2009/09/29

続デジタルカメラ29


 涼しくなったので、再びデジタルカメラを続けることにしたい。最近、マイクロ・フォーサーズ規格とかいう新しいカメラが登場して、そうそう、あの篤姫が持ってるやつだ。世界不況のどん底だというのに、相変わらずカメラ屋の店頭では活況を呈しているようだ。持ち歩くカメラは、やはり軽いに越したことは無い。軟弱になった腕力で支えられるのは、このあたりまでかと、まず、オリンパスを触ってみる。思ったよりずっしり来るではないか。しかし、俺達よりもっと上の人向きのデザインだよな、と思いながら、「たらりっと手放す」。次にパナソニックに持ち替える。ちと完全に間延びして大きいなー、でも、これが大きさの限度だよな。これには、小型超広角ズームレンズも用意されているから、フイルムサイズと同じ使い方も出来る。パナソニックは手ぶれ補正をレンズ内で行い、オリンパスは、ボディ内で行う。すると、このパナソニックの手ぶれ補正なしの小型超広角ズームレンズは、オリンパスに取り付けると、手ぶれ補正が行えることになる。その組み合わせがいいかもしれない 。付け加えると、レンズの周辺光量低下、収差補正、MTF補正、など様々な補正を行っているという。ソフトでやる必要が無い。素晴らしい。 しかし、わざわざこの新しいカメラで撮影する「対象」が周囲に見当たらない。

 中高年のカメラファンには、案外そういう人が多い。購入する前は、一生懸命研究する。機能やメカニックに興味を持ち、使われている先端技術を画像イメージとして膨らませるのが大好きなのである。新製品の1200万画素より1800万画素が鮮明に違いないし、しかもノイズも少ないという。どこか矛盾を感じるが、それを自分の目で確かめたいのである。しかし、撮影するためのテーマが見つからないから、本来購入する必要も無い筈なのに、自ら研究して得た知識と、ちょっと撮影結果を見てみたいという願望の勢いに負ける。そこで、家族に打診をすると、一生物だから、出来るだけ良いものをという希望もあり、つい高級一眼を買ってしまう場合もある(一生物とは、一生それを使うという意味ではない。ここでは、一生何度も買い換えるという意味である)。そして、高鳴る気持ちを抑えながら、実際撮影に出てみると、考えていたより重たいことに気が付き(やっぱり)、さらに、撮影結果にも言い訳ばかりが先に立つ。そして、徐々に除湿箱の置物になってしまうのである。ところが、しばらくは物静かにしているが、技術が新しくなる度に、再び目を覚ましたように研究熱が蘇り、現在の物を下取りに出し、新たな物を手に入たいと思うのである。
 そういう観点では、何十年も前の「ガラクタを駆使」している俺達の方が、楽しむすべを良く知っていると思っていた。

 時たま街中で「フイルム一眼」を首から提げた若い女性を見かける事がある。何でそんな古いカメラを提げているのか興味があったので、注視してみると。彼女は、日常の風景にカメラを向けて、さくっと撮った。その絞ってシャッターを切る身のこなしがよい、内蔵の露出計を意識しないスピード感もよい。かなり、慣れている様子だ。その振る舞いに「こいつ撮ってるな」と思ってしまったのである。歳を重ねると、そういうカメラのハンドリングにも敏感になる。やはり、毎日首から提げて撮ってる奴にはかなわないと思うからである。きっと、そういう連中は、経験を積み重ねて、露出計さえも必要なくなる筈だ。今、その「フイルム一眼」を使いこなせば、写真の原理原則を体に徹底して叩き込めることを知っているに違いない。

 実はこのような事例は、趣味ばかりでもなく、どのような分野にもある。仕事でも同じだ。カメラの話なので続けると、理屈を追いかけたオヤジの、言い訳ばかりの「つまらん写真」を見せられるより、このような光景の方がはるかに刺激になるのである。経験、経験といっても、つまらない経験なら重ねない方が良い。まじめに熱意をもって毎日こつこつと経験を重ねていくことで、その先にあるものが見えてくる筈だ。 最近の若者は、色々個性的になってきた。とても頼もしいと思う。本質を追求したいと思う人が多いこともわかってきた。このような40年近く歳が違う方々に刺激を受けて、今から、もう1度頑張ろうと思うのである。

 さて、能書きはこのくらいにして、今日は深沙大王の祭られた深沙大王堂を観ていただく。「またかよ」と、内心ちょっと不満でも、深沙大王堂は初登場ということで、やっぱりファイルを開いてしまうに違いない。がっかりしても、続きだからお許しいただきたい。上の写真は、元三大師堂から乾門を出て深沙大王堂へ向かう途中にある延命観音。 だらだらと長生きしたい人はこちら。
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2009/09/25

オーディオマニア7


 既に世に送り出されたレコードやCDの、制作プロセスをもう1度点検して改善し、音質を向上させる事を総称してリマスターというらしい。それには、技術的な改善要素、最新の音作りへの移行、あるいは音楽性への配慮なども反映される。最近、Beatles もこのリマスタリングが行われ話題を提供している。「またかよ」と思われるかもしれないが、今回は世界共通音源の全てがリマスタリングされており、ちょっと聴いてみたくなるのは、ファンだけではないと思う。当時のテープレコーダで録音されたものを、デジタル化して、その幅広いダイナミックレンジに上手く当てはめて、現代のCDと同様な印象がもてる録音に作り変える作業は、きっと面倒に違いない。たとえば、小さな弁当箱にぎゅっと詰め込まれた美味しいおかずを、ちょっと大き目の重箱に移し変え「レイアウトをやり直し一層美味しそうに纏め上げる作業」という風に考えられる。もっとも、条件があって美味しい物を少し目立つように底上げすることは可能だが、腐りかけた品は、それしか材料がないわけだから、それに再び火を入れることはあっても、最初から作り直すことは出来ない。もっとも、それには、専門家が担当するわけで、古代壁画の修復のように入念に行う必要があるため、時間のかかる作業になったことは言うまでもない。

 オーディオの世界には、Hi-Fi という言葉がある。「高音から低音まで、ひずみやノイズのない鮮明で味わいのある音質」から「生の印象に近い音質」を抽象的に表現する時に使用される。言葉自体に、ある程度許容範囲があるので、使い方も様々だが、評論家などが安易に使う感覚的な言葉に対して、技術者や研究家から目指すべき「本質的な目標対象」の表現として神聖に扱われてきた経緯もある。アナログからデジタルへ記録方式が変わったときも、「よりHi-Fiに近づいた」という表現がなされる程度で、Hi-Fi=の図式は使われることは無かった。また、音がクリアになったとか、ノイズが少なくなった、音が前に出てきた、音が綺麗になったという程度では、音作りの範疇を越えることは無いし、それをHi-Fiとして包括的に説明するには、やはり不適切である。しかし、意図的な手が加えられず、そこに技術的な背景と理屈が存在し、より優れた音質に変わったとすれば、わずかにHi-Fiに近づいたという言い方がなされる場合もある。一方で、かなり昔は適切な誉め言葉が少なかったせいか、比較的簡単に使われてきた。年配の人たちは、高音が出ているだけでHi-Fiだということもあった。(という私も、案外簡単にHi-Fiという言葉を使う癖があるので気をつけて読んで欲しい。)

 余談はこれくらいにして、つまり、Hi-Fiには、それなりの技術的根拠が必要なのである。現在実証されている根拠を検証しながら、積み上げられた技術的要素をくまなく実現し、そこで、ほんの僅かHi-Fiに近づく事が出来る。とまあ、Hi-Fiというのは、遠くはるか彼方にある「虚像を求める精神と優れた音質を求めるための正しいガイドライン」という風に考えてもよい。オーディオマニアとは、技術的根拠を乱用しながら、それを盲目的に応用しHi-Fiを追い求める姿を指す。

 リマスタリングの作業には、どこか根底にはそのHi-Fiの精神が生かされている。それが、当時に比べて圧倒的な進歩を遂げた「デジタル技術」ということになるのだろう。それらの「技術を使って現代に蘇らせる」と言わしめたのは、それなりに根拠や背景があるからで、一般的に多くのファンは、この取り組みに対して、デジタル技術を使った魔法の機材があって、それを通すとまるで新たな物が生み出されるという認識かもしれない。しかし、そうでも思わないと同じ曲のCDを再び買い揃えるなんて、とても出来た話ではない。我々としては、やはり魔法の箱とそれを使いこなす魔法使いによって作り直されたと思ったほうが精神的にも安心できる。

 一方で、製造者側からみると、このリマスタリング作業の責任はかなり重たいといわざる終えない。既に完成した世界共通の文化遺産に手をつけるようなもので、そこには、最新のデジタル技術を使ったとしても、4chのテープに記録されている音質が改善される根拠は微小である。したがって、ミクスダウン以降のプロセスで、若干の調整を積極的に行いながら、当時の機材では実現し得なかった曲の象徴的な部分や、より強調したかった部分を、あくまでも主観的というか独善的に纏め上げるしかない訳で、下手をすると世界中のファンからクレームが殺到する状況になるかもしれないし、あるいは当時のエンジニアが手をつけた事だから無条件で素直に「素晴らしい」と絶賛されるかもしれない。つまり、デジタルという純技術的な言葉を使おうと、そんな「子供だまし」のような機材を使ったからといって、誰でもが「素晴らしい」といってくれるものになる確信などは、何処にもないのである。

 もっとも、経済的な視点から言えば、「巨大な柳の下には鰌がまだいる」式の発想があるわけだが、少々音質を改善してHi-Fiにしようと何をしようと、本質は変わりはしない。それは、恐らく製造者側も良く分かっていること、いいえ、むしろ我々よりもはるかに理解しているに違いない。

 しかし、もしそこに、追加して映像が保存され、曲を創作する当時の4人の気持ちとして、本人の肉声が聴けたとしたら、ファンとしては大変うれしいプレゼンテーション・ディスクとなるのではないだろうか。その意表を突く作戦には、今回、目を見張る物があるように思える。つまり、1枚2,600円の価値をどのように織り込んでファンの心を引き寄せるか、ちょっとした工夫を大きな付加価値として位置づけたのである。
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2009/09/22

神代植物公園1


 今日は、レジャーシートを持って神代植物公園へ出かけた。入り口には、大砲のようなレンズの付いたカメラを自慢そうに競っているジジイの集団がいる。今の時期、何を撮影するか知らないが、みんな元気いっぱいで話し合っている。それを横目にしながら年間パスポートを見せて、まるで自分の庭のような感覚ですーっと入門する。ちょっと余裕というか、考える時間が欲しいので、無意識にまっすぐ進む。気持ちの整理がつかないまま、公園のほぼ中央にある「大芝生」に着くと、日陰を探して、レジャーシートを敷きながら、よっこらしょと腰を下ろした。大した意図もなく、本能的とでも言うのだろうか、思いつくままの行動である。さて、今日も何処か1枚ぐらい写真を撮らなくちゃいけない。これが今日の唯一の課題だが、今の時期、ほんと何を撮ったらいいのか分からない。おもむろに靴を脱ぎ、ごろっと、仰向けになると、そこには巨大な青いパノラマが広がっていた。それを見上げた途端、気持ちは思いもよらない方向へ飛んでいってしまった。

 幼い頃には、よく空を眺め、はるか彼方に想いを馳せたものだ。このずーっとずーっとはるか彼方には、タコのような火星人がいて、何時か攻めてくるに違いない。そう思って50年が過ぎてしまった。どうも俺の生きている間には、攻めて来そうにないようだ。それにしても、空の色、雲の形は昔と少しも変わっていない。雲を宇宙船のように見立てて空想した頃が妙に懐かしい。これからの敵はCO2らしいが、見えないのにどうやって戦うのだろう。この青い空と白い雲のコントラストは失われていくのだろうか。それにしても全世界共通の敵を作るとは、神様も良く考えものだ。空が眩しいので、つい目を瞑る。草の匂いというか、まるで、空気いっぱいに芝生を混ぜ込んだ、むせ返るような匂いが鼻をつく。ちょっと懐かしさも手伝ってか、そのうち気にならなくなった。遠くでは、お母さんが子供を呼ぶ声が聞こえたり、耳を澄ませると虫の声まで聴こえてくる。老夫婦が昔話をしながら背後を通り過ぎる足音も聞こえる。この漂うような時間の流れに身を任せていると、ぐーっと青空に吸い込まれてしまいそう。ちょっと気が抜けて、うとうとしてしまった。しばらくして、蟻が腕伝いに歩いてくるのがわかり、片目を開けて払いながら起き上がる。

 周囲を眺めながら、子供の頃、こんな広い公園が近くにあったら、仲間と絶対にいくつか秘密基地を作ったんだろうな。うーむ、やはり、敵と戦うための要塞が必要だ。その要塞には、CO2回収装置が隠されていて、いつ何処から現れるか分からないCO2を、いつでも回収できるように準備されている。「サンダース軍曹」なら背後に絶壁がある見通しの良い場所を選ぶに違いない。だと深大寺の方がいいんだな。しかし、ここも木々が生い茂り、迷路のように道が入り組んでいるから、隠れ家もたくさん出来そうだ。そうなると「忍者部隊月光」の登場かな。と、幾つになっても、昨日見てきたように、昔のテレビ番組を思い出すのであった。

 そういえば、この正面には、子供達が「きゃっ、きゃっ、と、はしゃぎ回り」顔を出したり引っ込めたりして、両親をからかって遊ぶ茂みがある。内部は暗いため、外から内部の様子は分からないが、その分、内部から外は見やすくなっている。周囲360度が芝生で、誰がどこから近づいても、すぐに分かる。これも秘密基地としては好条件なのだ。この大芝生のほぼ中央に位置するパンパスグラスのことである。

  レジャーシートの上で自由気ままに連想を重ね、無意識に子供の頃に戻っている自分がいて、それでいて、今日のブログの写真を気にしている自分もいる。何か50年くらいを行ったり来たりして変な気分だ。しかし、時には、こんな時間に青空を眺め、幼い無邪気な頃を思い出し、自由奔放に過ごすのも悪くは無い。そして、それが、呉にある二河公園だったら、もっと鮮明に思い出せるかもしれない。いやいや、今は様変わりして大切にしてきた古い記憶は、即座にかき消され、現在の風景で上書きされてしまうに違いない。まさに「故郷は遠くにありて想うもの」なのだ。そんな情けない思い出を巡らせていると、何だか時間の経過感覚を忘れてしまったような気がして、左手を引き寄せ時計に見入る。大して時間は過ぎていない。「よし」と気合を入れ、今日はこの空間を切り取っておこう。おもむろに、今見えている風景に構図を定めシャッターを切る。まったく「観えている、そのまま」の写真である。そして、レジャーシートの外に並べた靴を引き寄せて立ち上がり、けんけんをするように足を靴に納め、すたすたとパンパスグラスに近づいていった。近づくにつれ、こんなに背が高いのかと見上げるようだ。ふわふわの穂のような部分を触ってみたいが届かない。仕方なく、ここも観たままをカメラに収める(上写真)。今日は、この2枚でお仕舞にしよう。 そろそろ、小腹が空いたし、隣の売店で腹ごしらえでもして、もう1度、横になって怖いような昔に戻ってみようかな。
 その「観えている、そのまま」の写真は、こちら
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2009/09/18

秋の果物

 比較のため醤油を少し舐めすぎたのか、数日気持ちが悪かった。そんな後は、果物ですっきりしたい。葡萄や梨は既に秋口に出ている果物なので、取り除いたが、写真用にネクタリン、いちじく、洋梨を並べてみた。全体の色バランスはあまり良くないが、撮影では、それなりに色再現にこだわったつもり。何事も練習である。今日はいつもの様に、「能書きや、屁理屈は」無いのでご安心戴きたい。単純に果物を眺めて夏の疲れを取り除いてもらいたいだけなので、文字通りすっきりまとめてみたい。

 ネクタリンは、その外見からは、プラムのような食感をつい想像してしまうし、裁断後はその断面から黄桃を連想する。いったいどっちなんだろうと思って、口に運んでみると、全くイメージと違っていてクエン酸を大量に含んだ強烈な酸味が襲ってくる。これが夏の疲れを取り除くのには最適なのだろう。胃袋がひっくり返りそうなクエン酸は、自然の物から摂取することが望ましく、この方が効果が大きいと言われている。私は、あまり酸味に強い方ではないので、半分食べるにも往生した。お店では、3~4個も入ったパッケージになっているので、やむなく、その数を買うことになるが、すっぱいのがお嫌いな方は、最初は観て楽しむことに徹し、完熟してから手を出すようにするか、最初から購入を控え方が良い。.

 いちじくは、特殊な用途の「薬材の名称」にも使われているぐらい、繊維質を多く含んでいることから、便秘に効果があるといわれている。何かにつけて詰まってしまうと、その生命を失う事がある。そこから不老長寿の果物として崇められたのかもしれない。特別美味しい物ではないが、熟してから甘味が増す。子供の頃は、まだまだ今より甘い物が少なかったこともあって、ザクロ同様、熟すたびに、もぎ取って食べていたような記憶がある。無花果とも書くので、花は無いのかと思えば、じつは実の先端が花の集合になっていて、その根元の茎の部分に大きく種を蓄えた形状をしている。今流に言えばハイブリッドという感じである。熟してくると、花の部分が少しずつ開き、種の部分が僅かに露出してくる。そうなると甘味も増して食べごろであるが、今となっては、甘味がさほどはっきりしない為に、ちょっとがっかりするかもしれない。ただ、ねっとり感とつぶつぶ感は、甘さを控えた生菓子の食感に近い。

 洋梨は、ひょうたんの品種改良の様な形状で、何となく異国情緒を感じさせ魅力的である。しかも、独特の薫りと甘味を持ち、お好きな方も多いらしいが、20世紀や幸水等に代表されるような、梨特有のみずみずしさとざっくり感はない。私流に言えば、どこか「中東のお金持ちのおっさんの味がする(=いい香り)」感じで、洋菓子やケーキに使われると、濃縮されてその薫りと甘味が増し、すっかり洋風な感じに変貌する。そのまま皮を剥きながら戴くには、その独特の芳しい薫りにのまれそうになるかもしれないが、やや果肉の密度感が高いため、粘着性もあり歯切れは今ひとつといったところ。少量戴くには十分美味しい。

 と、今日は、かなり短くまとまった。ではこちら
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2009/09/15

特選醤油

 今年は、秋刀魚の脂の乗りもよく、大漁が予想されている。今からそわそわ楽しみである。秋は、新鮮な野菜や魚貝類を七輪で焼き、少量の醤油で戴くのが良い。旬の食材をそのまま七輪に乗せ、網にきちんとレイアウトして待つ。ちょっと冷たい風に秋を感じ、時折、パチパチと音を聴きながら焼け具合をみる。そこに日常とは違う光景が広がっているのに気づく。そろそろ、ひっくり返して、醤油を注そう。こぼれた醤油は香ばしく薫り、食欲をそそる。焼き上がったら、すぐに口に運ぶという贅沢さは、お酒を戴く人たちにとっても、心の豊かさを象徴する一時といえよう。やはり、この主役は醤油ということになるのだろうか。どのようなお宅にも、2~3種の醤油が存在する。さらに、その醤油を原材料とした希釈用つゆ類が数種あり、醤油関連商品は最低5~6種類は用意されている。刺身には溜まり醤油、煮物には濃い口醤油、うどんや蕎麦には麺つゆと、用途に応じて使いこなすのも楽しみであり、和の食事を根底から支えてきた。

 かつて幼い頃を思い出すに、醤油は乾物屋で売られていた。既に瓶詰めも並んでいたが、樽から醤油を一升瓶に分けて販売される光景を思い出す。そのくらい、たくさん量が消費されていたのである。持ち帰った醤油を醤油注しに移し変えると、新しい醤油の薫りが部屋いっぱいに広がる。そう言われてみると、この自然に湧き上がってくる薫りは、やや冷たさを感じるアルコールを含んだ薫りであった。そして、夕刻になると煮物や煮魚にも醤油が大量に使われる。それら様々に醤油を使った料理から湧き上がる薫りが渾然一体となって、台所から広がってくる。今日の煮魚は何かなと想像しながら、胃袋は条件反射で勝手に動き回ったものである。 しかし、ここ数十年、徐々に醤油の国内消費量は減ってきている。食事の欧米化が進む中、高齢化社会に伴い、塩分量を控えるなどが習慣化し、中高年からは、あたかも高血圧の引き金のように敵視されてきたのも事実である。それによって、醤油に含まれる塩分量も下がってきた。一方、欧米では、低カロリーな日本食のブームに伴い、醤油の薫りと旨味が評価され調味料としてのニーズも高まっているそうだ。

 そんな折に、この「特殊容器入り醤油」が発売されたのである。どのような理屈でこのような形になったか分らないが、これがあの日本の伝統的な調味料の代表である醤油の新しい形なのかと、しみじみと眺めてしまった。ここまで既成概念を覆す、凄まじい変貌を遂げたと思うのは、私だけではないだろう。まるで、洗濯洗剤の詰め替えパックのような姿である。しかも、これは醤油注しへ詰め替えるためのパックではない。食卓テーブルにそのまま堂々と鎮座する紛れも無く「醤油の入ったスケルトンの醤油注し」なのである。なるほど、技術革新とは突然襲ってくるものらしい。この極めて理論的で、斬新な構造は、食卓のスペースを大きく占めるにしても、これには薫りを逃さない為の構造設計がなされているという。薫りが逃げないということは、台所からあの澱むような懐かしい醤油の匂いがなくなるという事でもある。

 通常の醤油注しは、内蔵されている液体を外部に出すとき、内部にはその減った分だけ代わりに空気が入る。それによって内部の醤油が揺れ動き、外気とつながり、徐々に薫りが抜けてゆく、それで揮発も進み濃さも増す。この新しい容器は、二重構造で、内部は極めて薄くて柔らかく戻る力の無い、練り歯磨きチューブのような物をイメージしてもらえばよい。そして、醤油が排出されるときは、醤油自身の重みで出るという感じなのである。しかし、醤油がごろんと横たわっていると、ちょっとした力が醤油を放出させる力になってしまうことも懸念される。そこで、残量に係わらず絶対に正立させることが前提である。そのために外側に強靭なボディーが必要になっている。そしてもっとも重要なのが、注ぎ口の形状である。ちょっとした内部の減圧で空気が入ってくるからだ。完成された容器を触りながら、様々な工夫の跡が見られ、なるほどなと思うのである。それにしても、理屈を実用化するために、形状や材料の試験を繰り返してきた心意気には全く頭が下がる想いである。

 我が家では、醤油の中に昆布を裁断したものを入れるため、上から蓋で密閉できる容器で保管してきた。全くといってよいほど、醤油の薫りを楽しむという概念は無かった。むしろ、旨味に力を注ぎ工夫してきた。それが、自家製の昆布醤油という形で実用化しているのである。醤油のお味は、様々で、地域による違いや個人的な好き嫌いもあると思う。伝統的な味を重んじる商品は、何かを変化させるとお客が離れるかもしれないリスクはある。薫りが長持ちするのは、既存の顧客に対するサービス向上という意味合いが強く、それによるシェアの拡大は難しいかもしれない。今、この新たな醤油を眺めながら、薫りを楽しむという発想を再認識したことになる。

 使ってみると、確かに薫りは高い感じがする。 塩分というか、しょっぱさは常用醤油に比べてかなり強いようである。興味があれば1度お試し戴くのも良いが、味よりも構造の方が面白い。 それにしても500ml容器とは、少し大きすぎるかもしれない。ではこちら
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2009/09/11

ローテンブルグ


 体の細胞は年齢と共に古くなり、筋肉や皮下脂肪は永久に重力によって大地に引っ張られている。それによって、我々の外的風貌は年輪を増していく。一方、心の中は、いくら社会の荒波に揉まれ、会社で叩かれ、サンドバックのようにボロボロになっていても、健全性は保たれ、幼い時に培われた正義感や、大切な家族を守らなければならないという気持ちは、少しも変わらない。それどころか歳を重ねると、一層倫理観も増し、周囲への感謝の気持ちにも深みが現れる。そして、それが何気ない行動にも表面化し、日常のTVドラマでさえも感銘を受けやすくなったり、ちょっとした気配りにも、ありがたいなと思ったり、時折、古い友人や家族の喜ぶ顔を見たい、とも思うようになるらしい。

 今日もウォーキングの後、高島屋デパートの虎屋のまえに座り込み、今買ったばかりの「弥栄という小倉最中(210円)」をほおばっていた。それにしても濃いお茶が欲しいな、スポーツドリンクでは最中とは合わないし食べた気にならなや、と思っていると、目の前を肩を上下させず、すーっと横切る初老の紳士を見かけた。かつての上司を思わせる身のこなしに、つい目線で追尾してしまったのである。その紳士は、ケーキ屋の前で立ち止まり、少し考えながらケーキを指差して迷っている様子だった。私とは違い、決して甘い物に慣れている体型ではない。やや筋張った厳格な感じの人のようにお見受けした。その指先の動きと、時たま腕を組む姿は、あたかも会社で部下に指示を与えている様子を髣髴とさせ、かつての上司とそっくりである。 ちなみに、「部長何を買うんすか?」「うぅっ、観てりゃ分かるよ」といった感じである。

 店員さんは、接客のため、ショーケースの外に出てきた。紳士は、変わらぬ気取った様子で、「一日40個限定だって?、どうやって食べんのかな」と口を開いた。一方店員さんは、鋭い口調にやや困惑気味に、はい、側面にミシンの線が入っておりますので、下まで降ろしていただくと、回りの紙が外せます。あとは、お好みのサイズに切り分けてお召し上がりいただけます。と、実物を手に取り、持ち上げてナイフの角度に手を使って説明をしている。年の功はさすがに理解が早い、「あっそう、面白そうだね、年寄り二人だけど、戴いていこうかな」と顔を少し緩めた。ご自宅までどの位のお時間でございますか?「そうだね、1時間くらいかな」といいながら、こんなデパートでお菓子を買うなんて、ここ数年、自分には無かったことなんだ、でも、何とか今その大仕事を成し遂げた、といった安堵した様子で、ちょっと照れくさそうに財布から代金を取り出した。丁寧に包装されたそのケーキを、「ありがと」と、右手を一寸上げながら受け取り、大切そうに抱えて人ごみへすーと消えていった。

 きっと奥様は、エースコックのような体型の愛情溢れる優しい方に違いない。あの紳士は、ただただ、その喜ぶ顔を見たいだけなのである。

 いくつになっても、オヤジの家族を大切にする気持ちに変わりは無い。しかし、会社の一方的な理屈で縛られている身には、徐々にそれを上手く表現できなくなる。そして、会社の責任が重くなるにしたがって、それが顕著になってくる。これは、家族との隔たりを増すことになっても、近づけるようには作用しない。さらに、年々少しずつ周囲の仲間も減るので孤立感も増す。意固地にもなり、先行き家族や社会からも見放されるような錯覚を覚える。実は、錯覚ではない。これが、傍から観ると歳を重ねるたびに厳格というか頑固になった、あるいは我慢強くなったように見えるのだ。しかし、本人は、それなりに自己矛盾を抱えていることに気づいている。

 その重荷にも似た課題を解決するのに苦しむわけだが、まずは形から入るというか、行動から改善しようと思うのである。本質的には、「思考構造の抜本改革」を必要とされるが、今まで気がつかなかったことは、やはり見当がつかないのである。かといって、今更無理をして調子よくすると、何か悪い事でもしているのではないかと不審に思われるし、優しく気を使うようになると弱気に見えて、長くないのではないかと心配される。やはり、自然体に戻り、徐々に徐々に家族の事を考える時間を持ち、家族の話題を増やすしかない。そして、ある日、昔のように何か「手みあげ」を持って帰ることを思い出すのである。これが、子供達がいた昔の家族団らんの中で、みんなが一番喜んでくれ、自分の存在価値を唯一認識できる時間だったからである。その一寸誇らしく、愛情の押し売りにも似た優越感をもう一度実感してみたくなるのかもしれない。しかし、この程度の小銭で信頼関係を修復できるとも考えていない。

  そんな、変われない世代の人たちが、少しづつでも「何か変わろうと努力している姿」は人として格好よいと思う。そこで、その気持ちにあやかり、私も同じ物を買って帰った。シホンケーキの中はふわふわで軽く、手持ちのナイフでは、どうしても上手くカットモデルを作れなかった。そこで、その柔らかさを表現するために、写真にもふわふわ感を出すようにした。 それにしても、これを、ちょっと触るだけで、どのようなナイフが有効なのか分からないような無神経では駄目なのだ。
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2009/09/08

深大寺

 ここ数ヶ月左手のひじが痛んで仕方なかった。あまり使わない左手で重たい物を持ち続けた結果である。持って歩いているときは、さほどでもなかったが、翌々日ぐらいから、ねじった動きをすると、どうにも悲鳴を揚げたくなるぐらい激痛が走る。「あいでー」としゃがみこむような状態になってしまう。左腕のメカニックがいったいどうなっているのか良く分からないまま、右手で想定される患部を探しても見当がつかない。あまりいじっていると周囲の筋肉まで痛みが広がるようになった。意識しないでいられる平穏時もあるのだが、不意な動作での激痛は往生する。もう1ヶ月もすれば治るだろうと思いながら、何ヶ月もかかってしまっているのにも閉口している。三脚を長く持った後は、ひじを取り外したいと思うぐらい痛むのである。

 悪化はしていないようだが、何ヶ月もこのような状態が続くと、不安になるものだ。外科に受診しても良いが、以前、もっと酷い腰痛で受診した時に、落胆してしまって、病院に期待は出来ない。あの時は、柔道部の顧問のような先生だったので、カイロプラクティックではないが、ゴリゴリ、ポコポキと一発あるのかなと期待はしたけれど、患部はおろか、顔さえ見ずに、コンベンショナルなX線画像を観るだけで、「大丈夫ですよ」と一言。サロンパスの大きなヤツを貰って帰ってきたという経験をしている。そうそう、あの腹膜炎で手術をした大学病院である。それでも、人の体はよく出来ていて、患部をカバーリングするように他の筋肉や細胞が強化され、補うようになり、腰は悪いままなのに患部を避けるように、筋肉が再構築して痛みは減るようになる。しかし、平素から鍛えていない左腕はそうはいかない。

 痛みを抱えていると、何かにつけて行動が消極的になる。いや、むしろ、言い訳を自分に言い聞かせ、「自信が無い」という答えを自然に導いてしまう。まるで、考え方まで壊滅的になる。そんな折、今度は左右の親指を分解中の液晶パネルの縁でつるっと切ってしまったのである。止めどもなく溢れるように出血し、みるみる液晶パネルが真っ赤になってしまった。止血はしたもののズキズキ痛むようになってしまった。これで使える指と、腕の動かせる範囲がかなり狭くなってしまった。まさに踏んだり蹴ったりである。こうなると、宗教家でもないのに、もう、「信心が足りないのではないか」と自分を責めるようになるものだ。

 そして、今日、悔しいやら、情けないやら、いらだつ気持ちを抑えながら再び深大寺に向かったのである。そして、あまりにも自分の不甲斐なさに涙を浮かべながら、しみじみと手を合わせ、お願いをしたのである。自分の事について神仏にお願いするのは、今まで不謹慎だと考えていた。なぜなら、自分自身で解決しなければならないことだからである。それは、「自分ではどうにも手立てが無い時にお願いするもの」だと強く教えられていたからでもある。それでも、もう、これはそれに「当てはまる」のではないかという気持ちになっていた。

 そしてついに、「おびんずる様」の手を摩りながらお願いをしたのである。おびんずる様は、「本気で頼んでる?」と言いたそうなご様子だったので、「信じてますので、お願いします。何でもしますから」と覆いすがるようにお願いをした。ちょうど空腹時の猫さんが飼い主にズリズリするような姿に見えたのかもしれない。傍から若い坊主が笑みを浮かべながら眺めていた。一寸恥ずかしかったが、しょうがない。これが注意散漫な俺の生き様だと開き直る。

 恐らく、その坊主にとってみれば、「そんな説明書きを本気にして、なわけないじゃん」って思っていたのかもしれない。しかし、その時は信じてお願いする他に選択肢はなかったのである。階段を下りて数歩進む間に、「背後」から、「今日は、開山堂へ行かないのか?寄って行け」といわれたような気がしたので、開山堂へもお願いに参上した。

 ではこちら、うーむ、やっぱり頼れる俺の最終兵器「びんずる尊者」である。
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2009/09/04

ラムレーズン・ヨーグルト

 最近の若い女性は、食品のエネルギー量やカロリー値をかなり気にしている。食品購入時には、必ず裏の表記を参照し、自分の体と相談して意思決定をする。それだけではない、レストランでもカロリー表示の無いお店は、敬遠されるようになってきた。その背景となる理由はともあれ、これは、人としても「極めて正しい姿勢」といえる。そして、いつも微妙な空腹感と戦っているのである。女性が強くなったと言われる本質的な根拠は、実はここにある。常に何かを我慢ながら生きていくことは、精神的に人を大きく成長させる。

 一般的に、美味しいと思う食品は概して高カロリーに出来ており、満足感も高い。この満足感が我々の活力を大きく衰退させ、「ハングリー精神」という言葉を死語にしたのである。人は、いつか腹いっぱい美味い物を食べたいと願いながら努力するものだ。戦後の日本を復活させた活力は、まさにその空腹感である。これは、決して「食べられない」という意味ではない。あくまでも、もっと美味しい物があるはずだという「渇望」なのである。そこに到達するために、がむしゃらに努力するわけで、そのハングリー精神で高度成長を成し得たともいえる。しかし、その「宴の後」に腹いっぱいになり、ちょっと横になったのはいいが、起きれなくなったのが今の日本である。いやいや、我々の先輩方は常に気合に満ちているから、節度というものがあったが、そのまま熟睡してしまったのは我々の世代である。と全く嘆かわしいが、我々の体は高カロリーを許容する。そして、カロリーは、カロリーを呼び寄せ、褐色脂肪細胞を刺激し高カロリー体質になってしまうのである。これからは、節度を持って食べることにしたい。

 今日紹介する食品は、最初 「えっ、これ、大塚食品?」と耳を疑い、聴き直してしまった程の衝撃を受けたものである。だいたい、この会社は、「どこまでも体に優しい商品を提供する会社」である。しかも、低カロリー志向であるがゆえに、最近まで、しみじみと「美味しいなぁー」と思う商品に出くわした事は無かった。体に良いことは分かるが、「続かないな」と感じることの方が多いのである。いや、「スゴイダイズ」の事を批判しているのではない。いまさら、この歳で豆男になる必要もなく、筋骨隆々で凄いと言われる必要もない。その自分の動機の希薄さと、習慣性のバランスを申し上げているのである。それにしても、マーケットに迎合せず、いまどき「独自性と信念に満ちた製品」を世に送り出すことに敬意を払っているし、勿論、それらの製品に信頼も寄せている。

 しかし、不覚にもこの会社に 「まじっ、本気で美味しいー」 といえる商品が「密かに存在」していたのである。今日紹介する「贅酪シリーズのプルーン・ヨーグルトとラムレーズン・ヨーグルト」がそれである。

 当初、プルーンが発売された時、その美味しさに驚いたわけだが、しばらく、店頭で見かけない時期があった。プルーンの安定供給や品質に問題があったのかと勝手な憶測で心配をしていたのだ。しかし、この度、ラムレーズンを加えて再び店頭に現れたのである。今、「アッ、ハッ、ハッ、ハッ」と、この2つの商品を紹介することに、何故か他を圧勝した時のような、誇り高き満足感を得ている。生乳を使ったピュアなヨーグルトに、アイスクリーム系のスイーツをイメージさせる取り合わせが絶妙で、芳醇な風味に仕上がっている。ヨーグルト自体の品質も、文句のつけようが無いくらい美味しい。食べ進むことによってドライフルーツの旨味が溶け出し、より芳醇さを増してゆく。食べ終わると、「やっぱもう1個食べよう」と思うのである。だから、ダイエット中の人でも、高価なダイエット食品より、こちらの方が優れていると思うに違いない。勿論、これなら続けられるはずである。

 あえて、1つ不満があるとすれば、これを大型スーパーの、たとえばイトーヨーカ堂などに並べられても困るのである。このあたりに、大塚チルド食品の販売戦略に「あせり」が見える。イトーヨーカ堂は、品質の高い物を積極的に販売するというより、安価な商品を大量に販売するお店である。この時期、それは大変有意義な販売戦略だが、この商品の取扱い店としては不適切としか言いようが無い。

 美味しい商品は、若者にとって自分達の住む社会の、明るい未来を予感させるものである。一方、口の肥えた中高年には、少なからず残された人生の楽しみになる筈だ。いずれも、高級アイスクリームのように身近で素早く手に入れたいに違いない。 都会へ出ればちょっと美味しいスイーツ物は沢山ある。しかし、今や、身近ですぐに手に入ることの方が断然価値は高いのである。若者は、コンビニを自分の冷蔵庫のように考えていて、いつもチェックを怠らない。常に新しい美味しい物を探しているのだ。中高年も少しずつそれを見習うようになってきた。だから、こういう本物の「美味しい商品」こそ、コンビニに置いてほしいのである。

 付け加えて、このヨーグルトは、砂糖、香料、安定剤を使用していない。生乳のみを生かしたヨーグルトに、プルーンやラムレーズンを入れただけのものだ。口に入れると上品で、うれしい気分で夢中になる。「お腹にも良い」ので、これなら入院中の患者さんや、寝たきりの御年配の方にもお勧めできる。これを口にして、少なからず元気を取り戻してもらいたいものだ。1個157円だから必ず2種類を食べさせてあげてほしい。
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2009/09/01

アントニオ・デリ2


 低GI食品修行中と、回りには吹聴しているものの、かつて養鶏場の鶏のように、与えられたものを何も考えず食べてきた身には、デパートの地下の食品売り場は、食材の宝庫である。たとえ今まで、厳選されたものを健康第一に提供されていたとしても、この広い売り場にある様々な食材の現実を知ってしまうと「死ぬまでに食べつくせるか」不安になることがある。そんな想像をするだけでも、活力が湧いてくる。人はとかく歳を重ねるだけで世の中の事が分かったような気になり、早々と「やっぱりこれがいい」と自分の中で好物なるものに執着したがるが、他の新しい物を試すことに興味を持つことは、適度に大脳に刺激を与え、案外良いことといえそうだ。

 先週、アントニオ・デリの話を書いたこともあり、再びそのお店の前に立つことになった。 ウインドウを眺めると、以前から並んでいた商品、いわゆる定番のパスタ群に加えて、随分新たな品物が並んでいる。売れ行きの良い物は前面に出し、売れない物は下げる。そして、常に新たな商品への挑戦を心がけ、たとえ評価は低くても次々と新たな物を提案し続けるのである。このような商品代謝は健全そのもので、優れた競争力を備えている証拠ではないだろうか。同業他社と量や価格を競っているわけではない。自己の提案力や独創性を競っているわけで、そこに新たな価値を見出そうとしているのだ。大いに我々も見習わなければならない。

 今日は、その中からスズキとアサリの地中海風(惣菜)を選んでみた。実は、これにはちと訳がある。少し余談になるが、大手メーカーの市販のパスタソースに、「白身魚を使って作る」というのがある。ソースとしての発想は大変奇抜でうれしいのだが、やはり、微妙に難しい商品企画だと首をかしげてしまったのである。ソース自体は美味いのかもしれないが、「別途、白身魚を購入し焼き上げて、このパスタソースとパスタを和えてください」というコンセプトは、魚とその旨味を引き出すソースというより、全てをパスタソースで上塗りするいう意味である。これは、ライスカレーに無意識にウスターソースをかけて食べるオヤジの乱暴さに近いような気がする。白身魚の種類は多く、微妙に旨味が異なる。また、時間経過と共に臭みの増し方も異なる。その種類やタイミングを考えて調理してこそ価値がある。つまり、単独のソースでは、その僅かな違いを引き出せないのではないだろうか。ここに、商品企画者の味覚不全症候群ともいえる、机上で考えた「社内事情」が垣間見えそうだ。本来なら、「無味無臭の白身魚を使って」と記述されなければならない。・・・・と、そんなつまらない事にこだわり、ずっとそれに引っかかっていたのである。

 でも、話は続きがあり、その根拠を求めてスーパーに並んだ魚の中から金目鯛を選び、たっぷりのエクストラバージンオイルで焼いてみることにした。随分高価な焼き方になるが、実験をしたかったのである。そして、それをそのままオイルごとタッパーウエアに移して冷蔵庫で保存してみる。これが、案外想像以上に日持ちもするし、臭みも無い。これがひょっとしたらあのパスタソースの価値を引き出す手法につながるかもしれないと思えてきたのである。

 そこで、アントニオデリの仕事をとくと拝見したかったのである。地中海風というのは、地中海の沿岸で採れる魚、オリーブやトマト等を使って、あるいは、その類似の食材を使って調理したという意味に取れるが、戴く方としては、単品の惣菜としての使い方、つまりビールのお供でも良いし、炭水化物を控えるよう指導された糖尿病予備軍の人たちの主食としても楽しめる。さらに、パスタを自分の好みの硬さで茹でておいて、それに上から乗せて絡めて食べることも出来るわけだ。これで、ちょっとしたプロのお味が楽しめるのである。確かに、スズキの旨味がオリーブオイルに溶け込み、それ自体がパスタソースになっているといえる。それに食べ応えのあるサイズというか、旨味を堪能できる大きさなのだろう。他の材料はたいしたことは無いが、ポイントを抑えたシンプルな調理である。スーパーで手に入る材料はあいにく少ないが、オリーブオイルと塩、更にオリーブの実自体を追加し、ちょっとしたスパイスで美味しくいただけるということも分かった。

 今日はフィットチーネを使ってパスタとして仕上げてみた。ちょっと見た目は良くないかもしれないが、さすがに地中海風になっている。私も同じ様な物をバターと日本酒と醤油を使って作るけど、何故か故郷の味ともいえる瀬戸内海風になってしまう。こちらは、舶来な感じでほんと美味い。 で、「どうよ」って聞かれると、あの「白身魚を使って作るパスタソース」は、私にはやっぱり必要ない。
ではこちら
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