2010/09/28

動員学徒の碑

 今年の2月に、見舞いで広島赤十字病院を訪れ、ついでに平和記念資料館を25年ぶりに見学し、改めて原爆被害等について、概要をこのブログ上に残した。被害の大きさ、人体に与える影響、被爆数年後における癌の発祥等について、改めて自分としても整理しておきたいと思ったからである。かといって、一歩踏み込んで平和活動の「真似事」はできないので、興味を持った事柄について、折を見ながらブログに残しておこうと思う。さて、その2月には、広島赤十字病院の正面に保存されている、当時の爆風の強さを示すモニュメントである「窓ガラスの破片が突き刺さった跡が残る壁の一部」も拝見していたが、隅々まで確認を怠り1つ見逃した事があった。

 誰でも原爆投下の瞬間に受ける人体の損傷については、想像するはずである。 さて、 その内容をもう1度振り返ると、地上600mで原子爆弾が炸裂すると、爆心地から500mほど先では、熱によって「人は蒸発」する。そして、次の瞬間には、周囲の空気が急激に膨張して超高圧の熱爆風となり、遠く約1.4km先の建物を破壊し、窓ガラスを粉々にし、人々は致命的な「大やけど」を負い、同時に放射線による「東海村の臨界事故のような傷害」を被る。この状態は、手の施しようのないものである(PDF参照)。また、爆発力が強い為、コンクリートやガラスなどの崩壊によって致命的な2次被害を被る。さらに、放射線を浴びた時に、染色体を傷つけ、あるいは切断する。それが、被爆後、数十年におよび、その影響と思われる症状が出る。5年後白血病、10年後甲状腺癌、20年後乳癌、肺癌、30年後結腸癌、骨髄腫、などの悪性腫瘍が発生する事が統計的に証明されている。・・・・ということであった。
 
 つまり、どのように考えても、「体に対する何らかの損傷は大きな物があった」とずーっと考えてきた。特に外傷は、大やけど、中やけど、あるいは、2次被害によるものと考えられる。2次被害の例としては、私の叔父も広島の歯科医専で原爆の被害を受けたが、爆風で学校の窓のガラスが破壊され、無数の破片が体深く刺さり、被爆同月31日に亡くなっている。現存する叔母に、その時の様子を聞いたことがあった。原爆投下の後、「広島から兄さんは、呉線の線路を伝おうて歩いて帰ってきょっちゃったんよ、体じゅう血だらけで、私は、もう駄目(右手を左右に振るアクションをしながら、声を詰まらせ)じゃあ、思おたんよね。・・可愛そうじゃったんよ」。確かに、この時すでに被爆もしていたに違いないが、爆風による2次的なガラス被害が直接の死因になったと考えられる。被爆後24日間苦しみぬいて死んでいったという。このような被害は、他にも計り知れないほどあったに違いない。

 しかし、そのような悲惨な被爆状況下でも、「全く外傷のない亡くなられ方」をしている大勢の子供達がいたことを知ったのである。被爆した場所は、広島赤十字病院の近くで、爆心地からの距離は約1.5kmである。全く不自然に思えてしまうが、このことは、様々な状況を考察しても、全くもって想像すら出来なかった。しかし、「被爆しても何の損傷も無く、一時たりとも苦しまなかった」としたら、ものすごく幸いであったと思える。死になんら違いはないといわれればそれまでだが、もし、体が解けるような大やけどを受け数時間、あるいは数日間苦しみぬいて、死を迎えるのがよいか。また、被爆でやけどをした体で生き延び、周囲から差別され、さらに、常に病気の恐怖に慄きながら人生をまっとうするのがよいか、あるいは、瞬間的に蒸発してしまっていた方がよかったか、究極の選択かもしれないが、もし、自分がその場で選択権を与えられたら、苦しむ時間は極限まで短い方を希望する。そのくらい被爆後は生き残ることの方が、辛いことなのである。
ではこちら、今日は3ページ仕様。
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 補足1 この写真は、広島赤十字病院の敷地内にあるモニュメントの傍にある墓標を撮影したもの。今年の2月に見学したときは、恥ずかしながら気が付かなかった。描かれている絵は、当時の事を思い出して描かれたものと思われるが、それらが墓標になったのは最近のようだ。 この写真の中の絵の説明は、その中の記述が全てと思われる。

 補足2 東海村の臨界事故(1999年)で亡くなられた篠崎理人さんの公開された写真の一部と、当時公表された病状と治療の概要を資料として転載した。文章は中国新聞社の「被爆と人間」より、そのまま使用。このレポートから、被爆直後の広島・長崎の人々の体の状態が推察される。

 補足3 テーマとして原爆や敗戦がらみの話は、残すことに価値があると考えている。いまさら、誰も興味はないだろうと思っていた。しかし、意外にも「時間を掛けて閲覧された方」は多かった。ふと、世の中捨てたものではないなと思った。

2010/09/24

黒胡麻仕立ての坦々麺

  鰻、寿司、カレー、ハンバーグ、ラーメンは国民食だ風に明言した手前と、さらに連休中という緩んだ緊張感、加えて久々の「冷たい雨」によって、普通では紹介しないラーメンをあえて登場させてみたい。ただ、どうも最近流行の若者向けの「こってりラーメン」に関しては、とんと興味をそそられることはない。それでも、時折そんな麺類を食べたくなると、近所にある昔ながらの中華屋さんへ出かけることもあるが、私にとって肝心な「坦々麺」だけはメニューにない。そこで今日は、様々な即席ラーメンの中から、個性的な「黒胡麻仕立ての坦々麺」を取り上げる。この商品はとにかくスピーディーに調理できるし、味は本格的な感じを漂わせてまとまっているし、濃い仕上げなので追加野菜なども自由自在なので、常に1~2個は冷凍庫に入っている(購入は特売日に限る)。

 かねてから、私の好物というか、ある一定の腹周期でたまに食べたくなる「濃厚ラーメン」の1種が坦々麺で、古くは味自慢でこだわりの坦々麺の専門店などが都心には数多くあったが、やはり、お客の嗜好と利益率の悪さが、このメニューの足を引っ張ってきたようで、最近、坦々麺を扱うお店は極端に減っている。高級な中華屋さんでさえも、このような定番的なメニューを用意しなくなっているし、残っていたとしても、やや仕上げも充実感に乏しいものになっている。やはり、需要と競争の無いところには、美味しいものは生まれない。先日も、新宿伊勢丹の向かいにある、古くからの中華専門店でがっかりしたばかりである。

 そのような、時代背景を残念に思ったのかどうか分からないが、最近は具材のない即席タイプの坦々麺が発売になったりしている。さすがに、具材もなくスープの薄い即席坦々麺は、いくらお安くても、物寂しいのである。それは、肉味噌の製作が難しいとか、一方で代用できる物もなく、なのに、そのパッケージの裏の記述には、「お好みにより、そぼろ肉、野菜などを加えますと、一層美味しく召し上がれます」、などと無神経な一文を加えてあったりするからである。もちろん、悪意はないが、即座に虚しさが押し寄せてくるに違いない。そんな、諦めムードに押し流されて、昔から根強い坦々麺ファンから言わせると、それも同情を誘う嘆かわしい話になる。

 ということで、本題の冷凍「黒胡麻仕立ての坦々麺」を見ていただくが、本パッケージ品の中には、 完全ともいえる具材、1.電子レンジ用のたけのこ、揚げ茄子等の入った肉味噌パック、2.スープパック、3.黒胡麻パック、4.チンゲン菜と一緒に冷凍された麺パッケージが用意されている。この1の電子レンジで調理するものと、4を鍋で再加熱する作業を並行処理することで、おおよそ3分以内で完成する。 出来上がりは、黒胡麻の薫りが広がり、さらに濃厚感も十分あり、それなりに味わい深い印象だが、もし、物足りなさを感じるようだと、他の具材などを追加してもらいたい。たとえば、インゲンやさやえんどうをボイルした物とか、トマトを四角のさいの目に切ったものなど、一寸野菜が入ることで、味にまろやかさが出る。個人的には、今日のPDF写真のように、ザーサイを細かく裁断したものとか、加熱した茄子を加える(エクストラバージンオイルを絡めフライパンで90秒加熱したもの)とかを用意する。あとは山椒やラー油等を使って適宜辛味を加えるとか、自分なりの工夫をすることで満足感を高められると思う。
ではこちら
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補足 日清食品は年間数百種類もの即席調理麺を新発売している。同社の冷凍商品の中にも生産の終了を余儀なくされる商品もあるかもしれず、市場で、該当商品が見当たらない場合もあることをご了承いただきたい。

2010/09/21

黒毛和牛のカレー

   鰻、寿司、カレー、ハンバーグ、ラーメンは国民食だと思っている人は多い。中でも、家庭でよく作られるのは、やはりカレーのようだ。それは、お父さんでも作れる手軽さにあって、おまけに御飯さえあれば、好きなだけ、お腹いっぱい食べられ、御代りも出来るからだ。うーむ、この「お腹いっぱい食べられる」・・・という言葉の響きは懐かしい。私にも腹が割れるほど食べても、平気だった時代がある。そんな慢性空腹症は一生治らないと思っていたが、年齢とともに案外簡単に治ってしまった。今は、情けないが一寸食べるだけで、すぐにお腹いっぱいになる。だから、何でも、少しでいいから、美味しいものを選びたいと考えるようになった。しかも、懐かしく馴染み深い味に執着する傾向もある。

  去年は、カレー丼などと称して、幾つか自作カレーを紹介したが、いくらターメリックが頭や体に良いと言われても、最近は何故かバタバタ忙しくて、なかなか自作に手が出せないでいる。もっとも、去年よりは今年の方が上級になっていなければならないと思う反面、カレーに上級も中級も無い筈だと自問自答するわけである。ただ最近は、豆乳、青汁、コラーゲンなど、飲むものも多くて、じっくり自作に取組む前に、お腹がいっぱいになっていて、カレーへの気力が沸かないのかもしれない。それでも、いつか、浅草今半の牛肉をふんだんに使って、飛び切り美味しいビーフカレーを紹介してみたいが、まあ、確かに美味しいには違いないけれど、ここのお肉の「脂肪分と価格にやや時流から外れた抵抗感」が無い訳ではない。
 
  そこで、今日は、三田屋総本家の販売している本格的なレトルトの黒毛和牛のビーフカレーを紹介したい。同社のレトルト・シリーズ 1.黒毛和牛のビーフカレー、2.黒豚のポークカレー、3.黒鶏のチキンカレー、4.黒毛和牛のハヤシ、5.国産牛のすき焼丼、5種の中から1つ取り上げてみた。このビーフカレーには、勿論国産の黒毛和牛肉を使い、少々値段はお高いが、肉の旨味がカレー全体に溶け込んでいるように味わえる。ただ、パッケージの記述には、三田牛とは記述がないので、素牛は不明であるが、このあたりは全て丹波牛ではないだろうか。また、特別に三田屋総本家を詳しく知っているわけではないが、歴史は古くデパートなどでは、贈答品などのコーナーで良く見かけるブランドである。
 
 私としては、スーパーのサミットで販売しているレトルトカレーとして親しんでいる商品だが、たっぷり楽しみたい時には、黒毛和牛の薄切りを軽く炒めて上に乗せるなどするとよい。あと、商品の箱には、このような記述があるので紹介しておきたい。「全国的に有名な肉の産地 兵庫県三田で、はざま湖畔を発祥の地とする三田屋総本家は、肉の畜産から加工販売までを行う職人集団」とある。 さて、三田屋総本家はあくまでお肉の生産者で、そのお肉を使ったカレーの製造販売は、アイキューファームズ㈱で行っているようだ。この会社は、カレー・メニューのバリエーションを充実させた店舗をフランチャイズで増やしている。主に大阪近郊に限られていて、メニューは、お肉を重点素材にした少し食べ応えのあるカレー屋さんのようだ。
ではこちら
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補足 懐かしく馴染み深い味  古くから自宅で作るカレーには、スパイス、野菜、お肉など、そのお宅ごとに投入されるべき重点素材が存在し、家族の内の「大切にされた子供の好み」が大きく反映している。しかし、それなりに社会性も加味されて進化し、その家族の歴史とか食文化、あるいはエンゲル係数的価値観等も反映していて、懐かしいものになっている。つまり、その様な家庭ごと独自に「全ての要素が組み合わさって生まれた味」を「懐かしくなじみ深い味」と定義したい。

2010/09/17

ディスカバリー4-a

 このディスカバリーのタイトルは、30年前の若かりし日を思い出し、気ままなネタを書くことにしている。なのに、先日、本棚の「HP ウエイ」という本をめくり始めたまではよかったが、あの「ルメイ」の3文字を見つけた瞬間に激怒してしまって、その先にあった筈のものをすっかり忘れてしまった。時間が過ぎて田舎へ帰ることになったわけだが、田舎では、TVドラマのお陰もあって「坂の上の雲」様々といえるほどのブームが起こっていて、たいへん盛り上がりを見せていた(ポスターのみ)。ただ、私的には、ドラマにはいささか不満というか、物足りなさを感じていたのも事実で、ならば、それをきっかけに、自分の目でその物足りなさを埋めてみたいという願望が沸々と湧き上がり、暑さにも負けず頑張って取材を敢行してきたというわけである。ま、こういうこともあろうかと思い、常日頃から炎天下のウォーキングもトレーニングしてきたので、3日ぐらいの取材なら全く問題は無かったが、結構厳しい現実にも直面した。いやいや、私の体ではなく、デジタル・カメラの方(使用可能温度45度)がである。

 とりあえず、話を1ヶ月前に戻してみたい。その時は、このヒューレット・パッカード社のSERIES 80 HP-85 コンピュータを懐かしいネタにしようと考えていたのである。だから、最初に写真を撮っておいた。そして、おもむろに「HPウエイ」という本を開いて、計測機器用のコントローラとしての歴史的背景から、この製品の位置づけを知りたいと探していたのである。ただ、このHP-85の事に関しては、残念ながら記述は一切無かった。そこが問題だったかもしれない。何もないという心細さから、大脳はそれ以外の様々な記述までも、拾い集めて関連付けようとするのである。しかし、それはやはり何も情報を生成することは無かった。すると、もう残された道は自分の記憶を辿るしかない。

 で、思い出すに、このコンピュータは、本格的なインターフェイスであるHP-IB(インターフェイスバス)を取り付け、計測機器、プロッタ、プリンタ、ウインチェスタ型のディスク装置等の周辺機器と交信し、プログラムされたルーチンで計測データを素早く取得・処理・保存・出力する目的で設計されていた。しかし、一方でビジカルク、発表提出用グラフ作成、金融計算、文章編集、数学、一般統計、回帰統計、回路設計、波形解析、BASICトレーニングなどのアプリケーション・パック類の用意もされていた。この幾つかのアプリケーションソフトによって、計測に対する考え方や計測の成果を幅広く扱えるようにという配慮だったようだ。そういうシステム性という点においては、米国製品は古くから考え方と成果を鮮明にしており、国産の曖昧さに比べ10年以上も先を進んでいたといえる。

 また、このような計測コントローラが出来たことによって、従来、手作業で計測機器のダイアルを回したりスイッチを切り替えて、周波数ごとに目視でデータを取得していたのに対し、コントローラからのプログラムによる指示で、計測機器内のCPUが自動的にスイッチを切り替えて実データを高速で取得し、それをコントローラに送り返す。そのデーターをコントローラ内部のCPUが加工し、出力先のプロッタなどに描かせることが出来たのである。当時、オーディオ周波数帯域では、B&K(ブリューエル アンド ケアー)の極めてアナログチックな計測が主流で、1モデルの評価項目全て終える度に何十枚もの紙が出ていたが、それを、このコントローラで一括処理しA4~A3の用紙1枚に綺麗にレイアウトして出力する事が可能になったのである。勿論、時間経過に沿ってデータを取得しておくと、従来なら膨大な紙の山になったのが、データーを配列にしまっておき、影線処理をして3次元表示をすることで見やすくできた。

 この源流といえるような考え方に関しては、ちゃんとした記述がある。ここからは、「HPウエイ」からの抜粋になるが、「1960年代初頭に、既に計測機器にもコンピュータを使って精度を上げたり、出力を柔軟にする事がささやかれていた。HP社内では、2人のエンジニアによって既に自らのコンピュータを作る実験を始めていた。2人の主張は、自社の計測機器類を自社開発のコンピュータ・システムによって自動制御するという物であった」らしい。これがHP最初のミニコン・モデル2116である。その後、1972年にHP独自の汎用コンピュータHP-3000を登場させている。HP社は、当時からCPU等の開発から基本ソフトの開発まで全てを自社内で行っていたので(他に出来るところはない)、競争力の優れた製品を数多く世に送り出す事が出来た。その10年後の1982年に個人でも買える価格(本体のみ98万円)になって登場したのが本機 HP-85 である。これでも、拡張ROM、HP-IB I/F、プロッター、外部ディスク装置を組み合わせると本体の2.2倍ぐらいの予算が必要になった(後日プロッターも紹介したい)。
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補足1 ビジカルク→今のEXCELの前身で表組み計算シート。

補足2 HP拡張BASIC→外部にはHP-IBの豊富な同社製の周辺機器が使用できた(HP-IBは後に世界標準GP-IBに発展する)。当時はHP-IBの高速ディスク装置も用意されていた。
 マトリクス演算、拡張プログラミング、マスストレージ、入出力関係、プロッター/プリンター等の専用コマンドは拡張ROMを用意する。データカートリッジは、ディスク同様ランダムアクセスが可能なため、STOREの赤いキーボタン1つで、その都度データーを保存できる。また、現在ではEnterキーになっているが、その頃のHPのコンピュータはEndLine であった。EndLineキーが押されると、各Lineごとの文法エラーはもとより、各Lineにまたがる論理矛盾まで指摘をする優れものであった。

補足3 当時は、横河電機との合弁会社である横河・ヒューレット・パッカード㈱で取り扱われた。現在のコンピュータ、プリンターは日本ヒューレット・パッカード㈱の取り扱い。その頃の国内製品では、日本電気がN88BASIC搭載のPC8801を発売。

2010/09/14

江田島 幹部候補生学校


 本木雅弘さん演じる秋山真之(さねゆき)が、現在で言うところの東京大学を中退し、海軍兵学校に入学したのが明治19年。この時はまだ海軍兵学校は築地にあり、入学3年後の明治21年に江田島に移転している。江田島は周囲が内海で波は静か、山は古鷹山(ふるたかやま約400m)があり、学問をするにも、体を鍛えるにも最適であった。PDFに幹部候補生学校の庁舎の写真をまとめたが、現在も当時と全く変わっておらず、真之は紛れも無くここで勉強していたのである(PDF写真①の庁舎の背景に映っているのが古鷹山)。この建物は、英国から輸入した(現在価格にして1個2万円相当)レンガがふんだんに使われていたり、電気・電信・水回り・暖房などの配管は全て地下を通してあり、概観の美しさにも拘っていたのである。この庁舎は、戦時中1度も攻撃を受けていない。江田島湾内の目と鼻の先で日本の軍艦とグラマン戦闘機がドンパチを何度も行っていたにもかかわらず、全く持って庁舎は無傷だったという。アメリカ軍は、海軍兵学校を後々利用する目的があったからだ。

 話は前後するが、江田島小用港に上がると、既にバスが待っているので、乗り込んで発車を待つ。動き出しても大方の人が第一術科学校前で降りるので、慌てることもなく付いて降りればよい。受付は、見学コース開始30分前から正面入口で行われ、住所と名前を書いてバッチを貰って、別棟の見学者控え室(江田島クラブ1階)へ行き、しばらく待つ。時間が来ると案内役のOBの教官が注意事項などの説明をして、いざ出発ということになる。 この日の注意事項は、「昨日、見学中に熱中症で具合を悪くされた方がいらしたので、必ず水分補給ができるように、お茶やスポーツドリンクをお持ちになって付いてきてください」とのことであった。また、その他の手荷物は、ロッカー(無料)に収めておける。

 真之の若い時は、闘争心の強い性格であり、生意気だったと伝えられているが、成績も常に優等(首席)であったようだ。体力的にも学問的にも優れていたのである。ただ、当時から海軍兵学校は、入学時に学業成績優秀、強靭な肉体、そして、さらにもう1つ重要な評価項目があったと言われている。それは、「男前(おとこまえ)」でなければならなかったと、案内役のOBの教官は教えてくれた。その理由として、海軍兵学校出身者が不細工であっては対外的によくないと考えられたからで、いずれ日本を背負って立つ、あるいは日本を代表するような仕事に就くかもしれないからだという。うーむ、それで、役柄として3D AQUOSのCMで先端技術を売りにしている本木雅弘くんだったのか。今回の彼は、江田島湾の遠泳15kmを難無くこなし、古鷹山登山でも競って120回以上駆け上がり、何を競わせても常にトップであった、といえるほど極限まで心肺能力を高めた体型で登場している。胸板の厚みがそれを象徴しているといっても過言ではない。

 男前になるのは、そうたやすい話ではないが、体力も、学問も、いずれも、それに割り当てられる時間が成績に大きく影響を及ぼす。海軍兵学校では、自由な時間がそれほどあったとは思えない。例えば、起床は6:00で、就寝は22:00である。その間に3度食事をして、甲板掃除を2回、入浴、教務を分単位でこなす。その様な過密スケジュールの中で、唯一自由に学習が出来る時間は、夕食から就寝前の19:30~21:45 の2時間程度と考えられる。この毎日の2時間で、級友を大きく引き離すほどの自習をしなければならなかったとすると、生まれ持った資質が重要な働きをしたのではないだろうか。何せ、真之の父である久敬は県の学務課に勤めていたぐらいで、そこは、「何事も闇雲に手を出すのではなく、コツというのがあることを教わっていた」のである。単に、要領よくやるというのと違い、「戦略的学習の勧め」のような、「教師の指導要点を掴みながら」ポイントを抑えて勉強していたのではないだろうか。そのくらい「相手(敵)を知り尽くしてから、動く戦略」の重要性が分かっていなければ 、東郷艦隊作戦参謀はもとより、海軍大学戦術教官にもなれなかった筈である。
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 補足1 上の写真は大講堂の内部

 補足2 正門前に少し早く着いてしまった私は、受付時間まで近所をうろうろしていた。10mほど先にコンビニのような本屋があったので、興味本位で覗いてみた。置いてある本はさすがに場所柄、兵器、戦艦、戦闘機、航空機、防衛、核戦争、核爆弾、ありとあらゆる戦争に係わり合いのある本が並んでいた。大型書店にも置いてないような超マニアックな書籍も豊富に揃っている。確かに、このような静かでのんびりとした場所では、訓練の目的意識や動機付けに、「ときたまメゲそう」になるかもしれない。分かるなー、精神的にも皆さん苦労されているようだ。

 補足3 「坂の上の雲」の舞台を探すと称して松山→江田島を紹介してきた。今回は連続6回通して最終回。続けられれば 後々つづけたいが、続かないかもしれない。
 もし、広島近辺に旅をされる事があったら、思い出してもらいたい。 さらに、過去には、呉のてつのくじら館、広島平和記念資料館、宮島なども紹介しているので、宜しければ参考にしてほしい。 

2010/09/10

三津浜と呉


 阿部 寛さん演じる秋山好古(よしふる)も、本木雅弘さん演じる秋山真之(さねゆき)も、香川照之さん演じる正岡子規も、みんなここ三津浜から見送られて松山を後にしたのである。当時から、上京することにあれほど憧れていても、いざ出帆するときには、やはり、ふるさとの両親や仲間、あるいはお城や道後温泉と分かれる事が辛かったに違いない。うーむ・・私も昔は、と情緒的な部分は理解できる。としても、見送る姿ばかりを映像化されても埒(らち)が明かない。それは、小説を忠実に再現しているには違いないにしても、何か虚しい欠落を感じてしまうのである。そこには三津浜というフレームを埋める演出が必要であり、必然性のある実体が付加されてこそ映像化の価値が出るのだと思う。その三津浜まで、どのような交通手段で見送りに行ったのであろうか。そして、見送る船はどのような船だったのか、疑問は次々と増えるのである。もちろん好古の時は、徒歩で行ったに違いないし、その距離は、おおよそ14km程度と考えられる。制作者は、見送りの映像を具体化するために、少なくとも現場を歩きその場に立つ必要がある。

 そんな事を考えていた矢先に、ドラマの中では、休暇を松山で過ごして海軍兵学校に戻る真之と律が子規の家で行き違いになり、その事を知った律は、後から真之を追いかけて三津浜まで見送りに行く場面がある。この時は、2人とも当時(明治21年)既に開通していた「松山→みつ(現在の古町駅 上の写真)間4km程度の距離」を列車に乗る事はなかったのであろうか。あるいは、行き違いになった場面の年は、開通する1年前だったのだろうか。そのことで、今ひとつ時代感というか、松山の鉄道進化の様子が掴めなかったが、明治23年には、「松山→三津浜」まで鉄道は伸びている。ということで、これは、小説の中身には関係ないが、映像化において時代考証は特別重要な要素といえる。

 その場面の続きだが、見送りに追いかけて来た律のたどり着いた(ロケ)場所は、目の前に厳島(宮島)の弥山(みせん)が見える対岸であった(あれ?なんじゃこれは)。真之は、砂浜から小船に乗って出るが、その先に見えているのは、本来ならば三津浜の先の興居島(ごごしま)でなければならない。興居島の山は伊予の小富士とも言われ美しい姿に特徴がある。それが見えていたら、ぐぐっとリアリティーがあったのだが、「宮島では、どうにも違いすぎる」。このようなすり替えは、ドラマの品位を大きく低下させる。この三津浜は、港の前に興居島があることによって、港内が静かで、沖で停泊中の船も風や波の影響を受けず都合の良い場所だったといえる。PDFの写真①は、興居島を高浜寄り梅津寺(ばいしんじ)から撮影したもの。この梅津寺の小高い丘の上には、秋山兄弟の銅像もある。

 三津浜は、古くから開けた松山を代表する港であった。現在は、近くの島へ向かうフェリーの港として活躍している。一方、呉・広島方面への船舶は、他の都市(小倉・大阪)向けと同様に「松山観光港」から出航する。地理的には、海岸沿いに三津浜が一番南にあり、その少し北寄りに高浜、さらに北寄りに松山観光港となっている。電車は高浜駅が終点なので、松山観光港へは、高浜駅からさらに連絡バス(150円)で行くことになる。さて、それでは、呉中央桟橋に向かって乗船することにしよう。松山観光港からは、スーパージェット(高速船5,400円:約50分)で行くか、クルーズフェリー(2,600円:約2時間)で行く。そのまま、呉から船を乗り継いで江田島の海上自衛隊 幹部候補生学校を見学に行く場合は、10:30(土日祭日は10:00、11:00)、13:00、15:00 の1日3回の見学コース(説明員付き90分)の時間を目標に逆算して船便を決める(詳細は補足に記す)。真之もこんな面倒な、呉を経由するルートを使っていたのであろうか?いいや、当時は今よりもっと海上交通が発達しており、三津浜から直接江田島へのルートもあったと聞いた事がある。

 さて、高速船は騒音が大きいので、フェリーの方がお勧めだが、退屈かもしれない。天気の良い日には上階の甲板に上がり、真之になったつもりで瀬戸内海を眺めて欲しいが、フェリーの左側の島々は、興居島を離れると中島が見え、後半の時間帯はもっぱら倉橋島となる。この倉橋島が徐々に近づいてきて、音戸の瀬戸の狭いところを航行すると、そこからは右側が呉である。音戸の瀬戸は、赤い大橋が掛けられて道路続きではあるが、昭和36年以前は、渡し船しかなかった。ここは昔々、干潮時には陸続きであったとされ、宮島(紹介済み)に続いてまたまた登場するが、平清盛が船の往来のためにと、1日でこの海峡を切り開いたと伝えられている。その業績を称えて清盛塚がある。その日の清盛は、自らの手で太陽を抱え込み、太陽が沈むのを阻止して時間を稼いだと言われ、それがもとで、太陽の神の怒りに触れ、のちに高熱を発し苦しみながら亡くなっている(ほんまか?)。その清盛の発熱は冷水が湯になる程だったという「言伝え」もある。その様な伝説を思い起こして、清盛塚に向かって手を合わせながら、この音戸の瀬戸を無事通過できれば約30分で(PDF写真④右端)呉中央桟橋に到着する。
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 補足1 現在の古町駅には、時々、京王井の頭線で走っていた車両を見る事が出来る。右端の車両もその例。

 補足2 埒が明かない→物事のけじめがつかない。事態がはっきりしないこと。
 
 補足3 幹部候補生学校の見学コース開始の15~30分前に受付を済ませるようにするのがよい。呉中央桟橋から江田島小用港までフェリーで20分(高速船で10分)、術科学校前までバスで7分、徒歩2分となる。したがって、9:25、12:20、14:22 に呉中央桟橋から江田島小用行きのフェリー、または高速船に乗ることになる。すると、松山観光港発からのフェリーなら9:35(→11:30)、10:55(→12:50)、12:10(→14:05)ということになる。また高速船だと10:00(→10:55)、12:00(→12:55)となる。接続が悪く、呉中央桟橋で時間が余ったら、すぐ隣の大和ミュージアムかてつのくじら館を覗くと良い。

 補足4 瀬戸内海を実際に眺め、地図などと見比べながら、本当に美味い牡蠣は何処産なのか考えると、やはり広島より江田島や倉橋島の牡蠣が美味しいことがわかる。でも、もっと美味しいのは、やはり三陸の牡蠣である。

2010/09/07

道後温泉


 幼い頃、道後温泉は、歴史も古く特別に体に良い効果があると教えられてきた。もちろん、漠然と納得もしていた。そうでなければ、早めの夕食を終わらせて、わざわざ家族4人揃って道後温泉まで電車で行くこともないと思っていたからで、理由はともあれ、当時の道後温泉本館は私にとって今で言うスーパー銭湯だったのである。ドラマ「坂の上の雲」でも、道後温泉 本館を想定した湯船の中で久敬(父)が息子の真之へ「急がば回れ、短気は損気」の教えを説いていたが、松山の人にとってこのような親子の会話は日常であったに違いない。この温泉という裸の空間と、ゆったりとした時間の中で、父は息子の為に様々な知恵を授けたに違いない。これは、私もかつてそうであったように、松山独自の温泉文化に根ざした行動だったのかもしれない。

 ということで、今日は懐かしい道後温泉に行くことにする。途中、道後公園前で下車し「子規記念博物館」を訪ねるのもよい。道後温泉駅を降りると、左にはアーケード商店街が続いていて、ここを「道後ハイカラ通り」という。この通りへ入ると、左右にお土産物屋とか喫茶、軽食屋などが軒を連ねているが、まっすぐ進むと、ローソンに突き当る。この左側にどーんと見えるのが「道後温泉 椿の湯」である。一方、右へ向かって、まっすぐ抜けて出ると「道後温泉 本館」に着く。この2つは同じ源泉なので、純粋に温泉の湯だけを楽しむのなら比較的に空いている「椿の湯」がお勧めで、営業時間 6:30~22:30 年中無休 大人360円。一方で、これが最初で最後になるかもしれないという年配の方は、天目(てんもく)に乗ったお茶や、坊ちゃん団子など夏目漱石の世界とか、明治の風情を楽しむには、道後温泉 本館が良い。営業時間は 6:00~22:00 年中無休 大人400~1,500円(切符4種類)となっている。そして、深夜高速バスで松山へ入る「坂の上の雲の舞台を探す」御一行様は、まず、道後温泉 本館で一風呂浴びてから出かけてもらいたい。もちろん路面電車もJR松山駅発→道後温泉行きは 6:16 から運行している。

 道後温泉は3,000年の歴史を誇る日本最古の温泉で、岩の割れ目から噴出すお湯で、傷を癒していた白鷺によって発見されたという伝説もある。道後温泉 本館は明治27年に建築された木造三層楼の建物で、国の重要文化財。泉質はアルカリ性単純温泉で、適応症は神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進など。道後温泉では、現在17本の源泉から汲み上げられて、本館、椿の湯はもとより周辺の旅館やホテルへ給湯されている。花こう岩を浴槽とした「椿の湯」は、古典に記されている聖徳太子のことばに起源をもち、その名が付けられたと言われており、本館の姉妹湯として、昭和28年新設されたが、その後、昭和59年に改築され現在に至っている。

  さて、道後温泉 本館には、2種類5つの浴室があり、種類とは、「神の湯」と「霊(たま)の湯」である。「神の湯」は広めに出来ていて、1.男西用、2.男東用と3.女用と3浴室があり、ここは大方が毎日の常連さんが使用する。こじんまりした「霊の湯」には、1.男用、2.女用と2浴室があり、こちらは観光客がゆったり入浴するにぴったりである。お風呂はすべて1階にあり、神の湯2階席や霊の湯3階席を利用の客も、全てここのいずれかのお風呂に入る。切符の区分と概要はPDFに示したとおりで、1,200~1,500円持って行けば、手ぶらで楽しんでこれるということになる。どうせなら、1,500円コースでゆったりと楽しみたい。
ではこちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21767&app=WordPdf

 補足1 天目とは、語源としては茶碗のこと。道後温泉では、お茶碗を乗せる「朱色の漆塗りの台」を指す。夏目漱石も司馬遼太郎さんもこの天目に着目し、なにかと話のネタにしている。

 補足2 改札の中は廊下が色分けされており、青色が「神の湯2階席」、赤色が「霊の湯2階席」、黄色が「霊の湯3階席」に進む案内になっている。それぞれの色に添って、席まで行って湯上りを楽しむ。 親しいもの同士でのんびりしたいなら、「霊の湯3階個室」がよい。老舗旅館の客間を思わせる雰囲気が「坂の上の雲」の時代に引き戻され、正岡子規か夏目漱石になったような気分になるはず。 ただし、土日や夜の個室は満席の可能性もある。

2010/09/03

超特選タルト70


  何処へ出かけて行っても、時間があると、ついつい目的も無く目ざとく探して歩き回ってしまう。せっかく遠くまで来たのだから、一寸美味しそうな物とか、地元でなければ入手できない物とか、「何かないかな」と漠然と商店街を歩くのである。だいたい、その様な衝動を収めるには、直感的に気に入れば何でもよいのだが、そう簡単にあるわけはない。珍しいとか、あるいは、新鮮であるとか、豊富に獲れるとか、何らかの特徴があれば、やはり、大阪・東京方面へ送られることになるからだ。しかも、ガイド本などで仕入れた情報を元に、特産品に群がる観光客を相手にしているお店は、決して安いわけではない。やはり、良く考えてみると、その地元に住んでいたとしても、たまには食べたいと思うようなもので、ある程度の価格が維持されていて、珍重されるような物を入手するのが良いのではないだろうか。そんなことで、お手軽にも70周年記念の「超特選タルト70」というのを見付けて買い求めた。ただ、全国展開している「一六本舗のタルト」なら、近所のイトーヨーカ堂でも時たま販売しているので、わざわざ松山まで来て買うこともないが、丁寧な「手作りの六時屋」なら、買って帰ろうと思えたのである。ただ、今はインターネットでも購入できるそうだ。

 では、紹介する「超特選タルト70」は、どのような特徴を備えているのであろうか。元々、六時屋の創業は1933年で、タルト一筋に伝統を守る製法を続けているが、1953年 昭和天皇陛下御用命を賜るなど、輝かしい実績を持つ。そして、既に70年の月日が流れてしまった。それを契機に、改めて「創業者の銘菓は原料を選ぶ」の理念を念頭に置き、より優れた素材を選び出しながら、最新の技術を投入し、拘りに拘りを重ねて、登場させた商品なのである。同社では、まず、とことん原材料に拘り、1.石づち山の美味しい水、2.アローカナという鶏の青い卵(チリ北部アンデス山中のアラウカ地方の固有の鶏)、3.砂糖はグラニュー糖、4.北海道産小豆100%など。特に2.の青い卵によって、きめ細やかな甘さと、比類のない深い味わいの作品に仕上がったとしている。実際に戴いてみても、確かに格調高く、奥深い味わいで美味~しい。冷やすとさらに美味い。まさに、松山の銘菓として何処へ出しても、誇りにできるような品格がある。

 基本的に六時屋は、商品を松山市勝山町2丁目の本店と、松山市道後湯之町14の道後店の2箇所しか販売していない。このことは、銘菓と言われる商品にとって特に重要な要素なのである。タルト一筋でタルト作りに情熱を燃やし続け、商品の賞味期限でさえも拘り、さらに、原材料の安定入手、更なる美味しさの追求、品質の均一性などを加味すると、安易に商売ルートを拡大できないと言う考えに到達するとされている。つまり、同じ松山生まれでも、広範囲な販売戦略をとる一六本舗のタルトとは、商売の方向性とスケールが異なるわけである。もちろん、一六タルトも柚子がよく薫り美味しいし、お安い価格で提供されている。いわば、六時屋の職人気質に対し、一六のタルトはメジャー路線を駆け上がってきたといえる。この2社が存在することによって、タルトという松山の銘菓を守り続けているのである。

 お土産に最適なお菓子としては、数十年前の定番といえば、1.坊ちゃん団子、2.タルト、3.母恵夢 が定番であった。最近は、お土産のお菓子類は何処もよく似ていたりするし、新たな銘菓も増えている。「坂の上の雲」関連のお菓子も加わっているようだ。もっとも、小安く手軽な甘い物をお土産に持って帰っても、さしたる評価も得られないと思うので、ここは1つ、やや貴重で高価(木枠1本入り2,625円)な商品だが、昭和天皇御用命当時よりも、さらに拘った商品として、これならば、何処へ持って行こうと恥をかく事はない。お土産で迷うようなら、これがお勧めである。
ではこちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21764&app=WordPdf

 補足 タルトの由来を「六時屋の解説書」から引用する。原名はタルトレート(Tart lette)といい、約300年前にオランダ人によって伝えられている。当時、幕府より長崎探題を命ぜられていた松山藩主・松平定行公は、ポルトガル船2隻が入港したとの知らせに急遽長崎へ向かい、海上警備にあたっている。結局、争いも無く南蛮船はそのまま引き上げたが、この時にオランダ人を通じて南蛮菓子タルトを味わった松平定行公は、その風味を大変気に入り、製法を詳細に調べさせて、松山へ持ち帰ったといわれている。当時の南蛮タルトは、カステラの中にジャムが入っていたもので、現在のようなあん入りタルトは、松平定行公が考案したもののようだ。その後、御殿菓子タルトの製法を城下の商家に伝え、原材料、製造工程に改良が加えられ、松山の名産になったと言われている。