、10年後甲状腺癌、20年後乳癌、肺癌、30年後結腸癌、骨髄腫、などあらゆる悪性腫瘍が発生する事が統計的に証明されてきた。したがって、広島や長崎で当時治療に携わっていた人達で、現在広島、長崎に在住されない方でも原爆症は出ているし、原爆症の患者さんの子供さんやお孫さんにまで影響が及んでいる。数十年後になって、それが分かったということなのである。 これは、当事者にとって今なお続く「長くて終わりのない拷問」である。

 その原爆症を専門に取り扱ってきたのがこの病院である。したがって、そんじょそこらの「がんセンター」よりも、圧倒的に豊富な経験を持ち、おびただしい標本を残している。つまり、国内、いや世界でも3本の指に入る腫瘍の病理判定と治療に長けた施設といえる。この病院は、爆心地から1.5kmのところにあり、壊滅的な被害を受けたにもかかわらず、被爆直後から被災者救護の拠点として活躍し続けてきた。まさに、スタッフ全員が命がけの救護治療だったといえよう。そして、救護治療に携わった看護師、医師など多くの犠牲の上に成り立ってきたのである。
 今日は、この病院に関係した資料を数点拾ってみた。興味のある方はどうぞ。
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21565&app=WordPdf

補足:広島原爆投下は昭和20年、西暦1945年の8月6日。終戦は同15日。

2010/03/16

太らない血液型の食の法則

  昨年、「腰痛は99%完治する」という本を紹介した。その時に、すでに自ら仙腸関節の修正を始めていたのだが、先日、ちょっとした衝撃で動くようになった。その時は、あれっ左の仙腸関節が外れてしまったかと心配になったが、良く動くようになって、明るい未来が見えてくるような気分になった。そして、左右のコンプライアンスが等しくなるように工夫をすることで、徐々に腰痛が激減してきた。952円の本で楽になったといっても良く、腰痛持ちの方には、是非お勧めしたい。軽快に走れるし、筋肉の緊張もない。その事を、まず最初に報告させていただき、今日の話題に進みたいと思う。

 少し話が横路へそれるが、自分では、太り気味の体系は病気だと断定している。それは、何かが自然最適化力を阻害しているに違いないと思えるからである。そして、太ることによって健全な精神は脆弱になり、考え方まで影響を受け、もちろん病院でも相手にされず、薬や注射で治らず、おまけに、自分で処方箋を考えても、全く効果があるはずもない。全く始末が悪い状態といえる。その自然最適化力の阻害要因は、様々にあると思うが、たとえば、人としての、1.性格によるもの、2.体温との関連、3.生活周期なども大きくかかわっていると考えている。その背景にあるのは、まず、1.の性格では、せっかちな人は、せわしなく動き、頭の回転も速い。その反対に、豊満な体型でありながら、てきぱきと仕事をするおっさんを滅多に見かける事がない。つまり、太らない為には、敏しょう性にすぐれ、常に頭を高速回転させていなければならないのである。頭は、動かせば動かすだけよく動くようになり、糖分を要求する(いやいや、首を回しても駄目)。やはり、人類は大脳を進化させるために生きているのである。時たま、悩むことと頭を使うことを混同している人もいるが、それは180度異なることで、悩めば必ず太る。だから、いつも挑戦的に新しい事を考えていることが重要なのである。また、太る要因でもある、自分で甘い物やお酒類を控えたいと思っていても、精神が侵されているので、止められないのである。この理屈の、「分かっちゃいるけど止められない」のも「病気の一種」といえる。そして、2の体温との関連だが、人は体温維持の為に、食事から得られるエネルギーの75%を使っていることから、体温の低い人は、当然に太りやすくなる。また、いつも「暑い暑い」とぼやいている「太り気味の人は食べすぎ」で、それでも「やせている人は基礎代謝が高い」。病気や運動による発熱後の体重は大きく減っていることから、常々体温を上げる工夫が必要である。体温を上げると免疫力も大きく改善するといわれ、体温を上げることは、悪いことではない。さらに、次の3つ目の生活周期では、夕食の時間、就寝時間を徹底管理する必要があり、遅くとも、8時までには夕食を済ませ、就寝時間の午前0時には床に就くこととし、体自身が備えている「自動回復機能の邪魔」をせず徹底してそれに体をゆだねるのが良い。自律神経というぐらいだから、その機能を上手く使うのが良い。これら3つのことをまとめると、まず、よく頭を駆使し様々に神経を配り、体温を上げるための食事や血行改善に運動を心がけ、早めに床に就くのが良い。 これらによって寝ている間、体は自動的にじっくり最適化を行う筈である。だらだらと夜遅くまで、頭も使わず、体も動かさず、会社にただ残る事は、体を病気に導いているといえる。太目は、まさに会社習慣病なのである。

 さて、今日は、そんな常識的な話とは別の視点から見た「肥満解消」に関連した本の紹介である。これは、夜遅くまで忙しく働く女性に是非とも読んでおいてほしい1冊といえる。タイトルにあるように、「O型は深夜に焼肉を食べても太らない、血液型別「デブ」にならない食の法則」という本である。これは、病気の治療にも似た発想の、とても興味を引くタイトルで、暗に食に対する自覚や自己管理を促すものでもあり、一方で、他人と同じ食事をしていては、危険だということも示唆している。文章自体は、決して偉そうに理屈をこねた本でもないし、難しくもない。何故か筆者の信念のようなものがそこはかとなく伝わってきて、信頼できそうだし、納得したほうが良いと思える。結局、自分の血液型の解説を読んで驚くことになるが、単純に1日のカロリー数を制限する目標を実行しても、あまり安心できないことも分かってきた。確かに指摘は的確で、自分の考えに欠落しているものがあることが良く分かる。 また、血液型別の食物一覧表をじっくり眺めると、今まで自分が間違いないと信じていた事に根拠がないことも知り、驚いてしまうが「B型は蕎麦を食べると太る」らしい。それこそ、意表を突かれた感じで、「うわー、やっぱそうかー、まいったなあ」と、体感を裏付けられ、思い当たるフシが大いにアリアリなのである。一方で、「なるほど、それで俺は昔から乳製品が好きなんだ」と妙に納得したりもするわけである(嫌いな人はあまりいない)。まあ、人はそれぞれだけど、色々参考になることも多く載っているので、今後それを検証するつもりで、気をつけてみたいと思うが、自然に無理なく痩せたいと思っている若い女性には、ノウハウ満載で楽しく読めると思う。
興味のある方は、こちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21539&app=WordPdf

2010/03/12

さくらの芳香剤

  高級レストランで食事をしたり、美味しいお酒を呑んだり、良い音楽を聴いたり、旅先で素晴らしい風景を観たり、花の薫りに包まれたり、欲しかった物を買ったり、高級品を身に付けたりして、平素と少し違ったエクセレントな時間を過ごすことで、気分がリフレッシュして、いつもより生き生きすることがある。そんな時、人は自然に大脳から快楽物質を流して、漫然と停滞しているストレスを解消するらしい。確かに、思い当たる節もある。しかし、それを繰り返し続けると、ある時それ自体が、癖になり、次から次へとエスカレートする場合もある。もっと美味しい物が食べたい、とか、もっと高級品を揃えたいなど、それが徐々に欲望と化して、より大きな快楽物質を自ら求めるようになるようだ。

 このリフレッシュ反応は、僅かな時間しか継続しない。五感が「変化に対して反応する」といってもよい。あくまでも、僅かな時間の中で、瞬間に興奮して効果が現れるということである。また一方では、人の感覚は、すぐにその状況に順応し、冷静になるように出来ている。たとえば、美味しい食事でも、最初は「こんなに美味しい物が、こんな場所でいただけるのは素晴らしい!」と思っていても、会計伝票を見た時には、「何でこんなにするんだ!」と思うのに似ている(少し意味が違う)。したがって、そういう環境の変化に短時間しか反応しない性質を上手に使って、時々ストレスを解消すると良い。ストレスは、体に良くない。神経系統を緊張したままにするために、大きく体の免疫力が低下することが知られている。また、病気の原因とも深い関係があるとか、毒物を摂取するより、はるかにストレスの方が悪いと説くドクターも多い。また、歴史的にみても、人は肉体的拷問よりも精神的抑圧による方が早く自白を促す事が出来るらしい。身近な話としては、コストカット専門の偉い人と面談をすると、緊張して風邪の治りが遅れるのはそのためである。時には風邪が悪化してしまうこともある。それは、別の新たなストレスが加わった為かもしれないが、とにかく、ストレスが免疫力を支配しているといっても良い。 毎日、活力ある生活をするには、ストレスは大きな障害になることは確かなようだ。

 いまの時期は、花粉症に苦しむ人も少なくない。これは大きなストレスを生んでいる。最初は、敏感にくしゃみや鼻水として反応するが、時間と共に少しずつ免疫力で緩和され、何とか我慢できる状況になる。しかし、また新たな花粉が舞うと激しく反応してしまう。これが苦しい。もちろん、こんな時は窓を開けて春の空気を吸いたいとも思わないし、部屋の中は空気清浄機がフル回転することになる。そんな密閉された部屋の中で息を懲らしてしばらく生きていかなければならないので、イライラ感も増す。そこで、今日は一寸ストレス解消になる芳香剤を紹介したい。芳香剤は、もっぱらトイレ用と考える向きがあるが、それだけではない。部屋ごと異なる微香の芳香剤を使うことで、部屋を移動するだけで薫りの変化に体が反応し、少し安息できるからである。この類の商品は、季節に関係なく自由に花の薫りを楽しめるので、お好きなものを選んでみたい。ただ、どんな高価な芳香剤でも、生花にはかなわないので、鉢植えの生花を部屋に置く方が良いが、スペースがないときは、もっぱら芳香剤の恩恵にあずかるのが良い。

 今日紹介するのは、「さくら」の薫りの芳香剤で、京王フローラルガーデンで購入した物。そうそう、あの蝋梅の写真を撮影した庭園で、種類も揃っていて調布の方には特にお勧めである。芳香剤とか、香水、等の薫りを発生する物は、価格に比例した内容を備えており、高価になるほど自然で濃厚になることは御承知だと思うが、今日紹介するのは、あくまで小安い価格(700~800円)なので、部屋ごとに異なる物を用意して、部屋を移動するたびに体が反応するように設置するのが良い。今日紹介する、桜の薫りは一足早い春の気分になって、安息な日々を過ごせる。これが、なかなか気分も改善され効果的なんだな。
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2010/03/09

薄皮ミニパンシリーズ

  最近の食品は、ちょっと懐かしさをイメージしたパッケージ・デザインや古くから親しみのある原材料を使って、年配者を上手に取り込んで購買に結びつける商品が増えている。古くから口にしてきた食材の流れを受け継ぎ、昔を思い起こさせるデザインは、安全や安心感があり、少々高くても売れるのだという。ここでも、昭和の歌謡曲を懐かしむのと同じ様な現象が起きているに違いない。また、期間限定とか、発売記念とか、創業記念とか、付加価値をつけた商品も売り上げを伸ばしているという。それでも、やはり割安感のある商品には敵わないとも言われ、やはり、食品はいつも価格と品質がシビアに追求される商品と言えよう。

 さて、今日紹介するのは、様々な工夫を凝らした菓子パンの紹介である。いやいや、何も高級な菓子パンを紹介しようというのではない。何処のお店にも置いてあり、財布にすこぶる優しく、食べて満足度120%、おまけに豊富なバリエーションが楽しめる薄皮のミニパンである。「あっ、知ってる、食べたことあるよ!」とおっしゃる方も少なくないと思うが、何処のお店でも空前のヒットを飛ばし続ける、この「ヤマザキ製パンの薄皮ミニパンシリーズ」は、1袋に小さなパンが5個入っており、お店によっても、品物の種類によっても、多少ばらつきがあるものの 1袋110~140円 前後で販売されている。

  このデフレ時代の感覚にジャストミートした低価格のミニパンは、大型スーパーからコンビにまで、幅広く取り扱われ、とにかく売れに売れている。理由は、若者からお年寄りまで、幅広い層になじみ深い味わいと、小さいけれど価格を越えて美味しいからだ。以前から製造元のヤマザキでは、1.つぶあん、2.クリーム、3.白あん、4.チョコ、5.ピーナッツの5種類を常時ラインナップしているが、この程度の定番なら何も新しくも珍しくもない。しかし、頭についた「薄皮」という言葉にちょっと気を引かれ、1度は食べてみようと、そそられるのである。甘味党には、この薄皮でたっぷりと詰め込まれたあんこが、嬉しいに違いないが、ちょっとうるさい「じいちゃん、ばあちゃん」にも、このあんこの美味しさは評価されそうだ。おまけに、主婦の方にも手に取りやすいように、同社30周年記念の白いオーバルディッシュ応募点数シールも付いている。

  さて、ヤマザキの戦略は、そのラインナップだけに留まらない。今日のpdfの写真は、そのシリーズの新製品を3種類用意してみた。1つは、もう見ただけでも、興奮する「黒糖入り 栗つぶあん」で、これ以上美味そうなイメージがする菓子パンはない。2つ目は、「よもぎ入り つぶあん」、これも「おばあちゃんのおもち」を思い出すような懐かしい風味のパンで、薫りが高く美味しい。いまどき、とっても嬉しい一品である。そして、もう1つ、3つ目は、なんで俺の好きなものを知ってるんだぁ~と思える「練乳ミルク&つぶあん」である。この練乳ミルクといえば不二家のお家芸だけど、なるほどヤマザキはグループ会社の得意技までミニパンに利用するのか、形振り構わないのが嬉しい。売上げを伸ばしている商品の企画は、何処までも強気のようだ。そして、もう1つ、今日は入手できなかったが、「桜の葉の入ったあんパン」もあるらしい。これも、じいちゃんばあちゃんには受けが良さそうだ。

  この、薄皮という饅頭独自の言葉イメージに、年配の甘い物好きを虜にする「あんこ」をベースにし、子供のおやつにもなる大きさと、記憶に残る美味しさとでも例えればよいのだろか、一種の懐かしさを呼び起こす食材を組み合わせ、様々なバリエーションを用意して、さらに顧客のニーズに応えようとしている。今後、この薄皮ミニパンシリーズがどこまで種類を増やし、売り上げを伸ばせるか、じっくり見守りたいものである。pdfの写真には、追加で伊藤園の「おーい お茶」、20周年記念の紙パックで、際立つ薫りの「緑茶とほうじ茶」2種も配置した。
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2010/03/05

優れた1冊

 良い本に巡り合うことは、人生のガイドになる事がある。特に健康や病気に関する本は、食事や生活態度まで変えることになる。確かに、良い本とは、読み終えた読者が判断することで、他人がとやかく言う事でもない。しかし、いくら良い本でも、自分の知識を拡張し、それを活かして実行環境に移せることも重要な要素といえそうだ。そこまで考えられている、つまり「理論と実践」をバランスよく備えた本は、普遍的な良い指導書とも言えるし、役に立つ本でもある。

 体は歳を重ねると、知らず知らずのうちに、年々好まざる方向へ追いやられてゆく。ただ、頭の中には古い良いイメージだけが残っていて、「自分にはできる」とか、「自分は健康で、それがとりえ」と思っている人も少なくない。これは、大変危険なことで、予想外の展開を生む事がある。丁度、去勢をした強い猫さんが、相変わらず夜中に縄張り争いに出かけ、興奮状態のまま「こんなはずではないのだけれど」と大怪我をして帰ってくるのと同じである。つまり、自分の体の状況を正確に評価して、正しい知識で、その年齢なりの注意をしながら、努力を惜しまないようにする必要があるようだ。

 実は、最近、年甲斐もなく甘い物を取り過ぎたようで、若い頃に比べて太ってしまい腹回りが規定値より2.5cmオーバーになってしまった(このような言い方が適切とは思わないが、自己ベルトを6cmも更新している)。その腹回り縮小のために、「メタボの解消法」を分かりやすく書いてある本を探していたのだが、できれば、健康診断の検査項目を分かりやすく掘り下げてある本もついでに買おうと思っていた。そんな折、健康コーナーの本棚にある幾つかのタイトルの中から、たまたま偶然にこの本を見つけてしまい、つい引き込まれて大半を読んでしまった。自分の目的はよそに、「本つくりの視点」から、この本は、取り扱うテーマとしても、構成としても、大変良く出来ていると関心したのである。 それが、今日紹介する「肝機能を高める知恵とコツ」である。

 実物を書店で閲覧してもらうとすぐに分かることだが、内容が理論的で読みやすいことは勿論なのだが、コンテンツの並びが優れている。肝臓の働き、肝臓の検査、食生活のありかたと調理の実例、ツボ刺激法、漢方薬と健康食品、酒との付き合い方まで、お酒のみの編集者が肝臓を痛めてしまい、そのために様々な改善法を徹底取材し、どうすれば、肝機能を高められるか、あらゆる情報収集と手立てを試し、その流れが紹介されているようにも思える程だ。この本には、50人近い先生方が係わっていて、多角的な視点を備えて信頼性も極めて高く、ここがとても安心できて良い。さらに、ページ立ては、さすがに老舗の「主婦の友社」だけあって、本作りのノウハウがふんだんに投入されている。特に、手作りの健康食のページなどは、手馴れた感じで、きめ細かい写真は素晴らしい。余計なことかもしれないが、多くのエキスパートを抱えていると、このような本が作れるのかと感心してしまうほどで、オールカラーと紙質も嬉しい。しかも、これを1,300円で販売できるあたりは、ちょっと他社には到底真似できそうもない。さすがに老舗の強みを上手く活かしている。

 主婦の友社には、ベストBOOKS というシリーズがあり、この本はその中の1冊のようだ。肝臓に係わる知識として断片的な、既に知っていること、知らないことが、よく整理でき、「うん、うん、なるほど、やっぱりかぁ、と昔から言われていることには根拠があるんだ」と理屈やその関連性にも納得感がある。まさに「ベストBOOK に拘る」だけのことはあると思える。ついでに、他のベストBOOKS も片っ端から読んでみたくなる。

 一般論として肝臓は、大人しくしているが決して特殊な臓器ではなく、まさに体の各ステージに適切な供給をする電源回路みたいなもので、この一部にでも障害が発生すると体全体に影響を及ぼす。お酒を嗜む方は勿論のこと、より健康で元気な毎日を過ごしたい方、綺麗にダイエットしたい方、ヒキガエルのようなお腹を抱えた方、さらに、病気が長引く人にも参考になる。是非家庭に1冊用意しておいてほしい。おっと、用意するだけではいけない。しっかり読んで、家族みんなで実践してほしいと思う。何せ1,300円だから。
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2010/03/02

弁当シリーズ6

 今年は、公共機関でごねる人が目立つようだ。大きな声で、「俺なんか、もう税金なんか払いたくねえよ、平成の脱税王は、誰か知ってんのかあぁ?」 と文句を言いながら、くたびれた皮の鞄から数百万円取り出して税金を納めるじいちゃんがいる。大人しく番号札を持って座っていても、人それぞれに川柳のような一言があり、ここでは、笑いが絶えないのである。そうやって、支払う人は、何かと文句ばかりつけるが、受け取る方はぺこぺこと頭を下げながら「はい、はい、そうですね」と、もっぱら下手である。ここは、税務署の2階にある納税課である。

 一方、ここの1階では「確定申告はこちら」と書いた札の前を通り、遊園地の行列のようにくねくねと曲がった待ち順路を通って、偉そうなおっさんの前に出る。そして、おもむろに袋から「こちらが、青色申告決算書、これが譲渡所得計算書、そしてこれが確定申告書Bです」と真面目な物腰で、あくまで丁重にお話申し上げる訳である。相手にお願いする時は、ここでは「先生・・・・」になる。ここに、鎮座されている数名の方々は、税理士の中でも選りすぐりのプロで、チェックは鋭く早い。まあ、限られた範囲の条件で、しかも、国税局のホームページのソフトは良く出来ていて、確定申告Bなどは、誰がやってもそれなりの結果が得られるし、おまけに知らなければ、知らない方が損をする仕掛けだからさほど心配はないようだ。提出する側としては、青色決算書と譲渡計算書に関しては、余計なことに気がつかないで欲しいと思ってびくびくしているわけである。だが、今日も、大して見もせず、すかさず納税票に金額を書き込み、「2階でお願いします、お疲れ様でした」と冷たく言い放されてきたのである。まあ、巧妙な裏技は、そう簡単に見つけられるものではないとも心得ているようだ。この、1階と2階の立場の逆転は恐ろしいくらい人間性を顕にするわけで、歳を重ねれば一寸あつかましくもなり、納税の厳しさも身にしみているということなのだろう。わかるなー。それにしても、国税だけでこれだから、市民税とあわせると、確かに態度も変貌して当然かもしれない。

 私は、会社分と個人分と年2回程税務署を訪れるが、いつも、月の変わり目の日で、丁度お昼休み時間あたりが空いているので、この時間帯を狙って来ることにしている。すると、時々、弁当持参のじいちゃんを見かけるのである。納税してもすぐには帰らず、この納税課の居心地がよいらしく、たむろしている高額納税をしたじいちゃん同士が集まって近況報告会兼食事会を始めるようである。彼等は、あつかましくも、「お湯の出るところは何処」とか言って、窓口の人を顎で使っている。窓口のお姉さんも良く心得ていて、その様子は、たわいもないことばかりで、納税課から見ると親切なのだが、小額納税者の私から見ると、あたかも、銀座の高級クラブさながらのサービスのように見えるのである。どうも、じいちゃんは、近くの地主さんのようにお見受けした。今日も、そんな状況を目の当たりにして、税務署でそんな気分を味わえたら幸せだろうなと思うばかりである(そんなの、ありえねえ)。

 さて、その、筋張ったじいちゃんの手元にあった弁当は、たっぷりと牛肉が乗った御飯と別に野菜の煮物で、それが、妙に美味しそうに見えしまい、つい同じ様な弁当を購入して帰ってきた。そんなことから、それほどの高額納税者でも、この程度の質素な弁当で済ませていると思ってもらって良い。そういう意味で、我々のお昼は納税額の割には、カロリーが高すぎるかもしれない。 もっとカロリーを抑えて、長生きして高額納税者になりたいものだ。
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