2009/12/29

八坂の塔の下で撮る


 例年、年末年始は、いつも大阪方面だった。今年は全く暇で、今年こそゆっくりと、延々と続く年末年始のTVの「ちゃんばら番組=例えば柳生武芸帳など」を満喫したい。もう6~7年も見ていないので、定かではないが、まだやってると嬉しい。それにしても、暖冬だとか言われていたにもかかわらず、寒さも本格的になってきたと痛感する。その冷たい空気に触れると、やはり京都の寒さを思い出す。四条大橋手前から河原町に向かって右上に見えるデジタル温度計の数字が印象深く、-1度とか-2度とかという数字が浮かぶ。こんな時期は、つい「彩のカレーやイノダ珈琲(両者紹介済み)」を思い出してしまうのである、それも胃袋の条件反射なのかもしれない。いや、やはり、京都の寺が好きだとか、仏像に興味があるとか、その類ではない。先々週は、そう哀愁に浸っていたわけである。ところが、昨日になって大阪方面から電話が入ってきた。大した内容ではなかったが「挨拶がてら、行きますよ」と、つい、応えてしまったのである。勿論、日帰りでも十分なのだが、一泊してついでに京都に寄ることにした。 ところが、病院の依頼話はやはり想像以上に無理難題であった。

 仕事を終えた翌朝は、早起きして阪急梅田から特急43分で河原町へ出る。ここからは歩きながら楽しむ。四条大橋を渡り、振り返ってデジタル温度計を望むと、それでも4度だった。途中、花見小路通りを下る(京都駅方向)。年明けとは違い年末は人もまばらで、閑散としているが外国人は多い。道なりに東大寺通りに抜けたい。途中ペンション祇園という看板を横目に見ながら、東大寺通りに出た。八坂通りと交差するところで横断歩道を渡り、そこを少し登る。そろそろ右だと思っていると、いつものように「あなたの着物姿を撮影します班」に出くわした。正面には八坂の塔が見える。こういう場所で、着物姿を撮影してもらうのは、結構費用もがかかるが、メイクも決まっているし一生使える写真になる。と、人気もあるようだ。しかし、どうも1人で写るのは気恥ずかしいようで、必ずお仲間がいる。お正月は撮影した写真を観ながらみんなで楽しんで欲しいものだ。観光客もまばらなので、撮影者の仕事振りを少し眺めたが、なかなか問答が多くて始まらない。やはり、お客の希望通りの写真を撮影するのは難しいようだ。それでは、お先にという感じで、ちゃっかりスタッフ込みで、顔が分からないように撮影させてもらった(今日のPDF写真)。シャッタを切った後は、「こういう仕事も1度くらい経験してみたいな」と思いながら、すたすたと五条坂と茶わん坂の分かれ道へ向かう。ここも人はまばらで、さすがに年末は歩きやすく、学生の二人づれもちらほら。ここまで、河原町からのんびり30分程度である。茶わん坂は、昨日来た様に思えるほど変わっていない。

 「彩」も空いていた。いつもの場所に座り、いつものカツカレーを注文する。お店のお母さんも、いつもの通り料理の合間に「手間のかかるカレーの作り方の説明」をする。こちらも、またいつものように、「へー、へー、ふーんそうですか、拘ってますね」と合図地を打つ。しかし、肝心なことは教えてくれない。出来上がると、昨日の記憶と重なるカレーを堪能する。やはり、美味しい。京都は土地柄なのか、手間のかかる仕事ほど丁寧に仕上げられる。終わると、お勘定をしながら、「東京からわざわざ食べに来ました」と、恩着せがましく印象付けるのである(京都シリーズ紹介済み)。ここには、1日弟子入りをしたいくらいだ。

 店を出ると、ここからは、目を瞑っていても行ける、お決まりの道順で「イノダ珈琲清水店」に向かう(紹介済み)。ここでも、やはり注文は砂糖入りの「アラビアの真珠」になる。イノダ珈琲店は東京駅の大丸にもあるし、珈琲豆なら分倍河原のお茶屋さんにも置いてある。しかし、この清水店だけは「何故か引き寄せる味」なのである。やはり、ここでないと味わえないと満足。いずれにしても、「裏技のような手間の掛け方で、外見は何も違いはないけれど、その違いが分かる人が来ればよい」ことになっているようだ。帰りは、胃袋の上部から、時々はみ出しそうになりながら、すたすたと八坂の塔からそのまま東大寺通りへ下り、206番のバスに乗る。年末はバスもすいすい走る。揺られながら(上の写真)、その無理難題の宿題を思い出した。やはり裏技の塊になりそうだ。来年になってからゆっくり考えよう。 それより先にやんなきゃいけない事がある。そうだ、ついでに年賀状の写真も撮ってこよう。京都駅では降りずに、そのまま七条堀川までゆく。
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2009/12/25

チョコを運ぶトラック

 スーパーの売り場の棚の上には、赤と銀色でデザインされた長靴がズラーと並んでいる。その長靴のネットの中には、お菓子がいくつか覗いている。このような風景は何十年も変わらないようだ。今の子供達は、そんな物は欲しがらないんだろうなと思っていたら、それを大切に抱きしめた子供を見かけた。言葉少なく、お母さんの上着のすそを握り締め、じっとレジが済むのを待っている。いつもなら元気いっぱいに動き回って母さんを困らせているのに、今日は随分大人しくしている。さぞかし至福の時を過ごしているに違いない。さすがにその長靴はいらないが、私も何か買ってもらって、大人しく無口になりたいものだ。この場の雰囲気が読めないかなと後ろをチラッと見る。 

 母さんは、子供達が大人しく言う事を素直に聞いてくれるなら、クリスマスは毎月あってもよいと思うかもしれない(思わない)。その場で買ってもらう喜び、あるいは買ってあげる喜びは、財布の許す範囲で幸福感の共有が出来る親子の唯一の作業である。この殺伐とした現代社会では、子供達だって多くのストレスを抱えているし、時折不安感さえ覚えるかもしれない。そんな時、やはり、母さんは、いつも自分の味方であることを認識したいのである。大人は、子供が「何気なく今、気分で欲しがる物」は、わがままだとさらっと流してしまうが、時には試されているかもしれない。それを、敏感に察知する能力を備えておいて欲しいものだ。

 クリスマスだからといって我が家には、特別なイベントは無い。参加者2名では、何をやっても盛り上がるはずが無い。いつものように、いつものごとく、年末のざわめきの中に消えそうになる。しかし、こういう時期には、特別な商品も顔を覗かせることがある。売り上げ低迷の折、なにやら復活だとか言って人気のあったものが期間限定で再登場することもあるし、どのような付加価値を付けて夢を企画してくれるかわからない。それが許されるのもこの時期の特権といえそうだ。そこで、情報だけは見逃さないように心がけたい。私なんか、もし、ハーゲンダッツにブランデーチェリー・アイスクリームが復活しクリスマスケーキという形でも提供してくれれば、迷わず買ってくる。いや、そうでなくても形には拘らない。贅沢も言わない、カップ入り小売だけでも良い。あれだけは、群を抜いて美味しかったと印象深く残っている。

 今朝、目が覚めると机の上に包み箱が置いてあった。サンタが寄ってくれたのであろうか、忙しいのに申し訳ないなと思いながら、包みを開いてみるとブリキで出来たトラックが出てきた。荷台には板のチョコレートが4枚入っている。いやー、それにしてもブリキのおもちゃは懐かしいな。ふと昔へタイムスリップしそうだ。私の幼い頃は、こんな物しかなかったが、貰うと1ヶ月ぐらい一生懸命それで遊んだ。知らず知らずのうちに、将来の夢を抱いたものだ。昔の写真には、必ずブリキで出来た、はしご付き消防車、電車、オート三輪、ドイツ製のバン、等のおもちゃが一緒に写っている。今、このトラックを眺めながら、しばし、ブリキの角の絞りを指で撫でる。最近のものは作りが良い。子供が触っても絶対に怪我などしないようにと巧妙に処理してある。塗装も随分綺麗に仕上げてある。ふと、この頃に比べて今が幸せかと聞かれると、必ずしもそうとは言えないが、こうやって、楽しかった子供の頃を思い出す事が出来る自分は、そこそこ幸せだと思うのである。そんな、昔を思い起こすひと時を与えてくれるこのブリキのトラックは、大人への優しいプレゼントといえよう。
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2009/12/22

腰痛治療2

 腰痛に関する情報サイトは人気が高いと、腰痛持ちの友人から聞いた。確かにそうだと思う。去年の5月に書いた「腰痛治療」も、今だに「検索からのアクセス」が10位以内(毎月)に入ってくることからも十分理解できる。しかし、じっとしてパソコンに向かっているようでは、腰痛は良くはならないと思うが、それに苦しんでいる人口が如何に多いか推測できる。それにしても、腰痛には様々な症状があって、治療方法も、指圧やマッサージに代表される民間療法、サロンパス等で神経の興奮を抑える塗布型炎症緩和、西洋医療による手術の3種類ぐらいに分類されるらしい。私の場合は、独自療法で腰周りのストレッチとウォーキング時の歩き方の工夫や腰巻バンド(効果大)、さらに西式健康器具(紹介済み)によって、工夫を重ねながら腰痛と付き合っているつもりである。最近では、ヒートテックのズボン下で暖めてあり快調である。それも、これも、腰を痛めた回数は小さく見積もっても3回程あり、全く完治などということは考えたことがない。将来、坐骨神経痛にならないように、自己流で臨床試験を重ねてきた。どのような病気でも、上手に付き合うことを基本にしなければならない。

 もっとも、激しい痛みと戦った時期も何度かあり、腰痛の苦しさは知っているつもりである。仕事のついでに何度も病院のMRでチェックしてもらってきた。酷いヘルニアもある事も知っている。この患部を庇う為に負担が増えて痛む筋、筋が引きつったまま行うストレッチ等によるリアクションで、痛みの連鎖が再び痛みを呼ぶわけである。こういう場合も専門家でないのが辛い。さて、この自己臨床試験で分かってきたことは、長引く痛みは、とにかく「おケツ」=関西風に言えば「おいど」がポイントで、ここを柔軟に動かせるようになると痛みは軽減する。「ウォーキング1」でも書いているが、骨盤を左右、前後、円周上に動かす準備運動をしておくと、ウォーキングでも足の疲れが少ないことから、そう考えるようになった。だいたい、ロボットでも2足歩行させるのに苦労しているぐらいだから、人間も進化の途中で無理がかかるようになってしまったのかも知れないと、納得してきたのである。1つ違いは「おケツ」というか骨盤の機能はロボットには装備されていないか、人間ほど外見上目立つ構造はしていない。つまり、我々人間は「おケツ」の中に何か重要な機能を搭載しているのかもしれないとも考えていたのである。しかし、逆に考えると、日常生活では、「おケツ」が大活躍する事が数少ないのかもしれない。

 と、ところがである。世の中には不可解なことをよく目にする。テレビなどで腰の痛みやヘルニアで休養をしていたアスリートが、何も無かったように元気に飛び回ったりする姿を見る事がある。それを見て「そんな!完治するんだ」といつも驚くわけである。だから、大学病院では治療できなくても、きっと、完全に近い治療方法というのがスポーツ医学等にはあるに違いないと思うようになったのである。それを何としても知りたい。しかし、今からバリバリのアスリートになるわけにもいかないのである。

 大概の腰痛持ちは、様々な独自の工夫を凝らしながら時々、行きつけのマッサージ屋、ほぐし屋、必殺カイロプラクティック、などへ通っているに違いない。去年の「腰痛治療」で紹介した西武治療院は、確かに一時劇的に治る。しかし、いつも混雑して毎回々通うには適していない。その日一日が丸々つぶれしまうからだ。そこで、自己流の緩和方法を考案・改良するわけで、そのためには、とにかく解剖学的な正しい情報が必要になると常々考えているのである。そんな折、本屋で「腰痛は99%完治する」という本を見つけた。何とも、微妙に希望の持てるタイトルが付けられているところが憎い。早速、連れて帰って1時間ぐらいで貪り読んだ。うーむ、仙腸関節というのが骨盤に存在していたのである。そんな骨盤に関節なんぞがあるとは、つゆとも考えなかったし、そんな説明を誰からも、もちろん大学病院の先生からも受けたことは無い。人間の体の耐衝撃設計は、凄い事が分かった。どうも、その仙腸関節を柔らかくしないと腰痛は根本からは治らないと記述されている。結局、酷い場合は筆者の「予約でいっぱいのクリニック」へ通う必要があるように読める。読み始めはそのクリニックの宣伝かと思ったが、それにしても、そこそこ明快な理屈が流れていて、これで少し謎が解けたような気がするのである。
  
  そこで、PART3の「腰痛チェックテスト」をしてみると、大学病院の画像診断の見立てと一致する結果となった。この本の筆者は、画像診断をしなくても症状で患部が特定できると書いているが、それを実証していると思い、な、なるほどと納得したわけである。続けて、「症状別緩和対策」のページを読みながら、同じ様に試してみることにした。勿論、物凄く簡単作業で、まだ3日目で良い悪いなどと判断は出来ない。しかし、やはり翌朝は、強烈に痛みが走り「きついな」といった感じであった。どのような試みも、リアクションは避けられない、最初はいつも痛みが出る。これは自然な反応である。ぼちぼちと自己流の緩和方法に取り入れて、しばらく続けてみたい。ちなみに、この本は、アマゾンの健康、腰痛分野で人気No.1 だそうだ。
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2009/12/18

代官山シェ・リュイ

  師走になって遊びに来いと言われても、俺にも色々都合ってものがあり、返事に困る事があるが、先方はやはり暇なようで是非にと言われ、お邪魔することにした。特別用事があるわけでもなく、ただ、音を聴いてみて欲しいというだけのことである。オーディオマニアは、時々1人では迷いが生じるのかもしれない。だいたい趣味は1人で楽しむものだが、時たま他人様の評価というか、意見を聞いてみたくなるのであろう。そんな余裕をかましていると、酷い目にあうのも趣味の特徴で、自分が気にしていることだけではなく、全く気にもしてなかったところまで指摘されてしまい、結局落ち込んでしまったりするのである。 でも、それが良い刺激になり、そこで進歩が止まらなければ、よいとも思うのである。

 彼の家に着くと、既に真空管アンプには1時間前から灯がともっていた。少々回路が違うとか、部品で音が違うとか言われても、そんな、年に1度ぐらいしか訪れないのに、しかも個性的なアルティックA7の下では、細かい違いなんかわかりそうもないけれど、まだ拘りたいのであろうか、あるいは、自慢したいのであろうか。早速、いつもの「クールファイブの港の別れ唄」を掛けてもらう。たわいも無い歌謡曲だがA7は、ひときわ開放感を漂わせる。最初のアルトサックスのリードに音の厚みがあり艶っぽい。前川清の声の明瞭度にも優れ、中低音の肉付きもよく大型フロアの存在感を見せ付ける。少し音量を上げたところで、A7から離れてみると、それはそれで離れるほどに声の明瞭度、各楽器のパートの分離が良くなり、庭に出て聴いても上々である。さすがにVoice of Theater だけのことはあると賞賛してしまうのである。次に、リストの「超絶技巧練習曲」を聴く。スタンウェインの重量感そのままに、左手の指使いまでリアルに再現出来る能力は、大型の良さでもある。小型の完全密閉型スピーカではちょっとこれは無理だなと感心する。最近のスピーカだと音程感だけなら出るかもしれないが、グランドピアノのスケール感を音にできるのは、かつて金庫と綽名が付いたテク二クスの10000番ぐらいだったと、昔を懐かしむ。中音域の厚みがピアノの弦を叩く感じをよく再現し、余韻もよく残って、その余韻の交錯が心地よい。ちょっと響きすぎかもなと首をかしげる。次は、ベルディのレクイエムからあの、怒りのパートを聴く。目の前で大太鼓を打った時の空気の動くさまや震えの減衰状態を肌で感じる、我が家とは力強さが全然違う。 ただ物理特性に拘ったのと違い、そこに存在する駆動部や振動部の物理量の違いとでも言うのであろうか、例えば、牛乳瓶を落として壊した時の音の違いで表現すると、ワイングラスを壊した時の音が我が家で、半升瓶を壊したときの音がこのA7と思ってもらってよい。少し大袈裟だけど、そのくらい違いを感じるのである。また、このような力強さは、反面デリケートな楽音には不向きな傾向を示し、おのずと音楽ジャンルが限定される。しかし、どのようなジャンルも満遍なくつまらない音を出すより、魅力に感じる事があるに違いない。また、合唱のパートはやや混変調のように濁ってしまっている。それにしても、こんなに大音量なのに、1W行くか行かないかだそうで、今更ながら効率はよく、そこだけは時代に適合した省エネでもある。

 このあたりで、お茶の時間になったが、手ぶらで訪問するわけにも行かず、つい、洋菓子なんぞを買って来たわけだが、何を持ってきても、美味い美味いという夫婦だから、ちょっと難解なものを選んでみた。勿論、自分でも食べてみたいと思うものでもあった。手見上げは、必ずそれがテーブルに出てきて、それは、キャッシュバックのようなものと考えているので、たっぷりと買って来た。その洋菓子見本はPDFを見ていただきたいが、この白い渦巻きになったやつが格別に評判が良かったし、久々に自分も美味いと思った。そこで、自分用に再び買ってきたというわけである。 名称は「モンブランフロマージュ」といい、カップに中になめらかなバニラプリン状のクリームがあり、その上にクリームチーズ入りの生クリームをしぼって仕上げられている。途中2種類のソースが上下に分かれて入っている。この代官山シェ・リュイでは、小安いモンブラン・マロンや、スイートポテトなどが良く売れているが、このモンブラン・フロマージュは、直径70mm、深さ30mm程度のカップで何と1個473円。いわば中身の濃い重量タイプで、アルティックA7に対抗するには、ぴったり来る感じでもあり、なかなか場の雰囲気に合いそうな存在感が気に入ったのである。

 最近は、洋菓子にも健康志向が優先し、甘味を抑えて低カロリーで、軽い洋菓子に人気がある。パクッと食べるにはそれでも良いが、少々味わいを楽しみたい向きには、それでは十分とはいえない。後味にも何となく物足りなさを感じ、血糖値が上昇するまで時間がかかるし、血糖値がエネルギーと化して大脳を刺激し、冴えた発言もなかなか出てこない。そういう時は、個性的でも厳選された素材を「たっぷりと惜しげもなく使った」ものが効果的で、食べ応えが幸福感を増幅する。
 人の好みというのは贅沢に出来ていて、優れた物でも趣味なるがゆえに毎日使うと不満が出てくる事があるし、美味しいものも続けるとすぐに飽きる。この不満や飽きっぽさとどのように付き合うかも楽しむ裏技の1つといえそうだ。
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2009/12/15

高尾山1

 今日は高尾山口まで来ている。新宿から京王線特急で50分程度の場所である。京王線の改札を出ると右の狭い道なりに進む。左に小川のせせらぎが聞こえ、ピーンと張った冷たい空気で、随分遠くへ来たなという感じがする。5~6分歩いて広い通りに出ると道の両脇には蕎麦屋が並んでいる。ああ、ずっと変わっていない。あの店でも、この店でも蕎麦を食べたなと、きょろきょろ暖簾を眺めながらケーブルカー乗り場へ進む。乗り場では、丁度ケーブルカーが発車したところだった。次の発車は、15分後になるようだ。しばし、退屈な時間を過ごすが、乗り場の壁面には綺麗な高尾山の写真が大伸ばしにして幾つか掲示してある。凄い写真ばかりで圧倒されてしまう。 どうやって撮影したのだろうと想像している間に、リュックを背負った団体が乗り場の左の脇道を通る姿を確認した。おおっ、そんな装備がいるのかとびびってしまった。

 高尾山には、歩いて登るルートもいくつかあり、自然に親しむ、例えば動物、植物、鳥、昆虫などを生態を覗くには、そちらの方が楽しい。もっとも天気も良いので、気分的にはそうしたいが、ヒアルロンサンZXを飲んでいないので膝や腰を痛めてはならないと思い、やはりケーブルカーを利用することにする。案外テレビのCMは、人を宥める効果があるかもしれない。そうそう、CMと言えば、本木君の出ている、右手で背広の襟を掴んで、いざ出掛ける様子を最後の静止画でみせるCMは、素晴らしく格好よい。胸板の厚みがあると、あのようなショットが創作できるのか「おーっ」と半ば感動ものである。その前の畳み込むようなスピード感溢れるシーンは全て、身のこなしの美しさで、バランスと体の切れのよさを次々と強調する、それらが最後のショットを印象深いものにしているのである。なんのCMかは忘れたがLED がどうした、こうしたとかいっているようだが、完全に本木君のプロモーション映像である。やはり、「丘の上に立つ男」は体を鍛えておかなければならない。

 話を戻すと、高尾山に登るには、ケーブルカーのほかにリフトも用意されている。高所得意症で気持ちの良い空気を胸いっぱいに吸い込みたい方は、そちらがお勧めになる。ケーブルカーもリフトも、往復900円で、片道だと470円、したがって、片道づつ別々に楽しむことも出来る。ケーブルカー(リフト)の始発は8:00(9:00)から15分おき(随時)に出発し、乗車時間は6分(12分)である。最終運転は、季節や催し物によって異なるが、一般的には、おおよそ17時(16時)までと考えておくと間違いない。

 ケーブルカーは山の斜面になぞられて、垂直に立ったまま移動できる乗り物だが、最初は傾斜が緩やかな場所を走行するので、概観はやや前傾姿勢をしているようにみえるが、最後に傾斜31度18分と急峻な場所を登るので丁度良い姿になるようだ。それでは、今からケーブルカーに乗リ込むことにするが、乗車位置はやはり先頭しかないだろう。どういうわけか、幾つ歳を重ねても、やはり先頭の窓越しに立つと言う癖は変わらないようだ。時折、京王線等でもおっさんが子供達に混じって、先頭の運転席のそばに立っている姿を見かける事がある。じっと、電車のスピードと運転手の操作を比較しながら見入っている。子供の頃から運転手に憧れ、何時かあのハンドルを握ってみたいと、ずっとずっと考えていたようだ。そのためには、信号機を見て運転手の指差す姿や、確認号令を真似しておく必要もある。加速はどの場所でするのか、駅構内でのブレーキはどのタイミングなのか、停車位置にぴったり止めるには、などと、しばし、子供心に戻っている。それも、仕事を忘れるほんのひと時なのかもしれない。その感覚と全く同じである。

 さっそく先頭に乗り陣を構える。運転手も乗り込み出発する様子だが、車内電話で何か連絡を済ませ着席する。しばらく静寂の中、じっとしていると動き出した。スピードは案外想像より早い。線路の左右の木々は丁寧に刈り揃えられているし、落ち葉も清掃されている。線路中央にあるワイヤーがぐいぐい引っ張り、常にピーンと張り詰めている。ケーブルカーはみるみるのぼり、眼下には徐々に紅葉が広がってくる。車内も騒がしくなり、次から次へと紅葉が太陽の日差しに透けて輝きながら流れていく。子供達もはしゃぎ回り楽しそうだ。中間点の上りと下りのケーブルカーが交差するところでは、子供達の興奮もピークに達する。
 その風景は、こんな感じなのである。 紅葉もこれからの時期、しばらく続きそうだ。本来の見所は、もっと先の鉄橋を渡るところあたりで、傾斜も鋭くスリリングで眺めも良い。一緒に乗ったイメージで眺めてもらいたい。
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2009/12/11

洋菓子ウエスト

 世話になったというお礼の印に年末の届け物には気を使う。しかし、お世話になっていないけれど、「おお、元気か?」の挨拶代わりに何か贈るというのは楽しい。それは、「着いたぞ」という電話であったり、「今どうしてる」という会話の中に何故か安心感を伴い、そこに仲間としての存在価値を見出せるからである。それも、のっけから生活観や仕事観が覗く話題より、お菓子の話から入るのが無難である。と思うが、最近は健康志向も案外話題の中心になる。だからお菓子にも、それなりに難しさがある。食べたいけどたくさんは駄目という迷いの中で、誰しも諦めがちで究極の選択をする苦悩が存在しているのである。みんなそれぞれ体調によって、苦しみが違うのである。

 人は、甘味においても長い人生経験の中で取捨選択された得意分野が存在する。例えば、私などはあんこ系が好物で、小豆をこよなく愛している。この種の加工品を戴くと、その人は無条件に「センスの良い人というレッテル」を貼ってしまうのだが、逆に、こちらからの届け物に関しては、あんこ系は相手も迷惑だろうと思ってしまう。あんこ系はなにせ歴史も古く、美味しい物はいくらでもあるけれど、砂糖との関連が強く理解してもらえないことが多いので、最近はそういう誤解を生むような商品は避けたい。その分、モダンでCM等で理解されやすく、低カロリーな「ソイジョイ」をまとめて贈る事が多い。大人は少々がっかりするかもしれないが、子供さんには評判が良いらしい。届け物には、やはり信頼感のある大塚製薬が良いと思っているのである。しかも、これなら、あっても邪魔にはならないだろうし、賞味期限も長いので安心なのである。

 今日は、戴き物で、自ら進んで購入することの無いカテゴリーだが、「上品で美味しい」と思ったので、ぜひ贈り物の参考にしてもらおうと思って登場させる。戴いたのは、出版社にいた頃の最初に仕えた編集長で、駆け出しだった頃よく銀座へ美味しい物を食べに連れて行ってもらった。決して豪華でも、高価なお店でもなかったが、ちょっとお洒落で美味しく小安い、というお店だったことを思い出す。今はすでに、ご自分で後期高齢者になったと威張ってらっしゃるが、それでも、文化人の薫りがして、「軽く一流」なのである。今回紹介するものは、決して高価なものではないが、上品なクッキーである。

 忙しい毎日を過ごしていると、贈り物などにこだわることも無いと考えることも多い。しかし、実はこれが一番人柄を表していると思うのである。歳を重ねれば重ねるほど、その選択眼が重みとなって自分に伸し掛かる。このようなクッキーやお菓子に限らず、やはり、平素から歴史的背景を踏まえて、美味しい物、体に優しいもの、珍重される物、などを豊富に食べて勉強しておきたい。自分で平素からそう心がけないと、贈り物でさえ、気持ちを伝える時の品物に困るに違いないし、逆にセンスの悪い人は、うんざりされてしまう。 やはり、少しだけでも、ちょっといいものを贈りたい。
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2009/12/08

京王フラワーガーデン

 今日は、京王線多摩川駅に隣接した「京王フローラルガーデン アンジェ」という庭園へ来ている。街中にあって、規模はさほど大きくないが細部にまで手が加えられ、綺麗にデザインされた庭園になっている。入場料も大人500円なので手軽に入れる。今日は、少々肌寒くなって人影も少ないかと思いきや、近所の人達なのだろうか、親子ずれで賑わっている。時たま雲の間からさす日差しが、ひとときの暖を送ってくる。パンフレットによると、園内は15のテーマガーデンに区切られていて、季節ごと見事な花を咲かせるという。年間パスポートも2,000円でお安い。そして、この庭園の近所にお住まいの方は、1年間、月曜~金曜の5日毎日通えば、おおよそ1回10円以下になり、もはや自宅の庭といった使い方になりそうだ。

 この京王フローラルガーデンは、ウォーキングコースの途中にあり、いつも寄ってみたいと思っていた場所である。 おまけに、隣にはレストラン「馬車道」があり、その建物は洋館スタイルで何となく雰囲気もよい。どこか、人が行動を起こす衝動の中には、いや、もっとも俺だけの性質かもしれないが、ウォーキングの目的地にはモスバーガーがあったり、写真撮影の後には蕎麦屋があったり、お祭りでは屋台しか興味が無かったり、旅行も観光より宿の食事であったり、国会議事堂へ行ってみたいと思うのは、実はその中の食堂に興味があったりと、必ず「食」の一文字が付きまとうのである。まさに、それが、行動の引き金にもなっているようだ。この馬車道はフローラルガーデンの平行して隣接しており、庭園を散策した後、ゆっくりとした時間を過ごしたい向きには丁度良い。小腹が空いていれば、軽食やパスタもあるようだ。「従業員の衣装も矢羽根姿で文明開化時代を演出し、茹で上げスパゲッティや、こだわりのドリンクバーをお楽しみ下さい」とある。少々、誰でも興味が沸くと思う。勿論、フローラルガーデンを遠方から訪れる人にとって、この京王多摩川駅近くには、1度に大人数を収容できる食事どころはここしかない。

 さて、庭園の詳細はHPをご覧戴きたいが、15のテーマガーデンの中から、今回は興味を惹いたウォール・ガーデンを紹介したい。ここを選んだ理由は、かなり個人的な理由になるが、実家がレンガの塀で囲まれていることもあって、何処となく子供の頃を思い出して懐かしさを覚えたからだ。祖父が英国へ洋行した後に建てた家だったこともあって、幼い頃から英国風というのが象徴的でもあった。当時は祖父の勤務先でもあった海軍工廠もレンガの建物が多かったと父から聞いたことがある。現在でも海上自衛隊にいくつかレンガの建物をそのまま使用している。そうか、明治時代=レンガ=英国風か、「それにしても、最近は田舎に帰っていない」と思いながら、恐る恐る庭に足を踏み入れ中央に佇むと、何処からともなく Let me take you down 'cause I'm going to strawberry fields と歌う、ビートルズの曲が聴こえてきそうだ。ジョンが子供時代によく遊んだリバプールの孤児院の庭先がこのような感じだったのだろうか。こんなところで、自分の世界をつくり一人で遊ぶ子供の姿が目に浮かぶようだ。・・・・・と勝手に想像しながら、白いガーデンチェアに腰掛ける。しばらく、次から次へとジョンの曲が頭の中に溢れ出し、僅かな時間だが長く感じ日常の喧騒を忘れかけたが、一寸寒いので立ち上がった。

 そうだ、今日のテーマは「俺のストロベリーフィールズ」にしよう。と周囲を見回し、今座ってボーッと眺めていた方向に向かって歩き、振り返ってシャッターを切った。 レンガに囲まれた庭が少し広めに見えるかもしれないが、使用レンズは水平包括角度で90度程度である。
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2009/12/04

永遠の好奇心

 と背文字が並んだ「週間朝日MOOK」、私は「朝日」と付いた物は大嫌いである。しかし、・・・それでも、「何とも格好の良い写真なんだろう」と思い、つい手に取ってしまった。「左手」で煙草を挟み、「薬指がピーンと伸びて」いるところが、とても印象的である。写真だけでは、刑事なのか、ヤクザなのか、わからないが、紛れもなく文屋の姿でしかない。それは、親しい報道カメラマンが撮影したように思えるからだ。煙草の火の状態まで累意して連写撮影された中の1枚である。煙草の先が赤く燃えているのは、煙を吸い込んでいるからで、その時に、顔の前には、さほど煙は存在しない筈である。しかし、このショットを気に入った編集者は、彼がヘビースモーカーであった事を強調したかったと思われる。煙の大半は写真に後から追加された可能性が高い。

 何故、そんな「体に悪い煙草を吸う姿」を表1に選んだのであろうか。煙草を吸うオヤジはいまだに多い。そして、文屋は煙草を止めない。私も先輩3人、同僚1人を煙草で失っている。私の知る限り彼等は、入院するまで煙草を離さなかった。朝などは、そのニコチンが毛細血管の隅々まで行き渡り、初めて普通の人間と同じ状態になる。そして、文章を書き始めると、自らの後ろ頭を殴るように、ニコチンを次々と投与しなければならなくなるのである。その刺激がピークに達する頃、初めて大脳が高速回転を始め、今日の取材と過去の記憶を整理しながら文字にして並べるのである。それは、「多面的な思考を統合して1つの提案を見出す苦悩」を表現しているのかもしれない。つまり、煙草は特に意志の強さに馴染みやすく、文屋の栄養源と化すのである。そんな時、ペンは冴え渡り、その発信された文字列は、勝手に人を引き付けるのである。しかし、そんな姿が絵になるのは、もはや「彼」以外にいないかもしれない。

 編集者は、「先輩の最も格好よい姿」を表1にしたかったと思える。そこには、編集屋が考える文屋としての理想が映し込まれていて、きっと、テレビで見る「今日はこんなところです」の気配りの先輩よりも、この時期の「汚れかけた理想と鋭利なバランス感覚を持った」気迫の先輩の方が、格好よく思えたに違いない。 しかし、それでも、まだ煙草を吸うのかと思えるほど、わがままで、それでいて、俺は癌に強いとか屁理屈を並べられる男だったようだ。40年間煙草を吸い続けると肺癌になることは、20年前に取材できていたはずである。それを知りながら、吸い続ける意味は、彼の仕事に対する熱意と裏腹なものだったのではないだろうか。人の話を聞いて、すぐに視聴者を説得できる文章が書けるほど、誰しも芸達者ではない。

 例えば、多摩川の氾濫の取材に行った場所で、家が流されそうになっている状況を目にしたとする。家には子供が取り残されているようだ、と聞いて救援隊が来るまでに自分のできることは無いか、命綱1本で自ら助けに行くような、まさに「入り込んだ取材」だったに違いない。そこで、子供の命を救うことが出来たとしたら、「俺も命がけだったんだから、煙草の1本ぐらい許してよ」。そんな言い草が似合ったに違いない。仕事に命を掛けているから、周囲は何もいえなかった。今日、納得する仕事が出来なければ、明日は無い。そんな覚悟にも似た緊張感が毎日周囲に漂っていたような気がする。編集者は、そんな彼の苦悩も伝えようとしている。

 雑誌など滅多に読まない私が、表1に魅了されて購入した。様々な分野から著名人(いや、そうでない人もいる)等が寄稿しているので、きっと「昔の思い出や彼を惜しむ文章」が並んでいると思い、しばらく読めずに棚に置いてあった。しかし、ぺらぺらとめくるうち、涙あり、笑いありで卑屈にならずにすんだ。特に、立花隆さんが聞き出した「オーラルヒストリー」が面白かった。もっと、詳しく続きが知りたい。

 それでも、やっぱり・・・・・、どの原稿よりも、この写真を表1にした編集者の方が、はるかに彼の本質を伝えていると思う。 「感性をくすぐられる」とは、こう言う事なのか。編集者は、こうやって彼をTBSから取り戻そうとしているのである。
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注1)MOOKとは、書籍と雑誌の中間的存在で、双方の良いところを兼ね備えている出版物。
書店の取り扱いは書籍並に長い。雑誌のように広告収入も可能。取り扱うテーマは、普遍性が高く、自立した内容を多面的にまとめる。かつては、本誌に対して臨時増刊号、あるいは別冊という扱い方もあったが、こちらは、テーマの普遍性は高くても、あくまでも本誌の補足的な要素が強い。
注2)・・・・煙草は特に意志の強さに馴染みやすく、文屋の栄養源と化す・・・・・とは表現上の比喩で、煙草はまぎもなく毒物であり、優れた文章力を養成する物ではない。


2009/12/01

神代植物公園4


 中高年の写真愛好家は、まだ確実に増えている。毎年定年を迎えた人達にとって、カメラは1人で遊ぶための良い道具になっているようだ。最近は、一眼レフカメラと「ちょいマニアックな小型」の2刀流も良く見かける。体力に自信がなくなったのか、内視鏡メーカーやコピー機メーカーのカメラを持つ人も少なくない。一方で、女性は一眼レフカメラを抱えている。テレビのCMで「一眼あそばせ」というのがあるが、実際に購入されているのは、そこのメーカーではなく、やっぱりニコン とキヤノン らしい。つまり、今、一眼レフカメラの市場を支えているのは、バイタリティー溢れる、こういう女性達なのである。確かに現場で、大きな声を掛け合って撮影しているのは、女性が多く。男性は、物静かにじっとチャンスを狙っているようにも見える。

 写真撮影は、一般的に僅かに感覚的な頭の使い方をする。そして、一寸だけ反省などもする。さらに、上達するには時間がかかる。理屈よりも、技術よりも、感覚的な話が優先する。つまり、「極めて焦点のボケた趣味」なのである。おまけに、今はシステム化の時代で、コンピュータも重要な役割を果たす。これが複雑かつ長く続けられる要因で、恐らく死ぬまで20~25年ぐらいカメラを手にしていても、大して上達などしないのである。

 さて、今日は紅葉を撮りに神代植物公園へ行く。といっても、何のことは無い。風景に向かってシャッターを切るだけである。さっさとシャッターを2~3枚切った後は、蕎麦でも食らって帰るだけである。たくさん撮ってしまうと後々迷うし、どうせ迷うなら、先に迷った方が良い結果になる。そんなつまらない事を考えているうちに、今朝も早くから神代植物公園の深大寺門側に着いた。

 気合が入っているのに、まだ9時前である。上の写真のお店の前を通ると、もう「お蕎麦の準備が出来ています」と声が聞こえた。「十割蕎麦もある?」と聞くと、「ありますよ」と返ってきた。神代植物公園の開門までに35分ぐらいあるので、今日は、先に「十割蕎麦」を戴いてみることにしたい。この店の十割蕎麦は、手打ち仕様のみで品名としては「せいろと天せいろ」の2種類しかない。他の蕎麦は全て二八蕎麦になってしまう。朝から十割蕎麦は、消化の点でどうかと思うが食べることにする。蕎麦好きなら、「新そばで、なおかつ手打ちの十割蕎麦」は、誰でも文句は無いと思う。そして、本来なら、十割蕎麦の写真を見て頂きたいが、十割蕎麦どうしの違いは分からない。いずれにしても、説明もしにくいし、写真でも上手く伝えられない。こればかりは、やはり食べ比べて欲しいのである。

 食べ終わる頃には、神代植物公園の深大寺門の前には、20~30人ぐらいの写真家が集まっていた。みんな目的の撮影場所は同じである。開門と同時に、目的の場所に向かって走る。競争だ。走りながらカメラをセットして、一番先に着いたので2度シャッターを切った。これで帰れる。お陰で、風景の中に人が居ない写真の撮影ができた。30秒もしないうちに人がどんどん集まってくるので。このような写真は、難しくても1回撮っておけば安心である。この場所に、いつまでも残る必要は無い。他の写真愛好家の迷惑にもなるし、早々に退散することにする。

 この写真は、魚眼レンズで撮影後のトリミング状態で包括角度160度程度。手前の道は本来左右に伸びていることから、どのくらい画像が歪んでいるか、お分りだと思う。右が東方面で太陽は右後ろ、時刻は午前9時26分である。日差しを考えると11時30分ごろが良い。
 帰りに、深大寺の前を下って行くと、本堂の方では、既に人で埋め尽くされ何かの順番を待っているようであった。今週は色々催し物がある。
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2009/11/27

忘れかけたもの

 外国人サッカー選手の中には、ゴールした後、胸に十字をきる人がいる。帰化した選手は、君が代を真剣に歌う。食事の前に手を合わせる人がいる。これらは、目に見えない「万能の存在」を認め、その意向に従って人生を過ごすことが一番良いと考えているのである。日本にも、昔はお天道様が見ているとか、罰があたる、など、僅かな悪いことでも戒められることがあった。大人になると、日常の現実に振り回され、いつしかその「万能の存在」を忘れてしまうのである。

 ところが、歳を重ねてくると、様々な経験の中から、ひょっとしたら「そのような存在」があるかもしれないと本気で思うことがあるらしい。それは、本人、あるいは、家族にしか分からない事が多いようだ。ある時、偶然が幾つも重なったり、自分では無理だと諦めていた事が実現したり、ずっと苦しみ悩んでいた事がある日突然解決したり、良いことばかりでもないらしいが、そんな過去の偶然にも似た体験が、いくつか思い出されることで、自分の力を越えた何かを実感しそのような「万能の存在」をにわかに信ずるようになるらしい。

 我々は、社寺仏閣に入ると「見られている」ような錯覚を持つ。私は「よい子」なんですと言わんばかりに手を合わせ、そこの仕来たりに従う。歳を重ねれば重ねるほど、細部にまで「よい子」ぶりを発揮する。そんな、偉そうに言う私も全く同じ事をする。深大寺の元三大師堂では願いを込めて手を合わせ、おびんずる様にも挨拶をして、時折、開山堂に上がり手を合わせる。どれだけのご利益があるかは具体的に説明できないが、とりあえずその場は、それによって少し心が安堵するのである。それにしても、あくまでも自分の勝手な都合で、神仏を尊び、敬意を払い「優しく見守って欲しい」と、お願いする。これも、自分の宗教観を象徴する行動なのか。

 やはり、今の自分の力では、どうにもならないことがあるとしたら、「願うしかない」と思う。その、その願いとは、僅かに近づいてくるチャンスを待つことなのかもしれない。願わなければ、そのチャンスを見過ごしてしまう。偶然なのか、運命なのか、それは誰にも分からないが、願い続けることによって、その中身は、よく整理され、単純化され、より譲歩し、徐々に実現しやすくなるのである。その願いを簡単な言葉で伝える対象に、神仏が存在しているのである。

 今日の写真は、熱心に決められた時間に規則正しく「願う人」を撮影したものである。この情景は、たまたまいくつかの偶然が重ならなければならないけれど、道を挟んだ隣の公園にレンズを向けファインダーを覗いて、このシーンを見つけたという訳である。興味本位で撮影したと思われても仕方ないが、迷わずシャッターを切り連写した。この願う人は、我々の宗教観とは全く違う人達なので、何とも補足説明のしようはないが、その願いの根本は我々と同じ筈だ。いくつか本人に取材したいと思い、滑り台を掛け降りて探したが、既に建設工具を満載した車は発進してしまった。その後ろ姿を見送りながら、「何とか現場で怪我などせず、稼いだお金を無事に家族に届けて欲しい」と願うしかなかったのである。
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2009/11/24

アミノバリュー

 先月、ウォーキングの話を3回連載したが、意外にも多くの人の目に触れたようだ。何らかの動機付けになると嬉しい。ただ、ちょっと書き残した事が気にかかっていた。それは、インフルエンザ流行の折、体温の話のところで、1.人それぞれ違うこと、2.その日の中で変化すること、そして、3.日本人の平均体温 等を言及できなかったことだ。その前提となる体温の測定方法に関しては、取説説明書に正確に記述されているのでそれに従うとしても、変化を捉えるためには、一日中一定間隔で計測しなければならない。そこで、「体温計のメーカーのHP」を見ながら計測概念を知り、自分でも確認してみることにした。また、そこで、過去の自分の計測方法に問題があった事も知った。

 朝起きてすぐ(6:30)は、36.28℃程度で、1時間ぐらいで急激に体温は36.50℃まで上がってくる。その後は徐々に上昇し正午には、36.64℃ぐらいになる。午後も徐々に上がり、ピークは夕刻8時頃で36.82℃となった。日本人平均では、最高値は夕方6時頃らしいが、2時間ぐらい自分の体内時計が狂っている可能性が考えられる。もっとも狂っているのは体内時計だけではないが、それ以降の時間は、逆に下がり始める。そして、就寝する1時頃は36.38℃程度になる(全て3日間外出なしでの平均値で、運動、入浴なしで飲食時30分後に口内計測)。日本人の平均体温は、36.89℃±0.34℃とされているので、それに対しやや低いことがわかる。これは年齢によるものと思われる(50歳以上加齢と共に下がる)。体温変化の中でも、一般的に夕方の最高値の体温は、微熱が加わると内臓に炎症、ウイルス感染などが考えられるらしいし、一方で、体温が1℃下がると免疫力が36%も下がると言われているので、むしろ高めが良い。その適正範囲は、割合にクリティカルといえる。

 したがって、午後、夕方6~8時頃のピークの2回チェックしておくと良さそうだ。ただ、現実面で外出後の体温はまるで当てにならないところが難しい。そして、体温の個人差を考えると、微熱・高熱は、自己管理(平均体温/時刻)するしかない。風邪等で病院へ行くときは、平熱を把握しておくと症状を訴えやすい。また、朝食は、しっかり食べると温度は上がりやすく、夕食はたくさん食べても、短期的には上昇するが、あくまでも下がろうとする。体内時計は、早起きして太陽の光を浴びることを繰り返すことで徐々に修正されるらしい。以上が、体温に関する補足である。

 さて、それでは今日の本題に入ることにする。ウォーキング時には、誰でも水またはスポーツドリンクが必要になる筈だが、既に市場には様々なドリンクがあり、その効能についても色々説明されている。その能書きから、一番自分の体に適した物を選ぶとか、毎回気分で変えたりするわけだが、ドリンクを自作している人もいるようで、市販のもので個人的思想や体調に合わせるのは難しそうだ。

 健康の為にスポーツをしている人は、このようなスポーツドリンクに特に敏感で、日々それが話題であったりする。自分としても、今回、このBCAA2倍増量(2000mg→4000mg)の変化を見逃すことは出来なかった。きっと、大塚製薬のことだから、何か訳があるに違いない。そのままだと他社の能書きに負けたとか、目に見える効果が不足していた。ゆえに売り上げが伸びなかったなど、心配している。と言いながら自分は、飲みやすい「明治のVAAM(以下バーム)」を手にしている事が多い。そこで、少しの間アミノバリューを試してみることにした。

 ただ、今更この歳で過激な運動を連続で何時間もするわけではないので、全て軽い運動程度という前提になるが、それを意識しながらも事前にバームと同じ様に、まず、運動前にアミノバリューを250ml程度を飲み、1時間後に再び250mlを飲むという手順で評価を進めた。しかし、残念ながら、ウォーキングではバームを越える効果を実感することは出来なかった。たかだか12km程度の歩行では、効果が無いのかもしれない、と思ってしまったのである。「うーむ、俺は飲みやすいバームによって体質を変えられてしまったのか」とも考えられる。もちろん、翌朝も違いが分からなかった。

 そんな折、カメラ(約2.6kg)を右肩から提げて、左手に三脚(2.8kg)を持って、背中に小物を入れたショルダーを背負い、2時間ぐらい歩き回った時である。だいたい、たまにしかそんなことはしないので、翌日、翌々日は腕が痛くて往生する。人との会話中でさえ事あるごとに腕を揉み解す。仕事にも集中できないし、下手をすると1週間ぐらい痛んでしまうことすらあるのだが、アミノバリューは、翌日も翌々日もいい感じの流れを作ってくれた。翌日、この腕の筋肉の感じがぜんぜん違って、凄く楽なのである。これには効いてる実感が得られた。しかも、体全体も割合元気が漲っているのである。これによって、平素使わない筋肉を使うときにこそ効果があるのではないかと推測したのである。そして、更に欲が出て、「もっとBCAA 濃いタイプ」は無いのかと思うほどだ。

 確かに、今はウォーキングするのに楽な季節であるが、ウォーキングといっても膝下の足だけで歩いている人、たまにしかウォーキングしない人には効果があるかもしれない。その他、休日しか写真撮影しないという多くの愛好家、日曜大工の好きな方、まれに展示会の説明員をする人、など、知らず知らずのうちに筋肉を使う場合、アミノバリューは効果を期待できると思える。

 使い方として、事前に飲む、さらに中間で飲むことで、BCAAのお陰で後々の筋肉の疲れを意識しない結果をもたらす訳だが、そんな一夜漬のような使い方だけではなく、平素から少しづつ飲んでおくと、これまた効果は大きい事がわかってきた。まったく体の軽さが違う。

 平素からあまり駆使しないが、頭も筋肉だと言う人も是非試してみてほしい。 飲んだ日からよく動くようになるかもしれない。
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2009/11/20

オーディオマニア9

 人は、時たま微量の劇薬を投与されることで、免疫力が高まる事があるらしい。それを目的にした療法があるとも聞いたことがある。毎日が毒気の連発ともいえる現代人には慢性的な話だが、美しく心地よい曲ばかりでは、何か物足りないと感じることも少なくない。時々、ちょっと刺激があって、元気や勇気が沸いて来る曲も聴きたい事がある。ごくごくまれに毒気も必要と言うことなのだろうか。
 世の中には、1発屋と呼ばれる人はたくさんいる。これは、1つしか芸が無いというときにも使われるが、たった1つでも「誰よりも群を抜いて優れている」、あるいは、それを創作するのに「一生かかってしまった」時にも使われる。逆に、同じ様な曲を小出しにして独自の世界を切り開く人もいる。それらは、どの作品を聴いても同じに聴こえるが、1つ1つの完成度は水準以上で、少しづつ聴きなれて、その世界に徐々に引き込まれるという作風になっている。レコードやCDの売上げを考えると後者の方が良いに違いない。しかし、いつまでも人の心に残る曲は、また別なのかもしれない。

 そんな1発屋が毒気にも似た刺激的な作風で作った曲がある。古い曲で恐縮だけど1回聞くと、ちょっと元気や勇気が沸いてくる。元々、時計のCMのために作られたもので、当時盛んにTVで流されヒットに繋がった。ファンの人には申し訳ないが、歌詞の中には訳の分からない、とてつもない巨大な破壊力が綴られており、それが、聴き手には壊滅的で、整然とした秩序を嫌うエネルギーにも似た刺激で、そんな破壊に遭遇しても、人を愛することの喜びや、短く楽しんで生きる心得を婉曲に伝えていると思われる。その歌詞のとてつもない巨大な破壊力とは、「空はひび割れ、太陽は燃え尽き、海は枯れ果てて、月は砕け散っても」というフレーズである。それが、「ヒーローになる時、それは今」にどうやって導かれるのかやや不明瞭だが、恐らく彼女にとって自分がヒーローであると自慢しているようで、対比が極端で、理屈ぬきに面白いし、曲の流れにパンチがあり、勇ましく格好も良い。この曲を、野球やサッカーの関連CMに歌詞を変えれば、もっと不滅の名作になるかもしれない。しかし、その意気込みはロック調だったが、作品は純粋な歌謡曲である。

 そして、この1発屋は、もう1発名作を書き起こしている。それは「安奈」に見る事が出来る。やや古典的な美しいメロディーに、男のロマンが渾然一体となった歌詞が心を揺さぶる。ただ、歌詞の中は、安奈のご機嫌を伺うフレーズが多く、内向的若者が心を揺らしている様子と、ちょっと下手な歌い方で、男の悲しい純真さを表現しているが、当時としては、これも対極的手法なのである。さらに、メールは「長々と書くのではなく一言で伝えよう」という教訓も忘れていない。同じ1発屋が作ったとは思えない、フォーク調の単純なコード進行なのに、やはり歌謡曲に仕上げている。この2曲は、まさに1発屋の気まぐれな、飽きやすい1発屋ならではの想いが「才能の非凡さとして垣間見れるところ」が、傑作と言われる由縁なのかもしれない。

 当時は、高い声で語りかける曲や、悲観的ストーリーと情景描写で表現されるような、より身近にある「恋のリアリティー」を歌い上げた曲が多い中で、いやいや、南こうせつさんと比較するつもりは無いが、そんな主流から外れて異色を放ち、何かにつけて内容よりも「格好良さと美学」を追求した1発屋のおっさんである。偉そうに「おっさん」と書いているが、私と同年の生まれで、当時は、このような曲が作れる「才能溢れる若者」だったのである。そのおっさんが、「大人のCDコーナー」に座ってこっちを見ているので、「おおー甲斐さん」と言いながら、懐かしさも手伝って、きっとまた気まぐれな個性を使って「大人のCD」を作ってくれているに違いないと期待しながら、手に取ってしまったのである。

 手に取ると、それでも失敗したらどうしようと言う気持ちと、また違う欲張りな気持ちがこみ上げてきて、別のコーナーにあったKai Bandのシングルス2枚組み38曲入りも購入してきた。聴きたい曲は、上の2曲しかないのが寂しい。ということで今日は、甲斐特集だ。どうだ、どうだ、こんなコアな話題についてこれるか。
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2009/11/17

そば祭り

 今回は、さっぱりと情報提供になる。蕎麦好きには、一寸参考になるかもしれないと思い資料を集めた。今更、蕎麦はビタミンが豊富で、高血圧によいルチンなども含み、歳を重ねた人には体に良いとか、そんな「つまらん」事を言うつもりは無い。耐用年数を過ぎた体は少々栄養素が投入されても改善されるすべもなく体調は常に右肩下がりになる。そんなことに求心するより、むしろ、日々の余暇を使って「楽しみをどのように創造」するか、そこに自分なりの人生観を反映させて欲しいものだ。蕎麦好きにとって「深大寺蕎麦に想いを馳せる」あるいは、全て試して「深大寺蕎麦を征服する」とでも、自慢できそうな余暇を過ごしてもらいたい。

 深大寺周辺の蕎麦屋の特徴は、豊富な湧き水の水源にあるが、各店舗は競争意識が強いし、蕎麦に対する工夫もそれぞれ独自性が加えられ、どの店舗でも、訪れた人たちに「がっかりさせる」様な事は無い(保証はない)。お勧めは、前回紹介したとおり「門前と一休庵」だが、いくら蕎麦好きでも2軒続けて「はしご」をしてはならない。特に、こしのある門前の粗碾蕎麦を食べた後などは、少々消化に困る程だ。ついつい歩きながら消化を早めたい気分になってしまう。余談になるが、よく「調布駅まで腹ごなしに歩きたいから道を教えて欲しい」と尋ねられる事がある。お店で聞いたら、30分ほどだと話したらしいが、慣れた我々だと確かに、30~35分で出られるが、蕎麦が入った胃袋を抱えた年配の人には、その時間では無理だし、初めての道は迷いもあると思う。いまどき混雑するバスなんかに乗りたくない気持ちは分かるが、マスクでもして大人しく座っているのが最も賢い。もし、どうしても歩きたければ、深大寺門を東に行き、深大寺小学校前の道路をひたすら南下して京王線布田駅に出るのが賢い方法だ。途中で中央高速道路をくぐり、野川を横切り、甲州街道を渡り、旧甲州街道まで出れば、駅横の踏み切りが見えるはず。通して30分もあれば余裕といえよう。野川を横切らずに、左へ野川沿いに歩けば柴崎駅方面へも出られる。

 そんなことより、個人的なお勧めコースは、まず、深大寺に10時30頃着ける様に行き、着いたらすぐに、門前の粗碾蕎麦(人気があるのでお昼過ぎには無くなる)を戴きゆっくりする。それから元三大師堂をお参りをして、開山堂まで上がり、すぐ前の神代植物園に入り、園内を散策しながら時々ベンチで休み、あるいは大芝生で一眠りして、小腹が空いた3時頃にでも再び深大寺に戻って一休庵に寄り、じっくりメニューを楽しんで、店主の話をよく聞いて、にしん蕎麦でも戴くのがよろしい。それぞれのお店では、自分の蕎麦知識の空白を埋めるように、色々質問してみると、大脳にも美味しいはずである。そうすれば、しばらくは蕎麦を戴かなくても大丈夫だ。

 何で大丈夫か良く分からないが、話を本題に戻すと、深大寺そば組合では、そば感謝祭を11月27日(金)~12月3日(木)の7日間行う。これは、深大寺の秘仏とされる厄除元三大師が25年ぶりにご開帳されるのに併せて実施されるようだ。その深大寺そば組合の各店舗では、様々な催しがあるらしい。ただ、この期間は蕎麦屋も混雑が予想されるので、根っからの蕎麦好きは外したほうがよいかもしれない。が、信心深い人にとっては25年ぶり(次回は参拝でき無い可能性大)のご開帳期間がよいと思う。

 今回は、この関連の情報を集めた。では、先にそばに関連した資料から。
まず、深大寺そばマップを参考にされたい。このマップと各店舗紹介は、深大寺バス停を降りて切符売り場でも配布されている。
先に深大寺そばマップはこちら
http://chofu.com/web/jindaiji_soba/jindaijimap.pdf

マップ裏の蕎麦屋各店舗の詳細は、こちら
http://chofu.com/web/jindaiji_soba/shopdate.html

深大寺から頂戴してきた「元三大師ご開帳のパンフレット」はこちら
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それでは、深大寺への行きかたについて、まず、新宿、八王子、橋本方面から京王線で調布駅へ、そして調布駅前のバス乗り場へ。乗り場案内は、こちら
http://bus.ekitan.com/bus/noriba/2547_01.shtml

2009/11/13

神代植物公園3

 今日は、帰りに蕎麦を食べて帰る予定で、再び神代植物公園にやってきた。やはり、出掛けるには、そこに美味しい物を戴く楽しみが必要である。前回は30分で帰ってしまったので、1日中つまらなかった。少々余談になるが、遠方からこられる方は、園内で軽食の用意もあるけれど、それに惑わされず、あの「子連れ狼風」の水車のある蕎麦屋(紹介済み)で食べたいとか、門前にしかない、こしのある粗碾蕎麦(紹介済み)に興味があり、どうしても食べたいという方は、途中で園外(深大寺側門)への外出(外出券もらう)も可能なので、ぜひ、利用してほしい。そして、深大寺の開山堂や元三大師堂(紹介済み)も近いので、参拝されると体も気分もすっきりする。悩みがあれば、護摩供養(100円)をお願いしよう。将来が不安なら「おみくじ」もある。帰りは、野川方面に出て「ゆかり」で一風呂浴びて帰るのもよし、タクシーで京王線柴崎駅に出て「咲蘭房」(紹介済み)で美味しい珈琲でも戴くか、土曜日なら夜JAZZライブ(要予約)を楽しむこともできる。バスでつつじヶ丘や調布に出ても、美味しい珈琲店は少ない。出かけるときは、丸一日好きな事を楽しめるように計画してみたい。

 さて、バラの季節は初夏と秋の年2回あるが、いずれも雨が降る前にご覧になるのがよいと思う。写真撮影するなら時間帯は、太陽が上に来る11~13時ぐらいが良い。用意するものは、手ぶれ補正機能は当てにならないので必ず三脚を用意したほうが良い。そして太陽光を和らげるために、トレーシングペーパーを貼った内輪のような物を作って持って行くと良い。これは、強い直射光を抑えるために使用する。さらにカメラ側では適正露光、-1/3、-2/3絞りでも撮影しておく。これは、色再現を気にする人は必須といえる。デジタルカメラの場合も同様で、画素ピッチが8ミクロン以下の場合はかなり顕著になる。一方、「綺麗なバラの鉢植え」も販売されているので、少々考え方を変えて、買って帰るのも良い。後々そちらのほうが「はるかに」楽しめる。どうしても撮影したいなら、それを太陽光下、および室内照明を使って撮影練習すると楽しめる筈である。いずれも「神代植物公園のバラ」に違いは無い。

 前回は、超広角を使用したので今回は望遠系を使って撮影してみたい。広角系は、広い範囲を取り込める半面、距離感は遠ざかる。望遠系は、広い範囲は取り込めない半面、距離感は近づく。基本的には、遠くにあるものに近づけないときの撮影に威力を発揮する。それは、スポーツや動物撮影に必要不可欠なレンズということになる。前回のように、水平包括角度で補足すると今回は、約10度と前回の1/13の狭さになっている。次に、撮影でのポイントをいくつか挙げると、バラ園は、人が多いため、いつ観覧者がフレームインしてくるか分からないので包括角度は狭い方が良い。隠したい物をフレームから排除するには好都合と言える。また、風にバラの花が揺れるので案外早いシャッター速度が求められる。ロケーションを決めて、太陽の位置を確認し、しばし、人がフレームから消えるのを待ち、消えた瞬間に撮影することになる。今回のこのような写真は、焦点距離で160~200mm のf2.8など明るいレンズがあれば簡単に撮影できるので、技術的には何の苦労もないが、人が消えるのを待つのが少々根気がいるかもしれない。撮影する方は、のんびり構えて欲しいが、困るのは、フレームの中に「クローズアップの撮影に手際の悪い人」が入ってきた時である。5~10分は動かないと思える。そのような状況は、精神衛生上良くないので、あらかじめ撮影フレーム中の、バラ花壇(2m程度)の向こう側がどのようになっているか、よく調べておいたほうが良い。

 撮影講座をするつもりは無いので話を戻すと、この20,000平米の広大なバラ園は風の無い日はバラの薫りで満ち溢れる。これが人をバラ園にひきつける要素ではないかと考えられる。バラ園の向かいには温室があり、ここでは年中色鮮やかな花が咲き乱れているので、こちらも覗かれると良い。是非一度11月中に訪園されたい。
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2009/11/10

神代植物公園2

 今、開門(9時30分)の少し前から神代植物公園へ来ている。この時期は、バラ園が活況を呈しているので開門前から多くの人が並ぶ。門が開くと目的の場所取りに走る写真家も多い。そんなこともあって、珍しく気持ちに余裕がなく少しイライラしていた。「今日は、いつもの場所で1枚撮影してすぐに帰ろう、できれば、人の移動が増えないうちに」と願っていたからである。体の周りにオーラを出して「すぐ終わるから、邪魔すんなよ」と念じてる感じである。神代植物公園の象徴的な場所は、やはり広大なバラ園で、既存の品種はもとより改良新種なども数百本が花を咲かせる。かなりのマニアの人でないと違いを楽しめないが、平気で30年、40年通って写真撮影している人もいるらしい。やはり、ここでも知識の深さが面白さに繋がるようだ。みんなそっちへ向いて走ってほしい。バラ園は、3日後再び紹介したいと思う。

 今日の撮影場所は、前回の「パンパスグラスの大芝生」から西へ50mぐらい入ったところで、川を渡るとバラ園に至る狭い石橋の上である。広い園内でも、いくつかある中の一押しの場所なのである。 写真には、それ相応の必然性が欲しいことがある。それは、後々その写真を観て、自分なりにその時の熱意を思い出したいからでもある。前回のように「そのまんまシャッター切りました」では、自分には貴重に思えないし、見直すことも少ない。苦労して、こだわってこそ写真の価値は上がる。この場所は、既に4回ほど撮影をしてきた。何回撮影しても撮り直したい場所である。最初は30年ほど昔になるが、F1+FL19mmF3.5レンズで撮影している(水平包括角度87度)。当時としてはかなり広角レンズだったが、周辺が暗く実用範囲はかなり狭いものであった。その後、割と暗い場所だということもあってFD24mmF1.4でも撮影してみたが、やはり、広い範囲が収まりきれないので不満が残った。最近では、EOS1RS+EF17mmF2.8と割と新鋭(既にかなり古い)で試しているが、このくらい広角でも、「ふんっ」ていう感じにしかならないのである。人は欲が深く、結果を見れば見るほど、もっと広角で撮ってみたいと思うようになるものだ。その数年後、結局EF14mmF2.8最新鋭(もう割と古い)の登場になったわけだが、それでも、結果としては「まあまあだな」と思いながらも、結果を眺めれば眺めるほど、もっと広角で撮りたいという、更なる欲望が沸いていたのである。

  しかも、このまま諦めて終わると、これまでやってきたことは無意味なことになる。競馬に例えると(何故競馬に例えるか分からないけれど)、ずっと負けが込んできた時のようなもので、ここで止めたら意味が無い。次は3倍掛けくらいのつもりで、勝負に出たい。「勝負事は最後に勝って止めるのが原則」である。条件も、ある程度経験的に分かっており、包括角度さえ上げられれば、きっと上手くいく筈である。

 そんな30年の経験をまとめてみると、1.木々の間の葉が落ちて、まばらに先が明るく抜ける季節が絵的によい。2.川の枯葉が掃除してある祝日の前の日がよい。3.太陽の位置が左側にある午前中10時頃までがよい。5.左右2本の遊歩道が平行に見えるように撮影できる超広角レンズを用意する。などの条件があり、自分の時間的な都合も含めて、その日は先週または今週の金曜日と、ほぼ限定されていたわけである。

 そこで今回は、水平包括角度130度以上のレンズを用意することにした。両手を広げて130度を作ってみて欲しい。レンズの前にある、両手の間の範囲が写し込まれていると思ってもらってよい。これで、最初の撮影に比べ約1.5倍の左右包括角度を撮影できることになる。やっと、「まあまあいける」と言った感じになってきた。それでも、撮影してみると、もう少し画面の右側が出るようになると、撮影意図がもっと良く伝わるかもしれないと思える。欲には限りが無かった。 

 最近、パノラマ写真が簡単に撮影できるカメラが登場しているが、それは、撮影された状況が一目瞭然で説明されていること、さらに全体的に自然な立体感で写されており、その点では、広角レンズより優れている。旅先や広い公園などでは、それが有効に機能する筈で、画質を含めて今後が楽しみといえそうだ。

 それでは、写真を見ていただきたいが、初めて見ると「そんな大袈裟なことも感じない、普通に見える、なんでもない写真」だと思われるかもしれない。 それは、絵画等の構図に近いからで、見慣れているパースペクティブだからである。一方、風景を4x5で撮影されている方でも、スーパーアンギュロンより広いと言われるに違いない。
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2009/11/06

自律神経失調症

 季節の変わり目には、何かと体調を崩す人も多い。年配の人たちはお亡くなりなることもあるくらいだ。しかし、今、中年層に心を病む人が増えていると言う。今年も年末には二番底がくるとか、更なる失業者の増加予想とか、自殺者3万人を越えたとか、会社の将来不安など、様々な社会からの脅しともいえる境遇に、不安がつのる。さらに個人的な事情も加わって自律神経失調症になる人も増えている。これは、自分もその様な不運な道をたどるのではないかと思う心配や将来不安から来るようだ。会社でもいじめられているので精神状態は疲弊して、何をするにも脅えるようになっている。

 症状は、人それぞれだが、胃腸の調子が悪い、頭痛が続く、微熱が続く、耳鳴り、動悸、息切れ、不眠症、体の一部がほてる、息苦しさ、寝汗が続くなど。いつでも起こりそうな症状ばかりだが、テレビ等では、通常ありそうも無い病気を早期に発見できなかった不運を紹介したりするし、初期症状も似ているために、益々不安がつのり、夜もろくに寝られなくなったりする。そして、ついに意を決して病院の門をくぐることになるわけだが、血液検査では、いとも簡単に健康である事が証明される。「これ以上の健康はありませんよ」と言われる筈である。それでも、本人は、この医者は大した検査もせず、そんな血液検査1つで何が分かるのかと疑っている。それも当然である、症状との相関が無いからで、そのくらい症状は重い。勿論、通常の内科では、これ以上相手にしてもらえない。心療内科を勧められる。それでも本人は、真剣に何とかして不調の原因を突き止めなくなるわけで、内視鏡検査、CT、MRなど様々な最先端医療機器の検査を要求する。もちろんそれらを駆使しても、原因が見つけられるわけは無い。検査数値に出ないものが、例え1mmスライスだと言われても、そんな大雑把な画像装置で分かる筈は無いのである。もしその症状が本物で、何か画像で確認できたとしたら既に手遅れである。

 周囲からみても、やや弱気になった発言が目立つ程度で、何処も体が悪そうな兆候は無いので無視されがちだが、本人は、「自分は悪い病気」に決まっていると思い込んでいて、益々辛い毎日を過ごすことになる。朝起きても疲れは取れず、昼間はすーっと眠くなる。上司から無理難題な事を言われても手に汗握るだけである。そういう職場はさっさと辞めるのがよいが、それも自殺行為で、そう簡単ではないのが今の社会情勢といえる。そこで、仕方なく心療内科の予約をとり、相談に行くことになる。先生は、「そうですか、そうですよね、はい、はい、そうなんですよ、そうでしょ」と、とにかくよく話を聞いてくれる。既に治療は始まっているのである。そこで、「いい先生に出会った」と思い、勧められる高価な漢方薬を飲む事になる。

 自慢するつもりは無いが、私は慢性の自律神経失調症候群である。35年前から、いつでもすぐに調子が悪くなる。若いときは苦しかった。いや、最近も苦しいときがあった。そんな時は、さっさと1番大きな課題を忘れるように努力している。なるようにしかならないからで、そうなると諦めも早い。いつ死んでもいいように、好きな事を率先してやるようになった。しかし、たとえ好きな事でも、何日も昼夜逆転したり寝ないでやったりすると再び症状が出る事がある。あっ、調子悪るといった感じである。そんな時、一番最初にやることは、まず、カルシウム、ミネラルの大量投与である。特にこれらが不足すると症状として出やすい事が経験的に分かってきたからだ。かなり無理したなと思うと、しじみ、アサリ、牡蠣など、貝類をたくさん食べることにしている。季節の野菜や果物もビタミン補給に欠かせない。そしてウォーキングに出るのである。これらによって、1ヶ月くらいで治りそうな気分になってくる。少しづつだが、心臓のバクバク感もなくなり、体のほてりも治り、不眠や微熱もなくなる。また、胃腸の調子が悪いときは、本格的なカレーを食べることにしている。これらの自己診断と食物補給によって、自律神経はある程度正常に戻り、症状は軽減される。 思い当たる人は、軽いうちに試して欲しい。重症の人は、筋肉の緊張をほぐすことから始めるのがよいと思う。

 人は誰でも弱点を持っている。この心と体の分離状態とも言うべき自律神経失調症は、一生付きまとう。完全に治ることは無い。先生方に言わせると、あんまり物事にこだわらない方よいとか言われるが、これは、性格が体に関与する率が高いからだと考えられる。したがって、一般的には神経質な人がかかりやすいといえる。ただし、神経質な性格は決して悪いことではない。無神経な人より多くの点で優れている。それは、周囲を見渡せばすぐに分かることだ。だから、自分の神経質な性格と上手く付き合う方法を考え、そういう苦悩を抱えながら生きることに価値を見出すべきである。とかく、1度この病気にかかると、その怖さから、その後は絶対に無理しないとか、そのような状況を極力避ける人がいる。気持ちは分かるが、それは大脳が発達した人間のすることではない。

 ということで、今日は貝類でも並べてリアルな写真を撮ろうかと思ったが、それだと何の情報にもならないので、食べた後、「みるみる胃腸の調子の良くなる」カレー屋さんを紹介しておこう。ベンガル、アジャンタに続き、二子多摩川にあるカレー屋さんだ。お勧めは、たっぷりビーフの入ったランチメニューのビーフカレーで、満足感も高い。珈琲もいまどき珍しい濃さに特徴があり格別に美味しい。カレーは一種の漢方薬に近く、相性がよければ体調も大きく改善される。
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2009/11/03

クローバー

 たった1つでも、美味しい物を見つけてしまうと買いに行く楽しみができる。片道90分ぐらいの歩行はなんでもないことだ。この歩行によって消費されるエネルギーは、その美味しい物のカロリー量と交換される。それにしても、我々のような世代のオヤジが、自分が食べたい物を求めて、このような店の前に立つのは少々気恥ずかしい。周囲には若い女性が多く、今日も、てきぱきと必要な品物を指差し、包装にまでいちいち、ああしろこうしろと注文つけて、まあ、大量購入なら仕方ないと思いながら眺めるわけである。次から次へと会計して去るのに、自分の注文を聞いてくれる余裕はなさそうで、少し惹いてしまっている。何でこんなところで自閉症になってるんだ!と自分に激を飛ばすが、商品に対する知識の少なさは、自分を優柔不断な「うじうじオヤジ」にしてしまう。もっと、色々食べて専門家にならなくてはいけない。

 ここは、お気に入りのお菓子のあるお店である。しかし、今日は、それが見当たらない。お客が空いた所でやっと、「あの~、パイの生地で巻いたカスタードクリームの入ったやつはないんすか?」、「ああ、ハニーコルネですね、コルネとシュークリームは、工房がなくなったので今、作っていないんです」と、スマートな若い男性が丁寧に応えてくれた。ハニーコルネ1個(263円)食べたいがために、汗を拭き拭き90分歩いて来たのである。参ったなーと思いながらも、代用品も分からず、その場を立ち去る事が心残りで、「あの生地表面のパリパリ感とカスタードが最高だったんすよ」と言いながら目を細めていると、「ここの工房で作ってましたから、出来立てなんで美味しいです」と彼も身を乗り出し嬉しそうに話してくれてる。私の隣でおばさんがなにやら指差しながら声を張り上げているが、目もくれず説明を続けてくれた。コルネ1個でも、お客扱いをしてくれる、ありがたいお店である。

 普通のケーキ店なら、「無いものはしょうがないでしょ、甘い物ならたくさんあるから代用品を探してよ、どれでも美味しいわよ、どうせ、1個なんでしょ」と言う顔をされそうである。そうでなければ、若い女性の店員さんに尋ねても、困った顔をしながら奥に引っ込むと、シェフの格好をしたお腹の出たおっさんが出てきて、ぺこぺこ頭を下げた後、「こちらのは、いかがでしょうか」などと説明を受けることもある。でも、しげしげと、そのシェフの体系やお腹を見ると、食べたいと思う気持ちが消えうせてしまい、「また来ますわ」と説明もろくに聞かず外に出てしまう。お客の気持ちはデリケートなのである。やはり、同じ物を美味しいと言ってくれる人は、スマートで格好のよい男性でなくっちゃいけないのである。男の俺でさえ、そう感じるのだから、女性もそうに決まっている筈である。

 話を戻すと、ここはカスタードクリームが一番美味しいお店だと思う。だから、俺のような古典甘味党にとっては、上品でハイカラなお店でなければならない。そのためには、商品知識もあり、どのような素材をどのようにして作っているか、など、お客を説得する正しい商品知識と、それを食べてもこんなにスマートで素敵な男性でいられますという人を配置していなければならないのである。これが、この世代の考える一流と言うことである。今や、化粧品以上に気配りが必要なのがお菓子屋かもしれない。そのくらい、店頭はイメージが大切である。 会話の中から客の好みを探り、最適な商品を勧める。客のほうも安心して、「君がそう言うなら、じゃ、それを戴いていこうかな」と思うのだ。これが、分かる者同士の信頼関係につながることである。「丁度、サッカーに例えると、昨日の試合で中村憲剛が出した強めのスルーパス、あれ上手かったよね」「そうですよね、やっぱいいパス出しますよね。」とすぐに分かり合える位の仲間意識なのであろうか。もっとも、金額もたいしたことは無い、コンビニでたこ焼きを買うぐらいの金額なのに、丁寧な対応には、「また来るよ」と声をかけたくなる気分なのである。

 自社の製品に誇りを持ち、お客の腹の事情まで知ろうとする熱意に、ついファンになってしまうのは俺だけではないだろう。最近は、その時の気分で、デパートの地下で小さな物1個買ってしまう。手に持って帰ると煩わしいので、胃袋にしまって帰る事が多い。証拠も残らないので好都合だ。虎屋もそうだし、ここクローバーもそのお店の1つだ。ただ、この店は、コルネ1本買っても恭しく紺のリボンのついた箱にいれ、更に手提げにまで入れてくれる。包装もかなり洗練されて美しく厳重なのである。20mくらい先にある休息所で食べるから、そのままでもいいすよと言ったのだが、この会社のいつもの流儀なのだろう。いつもそうしてくれた。
 今日は、コルネが無かったので、彼に勧められたBOXケーキ630円を買って帰ってきた。写真は締めて1,092円である。3日ぐらい楽しめる。 安いのに美味いわ。
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2009/10/30

プリザーブドフラワー

 先日、家内の誕生日に知り合いから白い箱が着いた。いまどき誕生日だからといって、そのために贈り物を届けてくれる気持ちがありがたい。なのに、しばらく玄関に放置されていた。まるで、電話帳を受け取った時のように、受け取った姿のまま床に置いてある状態が続いたのである。白い箱は透明の窓があり、中味が見えるので開けてみるほどでもなく、覗いてみると、小さなバラが顔を並べ、「苦しいから開けてくれよ」と叫んでいるように見える。その後、2日経過しても、本人は忙しそうにして、開けてみようとしないので、尋ねてみると「知ってる、開けてみたら」と冷たい反応であった。間に「そんなに興味があるなら」という言葉が割愛してあるので、全く興味が無いわけではない。本人としては、少し時間的余裕が出来てからじっくりと開けてみたいと思っているのかもしれないが、それだけではなさそうにも見える。花が好きな割には不可解である。

 それにしても、知人から何か頂戴する気分はとても嬉しいが、贈り物には、贈り主の社会性を伴うセンスが盛り込まれるし、人なりの価値観も反映される。また、受け取った側としては、何はともあれ気持ちが嬉しい筈である。さらに、自分が全く知らない物が入っていた時には、「まあ、凄い」と感動する場合もある。まれに、がっかりすることもある。たとえ、自分宛ではないにしても、日々この箱に興味がつのるのは自然である。

 さすがに生花のように見えるので、何日も放置できない。開けずに枯れてしまっても本人はがっかりするだろうし、それが1番困る。枯れてしまったときの事を想定して、写真でも撮っておこうと思った。そして、4日目には、意を決して開けてみることにしたのである。ダンボールは見た目より堅牢に出来ていた。中味は、ハート型の鉢の上に小さな花がいくつか並んだ姿をしていた。恐る恐るセロファンの袋を開くと、むせ返るような薫りが広がった。「おーっ」と言う感じである。その薫りがやや人工的なのでそういう反応になってしまったが、赤紫と桃色の球体から薫りが出ているようだ。どうも、小型のバラは丁度、生花と造花の中間的存在で、どちらかと言えば、表現としては少々息苦しさを伴うが、生花のミイラ処理というか即身仏のような作りではないだろうか。小さいので、置き場所をとらず可愛い感じで、まとまりも良い。加えて、存在感だけは一流の雰囲気を漂わせている。

  人は、誰でも小さな物を可愛がる本能があるが、それをくすぐってくれそうだ。それにしても、製造工程を想像しなければ、なかなか意表を突くお洒落な贈り物と言えそうだ。箱の中には、メッセージカードと説明書が同梱されていた。これは、生花加工品=プリザーブドフラワーと言うらしい。

 説明書には、生花加工品なので、水をあげる必要が無く、逆に水をかけると色落ちの心配があるという。また、特殊染料を使っているため、色落ち、色移りの心配があり、親油性があるため、プラスチックやニスなどと直接触れると溶ける恐れがあると書いてあった。写真を撮っても写らないとは書いてなかったので撮影してみることにした。撮影中に、薫りに包まれていると、ふと、家内が開けて見なかった理由が分かりそうな気分になってきた。この商品を既に知っていたに違いない。 私もバジルとミニトマトを育てているので、葉の色が少し悪いだけでも気になる事がある。生き物を大切にする気持ちの普遍性は高い。それが、贈り主との間で、素直に割り切れる気持ちになれなかったのではないだろうか。そんな感覚が頭をよぎったのである。

 今回は、多少芸風の違う写真のように思われるかもしれないが、やはり実体を反映してか、ことのほか、生命力の乏しい画像になっている。
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2009/10/27

武者小路実篤記念公園

 今日は、実篤記念公園に来ている。ここは、うちの近所なので、もう何年もの間、いつでも行けると思って、忘れかけていた場所である。武者小路実篤の詳細は、実篤記念館のホームページがあるのでそちらをご覧戴きたいが、もっぱら私の興味は、実篤が「一人の男として」どのような環境で、晩年の創作活動を過ごしていたのだろうかである。

 あの、人生の重箱の隅を穿り返すような、まさに、中高年のためによく整理されたオペレーティングシステムとでも例えればよいのか、あるいは、細部までよく描かれた精神安定剤的文字列とでも言うべきか、その卓越した創作をどのようにして成し得たのであろうか。「残された時間の流れと、自然が蓄えた空間と、より洗練された文章を追求する精神」の3つが見事調和して描かれた人生観は、目標意識とその整合性の結集と言えそうだ。ややもすると評論的人生観と受け取られがちだが、自分自身への啓発メッセージであることを鑑みると、それを生み出した「実篤が存在した空間」を眺めながら、彼の生きた時代に想いを馳せることで、何か僅かでも、自分にも「一人の男として」取り込める手がかりがあるのではないかと、勝手に思い込んだ訳である。それを 「覗いて見たい」という単純な冒険心的欲求を、その実篤の晩年作品と照らし合わせるという理屈を組み立てて、現場に行って観ることにしたのである。

 場所は、仙川からつつじヶ丘へ至る急な斜面に位置して、仙川側から入門して下るか、つつじヶ丘側の実篤記念館から入場するかによって大きく印象が異なるが、おおむね上部と下部の2つのステージに分ける事が出来る。その象徴が、上部にある「上の池」、下部にある「下の池」である。いずれも自然を愛する実篤らしく、周囲に目を配りながら客人と話をするのに最適なロケーションになっている。それが、主導的に客人からその真意や思考の本質の引き出しやすさを演出しているものと思われる。きっと実篤は、同じ志向の人種と語り合うことが好きだったに違いない。当時とは、庭園の状況や空気感は違うにしても、何か魂が落ち着きを取り戻し、人が人としての本質を取り戻せるような、心を和らげる武蔵野の面影を残している。

 一方で、その創作力は、仙川に降った雨が大地に染み込み、たっぷりとした時間をかけて、湧き出てきた水源とそれを湛えた池、さらにその池の中央にある島に相当する部分に象徴的な部分を見る事が出来る。そこにはあたかも、自然崇拝的とでも言うべき情景が漂っており、実篤自身の「精神性と創造性が巧みに交差する場所」なのだろう。子供の頃の気持ちをそのまま残したとも考えられるが、「回りを水に囲まれた孤立無縁の存在」も好んだようだ。そこには、心の落ち着きとやや自閉的というべきか、自己集中的というか、その精神性に根付くこだわりを感じる構造である。
 つまり、この公園自体は、「精神的開放感と閉鎖的孤立感」の両立を実現しているかのように思えたのである。 本来ならば、「上の池」の周囲の写真を撮影して、より本質に迫りたかったわけだが、ここは、実篤に強い興味を持たれた方が、実篤をより深く理解するために、実際に自分の目でご覧になったほうがよいと思える。まさに閉鎖的孤立感を体で感じて欲しいと思う。そういう意味で、今回の取材は、私にとって少し勉強不足を感じたのである。

 しかし、その流れは、「下の池」の周囲にも認められ、この場所なら、実篤の精神的開放感を素直に理解できると感じたのである。少なくとも、今までの自分の実篤へのイメージを具体化したらこのような感じかなと思えた場所がある。少し横路にそれるが、小路とか大路とかは、京都の地名に多くあり、武者小路町という場所もある。そんなことから、実篤を京都の人かと勘違いしていた。そして、何とも伝統的風情を感じさせる高貴で贅沢なペンネームを作り上げたものだと思っていた。昨日まで、そう思っていたのである。そんな背景から、「こういう感じの写真が自分のイメージかな」というのが、このPDFの写真であり、自分の上澄み的な認識に対する1つの回答だと思えるのである。 もちろん、この写真にも、「上の池」にもあるような、自然の中に生かされている自分の存在を象徴するように「水に囲まれた場所」が用意されているのである。

 今日の感想として、まだまだ自分には、この先晩年を迎えられたとしても、そのような創作意欲や卓越した人生観を受け入れる気持ちには、まだなれないと思ったのである。 実篤記念公園を去るとき、そう感じたことが、妙に自分に安心感を与え、今の社会に生きる活力とでも言うのであろうか、今の社会生活に引き戻されることへの幸福と、自分なりの単純で慎ましい生活に慰めを感じたのである。

 だから、これからも先行き度々訪れて庭園を眺め、実篤の日々の心境を知る楽しみとして、この場所を大切にしたいと思うのである。次回は、いつになるか分からないが、是非「上の池」を紹介できるように勉強しておきたい。
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2009/10/23

オーディオマニア8

 最近のレコード店には、社会環境を反映してか「大人のCD」というコーナーがある。これは、20歳以下は聴いてはいけません、ではなくて、ここは中高年向けの売り場だと主張しているのである。かつて歌唱力に定評のあった歌い手が、当時流行した他の歌手の曲を、アレンジをしてバラード調というか、自己流に歌い上げたCDが並べられている。1970年頃のいわゆる和製ポップスを心得ている人向けに、円熟した歌い手のお洒落な雰囲気のCDを並べた一角といえよう。 もっとも、「さして音楽そのものには興味は無い、しかし、昔流行した曲と歌手」は良く承知していて、聴きなれた曲でも、一寸新しい感覚で聴いてみたい人が「私の知っている歌手はいるかな」と探す場所でもある。どちらかと言えば、こちらではないかと思われる。

 大人ならば、その同じ時代を生きた歌い手に共感する懐かしさと、上品なパッケージの雰囲気に、つい見入ってしまうに違いない。しかし、実はお店の方も、世代が変わっていて、これらのCDは名前の順に並べた場所に置くには目立たないし、しかも、かつては歌唱力に定評のあった人達なので、ちょっと別コーナーにまとめてみようかなと、気を利かせているということになる。このコーナーでは、歌い手はともかく、知っている曲があるかどうかも重要な要素になる。かつて紹介した徳永英明、布施 明もこのような場所に置いてあった。このコーナーに出くわすと、「これって私のコーナー」って思ってくれる人もまれにいるわけで、何かを勘違いして買って帰る人も少なくない。

 一方で、ある程度内容を理解出来ている人たちは、出てくる音質にも「枯れた大人の録音」を期待している。当然「歌手の歌いっぷり」も納得いく物でなければならない。ちょっとBGM風に「豊かな低音とアコースティックな響きを、秋の夜長に朗々と鳴らしても、恥ずかしくない」音質であってほしい。これが大人のCDに対する勝手な個人的イメージである。そんな、たわいも無い音楽に浸りながら、秋の夜長を上質な珈琲タイムで過ごしたり、職場から持ち帰った仕事を進めるのも良い。
 とかくファンとしては、勝手に良い方向でイメージを膨らませるわけだが、それに対して期待はずれもあるわけで、経験的に見ると、実際は3枚に1枚ぐらいしか気に入った物は無い。それは、バックの演奏が非常に元気が良いのに、年齢のためかボーカルが歌えてないとか、優しい印象を出すために、アレンジが単純すぎるとか、アコースティックな音は姿を消し、軽薄なエレキサウンドで構成されているとか、薄っぺらい作りであったりする。これが、少々購入時に勇気のいる理由でもある。

 それにしても、とにもかくにも聴いてみないことには、何ともいえないわけで、そこで、今回は女性ボーカルが男性の曲をカバーしたアルバムにした2枚を購入してきた。言い方はよくないが、「騙されても騙されても、騙され続ける喜びと言うか、世の中の本質をこんな僅かなお金で体験できるなんて、他に無い」と妙に納得しながらも、もしかすると、と一種の期待もするわけである。それもこれも、ファンの気持ちや要求をもっと具体的なサウンドにして表現すべきではないかと思うからである。もっとも、期待=購入意欲と言うこともあるのだが。

 さて、どちらも10~12曲入りで3,000円である。詳細はPDFをご覧戴きたいが、確かにリリースする側も「絶対に数は売れない」と思っているに違いない。私のような物好きが、間違えて買って帰るぐらいに考えているのであろう。まあ、それでもよいし、でも、この2人は、かつて歌いっぷりもしっかりしていたので、そんなにはずれではないだろう。 曲を思い出してもらうために、曲名ごとに作詞・作曲者名を付け加えた。
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2009/10/20

GABAN なドレッシング

 GABAN のロゴを見て、ラーメン屋さんの「いくらでもかけてちょうだい」と言わんばかりの「青と銀の胡椒缶」を思い出す人は少なくない。かつて、少々振っても出ない四角柱の白い胡椒が置いてあった頃は、ラーメンは和風で旨味の時代であった。それが、GABAN の登場でラーメンの主流が一変する。スープに野菜、お肉や魚をふんだんに投入し、味わい深い濃厚なコクを特徴とする時代に変貌したのである。さらに女性陣の参入による辛味へのあくなき追求なども加わって、時代はまさに強力なスパイスを欲していたのである。そんな現代の濃厚ラーメンを牽引するGABANは、既に幅広い年齢層が親しみを持つ「スパイス専門の業務用のブランド」である。

 今日紹介する商品は、GABAN が味の素のグループ会社であることを正々堂々と知らしめる商品と言える。味の素の製品にもかかわらず、GABANと銘打ったこのドレッシングは、瓶の底数センチまで沈殿するほど、ふんだんに「荒引きのスパイス」を投入して作られている。この様子は、世の奥様方をきっと惹きつけるに違いない。食卓では、お父さんも「おっつGABANか」といって手に取って繁々と眺める筈だ。そんな、幅広い層に知られているブランドを前面に押し出し、スパイシーなドレッシングを印象付ける「味の素の戦略」は、必然性のあるコラボレーションには違いないが、「形振り構わず」という印象も隠せない現実のようだ。味の素が担当する、オリーブオイルやスピリット・ビネガーは、もはやお皿の上の盛られた野菜や食材とGABANのスパイスを結び付ける、「庵かけの庵」のような役割りでしかない。しかし、この新たな試みと言うべき、スパイシーな分野を拡張した作品は「案外新鮮」で、目的別にスパイスを組み変えて4種のラインナップに仕上げられている。これらを揃えることが、味覚のヘッドクオーターともいえる親会社としての役割なのだろう。

 さて、実際に、これらの4種のドレッシングを使い分けてみることで、幅広い用途の味に対応できることが分かる。それぞれの味は極めて馴染みやすく、どこかで食べたことあると記憶を呼び起こすような気分になる。家庭用としては特別スパイシーなので、少し分かりにくいかもしれないが、「味自慢のファミレス」で使われている味に近い。どのドレッシングを使っても味のまとまりがよく美味しい。そういう意味では、特別な新しさは感じられないが、最初から定番的な安心感が存在している。もっとも、キレと言うか先鋭度が際立っており、4種揃えておくと適度に使い分けながら楽しめる筈である。

 ガーリックペッパーとハーブレモンの箱には、オリジナルレシピなるものが織り込んであり、近所のイトーヨーカ堂、ヨークベルマン、ヨークマートなどのスーパーで揃えられる食材で一寸手軽な新しい楽しみ方が提案されている。 これによって、もはやデニーズ風のサラダ、マリネ、丼物が簡単に出来てしまうのだ。

 もちろん、自由にアレンジして個性的な利用も可能だ。たとえば、鰻屋のあの香りだけで、御飯とお新香を戴くような空虚な満足感も味わうことができる。レタスだけのサラダに「黒ゴマと黒胡椒」を使うと、どこかに豚のお肉があるような錯覚になったり、ローストビーフに「ハーブレモン」を使うことで、ビーフのマリネに変貌したり、焼いた少し厚めのベーコンに、「ガーリックペッパー」を使うと、ステーキ風サラダになったりと変幻自在である。邪道といってしまえばそれまでだが、人の味覚とはそんなものなのかもしれない。実体が無くても、その味をしっかりと認識することで、満足感と低カロリーの両立が可能になるのである。そんな使い方は、よほど体重を気にされる方か、ダイエット中の人以外にいないと思うが、逆にみれば、実はドレッシングとしてまとまりよく出来ている証拠である。

 味自慢のファミレスよりスパイシーなドレッシングをたっぷりと楽しめ、小安い価格で、しかも手軽に使い分けができることは、今の時代に優しい商品戦略なのだが、ただ、ここで何気なくオリジナルレシピなるものを眺め、先ほどのスーパー名が何故明記されているか疑問を持つことで、背景にある販売戦略の「恐るべし」要因が見え隠れする。かなり遠回りな戦略とはいえ、明確な意図を感じるのである。うーむ。ただ、そんなことは我々ユーザの「知ったこっちゃない」わけで、これら4種を揃えることで、毎日の野菜、魚、お肉がかなり幅広いバリエーションとして楽しめれば良いはずである。野菜は何も生だけではなく、火で炙ってからドレッシングを使ってもよいし、蒸しても美味しい。 それにも、ぴったり合う筈。
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2009/10/16

ウォーキング3

 準備編と実践編を2回に分けて説明してきた。今日は、その補足である。ウォーキングを始めようとするには、やはり、きっかけがある。また、それを継続させるためにも、それなりの考え方や背景が重要な役割を果たすことがある。まず、そこからお話したいと思う。少し前の「銀座梅林のカツ丼の具」でもお話したとおり、私は、腹膜炎で手術をしたことがある。

 手術当日は、耳元で「終わりましたよ、全部綺麗にしましたから」と、まるで私のお腹が散らかっていたので、片付けておきました、そんな風にも似た明るく大きな声が聞こえ、私は目を覚ました。「終わったんすか」とつぶやきながら、頭は朦朧としていた。部屋に戻されると、スニーカーを履いた軽快で機敏な先生がやってきた。「今日は、ゆっくりお休みください、明日から歩いてもらいますから」と声をかけられたのである。そんなわけ無いよな、だって、俺は、今手術が終わったばかりの重症患者なんだけんど、と思いながら、「ええっ?」って目をしかめたら、駄目押しのように「あ、る、く、ん、で、す」と子供に含んで聞かせるように耳元でささやき、その言葉だけを残して去っていった。翌朝、身の回りを良く見ると、体には、点滴の管、尿道からの管、そして、腹部からも3本の管が出ていた。腹部の管は、牛乳瓶2本分ぐらいの透明のタンクに繋がれ、中には管から流れ込む血液が既に半分ぐらい貯まっていた。これでどうやって歩くんだよ、と思いながら待っていると、看護士さんが手際よく歩けるようにしてくれたのである。

 ごろごろと点滴のスタンドを押しながら、重たい体に大半が神経を失っている状況で7階のフロアーを行ったり来たりする。少し歩くだけで貧血になり凄く疲れるが、休み休みでも歩くようにと指導されているので、なかなかベッドには戻れない。腹膜炎なので当然、お昼も、夕食もあろう筈が無い。もっとも、食べる気力も無いわけだが、それにしても、もう2本目、こんなにたくさんの血液がお腹から出ていくと、後々どうなるのか心配にもなる。
 人は痛めつけられても結構我慢できるものだと、よくわかる。そして、そんな日が3日ぐらい続くと、慣れてくる。何か新たな物を知りたいと思う願望も回復し、院内の別棟まで探検に出かけたりするようになる。

 数日後、教授の回診があった。教授は、テノール歌手のような体型で、ピチピチの白衣を揺らしながら、回りの先生方にも促すように、私に向かって、「歩いてますか?歩くのは体に良いんですよ」、「歩くことで腸が動き、元気になるんですよ、免疫力が上がりますからね」と話かけたのである。もちろん回りの先生方も首を縦にうなずきながら、私を覗き込んでいる。「こんな状況で、体に良いってよく言えるよな、ほんとかな」と思いながら、やや強張った顔で顎を引くしかできなかった。最後に付け加えるように教授は笑みを浮かべ、「ライオンも猫も犬もお腹をゆすって歩いてるでしょ」、と付け加えたのである。その言葉に妙に共感を覚え、教授が去った後も、ずっと心に残ってしまった。そして、その言葉通り、既に手術後5日目には、お粥を平らげ、喫煙所で血液のタンクを抱えながら、入院仲間と元気に高笑いをしていたのである。

 入院以前は、ウォーキングをするのに、年寄りの暇つぶしか、体重を減らすとしても、大した効果はないと思っていた。消費カロリーだけなら、食べなきゃいいわけだし、他にも方法はある。血行を良くするならお風呂で十分である。体脂肪を落として筋肉質になるなら別のスポーツもある。色々言い訳を考えてウォーキングをなめていた。しかし、将来的な事を考えると、1人で歩くだけで、健康バロメータともいうべき、免疫力が高まるなら話は別だと少しづつ思えてきたのである。これがきっかけになるわけだが、ストレスは大きく免疫力を低下させると言われている。生きている限りストレスから逃れることは出来ない。ならば、歩くしかないという結論に達する。思い当たるフシのある方は頭の片隅に残して欲しい。

 さて、それでは、本題のウォーキング継続中の注意点をまとめてみる。

 ①健康を管理する。ウォーキングを継続させていると、風邪をひいたりすると、すぐに咳や鼻水などの症状が出て、発熱し、また、すぐに治る。このレスポンスの速さが特徴である。もっとも、平素から痛んでいる部位があると、ウイルスはそこに身を寄せるらしく割と症状は長引く。早めに体調を知るには、正常時の体温(/時刻)と現在を比較すればよい。微熱を感知できれば、対処も早い。ちなみに、日本人の体温は舌下血管5分計測で36.8度で、これは脇の下の計測値に比べて高い値(+0.5程度)を示すと言われているが微熱を計測するにはこちらが良い。 通常体温が高い人は、元々免疫力が高いと言われており、それが、加齢と共に下がり気味になった人は、免疫力も低下するらしい。また、病気の治りが遅かったり未病状態が続くのも老化の特徴言われている。
 胃腸の弱い方にとってウォーキングは快便の効能が顕著だと思う。快便が続くとお腹周りもすっきりする。ただ、経験的に歩きすぎても良い結果にはならないことがある。歩く距離によってその効果が大きく異なるので、いくつかの歩行コースで距離を調べながら歩き、快便のための最低歩行距離を割り出しておきたい。快便は食欲の源である。

 ②自分を過信しない。とかく体の調子がよくなると自信がつく。これが危ない。実は、誰でも既に40歳ぐらいから微小な脳梗塞が進行しており、これによって、運動神経が大幅に低下している。さらに、使わなくなった筋肉は既に衰えている。大きな動作は問題ないが、俊敏な対応力や、瞬発力が低下してくる。いくらまっすぐ歩くのが上手になっても、運動神経が回復しているわけではない。よほど自信のあること意外は注意して実行した方が良い。

 ③目と肌の保護。ここ4~5年紫外線の強さが報告されている。目にはUVカットタイプの眼鏡を装着し、髪の毛のある人は帽子をかぶる。無い人も別の意味で帽子をかぶる。むやみに肌を紫外線で痛めつけないようにしたほうがよい。

 ④夕方から夜間は歩行厳禁。人の目は、正常でも急に暗くなると実体が見え辛くなる。これは、車の事故も夕方が多いことから容易に理解できる。また、50歳ぐらいから暗い部分の解像力、階調再現が著しく低下する。つまり、一定の暗さ以下では物体を認識しずらくなる。これは、徐々に水晶体が白濁してくるからである。毎日通っている夜道は、頭の中で障害物は既に認識されているが、不慣れな道では、障害物などに近づかないと認識できない危険性があるので、夜の歩行は厳禁である。

 ⑤歩行中の水分補給。歩きはじめて初めの頃は何かと疲れやすいので「酸素水を頻繁に」飲むと良い。慣れると「梅肉エキスの薄め液」なども良い。 いずれも既に紹介済み。

 ⑥歩く事が果たして本当に健康によいか、常に検証する気持ちを持つ。歩き始めは、何かと顕著な反応があるので、気分もよくなる。ストレス解消になったとか、お腹がよく空くようになったとか、よく眠れるとか言われる。しかし、それは、運動による単なる体の反応である。健康になっているかどうかは定かではない。また、継続している人は、自分は健康だと、そう信じ込んでいて、しばらく歩けない状況が続くと、どうも体調が悪いとか、不満を漏らす人が多い。これも、体を休めて何が悪いのか分からない。つまり、むやみに歩くことが体によいとは限らない。その程度の認識でよい。あくまでも、体調管理の1つの手段でしかないからだ。軽いストレッチで済ませたほうがよいとか、睡眠をとったほうがよいとか、それを判断するのが人間である。

 ⑦時々負荷を増やす。同じ平場をひたすら前に進むだけではなく、広い場所では、時々後ろ向きに歩いてみたり、 蟹のように横にも移動して、衰弱した神経や筋肉に刺激を与える。そして、坂道を歩いて心肺に負荷を掛けるように心がける。階段でも効果が高い。

 ⑧コースの時間を計測して楽しみを探す。どのコースを使って、どのくらいの時間で達成できたかを知り、平均歩行速度を求めたり、目標値を持つことで、継続意欲は少し上がる。 ストップウォッチを用意しておくと、さらに本気になる。

 ⑨携帯する物。小銭いれ(電話番号、名前を書いた物を入れておく) 、タオルのみ。身軽にして煩わしい事を忘れる。ガムを携帯し、トロリンチョな顔にならないように、ガムを噛んで顔の筋肉も鍛える。

  ⑩歩行中は血流が早くなるので、必要なビタミン類や栄養素は歩く前に補給しておくと効き目が良い。

 以上、補足として注意点をまとめてみた。どれも当たり前のことばかりだけど、気持ちよく歩くためには、危険を回避しながら目標を達成する必要があるので、たとえ、歩き慣れた道でも気を抜かないで歩くようにして欲しい。
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2009/10/13

ウォーキング2

 いつも同じ路を歩いていても、少しづつ風景は変わって行く。四季の変化、建設中の建物、道路を走る車量の変化、ここは多摩川の周囲にある遊歩道である。ちょっと大袈裟になるが、手持ちのウォーキング・コースは3種あり、季節や天気などによって度々予告なく変更されている。予告なくとは、周囲に伝える必要は無いという意味である。途中で、脳梗塞を起こそうが、心筋梗塞で倒れようが、背後から自転車にぶつけられようが、当事者の自分以外は誰も知ったことではない。そのまま行き倒れも運命と心得ている。死ぬときは誰でも一人だ。

 最近のコースは、昨年5月に紹介したコースより短めになった。体力が低下した訳ではなく、交通事情によるところが大きい。ウォーキングは、大道を行くのが良い。信号や横断歩道が整備されていて、人気があるところが、やはり安全なのである。それにしても、休日をウォーキングで楽しむ人がここ2~3年急激に増えてしまった。動物的習性なのだろうか、何故か同じ方向に向かって歩くと、その先には、きっといいことがあると漠然と期待してしまう。そして共通の目標意識は、妙な連帯感を生むのである。といっても、人が多いところではトラブルも多い。最近は、自転車に乗ってこの道を高速走行で楽しむ人が増えた。人それぞれ考えがあってのことなので、批判するつもりは無いが、運転は正しく常識の範囲で行った方が良い。道路の構造上、歩行者も自転車運転者側もいずれも危険である。多摩川のこの遊歩道では、毎年何人もの死者が出ている。まさに、ここは機敏に反応できない人たちの「三途の川」と化しているのだ。だから、もう単なる遊歩道などと悠長なことは言ってられない。まさにインディージョーンズさながらの、命がけのアドベンチャーなのである。 みんな気をつけて歩こう。

 そんなことに気を配りながらも、歩いている時は、どうゆう訳か「大脳に爽快感」が満ち溢れる。そして、壮大な風景を観ながら歩くことで、益々元気が湧いてくる。
 歩く前は、歩く行為そのものに退屈感を抱えている人も少なくないと思う。私自身も、歩くことで手持ちの時間が減ってしまい、今日やらなければならないことが、先送りにされるとか、何の役に立つのか、本当に体に良いのか、今日じゃなきゃいけないのか、もう一人の自分が私に問いかけることがある。これは、7年間歩き続けている今でも変わらない。忙しいときは特にそう感じる。そこで、心理的な葛藤の末の苦し紛れにステレオ・イヤホンを付けて歩く人もいる。しかし、これももはや危険な行為である。お勧めは、せいぜい、今自分が抱えている「最も大きな課題を考える」ために歩くと思ったほうが良い。

 さて、意を決して歩き始めると、少しづつそれらの不安が薄れ、前回の続きのように軽快な足の運びに変わる。体が勝手に歩く事への喜びを覚えているのである。しばらく進んで調子が出てくると、目の前にあった「課題、悩み、あるいはネガティブな発想」が汗となり、秋空に少しづつ蒸発していくようだ。無心になり、次々とギヤチェンジをしながらスピードを上げていくと、左右の足や腕が、心肺のリズムに合わせて同期するようになる。精神は、やや興奮気味で強気になり、軽快に何処までも、何処までも、無限に歩けるような勇気にも似たファイトが湧いてくる。これが、快楽物質の放出し始めるタイミングなのだろうか。この快楽物質が大量に放出され、徐々に体の隅々にまで行き渡り、毛細血管にまで浸透する頃には、魂に日常潜んでいる「欲求不満や多くの煩悩」までもが影を潜めていく。これをコース上で例えれば、丁度第3コーナーを回った頃(半ば過ぎ)である。ついつい、前を歩いている群れが煩わしくなる。いつもの休憩所まであと少しだが、疲れは感じないので続行したい気分である。しかし、それをあえて休憩するのが紳士的で健全な行為といえよう。足を止めて水分を補給し、時計を眺めて今後の運行計画を再検討する。十分予定通り進んでいるようだ、と、いつもと同じ風景を眺めても、何か新鮮さを感じる。5~6分休息したら、よし行くぞと、再び歩き始める。休息の後の再起動はつらい。これは、肉体的にどん底から這い上がるような苦痛を伴うが、ちょっと気合を入れて徐々に軽快なスピードにまで戻そうとする。もちろん、快楽物質は、すでに体内に蓄積された乳酸が食べつくしたような状態で、足の筋肉に蓄えてあったエネルギーまでもが底をついている。太陽は少しづつ西に傾きはじめ、群青色の闇が背後から追いかけてくると、少し焦りを感じ始める。そして第4コーナーに差し掛かる頃、あと残されている区間も僅かな事を知り、再びエンジン全開で気合を入れなおし、軽快に動き続けるのである。ここまでくると、すでに足の筋肉に少し疲れを感じているが達成感が上回り、終盤はあっという間に訪れる。この最後の伸びしろが自分の健康状態との相関が強い。状態がよければ、まだ、少し続けたいような気持ちも残っているが、終了しよう。歩き終わったら、軽いストレッチをしながら、とぼとぼと、その先にある「壮大な日暮れの風景」に近づく。ここが、ウォーキングの最後の区切りといえるものになる。そして、風景を眺めながら、俺って、「何か今すぐ解決しなければならない課題を抱えていたかな」と、すっかり忘れていた事を思い出そうとすのである。すると、「そうか、そうだった。 だったら、まじめに正面から突破するようにしよう」と、ひどく前向きな自分になっていることに気がつくに違いない。

 この文字を追いかけながら、危険を顧みずここまで読み続けられたら、ついでに多摩川の日暮れを一緒に眺めて欲しい。最初の、歩き始めは左の京王線の鉄橋の向こう岸あたりから始まり、ずっと右へ進み、小田急線の手前の多摩水道橋まで行く。そこを渡って、ここまで戻ってきた。

 次回は、本気で歩いてみようと思っている方々の為に、予定には無かったが、このウォーキングを始めた動機と、継続するための注意点を補足しておきたい。
注)画像の右下が赤く見えるのは、フードが短いために起こるレンズのフレア。
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2009/10/09

カロリーメイトの新製品

 我々の世代には、大塚製薬の古くからのファンが多い。そこで、ウォーキングの予定された連載を中断して、スパッと割り込みでカロリーメイトとSOYJOYの新製品紹介をしよう。 カロリーメイトのような、携帯型のバランス栄養食は、発売当初、庶民から縁遠いという意味で宇宙食のように言われてきた。しかし、最近では、効率的な食材として、もっぱら若者に定着し、さらに当時発売を見守った我々中高年からも高い支持を得ている。当時とは、今から25年くらい昔のことである。

 その頃はスペースシャトル初期の宇宙開発時代で、人類の未来を予感した同社の社長による崇高な理念によって企画された製品である。そして、今スペースシャトルはその使命を終え、次のステップである宇宙ステーション滞在試験時代を迎えようとしている。カロリーメイトも同様に、これだけ息の長い商品であるがゆえに、次のステップに進むことで、これからも益々重要度が高まっていくに違いない。勿論、売れない時期もあったはずなのに、粘り強く継続する姿勢に、おのずと周囲からの信頼も高まっていると言えよう。

 さて、商品ラインナップは、1.フルーツ味、2.チーズ味、3.チョコレート味、4.ポテト味、に加えてこの度5.メープル味が加わった。いずれも、11種類のビタミンと6種類のミネラル、そして、たんぱく質、脂質、糖質、食物繊維が含まれている。チョコレート味やフルーツ味に比べて成分的にチーズ味やポテト味の糖分が異なっているのかと思えば、全く同じ40~41g使われている。しかも、栄養成分比較をしても殆ど違いは無い。あるのは、味付けだけのようである。

 私も含めて、昔ながらのファンはフルーツ味が好きである。いつも、口の中の水分を全て持っていかれるのが大変辛いので、珈琲のお供のお菓子ぐらいの扱いでしかなかったのだが、今回、改めて新製品を含めた5種を比較してみると、自分自身がお菓子の概念を捨てきれずにいた事に気がつく。だから今まで、ポテト味には手が出せてなかった。しかし、改めて並べて比較してみると、ポテトも結構いけるではないか。これは、まさにじゃがいもの加工品を食べている印象で「どっぷり大人の味」である。そして、まさに、これこそ開発当初の「バランス栄養食」の本来のイメージに近いと思えたのである。それに引き換え、新製品のメープル味は、やはり、再びお菓子に近づいた商品になっている。これでは、お菓子の種類を増やしたに過ぎず、美味しいに間違いは無いけれど、少々企画に行き詰った結果なのかも知れないと、そんな感じを受けた。

 考えるに、カロリーメイトの期待される将来像は、やはり、お菓子の種類を増やすことではないように思う。あくまでも、社会とのかかわりを強くするところが重要な使命なのではないだろうか。例えば、勝手に考えるに、あくまで勝手にとお断りしての話だが、ダイエット効果を既に認知されている現在、次のステップは、製薬会社の特権を生かしながら、露骨な表現は出来ないにしても、効能があるといわれている天然素材を添加した、例えば①ボケ抑制、②老化先延ばし、③血管強化 などの高齢化社会に係わり合いのある、若干際どい効果を伴う製品作りである。勿論、製薬会社であるが故の難しさもあるだろうが、やはり、ぎりぎりの線で話題を先取りしながら、自社のアドバンテージを生かしてこそ、カロリーメイトの社会的価値を決定付けると考える訳である。

 安易に、別路線でベーコンエッグ味とか、ハムサラダ味などを揃えるのも悪くは無いが、中高年の我々の期待に応えるべく、今後、社会全般として不足しそうな栄養素を投入してこそ高付加価値のバランス栄養食になるのではないだろうか。 あくまでも勝手な期待である。

 おっと、忘れないうちに、もう1つの話題がSOYJOYのブルーベリー味の登場である。こちらは、Fe、葉酸、カルシウムを強化したタイプではなく、7種類用意されたスタンダードなラインに加えられている。外装デザインは、レーズン・アーモンドと酷似しており、店頭では間違いそうである。よく確認してお求め戴きたい。中身はブルーベリーにオレンジピールが加えられ、食感は従来品に比べ、さらにクッキーやケーキにより近づいた感じで、まさに小腹の空いた4時のおやつである。 これでまた1つ選択する悩みが増えたという人も少なくないだろうが、万年液晶モニター観測派には、こちらの方が好都合なお菓子である。そうそう、カロリーメイトにも、効能は気休めかもしれないが、こうゆう感じの商品が欲しいのである。
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2009/10/06

ウォーキング1

 「今から健康になるんだ」と、決意する中高年が増えている。若いときから、体調を崩すとどうも胃腸や腰に来るとか、苦悩を抱えたまま歳を重ねた人達がいる。今までは、それを全て仕事のせいだと考えていた。しかし、ある程度自由な時間が増えた現在でも、その症状が改善されないことに気が付き、「何か体に良い事をしたい」と思うようになるようだ。そんな人達の中にも、少し歩いてみようかなと思っている人は少なくない。そんな漠然と考えている人の為に、私の経験と実感をまとめてウォーキングの取組み方としてまとめてみた。参考にしてもらえば幸いである。準備編と実践編とに分けて2回で紹介したい(温泉めぐりではないので効能編はない)。

 まず、ウォーキングを始める前の1週間~10日ぐらいは準備を兼ねて、体の事を細部まで把握し、現在の状態を見極めておいたほうが良い。既に内部で老朽化が進んでいるかもしれないので、やはり、慎重に調査してほしい。自分の体のメカニックになった気分で、ボディーのメンテナンスやチューニングをするように考える。勿論、現在の体重、体温、体脂肪率、(必要があれば、血圧、脈拍など)無駄かもしれないが、基本的なスペックは全て押さえておこう。

 最も注意すべきところは、体のエンジンである心臓の働きである。そこで、心臓の負荷ともいえる、発汗機能を把握しておきたい。発汗が上手くいかないと、歩き始めの頃に、頭や心臓の小血管に大きな負荷がかかってしまい、頭痛や疲労を感じる事がある。最初は、誰でも負荷の事よりも、自分の体力が落ちていると勘違いし、つい無理をしてしまう事がある。これは、非常に危険である。そこで、歩き始める前に数日間を使い発汗調整をしておこう。まず、低い温度のお風呂に入り、長時間かけて発汗できるようにする。慣れたら、徐々に体温を(平均体温=36.5度)+1度まで上げ、心拍数の上昇(85程度)に伴い、汗がすぐに溢れてくるように改善できればベスト。発汗は、心臓の負荷を軽減し、長時間の運動に重要な働きをする。

 次の準備として、骨盤の調整である。楕円を描くように腰を動かし、突っ張る筋や筋肉がないことを確認しておく。もし、骨盤の状態が悪いと、膝や特定の筋肉に負担がかかり痛みを伴う場合がある。いわゆる、サスペンションの調整のようなもので、このあたりの調整が、安定歩行に大きく影響する。また、骨盤をベルトで締めて足先は揃え、ベランダの手すりを両手で握り、ベリーダンスの基本動作のように腰を回転させる。暇があれば実行し、癖をつける。傍から見るとちょっと滑稽だけど、ドリフの加藤ちゃんの腰の動きも加えて練習すると良い。特に腰痛持ちの人は、これによって内部筋肉が鍛えられ、腰が大幅に楽になるはずである。また、平素から足腰の筋や筋肉を伸ばす癖をつけるのはよいことだ。

 次に、体重である。平素の状態から3%程度軽量化をしておくと良い。平素67kgあるとすると、2kgぐらい減らして足腰への負担を減らそう。まず、食事から考え直し、炭水化物、油分、糖分を減らし、たんぱく質と食物繊維を中心に摂取するよう心がける。なにせ、体は自分にとってマシンなのだから食べる物ぐらい良く考えて、慎重に準備を進めてほしい。さらに、怠け者としての自覚のある人は、ダイエット食品を併用して徹底すると良い。SOYJOYやカロリーメイトを用いるのもよいが、短期間でチューンナップするので、今日は、その脇役のダイエット食品を紹介することにする(後述)。

 そして、いよいよ調整コースを少し歩いてみる。歩く前は、スポーツドリンク以外は口にしないのが良い。靴は、最初クッション性の高いもので楽に歩くと良い。準備運動がてら、歩行速度を3段階程度に分けて歩いてみる。異常を感じた場合は、すぐにピットインする必要がある。たとえば、歩きはじめてすぐに、右足のくるぶしが・・・ってこともあるし、何故か首や肩が凝ることもある。これは、腰の調整が不十分だと思う。かつてヘルニアを痛めた人は、大小を問わず必ず肩こりを起こすか、膝を痛める。まず、腰の辺りの背骨の上下の並びを確認して欲しい。背骨を触り、どこか、一箇所でも飛び出した部分があると、要注意であるが、このような場合、少々腰を回したりしてもそう簡単には治る筈がない。また、首に痛みのある人は、抜本的に何か背骨が左右方向に曲がっている可能性がある。いずれも、暇を見つけては、骨盤の調整を一生懸命行う必要がある。そして、それでも障害を持ちながら歩き慣れるよう努力していく必要もある。また、それで腰痛を克服できる可能性もあれば、さらに、将来挫骨神経痛に発展する可能性もあるので重々歩く姿勢や体の使い方を検討していただきたい。

 歩き方は、あくまで胃袋のあたりを中心軸にして、腰から先に前に出し、腹部をねじる感じで交互に前に進む。一般的に、腰やお腹はそのままで、足だけで歩いている人が多いが、そのような場合は、膝から下の筋肉だけが痛み、少しも体全体に効果が波及することはない。当然、ヒキガエルのようなお腹はそのまま温存される。正しく歩くには、体の稼動部分を広い範囲で動かし、一直線上を移動するのが良いとされる。 また、しばらく歩き続けていると、足の裏の特定の部分が硬くなることがあるが、これも左右の脚の筋肉のバランスが悪い場合があるので、歩行時の足の運び方を家族や友人に観てもらい、意見を聴いて修正するしかない。

 自分の体の優れたメカニックになるためには、骨や筋肉の構造を把握しておく必要がある。現在の骨や筋肉は生活習慣で作られた形で、必ずしも長距離歩行に適しているわけではない。それを「向上心と知識」で、適正な方向に誘導する必要がある。また、それは自分に適した歩き方や、自分の弱点を克服する歩き方を編み出すことにも繋がる。

 たとえば、ある程度心拍数を上げたまま歩く「体脂肪燃焼型」なのか、体全身に神経を行き届かせ、体全体を使うことに重点を置いた「筋肉強化型」なのか、腰痛を克服するために、少し腰を後ろに引っ張りながら歩く「腰痛改善型」でも良い。あくまでも、自分の体のメカニックは自分自身である事を認識して、歩行状態のフィードバックを早めに行いながら歩く姿勢や足の運びを工夫するようにして欲しい。

 さて、そのダイエット食品の話に移ろう。今日紹介するものは、若い女性に広く使われて来た商品である。最近は、糖尿病予備軍の中高年の間でも使われるようになった。素材も天然由来であることや、長い間使われてきた経緯から、製品自体に問題はなさそうである。用法・用量は説明書に従って貰いたいが、実際に使用してみた感じで申し上げると、まず、食事の後に大量の水で飲むと、満腹感が増し、追加で何か食べたいと思わなくなる。もちろん、その分食事を減らしても良い。次に、便通が良くなる。何故か食べてる以上の量が排出される感じである。したがって、お腹の張りは無く、むしろ、へこむ感じである。これは、余計な物が吸収されずに、そのまま排出されるためだと思われる。無理なく最初は1週間で1kg程度は下がるので、それ以上は、多少他の低カロリー食品を併用するなどして欲しい。ただ、このようなダイエット食品を恒常的に摂取すると、活力やファイトが低下する事があり、日常生活はもとより、長時間歩行には必ずしも好ましいことにならない。慎重に使うように心がけたい。

ではこちら。次回は、実際のコースに出て注意することを補足したい。
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2009/10/02

カフェド クリエのマカロン


  焼き菓子の作り方も、本来は母さんから教わる物であった。実際に、生地から自分で作り、寝かせたり、温度や微妙な生地の変化、あるいは時間の管理は豊かな経験が必要である。それらを、書物や画像から読みとるのは難しいし、1人で実践するのは難儀を極める。ただ、形の小さい物は簡単そうに見えてしまうため、つい手を出してしまう人も少なくない。このマカロンの作り方は、卵白にグラニュー糖を加えて泡立て、アーモンドの粉などを加え、さらに、着色する場合は、ココア、食紅、抹茶なども添加する。それを丸くクッキングシートの上にいくつかドーム状に搾り落として乾燥させ、オーブンで焼き上げて、その2枚の間にクリームを挟めば仕上がる。こんな簡単に作れそうな焼き菓子だが、案外綺麗で美しく作られている物は、いまだかつて拝見した事が無い。丸い厚みのあるドーム状までは良いが、大概、若干上下がチグハグで、色も薄く見るからに硬そうで、既に固まったクリームが挟んである。そんな印象を持っていた。いくらフランス風の由緒正しいお菓子でも、とりわけ美味しい物でもなさそうだ。やはり、お菓子は「外見が美しく、食べてみたい衝動にかられそう」な形状が重要な要素である。

 今日紹介するマカロンは、とても「形といい、色といい、美しい」と思う。1度でも自力で作った経験のある人なら、恐らくその色合いに感動されるだろう。感動の後に、何か新たな技術革新を使って作られているのではないかと疑われるかもしれない。私も最初、きっと、高精度なアルミダイカストの型に流し込んで作られているのではないかと思ったぐらいだ。手作りだとしたら、もはや神業である。そのくらい、製品の形状均一性、色再現共に、芸術の領域に達していると思える。勿論、これだけの美的感覚で作られているので、挟んだクリームにも工夫が凝らされて、お味の方もなかなか美味しいと思う。1個150円でお高いように思われるかもしれないが、むしろ、よく出来ていることに感銘を受けて味わい深い。時間つぶしにカフェドクリエを訪れたら試して欲しい。OHs と言った感じである。

 このマカロンの製造工程で、もっとも難しいとされているプロセスは、「マカロナージュ」という作業で、これは、ゴムへらで泡立てたメレンゲをボールにこすって、潰すことらしい。この泡立てながらもそれを潰すという相反する作業が、生地に後々柔らかさと艶を与える結果になるという。このあたりは、何度か試してみないと分からないことだ。しかも、この作業の後の、焼き上がりのイメージがこの段階で湧くようになるには熟練が必要である。なぜなら、その次のプロセスで、生地を搾り袋に入れて、丸く搾り出す作業、さらに、生地を乾燥させるプロセスもあり、そのまま焼き上げるのとは少し案配が異なり、このあたりに熟練を要するため、素人が安易に手を出しにくいところと言えそうだ。

 このような、感覚的に掴む部分は、案外教えてもらえないことが多い。これを菓子作りのノウハウとでも言うのだろうか、教える側は、「本人が何度か失敗するうちにコツが分かってくる」とか、もし、「コツが分からないようでは、お菓子作りを自ら諦めるに違いない」とでも思っているのだろう。このようなことは、趣味でも、仕事でも、何かにつけて介在する。何か、人から教わるときは、漠然とメモを取るのではなく、最初に「先生、ポイントとなる箇所を3つ教えてください」と質問するのが良い。そして、「早めに何故そうなのかを分析」することだ。そうでもしないと、多くの卵白が必要になったり、大量の不良在庫が増えてしまうことになる。おまけに、最後は菓子作りのセンスが無いとまでいわれる。そういう意味では、やっぱり母さんから教わるのが良い。

 PDFを見ていただくと、まず、色が綺麗で、全ての形が均一なことがお分かりになると思う。PDFにしていることで、実物より解像力は低下しているが、是非、他のマカロンの写真と比較してみてほしい。 写真にも興味のある人は、パナソニックのホームページの「ファッションムービー一眼カメラGF1」の紹介で「マイカラーモード」の写真見本も、参考にして欲しい。ここにもマカロンが使われている。 ではこちら
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2009/09/29

続デジタルカメラ29


 涼しくなったので、再びデジタルカメラを続けることにしたい。最近、マイクロ・フォーサーズ規格とかいう新しいカメラが登場して、そうそう、あの篤姫が持ってるやつだ。世界不況のどん底だというのに、相変わらずカメラ屋の店頭では活況を呈しているようだ。持ち歩くカメラは、やはり軽いに越したことは無い。軟弱になった腕力で支えられるのは、このあたりまでかと、まず、オリンパスを触ってみる。思ったよりずっしり来るではないか。しかし、俺達よりもっと上の人向きのデザインだよな、と思いながら、「たらりっと手放す」。次にパナソニックに持ち替える。ちと完全に間延びして大きいなー、でも、これが大きさの限度だよな。これには、小型超広角ズームレンズも用意されているから、フイルムサイズと同じ使い方も出来る。パナソニックは手ぶれ補正をレンズ内で行い、オリンパスは、ボディ内で行う。すると、このパナソニックの手ぶれ補正なしの小型超広角ズームレンズは、オリンパスに取り付けると、手ぶれ補正が行えることになる。その組み合わせがいいかもしれない 。付け加えると、レンズの周辺光量低下、収差補正、MTF補正、など様々な補正を行っているという。ソフトでやる必要が無い。素晴らしい。 しかし、わざわざこの新しいカメラで撮影する「対象」が周囲に見当たらない。

 中高年のカメラファンには、案外そういう人が多い。購入する前は、一生懸命研究する。機能やメカニックに興味を持ち、使われている先端技術を画像イメージとして膨らませるのが大好きなのである。新製品の1200万画素より1800万画素が鮮明に違いないし、しかもノイズも少ないという。どこか矛盾を感じるが、それを自分の目で確かめたいのである。しかし、撮影するためのテーマが見つからないから、本来購入する必要も無い筈なのに、自ら研究して得た知識と、ちょっと撮影結果を見てみたいという願望の勢いに負ける。そこで、家族に打診をすると、一生物だから、出来るだけ良いものをという希望もあり、つい高級一眼を買ってしまう場合もある(一生物とは、一生それを使うという意味ではない。ここでは、一生何度も買い換えるという意味である)。そして、高鳴る気持ちを抑えながら、実際撮影に出てみると、考えていたより重たいことに気が付き(やっぱり)、さらに、撮影結果にも言い訳ばかりが先に立つ。そして、徐々に除湿箱の置物になってしまうのである。ところが、しばらくは物静かにしているが、技術が新しくなる度に、再び目を覚ましたように研究熱が蘇り、現在の物を下取りに出し、新たな物を手に入たいと思うのである。
 そういう観点では、何十年も前の「ガラクタを駆使」している俺達の方が、楽しむすべを良く知っていると思っていた。

 時たま街中で「フイルム一眼」を首から提げた若い女性を見かける事がある。何でそんな古いカメラを提げているのか興味があったので、注視してみると。彼女は、日常の風景にカメラを向けて、さくっと撮った。その絞ってシャッターを切る身のこなしがよい、内蔵の露出計を意識しないスピード感もよい。かなり、慣れている様子だ。その振る舞いに「こいつ撮ってるな」と思ってしまったのである。歳を重ねると、そういうカメラのハンドリングにも敏感になる。やはり、毎日首から提げて撮ってる奴にはかなわないと思うからである。きっと、そういう連中は、経験を積み重ねて、露出計さえも必要なくなる筈だ。今、その「フイルム一眼」を使いこなせば、写真の原理原則を体に徹底して叩き込めることを知っているに違いない。

 実はこのような事例は、趣味ばかりでもなく、どのような分野にもある。仕事でも同じだ。カメラの話なので続けると、理屈を追いかけたオヤジの、言い訳ばかりの「つまらん写真」を見せられるより、このような光景の方がはるかに刺激になるのである。経験、経験といっても、つまらない経験なら重ねない方が良い。まじめに熱意をもって毎日こつこつと経験を重ねていくことで、その先にあるものが見えてくる筈だ。 最近の若者は、色々個性的になってきた。とても頼もしいと思う。本質を追求したいと思う人が多いこともわかってきた。このような40年近く歳が違う方々に刺激を受けて、今から、もう1度頑張ろうと思うのである。

 さて、能書きはこのくらいにして、今日は深沙大王の祭られた深沙大王堂を観ていただく。「またかよ」と、内心ちょっと不満でも、深沙大王堂は初登場ということで、やっぱりファイルを開いてしまうに違いない。がっかりしても、続きだからお許しいただきたい。上の写真は、元三大師堂から乾門を出て深沙大王堂へ向かう途中にある延命観音。 だらだらと長生きしたい人はこちら。
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2009/09/25

オーディオマニア7


 既に世に送り出されたレコードやCDの、制作プロセスをもう1度点検して改善し、音質を向上させる事を総称してリマスターというらしい。それには、技術的な改善要素、最新の音作りへの移行、あるいは音楽性への配慮なども反映される。最近、Beatles もこのリマスタリングが行われ話題を提供している。「またかよ」と思われるかもしれないが、今回は世界共通音源の全てがリマスタリングされており、ちょっと聴いてみたくなるのは、ファンだけではないと思う。当時のテープレコーダで録音されたものを、デジタル化して、その幅広いダイナミックレンジに上手く当てはめて、現代のCDと同様な印象がもてる録音に作り変える作業は、きっと面倒に違いない。たとえば、小さな弁当箱にぎゅっと詰め込まれた美味しいおかずを、ちょっと大き目の重箱に移し変え「レイアウトをやり直し一層美味しそうに纏め上げる作業」という風に考えられる。もっとも、条件があって美味しい物を少し目立つように底上げすることは可能だが、腐りかけた品は、それしか材料がないわけだから、それに再び火を入れることはあっても、最初から作り直すことは出来ない。もっとも、それには、専門家が担当するわけで、古代壁画の修復のように入念に行う必要があるため、時間のかかる作業になったことは言うまでもない。

 オーディオの世界には、Hi-Fi という言葉がある。「高音から低音まで、ひずみやノイズのない鮮明で味わいのある音質」から「生の印象に近い音質」を抽象的に表現する時に使用される。言葉自体に、ある程度許容範囲があるので、使い方も様々だが、評論家などが安易に使う感覚的な言葉に対して、技術者や研究家から目指すべき「本質的な目標対象」の表現として神聖に扱われてきた経緯もある。アナログからデジタルへ記録方式が変わったときも、「よりHi-Fiに近づいた」という表現がなされる程度で、Hi-Fi=の図式は使われることは無かった。また、音がクリアになったとか、ノイズが少なくなった、音が前に出てきた、音が綺麗になったという程度では、音作りの範疇を越えることは無いし、それをHi-Fiとして包括的に説明するには、やはり不適切である。しかし、意図的な手が加えられず、そこに技術的な背景と理屈が存在し、より優れた音質に変わったとすれば、わずかにHi-Fiに近づいたという言い方がなされる場合もある。一方で、かなり昔は適切な誉め言葉が少なかったせいか、比較的簡単に使われてきた。年配の人たちは、高音が出ているだけでHi-Fiだということもあった。(という私も、案外簡単にHi-Fiという言葉を使う癖があるので気をつけて読んで欲しい。)

 余談はこれくらいにして、つまり、Hi-Fiには、それなりの技術的根拠が必要なのである。現在実証されている根拠を検証しながら、積み上げられた技術的要素をくまなく実現し、そこで、ほんの僅かHi-Fiに近づく事が出来る。とまあ、Hi-Fiというのは、遠くはるか彼方にある「虚像を求める精神と優れた音質を求めるための正しいガイドライン」という風に考えてもよい。オーディオマニアとは、技術的根拠を乱用しながら、それを盲目的に応用しHi-Fiを追い求める姿を指す。

 リマスタリングの作業には、どこか根底にはそのHi-Fiの精神が生かされている。それが、当時に比べて圧倒的な進歩を遂げた「デジタル技術」ということになるのだろう。それらの「技術を使って現代に蘇らせる」と言わしめたのは、それなりに根拠や背景があるからで、一般的に多くのファンは、この取り組みに対して、デジタル技術を使った魔法の機材があって、それを通すとまるで新たな物が生み出されるという認識かもしれない。しかし、そうでも思わないと同じ曲のCDを再び買い揃えるなんて、とても出来た話ではない。我々としては、やはり魔法の箱とそれを使いこなす魔法使いによって作り直されたと思ったほうが精神的にも安心できる。

 一方で、製造者側からみると、このリマスタリング作業の責任はかなり重たいといわざる終えない。既に完成した世界共通の文化遺産に手をつけるようなもので、そこには、最新のデジタル技術を使ったとしても、4chのテープに記録されている音質が改善される根拠は微小である。したがって、ミクスダウン以降のプロセスで、若干の調整を積極的に行いながら、当時の機材では実現し得なかった曲の象徴的な部分や、より強調したかった部分を、あくまでも主観的というか独善的に纏め上げるしかない訳で、下手をすると世界中のファンからクレームが殺到する状況になるかもしれないし、あるいは当時のエンジニアが手をつけた事だから無条件で素直に「素晴らしい」と絶賛されるかもしれない。つまり、デジタルという純技術的な言葉を使おうと、そんな「子供だまし」のような機材を使ったからといって、誰でもが「素晴らしい」といってくれるものになる確信などは、何処にもないのである。

 もっとも、経済的な視点から言えば、「巨大な柳の下には鰌がまだいる」式の発想があるわけだが、少々音質を改善してHi-Fiにしようと何をしようと、本質は変わりはしない。それは、恐らく製造者側も良く分かっていること、いいえ、むしろ我々よりもはるかに理解しているに違いない。

 しかし、もしそこに、追加して映像が保存され、曲を創作する当時の4人の気持ちとして、本人の肉声が聴けたとしたら、ファンとしては大変うれしいプレゼンテーション・ディスクとなるのではないだろうか。その意表を突く作戦には、今回、目を見張る物があるように思える。つまり、1枚2,600円の価値をどのように織り込んでファンの心を引き寄せるか、ちょっとした工夫を大きな付加価値として位置づけたのである。
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2009/09/22

神代植物公園1


 今日は、レジャーシートを持って神代植物公園へ出かけた。入り口には、大砲のようなレンズの付いたカメラを自慢そうに競っているジジイの集団がいる。今の時期、何を撮影するか知らないが、みんな元気いっぱいで話し合っている。それを横目にしながら年間パスポートを見せて、まるで自分の庭のような感覚ですーっと入門する。ちょっと余裕というか、考える時間が欲しいので、無意識にまっすぐ進む。気持ちの整理がつかないまま、公園のほぼ中央にある「大芝生」に着くと、日陰を探して、レジャーシートを敷きながら、よっこらしょと腰を下ろした。大した意図もなく、本能的とでも言うのだろうか、思いつくままの行動である。さて、今日も何処か1枚ぐらい写真を撮らなくちゃいけない。これが今日の唯一の課題だが、今の時期、ほんと何を撮ったらいいのか分からない。おもむろに靴を脱ぎ、ごろっと、仰向けになると、そこには巨大な青いパノラマが広がっていた。それを見上げた途端、気持ちは思いもよらない方向へ飛んでいってしまった。

 幼い頃には、よく空を眺め、はるか彼方に想いを馳せたものだ。このずーっとずーっとはるか彼方には、タコのような火星人がいて、何時か攻めてくるに違いない。そう思って50年が過ぎてしまった。どうも俺の生きている間には、攻めて来そうにないようだ。それにしても、空の色、雲の形は昔と少しも変わっていない。雲を宇宙船のように見立てて空想した頃が妙に懐かしい。これからの敵はCO2らしいが、見えないのにどうやって戦うのだろう。この青い空と白い雲のコントラストは失われていくのだろうか。それにしても全世界共通の敵を作るとは、神様も良く考えものだ。空が眩しいので、つい目を瞑る。草の匂いというか、まるで、空気いっぱいに芝生を混ぜ込んだ、むせ返るような匂いが鼻をつく。ちょっと懐かしさも手伝ってか、そのうち気にならなくなった。遠くでは、お母さんが子供を呼ぶ声が聞こえたり、耳を澄ませると虫の声まで聴こえてくる。老夫婦が昔話をしながら背後を通り過ぎる足音も聞こえる。この漂うような時間の流れに身を任せていると、ぐーっと青空に吸い込まれてしまいそう。ちょっと気が抜けて、うとうとしてしまった。しばらくして、蟻が腕伝いに歩いてくるのがわかり、片目を開けて払いながら起き上がる。

 周囲を眺めながら、子供の頃、こんな広い公園が近くにあったら、仲間と絶対にいくつか秘密基地を作ったんだろうな。うーむ、やはり、敵と戦うための要塞が必要だ。その要塞には、CO2回収装置が隠されていて、いつ何処から現れるか分からないCO2を、いつでも回収できるように準備されている。「サンダース軍曹」なら背後に絶壁がある見通しの良い場所を選ぶに違いない。だと深大寺の方がいいんだな。しかし、ここも木々が生い茂り、迷路のように道が入り組んでいるから、隠れ家もたくさん出来そうだ。そうなると「忍者部隊月光」の登場かな。と、幾つになっても、昨日見てきたように、昔のテレビ番組を思い出すのであった。

 そういえば、この正面には、子供達が「きゃっ、きゃっ、と、はしゃぎ回り」顔を出したり引っ込めたりして、両親をからかって遊ぶ茂みがある。内部は暗いため、外から内部の様子は分からないが、その分、内部から外は見やすくなっている。周囲360度が芝生で、誰がどこから近づいても、すぐに分かる。これも秘密基地としては好条件なのだ。この大芝生のほぼ中央に位置するパンパスグラスのことである。

  レジャーシートの上で自由気ままに連想を重ね、無意識に子供の頃に戻っている自分がいて、それでいて、今日のブログの写真を気にしている自分もいる。何か50年くらいを行ったり来たりして変な気分だ。しかし、時には、こんな時間に青空を眺め、幼い無邪気な頃を思い出し、自由奔放に過ごすのも悪くは無い。そして、それが、呉にある二河公園だったら、もっと鮮明に思い出せるかもしれない。いやいや、今は様変わりして大切にしてきた古い記憶は、即座にかき消され、現在の風景で上書きされてしまうに違いない。まさに「故郷は遠くにありて想うもの」なのだ。そんな情けない思い出を巡らせていると、何だか時間の経過感覚を忘れてしまったような気がして、左手を引き寄せ時計に見入る。大して時間は過ぎていない。「よし」と気合を入れ、今日はこの空間を切り取っておこう。おもむろに、今見えている風景に構図を定めシャッターを切る。まったく「観えている、そのまま」の写真である。そして、レジャーシートの外に並べた靴を引き寄せて立ち上がり、けんけんをするように足を靴に納め、すたすたとパンパスグラスに近づいていった。近づくにつれ、こんなに背が高いのかと見上げるようだ。ふわふわの穂のような部分を触ってみたいが届かない。仕方なく、ここも観たままをカメラに収める(上写真)。今日は、この2枚でお仕舞にしよう。 そろそろ、小腹が空いたし、隣の売店で腹ごしらえでもして、もう1度、横になって怖いような昔に戻ってみようかな。
 その「観えている、そのまま」の写真は、こちら
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2009/09/18

秋の果物

 比較のため醤油を少し舐めすぎたのか、数日気持ちが悪かった。そんな後は、果物ですっきりしたい。葡萄や梨は既に秋口に出ている果物なので、取り除いたが、写真用にネクタリン、いちじく、洋梨を並べてみた。全体の色バランスはあまり良くないが、撮影では、それなりに色再現にこだわったつもり。何事も練習である。今日はいつもの様に、「能書きや、屁理屈は」無いのでご安心戴きたい。単純に果物を眺めて夏の疲れを取り除いてもらいたいだけなので、文字通りすっきりまとめてみたい。

 ネクタリンは、その外見からは、プラムのような食感をつい想像してしまうし、裁断後はその断面から黄桃を連想する。いったいどっちなんだろうと思って、口に運んでみると、全くイメージと違っていてクエン酸を大量に含んだ強烈な酸味が襲ってくる。これが夏の疲れを取り除くのには最適なのだろう。胃袋がひっくり返りそうなクエン酸は、自然の物から摂取することが望ましく、この方が効果が大きいと言われている。私は、あまり酸味に強い方ではないので、半分食べるにも往生した。お店では、3~4個も入ったパッケージになっているので、やむなく、その数を買うことになるが、すっぱいのがお嫌いな方は、最初は観て楽しむことに徹し、完熟してから手を出すようにするか、最初から購入を控え方が良い。.

 いちじくは、特殊な用途の「薬材の名称」にも使われているぐらい、繊維質を多く含んでいることから、便秘に効果があるといわれている。何かにつけて詰まってしまうと、その生命を失う事がある。そこから不老長寿の果物として崇められたのかもしれない。特別美味しい物ではないが、熟してから甘味が増す。子供の頃は、まだまだ今より甘い物が少なかったこともあって、ザクロ同様、熟すたびに、もぎ取って食べていたような記憶がある。無花果とも書くので、花は無いのかと思えば、じつは実の先端が花の集合になっていて、その根元の茎の部分に大きく種を蓄えた形状をしている。今流に言えばハイブリッドという感じである。熟してくると、花の部分が少しずつ開き、種の部分が僅かに露出してくる。そうなると甘味も増して食べごろであるが、今となっては、甘味がさほどはっきりしない為に、ちょっとがっかりするかもしれない。ただ、ねっとり感とつぶつぶ感は、甘さを控えた生菓子の食感に近い。

 洋梨は、ひょうたんの品種改良の様な形状で、何となく異国情緒を感じさせ魅力的である。しかも、独特の薫りと甘味を持ち、お好きな方も多いらしいが、20世紀や幸水等に代表されるような、梨特有のみずみずしさとざっくり感はない。私流に言えば、どこか「中東のお金持ちのおっさんの味がする(=いい香り)」感じで、洋菓子やケーキに使われると、濃縮されてその薫りと甘味が増し、すっかり洋風な感じに変貌する。そのまま皮を剥きながら戴くには、その独特の芳しい薫りにのまれそうになるかもしれないが、やや果肉の密度感が高いため、粘着性もあり歯切れは今ひとつといったところ。少量戴くには十分美味しい。

 と、今日は、かなり短くまとまった。ではこちら
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2009/09/15

特選醤油

 今年は、秋刀魚の脂の乗りもよく、大漁が予想されている。今からそわそわ楽しみである。秋は、新鮮な野菜や魚貝類を七輪で焼き、少量の醤油で戴くのが良い。旬の食材をそのまま七輪に乗せ、網にきちんとレイアウトして待つ。ちょっと冷たい風に秋を感じ、時折、パチパチと音を聴きながら焼け具合をみる。そこに日常とは違う光景が広がっているのに気づく。そろそろ、ひっくり返して、醤油を注そう。こぼれた醤油は香ばしく薫り、食欲をそそる。焼き上がったら、すぐに口に運ぶという贅沢さは、お酒を戴く人たちにとっても、心の豊かさを象徴する一時といえよう。やはり、この主役は醤油ということになるのだろうか。どのようなお宅にも、2~3種の醤油が存在する。さらに、その醤油を原材料とした希釈用つゆ類が数種あり、醤油関連商品は最低5~6種類は用意されている。刺身には溜まり醤油、煮物には濃い口醤油、うどんや蕎麦には麺つゆと、用途に応じて使いこなすのも楽しみであり、和の食事を根底から支えてきた。

 かつて幼い頃を思い出すに、醤油は乾物屋で売られていた。既に瓶詰めも並んでいたが、樽から醤油を一升瓶に分けて販売される光景を思い出す。そのくらい、たくさん量が消費されていたのである。持ち帰った醤油を醤油注しに移し変えると、新しい醤油の薫りが部屋いっぱいに広がる。そう言われてみると、この自然に湧き上がってくる薫りは、やや冷たさを感じるアルコールを含んだ薫りであった。そして、夕刻になると煮物や煮魚にも醤油が大量に使われる。それら様々に醤油を使った料理から湧き上がる薫りが渾然一体となって、台所から広がってくる。今日の煮魚は何かなと想像しながら、胃袋は条件反射で勝手に動き回ったものである。 しかし、ここ数十年、徐々に醤油の国内消費量は減ってきている。食事の欧米化が進む中、高齢化社会に伴い、塩分量を控えるなどが習慣化し、中高年からは、あたかも高血圧の引き金のように敵視されてきたのも事実である。それによって、醤油に含まれる塩分量も下がってきた。一方、欧米では、低カロリーな日本食のブームに伴い、醤油の薫りと旨味が評価され調味料としてのニーズも高まっているそうだ。

 そんな折に、この「特殊容器入り醤油」が発売されたのである。どのような理屈でこのような形になったか分らないが、これがあの日本の伝統的な調味料の代表である醤油の新しい形なのかと、しみじみと眺めてしまった。ここまで既成概念を覆す、凄まじい変貌を遂げたと思うのは、私だけではないだろう。まるで、洗濯洗剤の詰め替えパックのような姿である。しかも、これは醤油注しへ詰め替えるためのパックではない。食卓テーブルにそのまま堂々と鎮座する紛れも無く「醤油の入ったスケルトンの醤油注し」なのである。なるほど、技術革新とは突然襲ってくるものらしい。この極めて理論的で、斬新な構造は、食卓のスペースを大きく占めるにしても、これには薫りを逃さない為の構造設計がなされているという。薫りが逃げないということは、台所からあの澱むような懐かしい醤油の匂いがなくなるという事でもある。

 通常の醤油注しは、内蔵されている液体を外部に出すとき、内部にはその減った分だけ代わりに空気が入る。それによって内部の醤油が揺れ動き、外気とつながり、徐々に薫りが抜けてゆく、それで揮発も進み濃さも増す。この新しい容器は、二重構造で、内部は極めて薄くて柔らかく戻る力の無い、練り歯磨きチューブのような物をイメージしてもらえばよい。そして、醤油が排出されるときは、醤油自身の重みで出るという感じなのである。しかし、醤油がごろんと横たわっていると、ちょっとした力が醤油を放出させる力になってしまうことも懸念される。そこで、残量に係わらず絶対に正立させることが前提である。そのために外側に強靭なボディーが必要になっている。そしてもっとも重要なのが、注ぎ口の形状である。ちょっとした内部の減圧で空気が入ってくるからだ。完成された容器を触りながら、様々な工夫の跡が見られ、なるほどなと思うのである。それにしても、理屈を実用化するために、形状や材料の試験を繰り返してきた心意気には全く頭が下がる想いである。

 我が家では、醤油の中に昆布を裁断したものを入れるため、上から蓋で密閉できる容器で保管してきた。全くといってよいほど、醤油の薫りを楽しむという概念は無かった。むしろ、旨味に力を注ぎ工夫してきた。それが、自家製の昆布醤油という形で実用化しているのである。醤油のお味は、様々で、地域による違いや個人的な好き嫌いもあると思う。伝統的な味を重んじる商品は、何かを変化させるとお客が離れるかもしれないリスクはある。薫りが長持ちするのは、既存の顧客に対するサービス向上という意味合いが強く、それによるシェアの拡大は難しいかもしれない。今、この新たな醤油を眺めながら、薫りを楽しむという発想を再認識したことになる。

 使ってみると、確かに薫りは高い感じがする。 塩分というか、しょっぱさは常用醤油に比べてかなり強いようである。興味があれば1度お試し戴くのも良いが、味よりも構造の方が面白い。 それにしても500ml容器とは、少し大きすぎるかもしれない。ではこちら
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2009/09/11

ローテンブルグ


 体の細胞は年齢と共に古くなり、筋肉や皮下脂肪は永久に重力によって大地に引っ張られている。それによって、我々の外的風貌は年輪を増していく。一方、心の中は、いくら社会の荒波に揉まれ、会社で叩かれ、サンドバックのようにボロボロになっていても、健全性は保たれ、幼い時に培われた正義感や、大切な家族を守らなければならないという気持ちは、少しも変わらない。それどころか歳を重ねると、一層倫理観も増し、周囲への感謝の気持ちにも深みが現れる。そして、それが何気ない行動にも表面化し、日常のTVドラマでさえも感銘を受けやすくなったり、ちょっとした気配りにも、ありがたいなと思ったり、時折、古い友人や家族の喜ぶ顔を見たい、とも思うようになるらしい。

 今日もウォーキングの後、高島屋デパートの虎屋のまえに座り込み、今買ったばかりの「弥栄という小倉最中(210円)」をほおばっていた。それにしても濃いお茶が欲しいな、スポーツドリンクでは最中とは合わないし食べた気にならなや、と思っていると、目の前を肩を上下させず、すーっと横切る初老の紳士を見かけた。かつての上司を思わせる身のこなしに、つい目線で追尾してしまったのである。その紳士は、ケーキ屋の前で立ち止まり、少し考えながらケーキを指差して迷っている様子だった。私とは違い、決して甘い物に慣れている体型ではない。やや筋張った厳格な感じの人のようにお見受けした。その指先の動きと、時たま腕を組む姿は、あたかも会社で部下に指示を与えている様子を髣髴とさせ、かつての上司とそっくりである。 ちなみに、「部長何を買うんすか?」「うぅっ、観てりゃ分かるよ」といった感じである。

 店員さんは、接客のため、ショーケースの外に出てきた。紳士は、変わらぬ気取った様子で、「一日40個限定だって?、どうやって食べんのかな」と口を開いた。一方店員さんは、鋭い口調にやや困惑気味に、はい、側面にミシンの線が入っておりますので、下まで降ろしていただくと、回りの紙が外せます。あとは、お好みのサイズに切り分けてお召し上がりいただけます。と、実物を手に取り、持ち上げてナイフの角度に手を使って説明をしている。年の功はさすがに理解が早い、「あっそう、面白そうだね、年寄り二人だけど、戴いていこうかな」と顔を少し緩めた。ご自宅までどの位のお時間でございますか?「そうだね、1時間くらいかな」といいながら、こんなデパートでお菓子を買うなんて、ここ数年、自分には無かったことなんだ、でも、何とか今その大仕事を成し遂げた、といった安堵した様子で、ちょっと照れくさそうに財布から代金を取り出した。丁寧に包装されたそのケーキを、「ありがと」と、右手を一寸上げながら受け取り、大切そうに抱えて人ごみへすーと消えていった。

 きっと奥様は、エースコックのような体型の愛情溢れる優しい方に違いない。あの紳士は、ただただ、その喜ぶ顔を見たいだけなのである。

 いくつになっても、オヤジの家族を大切にする気持ちに変わりは無い。しかし、会社の一方的な理屈で縛られている身には、徐々にそれを上手く表現できなくなる。そして、会社の責任が重くなるにしたがって、それが顕著になってくる。これは、家族との隔たりを増すことになっても、近づけるようには作用しない。さらに、年々少しずつ周囲の仲間も減るので孤立感も増す。意固地にもなり、先行き家族や社会からも見放されるような錯覚を覚える。実は、錯覚ではない。これが、傍から観ると歳を重ねるたびに厳格というか頑固になった、あるいは我慢強くなったように見えるのだ。しかし、本人は、それなりに自己矛盾を抱えていることに気づいている。

 その重荷にも似た課題を解決するのに苦しむわけだが、まずは形から入るというか、行動から改善しようと思うのである。本質的には、「思考構造の抜本改革」を必要とされるが、今まで気がつかなかったことは、やはり見当がつかないのである。かといって、今更無理をして調子よくすると、何か悪い事でもしているのではないかと不審に思われるし、優しく気を使うようになると弱気に見えて、長くないのではないかと心配される。やはり、自然体に戻り、徐々に徐々に家族の事を考える時間を持ち、家族の話題を増やすしかない。そして、ある日、昔のように何か「手みあげ」を持って帰ることを思い出すのである。これが、子供達がいた昔の家族団らんの中で、みんなが一番喜んでくれ、自分の存在価値を唯一認識できる時間だったからである。その一寸誇らしく、愛情の押し売りにも似た優越感をもう一度実感してみたくなるのかもしれない。しかし、この程度の小銭で信頼関係を修復できるとも考えていない。

  そんな、変われない世代の人たちが、少しづつでも「何か変わろうと努力している姿」は人として格好よいと思う。そこで、その気持ちにあやかり、私も同じ物を買って帰った。シホンケーキの中はふわふわで軽く、手持ちのナイフでは、どうしても上手くカットモデルを作れなかった。そこで、その柔らかさを表現するために、写真にもふわふわ感を出すようにした。 それにしても、これを、ちょっと触るだけで、どのようなナイフが有効なのか分からないような無神経では駄目なのだ。
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2009/09/08

深大寺

 ここ数ヶ月左手のひじが痛んで仕方なかった。あまり使わない左手で重たい物を持ち続けた結果である。持って歩いているときは、さほどでもなかったが、翌々日ぐらいから、ねじった動きをすると、どうにも悲鳴を揚げたくなるぐらい激痛が走る。「あいでー」としゃがみこむような状態になってしまう。左腕のメカニックがいったいどうなっているのか良く分からないまま、右手で想定される患部を探しても見当がつかない。あまりいじっていると周囲の筋肉まで痛みが広がるようになった。意識しないでいられる平穏時もあるのだが、不意な動作での激痛は往生する。もう1ヶ月もすれば治るだろうと思いながら、何ヶ月もかかってしまっているのにも閉口している。三脚を長く持った後は、ひじを取り外したいと思うぐらい痛むのである。

 悪化はしていないようだが、何ヶ月もこのような状態が続くと、不安になるものだ。外科に受診しても良いが、以前、もっと酷い腰痛で受診した時に、落胆してしまって、病院に期待は出来ない。あの時は、柔道部の顧問のような先生だったので、カイロプラクティックではないが、ゴリゴリ、ポコポキと一発あるのかなと期待はしたけれど、患部はおろか、顔さえ見ずに、コンベンショナルなX線画像を観るだけで、「大丈夫ですよ」と一言。サロンパスの大きなヤツを貰って帰ってきたという経験をしている。そうそう、あの腹膜炎で手術をした大学病院である。それでも、人の体はよく出来ていて、患部をカバーリングするように他の筋肉や細胞が強化され、補うようになり、腰は悪いままなのに患部を避けるように、筋肉が再構築して痛みは減るようになる。しかし、平素から鍛えていない左腕はそうはいかない。

 痛みを抱えていると、何かにつけて行動が消極的になる。いや、むしろ、言い訳を自分に言い聞かせ、「自信が無い」という答えを自然に導いてしまう。まるで、考え方まで壊滅的になる。そんな折、今度は左右の親指を分解中の液晶パネルの縁でつるっと切ってしまったのである。止めどもなく溢れるように出血し、みるみる液晶パネルが真っ赤になってしまった。止血はしたもののズキズキ痛むようになってしまった。これで使える指と、腕の動かせる範囲がかなり狭くなってしまった。まさに踏んだり蹴ったりである。こうなると、宗教家でもないのに、もう、「信心が足りないのではないか」と自分を責めるようになるものだ。

 そして、今日、悔しいやら、情けないやら、いらだつ気持ちを抑えながら再び深大寺に向かったのである。そして、あまりにも自分の不甲斐なさに涙を浮かべながら、しみじみと手を合わせ、お願いをしたのである。自分の事について神仏にお願いするのは、今まで不謹慎だと考えていた。なぜなら、自分自身で解決しなければならないことだからである。それは、「自分ではどうにも手立てが無い時にお願いするもの」だと強く教えられていたからでもある。それでも、もう、これはそれに「当てはまる」のではないかという気持ちになっていた。

 そしてついに、「おびんずる様」の手を摩りながらお願いをしたのである。おびんずる様は、「本気で頼んでる?」と言いたそうなご様子だったので、「信じてますので、お願いします。何でもしますから」と覆いすがるようにお願いをした。ちょうど空腹時の猫さんが飼い主にズリズリするような姿に見えたのかもしれない。傍から若い坊主が笑みを浮かべながら眺めていた。一寸恥ずかしかったが、しょうがない。これが注意散漫な俺の生き様だと開き直る。

 恐らく、その坊主にとってみれば、「そんな説明書きを本気にして、なわけないじゃん」って思っていたのかもしれない。しかし、その時は信じてお願いする他に選択肢はなかったのである。階段を下りて数歩進む間に、「背後」から、「今日は、開山堂へ行かないのか?寄って行け」といわれたような気がしたので、開山堂へもお願いに参上した。

 ではこちら、うーむ、やっぱり頼れる俺の最終兵器「びんずる尊者」である。
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2009/09/04

ラムレーズン・ヨーグルト

 最近の若い女性は、食品のエネルギー量やカロリー値をかなり気にしている。食品購入時には、必ず裏の表記を参照し、自分の体と相談して意思決定をする。それだけではない、レストランでもカロリー表示の無いお店は、敬遠されるようになってきた。その背景となる理由はともあれ、これは、人としても「極めて正しい姿勢」といえる。そして、いつも微妙な空腹感と戦っているのである。女性が強くなったと言われる本質的な根拠は、実はここにある。常に何かを我慢ながら生きていくことは、精神的に人を大きく成長させる。

 一般的に、美味しいと思う食品は概して高カロリーに出来ており、満足感も高い。この満足感が我々の活力を大きく衰退させ、「ハングリー精神」という言葉を死語にしたのである。人は、いつか腹いっぱい美味い物を食べたいと願いながら努力するものだ。戦後の日本を復活させた活力は、まさにその空腹感である。これは、決して「食べられない」という意味ではない。あくまでも、もっと美味しい物があるはずだという「渇望」なのである。そこに到達するために、がむしゃらに努力するわけで、そのハングリー精神で高度成長を成し得たともいえる。しかし、その「宴の後」に腹いっぱいになり、ちょっと横になったのはいいが、起きれなくなったのが今の日本である。いやいや、我々の先輩方は常に気合に満ちているから、節度というものがあったが、そのまま熟睡してしまったのは我々の世代である。と全く嘆かわしいが、我々の体は高カロリーを許容する。そして、カロリーは、カロリーを呼び寄せ、褐色脂肪細胞を刺激し高カロリー体質になってしまうのである。これからは、節度を持って食べることにしたい。

 今日紹介する食品は、最初 「えっ、これ、大塚食品?」と耳を疑い、聴き直してしまった程の衝撃を受けたものである。だいたい、この会社は、「どこまでも体に優しい商品を提供する会社」である。しかも、低カロリー志向であるがゆえに、最近まで、しみじみと「美味しいなぁー」と思う商品に出くわした事は無かった。体に良いことは分かるが、「続かないな」と感じることの方が多いのである。いや、「スゴイダイズ」の事を批判しているのではない。いまさら、この歳で豆男になる必要もなく、筋骨隆々で凄いと言われる必要もない。その自分の動機の希薄さと、習慣性のバランスを申し上げているのである。それにしても、マーケットに迎合せず、いまどき「独自性と信念に満ちた製品」を世に送り出すことに敬意を払っているし、勿論、それらの製品に信頼も寄せている。

 しかし、不覚にもこの会社に 「まじっ、本気で美味しいー」 といえる商品が「密かに存在」していたのである。今日紹介する「贅酪シリーズのプルーン・ヨーグルトとラムレーズン・ヨーグルト」がそれである。

 当初、プルーンが発売された時、その美味しさに驚いたわけだが、しばらく、店頭で見かけない時期があった。プルーンの安定供給や品質に問題があったのかと勝手な憶測で心配をしていたのだ。しかし、この度、ラムレーズンを加えて再び店頭に現れたのである。今、「アッ、ハッ、ハッ、ハッ」と、この2つの商品を紹介することに、何故か他を圧勝した時のような、誇り高き満足感を得ている。生乳を使ったピュアなヨーグルトに、アイスクリーム系のスイーツをイメージさせる取り合わせが絶妙で、芳醇な風味に仕上がっている。ヨーグルト自体の品質も、文句のつけようが無いくらい美味しい。食べ進むことによってドライフルーツの旨味が溶け出し、より芳醇さを増してゆく。食べ終わると、「やっぱもう1個食べよう」と思うのである。だから、ダイエット中の人でも、高価なダイエット食品より、こちらの方が優れていると思うに違いない。勿論、これなら続けられるはずである。

 あえて、1つ不満があるとすれば、これを大型スーパーの、たとえばイトーヨーカ堂などに並べられても困るのである。このあたりに、大塚チルド食品の販売戦略に「あせり」が見える。イトーヨーカ堂は、品質の高い物を積極的に販売するというより、安価な商品を大量に販売するお店である。この時期、それは大変有意義な販売戦略だが、この商品の取扱い店としては不適切としか言いようが無い。

 美味しい商品は、若者にとって自分達の住む社会の、明るい未来を予感させるものである。一方、口の肥えた中高年には、少なからず残された人生の楽しみになる筈だ。いずれも、高級アイスクリームのように身近で素早く手に入れたいに違いない。 都会へ出ればちょっと美味しいスイーツ物は沢山ある。しかし、今や、身近ですぐに手に入ることの方が断然価値は高いのである。若者は、コンビニを自分の冷蔵庫のように考えていて、いつもチェックを怠らない。常に新しい美味しい物を探しているのだ。中高年も少しずつそれを見習うようになってきた。だから、こういう本物の「美味しい商品」こそ、コンビニに置いてほしいのである。

 付け加えて、このヨーグルトは、砂糖、香料、安定剤を使用していない。生乳のみを生かしたヨーグルトに、プルーンやラムレーズンを入れただけのものだ。口に入れると上品で、うれしい気分で夢中になる。「お腹にも良い」ので、これなら入院中の患者さんや、寝たきりの御年配の方にもお勧めできる。これを口にして、少なからず元気を取り戻してもらいたいものだ。1個157円だから必ず2種類を食べさせてあげてほしい。
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2009/09/01

アントニオ・デリ2


 低GI食品修行中と、回りには吹聴しているものの、かつて養鶏場の鶏のように、与えられたものを何も考えず食べてきた身には、デパートの地下の食品売り場は、食材の宝庫である。たとえ今まで、厳選されたものを健康第一に提供されていたとしても、この広い売り場にある様々な食材の現実を知ってしまうと「死ぬまでに食べつくせるか」不安になることがある。そんな想像をするだけでも、活力が湧いてくる。人はとかく歳を重ねるだけで世の中の事が分かったような気になり、早々と「やっぱりこれがいい」と自分の中で好物なるものに執着したがるが、他の新しい物を試すことに興味を持つことは、適度に大脳に刺激を与え、案外良いことといえそうだ。

 先週、アントニオ・デリの話を書いたこともあり、再びそのお店の前に立つことになった。 ウインドウを眺めると、以前から並んでいた商品、いわゆる定番のパスタ群に加えて、随分新たな品物が並んでいる。売れ行きの良い物は前面に出し、売れない物は下げる。そして、常に新たな商品への挑戦を心がけ、たとえ評価は低くても次々と新たな物を提案し続けるのである。このような商品代謝は健全そのもので、優れた競争力を備えている証拠ではないだろうか。同業他社と量や価格を競っているわけではない。自己の提案力や独創性を競っているわけで、そこに新たな価値を見出そうとしているのだ。大いに我々も見習わなければならない。

 今日は、その中からスズキとアサリの地中海風(惣菜)を選んでみた。実は、これにはちと訳がある。少し余談になるが、大手メーカーの市販のパスタソースに、「白身魚を使って作る」というのがある。ソースとしての発想は大変奇抜でうれしいのだが、やはり、微妙に難しい商品企画だと首をかしげてしまったのである。ソース自体は美味いのかもしれないが、「別途、白身魚を購入し焼き上げて、このパスタソースとパスタを和えてください」というコンセプトは、魚とその旨味を引き出すソースというより、全てをパスタソースで上塗りするいう意味である。これは、ライスカレーに無意識にウスターソースをかけて食べるオヤジの乱暴さに近いような気がする。白身魚の種類は多く、微妙に旨味が異なる。また、時間経過と共に臭みの増し方も異なる。その種類やタイミングを考えて調理してこそ価値がある。つまり、単独のソースでは、その僅かな違いを引き出せないのではないだろうか。ここに、商品企画者の味覚不全症候群ともいえる、机上で考えた「社内事情」が垣間見えそうだ。本来なら、「無味無臭の白身魚を使って」と記述されなければならない。・・・・と、そんなつまらない事にこだわり、ずっとそれに引っかかっていたのである。

 でも、話は続きがあり、その根拠を求めてスーパーに並んだ魚の中から金目鯛を選び、たっぷりのエクストラバージンオイルで焼いてみることにした。随分高価な焼き方になるが、実験をしたかったのである。そして、それをそのままオイルごとタッパーウエアに移して冷蔵庫で保存してみる。これが、案外想像以上に日持ちもするし、臭みも無い。これがひょっとしたらあのパスタソースの価値を引き出す手法につながるかもしれないと思えてきたのである。

 そこで、アントニオデリの仕事をとくと拝見したかったのである。地中海風というのは、地中海の沿岸で採れる魚、オリーブやトマト等を使って、あるいは、その類似の食材を使って調理したという意味に取れるが、戴く方としては、単品の惣菜としての使い方、つまりビールのお供でも良いし、炭水化物を控えるよう指導された糖尿病予備軍の人たちの主食としても楽しめる。さらに、パスタを自分の好みの硬さで茹でておいて、それに上から乗せて絡めて食べることも出来るわけだ。これで、ちょっとしたプロのお味が楽しめるのである。確かに、スズキの旨味がオリーブオイルに溶け込み、それ自体がパスタソースになっているといえる。それに食べ応えのあるサイズというか、旨味を堪能できる大きさなのだろう。他の材料はたいしたことは無いが、ポイントを抑えたシンプルな調理である。スーパーで手に入る材料はあいにく少ないが、オリーブオイルと塩、更にオリーブの実自体を追加し、ちょっとしたスパイスで美味しくいただけるということも分かった。

 今日はフィットチーネを使ってパスタとして仕上げてみた。ちょっと見た目は良くないかもしれないが、さすがに地中海風になっている。私も同じ様な物をバターと日本酒と醤油を使って作るけど、何故か故郷の味ともいえる瀬戸内海風になってしまう。こちらは、舶来な感じでほんと美味い。 で、「どうよ」って聞かれると、あの「白身魚を使って作るパスタソース」は、私にはやっぱり必要ない。
ではこちら
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2009/08/28

低GI食品3

 今年は早々と友人達にお中元と称してSOYJOYを贈った。先手を取れば、贈答品の品種選定の迷いが減る。みんな恐らく糖尿病予備軍の資格保持者に違いないし、女性はダイエット食品として、子供達にはお菓子の扱いでいける。饅頭、水羊羹、ジュース、食料品など、昔の様に色々考える余地は無かった。お前のせいで健康診断で引っかかったよとか、嫌味の1つも言われたくないからである。だいたい、我々の世代は、何かにつけて責任を他に押し付けるのが得意だ。先輩方のように潔い良い男は減っている。これもまた難しい世代だと自分を省みながらの行動であった。

 そんなこともすっかり忘れていたある日、荷物が届いた。そうそう、以前に「ディスカバリー」で紹介した「おやつはカールのおじさんに似た髭のオヤジ」である。なんだろなーと思いながら開けてみると、ナッツの缶の詰め合わせが入っていた。「ふーん。こういう物もあるんだ」、と思いながら、右手で携帯に手を伸ばし、たまには電話をしてみるか、私がビールなんか飲まないのを知っているはずなのに、彼のことだからきっと何か意図があるのかもしれない。「俺だよ、荷物受け取った、ありがとう」。「おお、着いたか」と元気そうな声が飛び込んできた。すこぶる調子が良さそうだ。背後でブラームスが鳴っている。相変わらずだ。電話で分かるはずも無いが「いい音出してるじゃないか、前より良くなってるよ」。「そうだろう、箱を変えたんだ、低音が出るようになってね、レコードを片っ端から聴きなおしてるんだ。で、アンプの方にも手を加えたりして、一寸忙しくて、遅くなって申し訳ない」。「ナッツって、なんか訳あんのか?」「おお、お前のブログ観ながら考えたんだ、すぐに分かっただろ」「ええっ?」、これがさっぱり見当がつかなかったのである。

 彼が言うには、SOYJOYで健康を気遣ってくれた事は、すぐに分かったと言うのである。しかし、それは、送り主である私がそれを強く意識していることに他ならないということもわかったらしい。だから、好物の甘味も止めて、SOYJOYよりも、もっとGI値の低い物を返してやろうと思ったのだそうだ。SOYJOYはGI=55なのだが、ナッツのGI値は15-30だと言うのである。彼は昔からオーディオでもコンピュータでもスペックを重視する男だった。さすがに、これはSOYJOYの「約半分の値」である。昔から健康の事なんか口にした事の無い男だった。だから、真空管アンプだけではなく、自分の体にも気をつけるようにと、余計なお世話だとは思いながら、意を決して贈ったつもりだったが、完全にコースを読まれて打ち返された感じである。 

 彼が言うには、米国には昔からこの類のものは、いくつかあったと言う。SOYJOYのような形のものも見た事があるそうだ。20年以上も前から太った男は駄目だと言われ、自分も水泳をしたり、夜の食事制限をしていたというのである。逆に自己健康管理の手法をいくつか伝授されてしまった。スペックで負けた以上素直に聞くしかなかったのである。

 今、そのナッツをボリボリ食べながら原稿を書いている。ナッツは、栄養価も高いが油分もあり、ちょっと食べるだけで空腹感はすぐに無くなる。確かに腹持ちも良い。ただ、歯ごたえが心地よいので、次から次へと後を引く、案配を考えながら戴くことにしたい。
ではこちら、当時の彼の実践ダイエットの話を簡単にまとめた。
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2009/08/25

深大寺蕎麦3


 深大寺へ参拝される方は、年配の方々も多いが、意外に若い女性も多い。元三大師堂の中に上がり、願い事をされている。若いうちは、悩みや心が傷つくことも多いのだろう。わかるなー、というか、でも、それが無くなったら、人は「おしまい」である。おしまいになれば、お願いなんぞしなくても、「天からお声がかかる」手筈になっている。人は、生きている限り立ちはだかる様々な課題を克服し、前進する使命がある。毎日、悩みながら苦労をしてこそ有意義な人生であり、終了してから振り返る価値があるというものだ。そんな人生の修行に苦しむときこそ、深大寺を訪れるのが良い。

 ・・・・・我々は、いくつかの課題が重なった場合に、経験不足から時として予想もしない過ちを犯すこともある。あるいは、人を傷つけてしまうこともあるだろう。その大きさに係わらず、そんな時は深大寺に参拝して懺悔するとよい。その証として自分の魂をソケットから取り出して寺の水で隅々までよく洗い、清め、透明感を取り戻して再びセットする必要がある。時には、元三大師堂に上がり、バージョンアップされたファームウエアを受け取り、それをロードしてみるのも良い。機能が拡張されているはずである。信心深い人や宗教家だけが、そのような行為をするわけではない。自分の道を模索するときは誰でもそれが必要になる時がある。それを特別視する必要は無い。

 また、自分一人で苦しみを抱えていても仕方ない、時には、住職の「いい話を聞いて」大らかで心地よい気分になり、ストレスを解消すべきである。何かつまらないことにこだわっていたな、もっと大きく捕らえればよかったな、なんてことにも気がつくはずだ。自分の人生を楽にできるのは、自分でしかない。また、改心しようとするとき、周囲はとかく邪魔をしようとしたり、引き戻そうと覆いすがるが、そんな理屈を一から十まで聞いてはならない。

 信心は、組織や集合に参加することではない。自力で自分を信じることであり、「自分から信じてもらえる自分を創る」ことである。また、そのために日々努力することでもある。人からどのように思われても、いつも自分の志向する「あるべき姿をイメージ」しながら、自分を磨かなければならない。

 そして、もっとも重要なことは、人生の第四コーナーを回り、坂に差し掛かったことを実感するようになったら、この深大寺の静寂の中で自分が本当に「やるべき事、好きなこと、あるいは信じる事をやってきたか」振り返ってみることだ。もし、僅かでもやり残しがあるなら再びアフターバーナーに点火しエンジン全開で、もう一度、それをやり遂げるよう努力すべきである。深大寺はその精神を歓迎して見守ってくれるはずだ。

  ・・・・・ そんな、自分に不釣合いで偉そうな事を深大寺の蕎麦屋で考える事がある。そうやって、何年も深大寺に足しげく通い、知らず知らずのうちに歳を重ねた先輩方も多いと思う。蕎麦屋では、そんな古い知り合いに遭遇して懐かしむこともあるようだ。そんな時にこそ、この寺を囲む蕎麦屋の持つ役割は大きい。若いときには、そんなことはつゆとも知らず、ただ空腹を満たすために蕎麦を食らっていたわけで、なぜ、どの店も腰のある蕎麦を出してくれないんだろう、これじゃ手打ちじゃないよ、蕎麦つゆはもっと辛くてもいいのに、と思うことも多かった。しかし、通い続けながら周囲のお客を眺めることで、やっと、ここの蕎麦と蕎麦つゆの持つ背景が分かりかけてきたような気がする。この場所のマーケティングは、ここに座ることで初めて見えてくるのだ。

 ということで、随分遠回りの話になってしまったが、やはり今日も蕎麦の話になる。いわずと知れた「スーパーにある深大寺蕎麦を自宅で楽しむ」の第3弾である。最近、深大寺で見かけなくなった「にしん蕎麦」を京都風に再現してみた。使われている写真は、いつものように我アーカイブスの膨大なスナップの中から選び出したもので、あくまでイメージ写真である。コダクローム64でフイルム調の懐かしさも満喫してもらいたい。ここで言うフイルム調とは、「子ずれ狼」風という意味である。ここまで深大寺の写真が集まると、写真集でも出したい気分になってくる。ちなみにタイトルは「深大寺蕎麦修行列伝」 といったところかな。
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2009/08/21

自作料理16

 以前、アントニオデリというお店の「4種のチーズ・ソースのリガトーニ」を紹介した事がある。チーズソースが「たまらなく美味しい」という記述も残している。今日は、それを思い出し、よく整理して自己流を取り入れ、朝食に応用してみる事にする。朝は、これから体が活動状態になるので、こういう時間帯にこそ高カロリー食品を用意して休日を自由奔放に過ごしたい。ウォーキングにも出なきゃいけないので瞬発力が出て、途中でお腹が空き過ぎて気力がなくならないよう、休日の朝は、腹をほぼ満タン仕様にする。

 4種のチーズ・ソースのリガトーニを食べる前は、ペンネなんて何が美味しいんだろうと思ってきた。そもそも、何でこのような形状のものが存在するのか疑問にさえ思っていたのである。しかし、最近これが大変便利な事が分かってきた。そんなの当たり前だよと言われるのかもしれないが、1.小分けにしやすい。2.箸でも食べられる。3.鍋に収まりが良い、等よく考えられていることにやや感銘を受けている。次は食感なのだが、いつも、少々「硬いなっ」て思っていたのである。いわゆるスパゲティーやフィットチーネは、少々歯ごたえがあったほうが美味しく感じるのに、ペンネの硬いのは何故か受け入れ難たかったからだ。それがあのアントニオデリのリガトーニを食べて、「そうだよ、これくらい柔らかく弾力があるほうが美味しい」と思ったのである。それから俄然ペンネが好きになった。残された課題は、茹でるときの塩分をどうするかである。いくらウォーキング中に汗をかくといっても、食事の塩分濃度は低い方が良い。もし、不足しているようであれば、あとでいくらでも補給する手段はあるからだ。

 これらの事を配慮しながら、自分なりに手順を考えて作業に入るが、まず、湯を沸かすことから始める。そして、いつものようにベビーリーフをお皿に敷く。これは、サラダを別に用意しなくても済むし、ソースを出来るだけ無駄にしない、後でお皿が洗い易いなどのメリットがあるからで、自分で皿やフライパン、鍋などを洗うようになってから自然にそうなった。これも、偉そうに申し上げると地球環境に優しいって感じなのだが、実は自分が後々楽なのである。また、ベビーリーフ自体も少々苦味があってなかなか後口も良い。ペンネは、20cm程度の鍋で作業が出来るので、比較的少量の天然水で茹でられる。天然塩は使わない。通常の茹で時間は9分と指定されているが、何回かの実験の結果30%増の12分ぐらいが最適と判断した。これは好みなので時間自体に特別意図は無いが、多少長めの方が良い結果が得られやすいと思う。

 その他に準備する食材は、チーズは2種、ハインツのホワイトソース1袋、パセリ、ミニトマト等である。チーズは、溶けやすいモッツァレラと、最後に粉末で追加するブラックペッパー入りゴルゴンゾーラを使用した。ホワイトソースは少量作るのが面倒なので、あのハインツ製を使用する。小分けにした4袋が箱に入っている商品で、案外便利に使いこなせる。このホワイトソースもハインツ流の味付けである事をご承知おき戴きたい。自作では得られない「くどさ」というか「味の強調感」があり、単独で使用するのは少々抵抗がある。そこで、モッツァレラ・チーズと混ぜ合わせると、強調感は薄れて丁度よい感じになる。ブラックペッパー入りゴルゴンゾーラは、ここでは半分溶かし込んでしまったが、実際は、削りだす程度の使用で済ませるのが良い。出来上がりは、写真を見ていただくとして、ポイントは、塩分量を可能な限り抑えることと、ペンネの茹で時間は少々長めにすることで、これさえ抑えておけば、消化も早く、食後の激しい運動時にも苦しむことはない。
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2009/08/18

JAZZ喫茶 咲蘭房


 我々の世代は、諸先輩方の言われるとおり仕事をこなしてきた。仕事だけではない、生きる理屈や人生観まで教わったような気がする。諸先輩方とは、現在60~65歳ぐらいの人達を指すわけだが、若い人たちから眺めると、50代後半も60代前半も大した違いはないように見えるかもしれないが、実は、何かにつけてポリシーある・なしで、まるでスイッチON/OFFぐらい「人生の取り組み方に違い」が存在したのである。かつて、会社のそんな先輩から、少々小難しい理屈を聞き、軍隊のように「難しいことは分かりませんが、要は、その通りやればいいんですね」と、やや投げやりに実行しても、豊富な経験に基づき理屈もしっかりしているから、成功もできるわけである。おまけに、「よくやった」と誉められる。こんな「楽ちんで嬉しいこと」はない。その繰り返しで仕事をこなしてきたような気がする。いずれ先輩は多くを語らず、仕事だけを渡すようになる。当然、教わったいくつかのパターンでやれば、必ず上手く行ったものだ。そして、それが自分の実力だと錯覚をしてきたのである。

 そういう先輩の年代60~65歳は「扱いにくい世代」でもある。俺の考えていることなんぞ、みんなお見通しで、行き詰ると次から次へと先回りして新たな手口を用意しているのである。結局到達点は、先輩の手の内にあるわけだ。今でも、この手の先輩の訓示は、無抵抗主義になり「素直に受け入れる事」が早道である。抵抗すればするほど遠回りをすることになるからだ。この世代の人たちは私と何が違うのであろうか、歳を一寸だけ多く重ねた違いだけではない、何か理由があるはずだ。今日は、改めて身近にいる「先輩の年代の人たち」からその「こだわり」を少し覗いてみる。今、この年代の人は、世の中にあふれて、いたるところに存在している。しかし、出来るオヤジはやはり少ない。

 好むと好まざるとにかかわらず、そんな人に出くわすと、なぜか低姿勢になることがある。人は「侍のように、その場の間合いを読む力」をDNAとして受け継いでいる。立ち会った瞬間「お主できるな」と思わせる瞬間のことである。あるいは、ちょっとした挙動で「こいつ駄目だな、チェッ」とピンとくる瞬間である。まあ、後者は安心できるが、前者はいくら「物腰が柔らかく」ても適度に緊張を伴うわけである。むしろ、その物腰が柔らかい分只者ではないことが多い。しかし、そんな人に親しく話しかけてもらうと、たいへん「嬉しい」のも事実だが、余計緊張する事もある。

 ここ「咲欄房」のマスターもそんな尖ったオヤジの一人だ。しかし、そんな尖る前の写真を見せてもらいながら、その全体像に迫ってみたい。上の写真の「可愛いい、ぼくちゃん達」をみて欲しい。自分達のバンドで演奏中のスナップである。校舎と校舎の間で演奏する彼らは、きっと飯よりも演奏が好きだったに違いない。左端がマスターの若き日の姿であるが、この「ぼくちゃん」が、その後、捨て身で上京し、トロンボーン1本で快進撃を続けてきた。いえ、今もバリバリの現役で二足の草鞋を履く男なのである。今日の紹介は、JAZZ喫茶の「咲欄房」なのだが、そのマスターの人なりや経歴を知ることは、このお店を把握するのに近道でもある。
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2009/08/14

三輪素麺

 いまどき、儀礼的に頂戴しても、食べるのに苦心する物がある。確かに日本の伝統的な食べ物には、低カロリーなものが多いわけで、低GI修行中の身には好都合なのだが、こと「そうめん」だけは、扱いにくいと思われる。幼い頃は父、母、祖母と一緒に食べた記憶があるが、すでに自分の気持ちの中では、昭和の遠い思い出になってしまっていた。しかし、そんなものを頂戴したらどうすればよいのであろうか。珍しく考え込んでしまったのである。包装も手の込んだもので、恭しく戴くことを示唆するように、薫りの良い木枠に入っている。古式豊かな食べ方でないと、どうにも許されそうに無い感じもあり、このあたりが、いかにも日本式というのであろうか、外堀を埋められたようで、形から入るというか、まるっきり逃げ道の無い方向感をかもし出してくる。

 とりあえず、木枠を外し中身を開いてみると、予想もしなかった紙切れが入っていた。料理法が載っているのである。そうか、誰でも同じ様に困ると思っているに違いない。製造者でさえも、この熟練された技術を活かす方法を模索しているようだ。そこを鑑みて、用意されているのであろう。このあたりにも、日本人の優柔不断というか妥協的な性質が覗いている。これで、食べ方まで決められていたとしたら、それはもう、お届け物として次は無い商品となってしまうからだ。

 開いてみると、あまり綺麗ではない調理写真と材料の記述があり、趣向別に構成されている。和風では「すき焼きそうめん」、「にゅうめん」、「冷やしそうめん」このような食べ方が、標準なのであろうか。洋風では「きのこ炒めそうめん」、「なすのトマトソース和え」、これらはパスタに近い感じだ。中華風もある「カニあんかけそうめん」、「白菜の中華風サラダ」これなら御飯の方がいいのではないか。駄目押しに、エスニック風というものまであり、「タイ風焼きめん」、「バンバンジー風そうめん」、ここまでくると、もう調理写真を見ただけでお腹いっぱいになってしまう。

 それにしても、素麺が届いたのも何かの「縁」である。送り主はきっと喜んでもらえると思っている筈だ。その意をくんで一生懸命調理して食べようと思う。そして、堪能した証として、多少なりとも美味しそうに見える写真を残しておきたい。木箱の中には、「三輪の神杉」という素麺12束(1束50g)、「杉の雫」というつゆ(2倍希釈)が同梱されていた。とりあえず、1束を普通の冷やしそうめんにしてみるが、つゆの力でやっと食べたという感じである。次の1束は、暖かい「にゅうめん」にしてみた。どちらかといえば、こちらの方が自分には適している気がするので、独自の麺つゆを作って食べることにする。

 つゆは、同梱されているものを希釈して使用しても良いが、やはり、ここは1つこだわりを活かしたい。鰹節の削り節と、椎茸をアルカリイオン水を使ってだし汁を作り、帆立だしの素、日本酒、本醸造の醤油、を加えて煮沸させる。アルコールが飛んだところで火を止め、椀に移しておく。次に素麺を茹でる。素麺は、お湯の中で自ら動き回るので調節は火力だけである。1分で取り出し、冷たい流水で洗う。水をよく切ってから椀に移す。上に乗せる物としては、玉子焼、きぬさやえんどう(あらかじめだし汁で煮ておく)、かまぼこ、椎茸の甘辛く煮たもの、彩の為に寿司ネタ用の海老など、好きなものを用意したいが、ちゃんとした下味をつけておく必要があり、それぞれ別々に味付けしておくなんて「そうめん」は結局和のぜいたく品である。 まあ、美味しく戴くには手間と時間は仕方ない。上に乗せる物は、できるだけ種類を多くして飽きが来ない方が良い。

 出来上がった調理例を写真に撮ってみた。椀の中の僅かな範囲をシャープに出して、他をぼかしてみた。鰹節の削り節から出た旨味がたっぷりの上品な麺つゆは、素麺を1ランク高級品にしていると思う。どうかな、美味そうに見えるかな? おっと、甘辛く煮た椎茸を入れるのを忘れてしまった。
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2009/08/11

夏カレー

 八百屋の前を通りかかるとラジオから、「麦わら帽子は、もうきえ~た。たんぼの蛙は、もうきえ~た」と、聞こえてきた。そんなメロディーに哀愁を感じ、ふと西瓜の前で立ち止まり、湧き上がるように「待つことの楽しみ」への想いが溢れてきた。「夏休み」という言葉は、いつ聞いても興奮する。そ、そうだ、もうそんな時期なんだ。まじかに迫るお盆の帰省は、義務感から、いつしか楽しみに変わっていく。その枯れた同郷の歌声に、つい自分も口ずさみながら田舎へ想いを馳せる。徐々に気分が和らぎ、どうゆう訳か周囲にも優しくなれてしまう。これが、この歌と共に生きてきた人達に共通する、素直な反応なのではないだろうか。田舎では、時間の流れがどこか違う。蝉時雨中で絵日記を手伝い、西瓜を一緒に食べ、夕方水まきをし、花火を見守る。もちろん、みんなで墓参りもする。ただ、残念なことに、その楽しい「夏休み」は長くは続かなかった。今や、姪っ子たちも成長し、もう、帰ってくる「東京の激辛カレーおじちゃん」を待つことも無いだろう。

 3個入りネットに包まれた玉葱を見ながら、ふとそう思ったのである。みんな一緒にカレーを作るのが夏休みのイベントだった。汗だくになりながら、辛いの、甘いの、肉なし、にんじんなし、じゃがいももっとなど、それぞれの好みを主張して少しづつ違うカレーを用意する。みんなで手分けして野菜を切るが、時には、互いに口喧嘩をしながらも、怒ったり、泣いたりしながら、なかなかはかどらない。そういう時間を一緒に過ごすことで周囲への思いやりも芽生え、やがて成長していくのである。

 今、目の前の立派な「むっちゃんのパプリカ」「つがる・百笑苦楽分25人の会、自然環境農法EST・1905」と袋に書いてあるパプリカにじっと見入っている。なかなか由緒正しい育ちのようだ。そこでは、「そうねー、青森から来たんねー、そりゃ遠い処から大変じゃったね」とふるさとの母の気持ちにも似た語りかけになっていた。ならば、これを使って夏向きの「辛らーいカレー」でも作ろうかと、自分の胃袋に尋ねてみる。眠っていた胃袋はすぐに目を覚まし、期待を高めている。やや上ずった声で、「おばちゃん、ゴーヤもいいのある、茄子も、」・・・と声をかける。八百屋を出ると、さっきまでいい天気だったのに、どんどん空は暗くなってきた。ゴロゴロと遠くで雷も鳴っている。やばい、来るぞと、いそいそと家路を急ぐ。それにしても、今日は、いい物が手に入った。夏カレーは、どう作っても失敗はしないが、素材は良い物を選びたい。こういう品物が入ると、自分なりに、より完璧な仕事に挑みたい気持ちが湧いてくる。そうそう、予定外の割り込みになるが、これもついでに写真を撮ってブログに載せてみよう。みんな元気を出してくれるかもしれない。そう考えているうちに、ポツポツと雨が額に当たり始め、家に着いたら、あっという間に豪雨になっていた。

 夏場の調理のポイントは、調理中は熱が出るので、煮込む材料の玉葱のみじん切りや南京は3分程度電子レンジで、前加工しておくと後が早い。そして、煮ている物は1度ぐらぐらときたら、無神経に火を小さくするだけではなく、火を止めて余熱を利用する。炒め物も、先にフライパンの火を止め、余熱を使って最後まで上手に具材に熱を通す。そうやって、汗をかきながらも熱量の伝達バランスを考えるのも、一種のストレス解消になる筈だ。

 できたぞーって、お皿に、自分の好きなものを好きなだけ乗せてみた。あたかもバイキングのようなカレーになってしまったが、お味は飛び切り想像通りである。みんなー、ガッツリ食べて元気を出そうぜ。
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2009/08/07

銀座梅林

  先生、「カツ丼」が食べたいんですけど、「そ、それは、無理、ですよ」と、口元に笑みを浮かべながら、先生は言葉を並べ、聞き流すように無心にカルテを書いていた。私も、ちょっと無理だろうなと思ってはいたものの、「小さなカツ1枚ぐらいならいいですよ、その体で食べられるなら」とか、「手術が終わって20日も経てば、大丈夫ですよ」とか、何か「先生の愛を感じる患者への慰め」を期待していたのである。1週間ぐらい、お腹が痛くて食事が出来なくなると、食欲と大脳の幻覚のような駆け引きが露骨に見えてくる。大脳は今まで食べた物の中から、僅かでも美味しかったと記憶に蓄積されたものを、次から次へと呼び出して、すっかり忘れていたことも、鮮明に再現する。きっと、何かを食べさせて食欲をなだめようとしているのである。

 この時は、腹膜炎で緊急手術患者として紹介され、大学病院の外来を訪れたときの話で、無性に「ヒレカツ丼」しかも、「神田の松栄亭(神田シリーズ未公開)」のが食べたかったのである。このまさに「筋金入りの食意地」といってよいほど、生きるか死ぬかの時に、もし、食べれば、すぐに吐き出してしまう状況だったにせよ、目先の食欲だけは、旺盛に活動していたのである。ただ、腹部の方は病名どおり内部が化膿して全体がひどく腫れ上がっていた。

 しかし、あんなに食べたいと思っていた松栄亭のヒレカツ丼も、手術が終わると、すっかり思い出すことも無く記憶から消滅していた。そして、今この銀座梅林のカツ丼の具を食べながら、ふと、7年も昔の手術前の状況を思い出したと言うわけである。我々は、時々食べたい物を標的のようにロックオンしてしまう事がある。前の日から明日のお昼はビーフカツを食べたいと考えていたとする。それは、時間と共に体の隅々までも、そのイメージしたビーフカツを受け入れようとして、あたかも潜水艦の艦長の指令のように、次から次へと「明日のお昼はビーフカツ」という指令が体内を駆け巡るのである。そして、いかなる誘惑的攻撃を受けようとも、「明日のお昼はビーフカツ」は死守されるのである。ところが、待ちに待って出かけてみたら、そのお店がお休みだった。その時の落胆度は極限に達し、それ以外の何を食べようとしても、それ以上に大きなイベントなり、インパクトが無い限りロックオンを解除できないのである。

 最近は、そんな、ちょっとだけお安くて美味しいお店が、あの価格で提供できなくなったのか、客足そのものが向かなくなったのであろうか、わざわざ電車で来たのに、シャッターが下りているケースが増えた。そこで、そんなこだわりのある食材は、冷凍でも何でも計画的に準備しておくと良い。そうすれば、いえ、そう単純ではないが、いつでも冷凍庫から出して食べればよいという精神的なゆとりが、むやみにロックオン・ボタンを操作してしまうことも無いのである。今日は、梅林のカツ丼の具を準備してみた。これも小ぶりで一寸戴くには便利で、お味は「ちと甘い」かもしれないが、添える物に工夫をすることで、なかなか美味しくいただける。

 これで目先の欲求は解消できるとは思うが、たっぷりと味わいたければお店へ出かけるなり、自作するなりして欲しい。
ではこちら
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2009/08/04

私の青汁

 タイトルに「私の青汁」とあるのは、あくまで今日紹介する「商品の名称」で、私が好きだという意味ではない。たまに胃腸の調子が悪い時に仕方なく飲むくらいである。青汁は、健康志向の人が野菜不足を解消するために飲む、一種の精神安定剤ではないかと傍目に思っていた。それにしても、ここまで飲み辛い物を「もう一杯」と喜んで飲む神経が分からない。現在の健康状態は、今までの偏った食事や運動不足が影響していると考えがちである。さらに、加齢に伴い「風邪をひきやすくなった」とか、「膝を痛めた」とか、実感を伴うために、不安もよぎる。しかし、いずれも本質を外しても安易に解決出来ればと思い、健康食品を試してみたい気持ちになるのである。

 しかし、いつもこれらを目の前にして、やや情けなく感じることがある。それは、どこか自分の中に健康に対するそこはかとない願望が呼び起こされ、この世の中に大した貢献もなく、存在価値の無い自分が、「無意味に長生きしたい」、しかも今まで、自由奔放に細胞分裂させてきた反省もなしに、何の努力もせず、ただお金で健康を買えると思ってしまう「いやらしい衝動」にかられ、おまけに「みんな同じだから大丈夫よ、今からでも遅くないから、ただし3箱までよ」と、訳の分からない理屈にさえも、気持ちを揺さぶられてしまうのである。もっとも、青汁だけではなくて、健康食品全般に対してそう感じるのである。まさに、無神経なオヤジの「他力本願型の健康依頼心」をくすぐる商品に見事に引っかかってしまいそうなところが、自分で情けないのである。

 それにしても、健康食品のように「信じて」習慣的に食べたり飲んだりするものは、「効能があるなら明示せよ」そして、「食べてはならない人がいたら明示せよ」と思うのである。そこに製造者としての責任を果たすべきで、それを顧客が認識し、自分で体験して価値を判断すればよいのである。せめて、正しい根拠の理論武装で説得して欲しいのである。そのようなプロセスを踏むと、健康食品に対する「虚像を追い求める依頼心」も無くなり、無知を振り回すオヤジくささも消えてしまうのではないだろうか。そして、自分の健康を自分で保守する主体性というか、自己診断を充実させ、一般の食品に対する認識も広がり、不足している物を補ったり、食べ過ぎている物を控えるなど、正しい知識の下で口にする物を取捨選択するようになる筈だ。そんなことより、早い話、現代社会では「食べすぎ、飲みすぎ、吸い過ぎ」を止めることで、もうすこし健康的になれるのではないだろうか。

 という、屁理屈による試行錯誤と猜疑心の駆け引きの末に、つい、何もしないよりは良いはずと思い、これらに手を伸ばしてしまうこともある。私の場合、「確かにこの青汁は胃腸に良い」傾向がある。理屈を並べれば、色々とあるのかもしれないが、私にはその根拠を正確に説明することは出来ない。それでも、この臨床的優位性は、「不調が続く中でも胃腸が再起動し、粘り強く動いてくれる」というところだ。そこにヤクルト製ならではの特徴があるのかもしれない。そして、もう1つ、この青汁を飲むのが辛いから、できれば避けたいと思い、胃腸が機能停止に陥りそうな「冷たい物、甘い物、油物、カフェインの多い物」などを極力減らすことに注意を払うようになったのである。これも優れた側面で、つまり、健康食品を取らないですむように考えて、それを目の前に用意しておくこと、これこそが、健康食品の本質的な健全性ではないだろうか。

 とかく、健康食品を食べているから、あるいは飲んでいるから、「何を食べても良いし、沢山食べても良い」と言う人も少なくない。それは、あたかも堅牢な肉体維持のためにお金を使っているという本人の自慢かもしれないが、自分の認識不足を周囲へ宣伝しているようなものである。そんなことを発信する前に、その「ヒキガエル」のようなお腹を何とかした方が良い。
 ただ、この青汁は、飲めるものならいくらでも飲んでいいんですよ。慣れてくると、美味しく感じるという習慣性もある。ではこちら
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