2008/12/30

続デジタルカメラ13

 人は、その時の気分次第で目の前の風景の見え方が変わる時がある。それは滅多に訪れることはないが、そんなタイミングを「1つのきっかけ」にすることが、自分の「活力を蘇らせる」チャンスである。

 いつもの空間が、いつものように見えるのは自然なことかもしれないが、実は、視覚から入る情報を、大脳は大雑把にプロットし「同じ」であることを認識するだけで、処理を流している。つまり、過去のデーターと、いくつかのポイントで照合しているに過ぎないのである。そして、四季を通じて、春とか、秋とか、その異なった「差分」を素早く認識することで処理を終了するのである。それは、自分がそういう「流し処理」をしたい、あるいは、すばやく「片付けたい」と無意識に考えているからに他ならない。

 今日まで、毎日仕事が忙しく、最近は防衛本能のみで日々を過ごし、日常風景の中にある木々の変化など、全く気にも留めなかったのに、ある時、会社の将来性に先が見えたり、人間関係にキレてしまったり、なんとなく自分の中に空虚な実体が生まれたりするときがある。そんな時、過去の仕事を振り返りながら、ふと落ち着きを取り戻すと、周囲が新鮮に輝いて見えたりするのである。あるいは、定年を迎えてゆったりとした時間が出来て、書庫を整理しながら、ふと庭を覗くと、記憶とは違う別物に写ったりすることもある。

 つまり、落ち着いて物事を処理する気分になると、今まで気にもとめなかった現象に気づき易くなる。木々の生命力に驚いたり、雲の動きに感動したり、日差しがいつもより輝いて見える事がある。これは、人が人としての「本来の活力」を取り戻している証拠である。そして、「次の夢を持ちたい」と願う時期でもある。もし、今それを実感していたとしたら、自分の「絶対的な実力不足」を徐々に感じ始めなければならない。本来、最初にそのことに気が付かなければならないが、なかなか自己を否定できないのが現実だ。この「年齢に対する能力」の極端なアンバランスを実感してこそ、人間(=大脳を駆使する動物)なのである。

 多くの時間を過ごす会社は、人を育てる場所ではないし、自然に成長できる場所でもない。知らず知らずの間に、会社という集団心理に感染し、潜伏期間を過ごしているにすぎないし、恐ろしいほど世間との「能力差」を生みながら、帰属意識に自己満足してきたのである。だからこそ、今、大いに反省し、自分に不足しているものは何かを探し求め、埋めていくために良いチャンスになる。自分の欠落部分を補ったり、誤りを修正して、「自己をバージョンアップ」する時期に来たと言えるのだ。 今までの大脳処理と同じ様に、毎日安易な「パターンの流し処理」に慣れてしまい、これからも、それでよいと思ってはならないのである。

 またまた、偉そうな話になってしまったが、自分のために大脳を上手に使い、毎日注意深く過ごそう。今日は、普段は気にも留めない、通勤途中にありがちな路上風景の1シーンであるが、どちらの色が記憶色に近いか見比べてほしい。もし、同じような場所があったら、たまには近づいて実物をじっくり眺めてみてはどうか。 このシリーズはこちら。 (初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)
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2008/12/26

粗碾そば

 たいがいの小説には、若干の「無理」がつきまとう。中でも、その、「ありえない、きっかけ」が面白いのである。「若手気鋭の検事(小野木)と、年上の美女(頼子)。偶然に出会う二人は、やがて恋に発展するが・・・・。頼子は人妻であり、小野木は、自分が携わる事件の捜査線上に、頼子が深くかかわっていることを知る。・・・」 我々は、その文章の描写力と非現実性に酔いしれ、その「ありえない、きっかけ」を、運命の必然性であったかのように思い込んでしまい、「こういうことも、あるんだあっ」と、知らず知らずのうちに事件に巻き込まれてゆくのである。その「砂の器」を描いた「おっさん」はいったいどんなやつなんだ。

 老舗の蕎麦屋には、「その蕎麦を愛した人達や、その蕎麦のいわれ」が書かれてあることがある。一種の「美味いんだぞ強制力」というか、悪あがきな「宣伝」と流してしまいがちだが、その人達を知っている客人には、大いに親近感が湧くのである。そして、そのいわれを知識の一部に加えて、時々「ひけらかす」のである。かつての文豪と呼ばれる人達は、とても蕎麦とのかかわりが深く、蕎麦をこよなく愛していたらしい。どうも、このおっさんも蕎麦好きで、深大寺を幾度と無く散策取材し、原稿の構想を練ったり、その「門前」で蕎麦を楽しんでいたようである。そして、いつか、「はるか遠くの点と、この門前を、蕎麦好きという線」で結び、新たな蕎麦を創造してしまったのである。この、奇想天外な発想力は、やはり只者ではなかったようだ。

 ここ、調布の深大寺と島根県の亀嵩(砂の器)を粗碾の線で結んだのである。それは、普通 「ありえない、きっかけ」でもあり、若干の「無理」があると言われるかもしれないが、彼には、そんな強引な距離感が普通のことであったに違いない。そんな、その島根県 亀嵩の蕎麦を、今、この深大寺でいただけるとしたら、それ自体、やはり「小説より奇なり」と思えるのである。その蕎麦こそ、深大寺の「門前」で出されている「粗碾そば」である。つまり、この蕎麦をいただくことで、文豪 松本清張のこだわりや嗜好を垣間見ることが出来る。その食は人であり、その「ひとなり」から描き出された、「個人の中に潜む魔性」の意図するところを、自分も深く心に戒める事が出来るのである。

 深大寺へ来たら、この「粗碾そば」を絶対に外してはならない。さらに、松本清張ファンなら、数々の著作に共通する「予想外の展開と高い論理性」が、この蕎麦の持つ「薫り高き、こしの強さ」に息づいていることを知るに違いない。そして、さり気なく、商業ベースに乗った蕎麦とは、品格の違いを知ることになるだろう。

 ということで、年末年始で時間に余裕のあるときに是非訪れて、壮大な「創作ロマン」に浸ってもらいたい。オーダー時は、あくまでも、「粗碾そば1枚」で済ませよう。オプションの天婦羅は論旨から外れているし、それは食べすぎである。

 今回ページは、「画像比較シリーズ」と混同してしまいA3になってしまった。だから、拡大は出来ないが、ご覧になるときは、画面の隅にあるグレースケールの黒とその隣が区別できるよう(レベル50相当)に「画面の明るさ」を調整していただきたい。終わったら、元に戻す(レベル30程度)ことをお忘れなきように。 ではこちら
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2008/12/24

OGGI のお菓子

 歳を重ねた人達は、お菓子等でいまさら 「美味しい」 と感動することは、あり得ないと思っている。もっとも、体の事を考えると、できれば平素から甘いものは、控えたいとも考えている。はたまた、甘いものは、最初から受付けない人も少なくない。しかし、そんな人達も、このお菓子だけは 「美味しい」 と誉めるに違いない。今日は、そんな ㈱オッジーのお菓子を紹介するが、購入時はあくまでも、「ちょっとだけ」にしてほしい。

 このお菓子は東京、目黒製である。OGGIは、イタリア語で「今日」という意味らしい。創業は、30年前の1978年である。今日まで、頑固に天然素材にこだわって、毎日丁寧な菓子づくりを続けてきた会社である。オッジーの商品は、いつも中高年から熱い視線を注がれてきた。それは、創業当時に若者だったファンが、歳を重ねても離れられない魅力があった、ともいえるが、本物を知る年配者が取捨選択した1つの結論なのかもしれない。ショコラ デ ショコラをはじめ、生チョコレートケーキやチョコレートクッキー、オレンジピールなどの、その独創的でアーティスティックな味わいは、人々を虜にしているのである。

 どのようなお菓子も、製造者はお客に本物を提供したいと思っている。そのために、まず天然素材にこだわり、余計な添加物を加えずに素材の「美味しさ」を引き出し、独自の工夫で「上品な甘さと深い味わい」を育んできた。そして、その品質にこだわり続ける姿勢こそが、製造者の熱意を「客からの信頼」に変える手段なのである。それが、長い間お客をひきつけ続ける要因にもなっているのだ。

 たまに、自分も「ちょっとだけ」美味しいものを食べたい、あるいは、知人、友人、あるいはお世話になった人へ、ちょっとした、お使い物、贈り物にと、それにも評価されているのである。このことは、大変重要な要素といえる。大切な人への贈り物は、あまり高額であっては、返って相手に気を使わせてしまう。だから、そこそこの価格で、少量でも飛びっきり 「高品質で、美味しい」 ものでなくてはならない。贈られた人は、それによって 「上質の美味しさ」 を知り、贈り手のセンスの良さとか、肉親にも似た親近感を認識すのである。そして、そういう知人を持ったことを誇りを感じるのである。このようなプロセスは、職業や年齢、上司と部下といった枠組みを取り払い、より互いに気持ちが通じるのである。このことは、他に手段が無いと言っても良いくらいだ。今日は、そんな天然素材の上品なお菓子を、小細工の一切無い白バックの写真で伝える。
ではこちら
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2008/12/20

続デジタルカメラ12

 一般的に、パソコン等の液晶モニターを明るくすると、色成分は蛍光色気味になる。また、高精細ピッチになればなるほど顕著で、明るさを落とさなければならないし、全体的に色も薄くなる。この振る舞いは、CRTモニターも同じだが、デジタルカメラの画素ピッチも同様で、高精細になれば蛍光色というか、色が薄くなる。受光素子の数を増やすと、その境界にとられる面積も多く、全体で色分解する面積が減るためである。さらに、色フィルターも面積自体が小さくなるため、明るさの直線性に対して色の飽和が早まる。デジタルカメラは、1000万画素より1500万画素が良さそうに言われているが、少し明るい画面だと色味がどんどん減っていき、つまらない画像になる。もっとも、人の目は、遠くの小さな物体は白黒でしか認識できないため、風景などの撮影では、こんなもの!とつい納得してしまうが、画素数の少ないカメラ画像と比較してみるとよく分かる。

 お散歩カメラは、この線上にある商品なので、このあたりが敏感で、気をつけて撮影しなければならない。明るい情景は、色がパステルになりがちだ。ノイズは、受光面積に比例して浮遊容量が増えるためCCDの面積に比例して増大するが、画素ピッチが大きくて飽和レベルが高い方がダイナミックレンジの点で有利である。したがって、彩度の高い被写体は、やはり露出をアンダー気味で撮影する必要がある。解像度を求めるにもその方が有利だ。

 このような経験から、大きさや重さ、さらに形状でかさばるが、同じ1000万画素でも、フォーサーズやAPS-C等、大き目の受光面積のカメラを求める人は多い。ちなみに、ここで紹介しているカメラの仕様を見ると、CCDの大きさの比較では、Fujiは1/1.6inch Panasonicは1/2.33inch となっている。米粒を並べたぐらいの大きさで、比較すると4:3程度の違いがある。Fujiは、Gchを大小2個を使用しながら1200万としているため、実質のRGBは、さらに少なく3/4 相当(約900万画素)と見るべきが妥当である。Gchを大小2個としているのは、高照度を、小さく感度の低い受光部が担当し、暗部を、大きく感度の高い受光部に担当させているためである。Panasonic は米粒3個程度の受光素子にもかかわらず、それでも均等に1010万画素を詰め込んでいる。

 これらの画素の大きさや、Gch 2個使いの仕掛けが最終的に画質の違いになっていることは確かなようだ。大型高精細の液晶モニター上で再生すると、明度の高いクロマ成分が蛍光色気味に表現されてしまうので、判断が付きにくいが、Full HDプラズマで見れば画質の差は明らかである。また、高精細といえども、Full HDは200万画素しかないため、1/4~1/5程度のダウンスキャンで見ることになる。このためには、ジャスト1/4または1/16と整数倍で見るのが妥当で、変則値でのダウンスキャンは画像がボケたり細部で崩れたり、無くなったり、偽信号が出たりで適切とはいえない。今日は、そのような明度の高いクロマ成分が多く含まれる画像を見ていただく。場所は、家の近所の深大寺である。時間のあるとき(年末年始)にでも寄ってほしい。そこで、来週ここの「蕎麦」を紹介したい。
 このシリーズはこちら。 (初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)
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2008/12/17

自作料理6

 違いの分かる男は、秋刀魚に檸檬汁なんぞかけたりしない、「すだち」に決まっている。この酸味の違いを知ることは、重要な味覚の基礎である。また、秋刀魚の表面に残されている塩の中に旨みを感じ、さらに「本醸造の醤油」をたらし、塩分の含まれた食材に塩分の含まれた調味料で旨みを引き出し、食欲をそそる。これこそが、日本人の節度ある貧欲な食べ方であり、味覚の原点でもある。 しかし、忙しくて活動的な若者は、秋刀魚なんぞよりも、ステーキが良いと思っている。塩と胡椒で表面を少し焦がした良質のお肉の旨みは、それだけで最高だという人も少なくない。 いずれにしても、塩は料理に重要な役割を果たす。

 海水から取れる自然塩には、マグネシウム、カリウム、カルシウム、亜鉛、マンガン、銅、クロム、ヨウ素、のほか様々なミネラルを多く含む。これを最近まで上手に生製する事が出来なかった。前回紹介した「ぬちマース」は、海水を霧状にして、空中でミネラルを瞬間的に結晶化させる国際特許製法によって製造され、「最もミネラルを多く含んだ美味しい塩」として評価されている。おおよそ1g10円である。ちなみにこれは、一番絞りのエクストラ・バージン・オリーブオイルよりも僅かに高いものになっている(へー)。

 今日は、そんな自然塩を積極的に利用したものを使う。「かたくちいわし」を長時間「塩熟成」させ、オリーブオイル漬けにした「アンチョビ」である。アンチョビは、高血圧になる可能性がある年配の方には、お勧めできない(一般論)が、実は、カリウムが塩分を放出するため、神経質になる必要は無いと思う。だから、命がけの食材ではなく、それこそ、枯れた大人の食材である。

 アンチョビは、そのままピザのトッピングとして、また細かく裁断してドレッシングに添加したりすると、粗末な料理でも一転して上等でお洒落な味になる。イタリア・レストランなどでも、メニューにはふんだんにアンチョビの記述が見られるが、実際の料理には、実体を認識することは少ない。 そんな姿無き不満を一挙に解消するため、アンチョビのフィレを贅沢に使って、枯れた大人の味を強調する。自作料理は、素材をけちけちしないで、その旨味を強調してこそ嬉しいのだ。 そして、それを食べることで、初めて「堪能する」という言葉が使われるのである。

 ブロッコリーは、マーケットで購入し、5分程度湯通しをして鮮やかな緑を強調する。アンチョビは、アヲハタを使っている。残ったアンチョビは、別の容器に移しておく、塩分が多いので腐りはしないが、早めに別の料理に使用する。今回のポイントは、パスタを茹でるお湯の塩分を少なめにしておくこと、これが重要である。そして、アンチョビとブロッコリーを合わせ、塩の加減を調整する。さらに、大き目のフィレを盛り付けて仕上げる。アンチョビ・ファンなら、今日は、徹底してアンチョビの旨味を堪能してほしい。
ではこちら
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2008/12/13

続デジタルカメラ11

 優秀なトレーナーは、アスリートに実際よりも程遠いトレーニング・メニューを実行させる事がある。何の役に立つのか分からないが、無心にそれをこなすことで、知らず知らずのうちに目的にあった体になるらしい。そして、実践では良い成績を収めるのである。本人は自分に才能があるのではないかと、有頂天になるが、トレーニングを怠ると、やはり簡単な事が出来なくなる。そして、再びトレーナーと対話する。そこで、やっとその練習の意味が分かり、納得をする。「わかった、なるほど、そうだったのか」と。ブルースリーの話ではないが、基本が想定外のところにあるトレーニングは、いくらでもあるようだ。もちろん、写真撮影も例外ではない。

 たとえ、どんなにとっさの思いつきでも、被写体とも言うべき「空間」をどのように写し取るか、それを瞬間的に要素分析するのがカメラの操作とそのフレームワークである。こんな、頭では分かっていそうな簡単なことが、いざとなったとき出来ないのは、基本を忘れている証拠ともいえ、大いに反省をしなければならない。

 書籍をいくら紐解いても、取扱説明書を難度読み返しても、書かれていない事がたくさんある。そんな時、子供の頃を思い出し、虫眼鏡で色々な物体を見るトレーニングをするとよい。時間のあるとき、様々な被写体をそれで覗くのである。カメラのファインダーをいつも覗き込んでいると、「たいした写真も撮らないのに、カメラばかり触っている」と回りから批判されるが、虫眼鏡だと、「父さんも、年とったんだなあ」と思われるくらいですむ。時には、太陽光で何かを焦がす事があるかもしれないが、それもトレーニングの1つと心得よ。じっくり、その中に写ったものを観察し、実物と比較してほしい。

 そのうち、少しづつ分かってくる事がある。そして、答えを自分で見つけた時、再びカメラを手にし実践してみるとよい。基本とは、「ゆるぎないもの」でなければならない。そのためには、原理原則が分かりやすく、単純な構造体を手にして経験を積むのが一番だ。それは、「お散歩カメラ」だけにとどまらず、35mm、6×6、4×5 まで、すべて共通して使える「普遍の理屈がそこにある」ことに気づく。

 このトレーニングは、運動能力を鍛えるのではないので、シャッターを切った回数や、山に登って写真を撮った回数等には全く関係は無いし、生まれ持った感性とも程遠い内容である。すべての自然現象には理由があり、そのルールを理解して、カメラに応用させた者だけが味わえる基本撮影技術がそこにあるのだ。

 今日は、訳の分からない「偉そうな能書き」だけに終始してしまった。電車を降りる時、いつも、「ちょっといい感じ」と思っていた。地元の駅は照れくさいがシャッターを切ってみた。場所は京王線の柴崎駅である。
このシリーズはこちら。 (初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)
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2008/12/10

舶来お菓子1

 今、輸入物が少しづつ安くなってきた。とりわけ、輸入菓子店では、円高還元セールとかで購買意欲をそそるポスターが貼ってあり、人だかりも多いし、試食コーナーなんかもあったりするので、何気なく覗き込むことも多い。国産品には申し訳ないが、舶来品は特別パッケージデザインが優れていて、特にヨーロッパ系のその「色使い」には、つい心を寄せてしまう。中身は未知でも、その優れたパッケージ・デザインの魅力によって「ひょっとしたら、美味しいかもしれない」と勝手な想像をしてしまい、つい購入する人も少なくないだろう。私も同様の経験があるが、それは、人として正常だと思っている。その場で、「物は試し」という気持ちと、優れたパッケージデザインに対価を支払う事を覚悟してしまうのだ。

 どのような商品でも、パッケージ・デザインは商品を象徴したものであるべきだと心得る。特に、何度も購入するものは、個性的で異色を放つものがよい。製造者が販売者であるとは限らないため、どのような環境でも「商品を個性で自立させる」必要がある。それを上手に表現するには、やはりパッケージでしかない。我々は、そのデザインの持つ魅惑の罠に知らず知らず引き込まれ、購買意欲につなげてしまうのだ。人は誰でも「美しいものに弱い」。それにしても、中身は案外意表を突かれ、当たり外れがある。簡単に不味いとは言えないが、「失敗!」のカテゴリーに入れてしまうことも少なくない。

 今日は、そんな未知の舶来お菓子の中から、我々の口にもぴったり合う「いけてる」やつを紹介しようと思う。 こんな、「チョコレート・クッキーは初めて」である。どのように「いけてる」のかを知ってもらおうと、チョコレート・クッキーのカットモデルをこしらえた。作業前にまず、20分ぐらい冷凍庫で冷やし、硬くなったチョコレート・クッキーを、フランスパン裁断用カッターでゴリゴリ削りながら、切りそろえようとするが、何度も失敗をしてしまう。中がクッキーになっているため、途中でよく割れてしまうのだ。また、こすり過ぎるとチョコレート・ガナッシュが溶け出し、断面が汚くなってしまう。普通なら理屈どおりに行かないと腹も立つが、その断片からは独特のチョコレートの薫りが漂ってくるせいか、何度失敗しても心地よい。作業が長引くと、照明の熱で表面のチョコレートがすぐに柔らかくなるので適当にすることにしたが、この商品を「知ってもらう」気持ちは、製造者と同じかもしれない。まさに、写真と文章による伝言ゲームだ。この二重の「魅惑の罠」に耐えられるか。

 もちろん、このような商品の特徴は、写真や文章だけで簡単に伝わるものではない。この分野に明るく、美味しいものをよく知っているあなたに「ベルギー産」と付け加えることにする。 もちろん、糖尿病予備軍には極秘扱いだ。ここで見たものを決して、彼等に話してはならない。
ではこちら
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2008/12/06

続デジタルカメラ10

 映像は、写真にしろTVにしろ、広い意味で、諸先輩方からの暗黙の指導によって成り立っている。これらの技を上手に取り入れて、より優れたものを目指す人も多い筈だ。一方、徹底した現場主義で自分の経験のみ信用し、それによって画像哲学を確固たるものにする人もいる。また、光の原理やレンズの持つ性質を研究しながら理屈のみで自分のスタイルを確立している人も少なくない。このように、映像表現は、様々なアプローチ方法があってしかるべきである。

 ここで紹介している 「お散歩カメラ」も、それなりに市民権を得て、魅力ある写真を公開している人も少なくない。ご本人にとっては、恐らく、なんでもない写真なのだろうが、「あっぱれ!」と関心する例も多く、その鋭利な刺激は心地よい。しかし、カメラのグレードの高いコーナーに、そのような優れた例が見当たらないとは皮肉である。

 今までの画像比較は、2種カメラの標準設定の比較だったが、今回は、もう少し積極的に画像を作るという視点で微調整をしてみた。かつてのカメラファンは、フイルムを交換することで、フイルム・メーカー独自の色調、分光感度やコントラスト、あるいはガンマを選択できることから、フイルムによって様々な個性を画像に反映してきた。また、そのような小細工によって、実物よりも、よりインパクトの強い画像を志向してきたともいえよう。この背景に潜んでいるものは、カメラ本体やレンズなどの機材の持つ限界であるとか、あるいは、自分の感性に自ら飽きるという、創作活動自体の限界を早々と感じてしまうためでもある。それは、道具自体に自分の能力以上のものを期待している依頼心からくるもので、技術や感覚を研ぎ澄ます前に、機材に責任転嫁をしているといってもよい。もっとも、その安易な要求が、カメラメーカーを育ててきたという歴史的背景も否定できないが、所詮、身近な風景や自然など、実在するものに向かい、ただシャッターを切ってリアリティーを追求するだけの写真では、早々と結論が出てしまう。

 今日は、そんな伝達情報の少ない情景の「勝手な切取型」の写真である。お散歩カメラでは、少々荷が重いフレームではあるが、意外に、その場の雰囲気に負けてシャッターを切ってしまった。こだわりがあるわけではないが、「このカメラで、どの程度いけるのかな」とちょっと興味があったのだ。これを見て、「お散歩カメラ」の画質の限界と、その使い方次第の可能性を確認してほしい。 場所は京王線の高幡不動尊である(やはり、美味しいお店は無くなっていた)。
このシリーズはこちら。 (初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)
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2008/12/03

自作料理5

 料理づくりは自分にとって、1つのイベントである。「1度食べたことがある」という記憶と、自分の持つ少ない発想でまとめ上げるところに面白さがあるが、すでに空腹を抱えていると、段取りを考えながら、「最も早く作る」ことに執着する。それにしても、「何を食べようか?」と自分に問いかけるところが一番苦になるところだ。たいがい、空腹時は「食べれれば、何でも良い」という気持ちが先走り、材料を冷蔵庫から物色する。「ちょっと違うな」と思いながら、そこに存在するもので何か作れないかと、さらに、「考えが閉鎖的」になるのが普通である。

 誰も、それを監視しているわけではないので、自由に考えればよいのである。食材が無ければ、ひとっ走りマーケットまで出かけてくるのも良い。そして、材料を目の前にして、食べるときの事を思い浮かべながら、ボチボチと楽しむのである。

 添付のPDFと、同じものを作って「本当に、美味しいね」なんて、オカマチックに同調してほしいわけではない。意地でも 「他人が作ったものなんか美味い訳がない」 と思ってほしいのである。ここでは、あくまでも、創作意欲をそそり、自分も 「何か作ってみようかな」 と思ってもらえればよいだけのことである。現代人には、そんな、創作することの面白さを満喫する自信さえ失っているし、美味いものと、一寸美味しくないものの区別さえ曖昧になっている。だから、美味いものは、一流シェフのいる、評価の高いお店へ出掛けないと駄目だと思っている人も少なくない。 味覚まで他人任せなのである。そんなことでは、これから会社で「新しい仕組みを作る役割」は果たせる筈はない。そこで、これからの時代の、担い手になるトレーニングとしても、「自分の考えを具体化する」経験を積む必要もあるのだ。だから、料理ぐらい、こだわって作ってほしいものである。

 そんな志向の中で、今日は平凡な、ベーコンとほうれん草のスパゲッティーである。身近にある材料を磨き上げて完成させる。このポイントというか、検討結果はベーコンの厚みにある。厚切りベーコンを少し時間をかけて、ベーコンの脂肪をフライパンの熱で搾り出すところが重要だといえる。抽出した油は、小さめのキッチンタオルなどでふき取りながら作業を進める。大方、油が出つくした頃に、ほうれん草を加えるが、ほうれん草は冷凍タイプでも、生ほうれん草を湯通ししたものでも、いずれでも良い。少しバターとぬちマース(塩)、胡椒等を加えて、ほうれん草自体にも、あらかじめ風味をつけておく。後は、スパゲティーと攪拌するだけ。途中のにんにくチップや鷹の爪も忘れないように。

 出来上がってみると、どうってことない普通のものではあるが、自作の強みは納得感というか、「出来た!」と思う満足感にあり、さらに、次回も何か挑戦しようとファイトが沸いてくるところにある。最終味付けでは、焦がし「昆布醤油」でちょっと和風にしても良いし、アンチョビ・ソースで塩味風にまとめるのも良い。ここが、自作の強みだ。少し焦げ目が付いた厚めのベーコンがボリューム感を演出し、自作ならではの味わいを満喫できる。この、極めて当たり前の事が、より次への創造的発想を刺激するところに、このPDFの意図するところを理解されたい。おっと、こからも、 まだまだ続くよ。
ではこちら
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