2010/04/30

たまらなく興奮する本

 いきなり、少々大袈裟な話になるが、世界でトップを競い続けることは、大変なことである。そして、その勝者になった時の自慢にも似た話題は、誰が聞いても嬉しいし、誇りに思える時である。その、昔からスピードの限界に挑戦する姿は、一種の憧れでもあり、幾つになっても、何故か心がわくわくするのである。そのくらい「磨き上げられた熟練の技と先端テクノロジー」が交錯しながら、進化を続ける「力強さ」は他に無い。今日は、いつの時代も夢を乗せて走ってきた新幹線の話になる。 
 
 0系に最初に乗車したのは修学旅行で、田舎者の私は、ビュッフェとはどういう意味か知らなかった。担任の先生は、「おお、ここではカレーをたべるんよ」と教えてくれ、友人達と何人かで食べたが、車窓がめまぐるしく動くのと車両の揺れで、落ち着かなかったのを覚えている。それにしても、時速180Kmという、今までの特急電車とは1桁違うスピード感で、それが走る東京~新大阪間だけが都会に思えて仕方が無かった。その時、単純な私には「やっぱり、都会にいかにゃあいかん」という決意にも似た衝動が沸きあがっていた。

 100系は、2階建ての食堂車がついていて、一転してラグジュアリーな雰囲気を満喫できる。ここの私の定番は、ビーフシチューであった。少々乗車時間はかかっても良いから、こういう雰囲気が好きだった(時速220Km)。特に、運行時間がお昼と夕方を挟む時間帯でないと、食堂車は営業していないので、丸一日無駄になっても、堂々とお昼前に乗り込む、これが、年2回の田舎へ帰る唯一の楽しみだったのである。さらに、往復グリーン切符というのも発売になって、僅かな追加費用で往復グリーン車が使えた。この2つの仕掛けで、東京~広島間が苦にならなかったと思う。まあ、それにしても、高速鉄道には、食堂車は不向きかもしれないが、「グランドひかり」には、どこか旅人の夢を乗せて走るムードがあった。

 尖った500系(グッドデザイン賞受賞)には、ファンが多い。私も大好きである。1997年に、既に16両編成で時速300kmを体感させてくれたことを、生涯忘れないだろう(山陽新幹線区間のみ)。アナウンスの後、その速度へはすぐに到達した。車窓の風景の動きが違うだけで、もっと、もっと、スピードは出そうな余裕さえ感じる安定した加速感であった。さほど長い時間ではないが、この270Kmと300Kmの間にある壁を商業運転で突破することが、如何に大変なことか、想像すら出来ない背景にあって、ただただ凄いと驚嘆せざる終えなかった。まさに、その時、新しい時代の幕開けを実感したのである。この500系の特徴は横方向のゆれが直接体に衝撃となって伝わるところで、体調が良くないと踏ん張れない。のぞみとしては、すでに最新型N700系に変わってしまって、進化した高速走行の技である「音なしの構え」で、あっという間に時速300Kmを越えるに違いない。

 ところで愛車は?と聞かれると、やはり出張専用車ともいえる300系である。座席がヘタルほど使い込まれた300系は、つい最近まで高度成長期と大量輸送時代を粘り強く支え続けてきた経済車両である。デザインとしては0系、100系とは大きく趣が異なる前面形状にして、都会的で優しいイメージながら時速270Kmをいとも簡単に実現し、東京~新大阪間を2時間30分で結んでくれた、車両は、急激にスピードアップできる加速感の良いところが魅力で、その走行感が宙に浮いたように気持ちよく体に伝わってくる。個人的にも最もお世話になった車両である。

 新幹線は、その高速走行のままトンネルに突入するため、先頭車両は空気を逃がす形状をしていなければならない。ここに、一種のデザインと機能の融合が成立し、工業製品にもかかわらず生き物のように見えてしまうところが、魅力的でもあり、様々に愛着をもって親しまれるところでもある。車両の持つデザイン性は、昔から我々を虜にして、乗車したい気持ちだけに留まらず、運転者になってみたい願望は、幾つになっても捨てきれない憧れである。いつだったか、走行中にもかかわらず、運転手が携帯メールをしていたと言うのがニュースになった。運転手がそんな事をしていても、安全が担保されている事を、我々はよく知っているが、そんなことより、みんなが憧れる仕事をしているのに、その自覚が足りないことが許せなかったのである。

 最近の車両は、なぜ、こんなに気持ちよく、静かに加速できるのだろうか、と考えた時には、その物作りの裏側を知りたくなるのは、私だけではないと思う。どうやってこの大きな車体をまとめ上げてゆくのだろうか、地道に改良されたところは何処なのか、また、スピードが上がれば上がるほど、走行中地震が起こった時に、どのように安全が確保されるのだろうか、あるいは、余計なことかもしれないが、パンタグラフの架線との接触部分の真ん中は、よく磨耗するのではないかとか、色々素人なりの疑問が次から次へと沸いてくるのである。

 今日は、そんな疑問に完璧に答えてくれる、良い本を紹介したい。何と、史上最強で、カラー図解、「作り方から仕組みまで、プロが教える新幹線のすべてがわかる本」というタイトルである。うーむ、間違いなく、コアな人が手に取る本ではある。もっとも、作り方まで知る必要は無いかも知れないのだが、いやいや、これがなかなかよく出来ていて、「知っていること以外は、全て知らないこと」を実感できるので、ついつい、むさぼり読んでしまった。1,500円で、こんなに時間が短く感じられる本はかつて無かったが、フルカラーで、平素見れないマニア垂涎の写真も満載、図面も分かりやすくて丁寧に仕上げてある。そして、本書の最大の特徴とも言える、この新幹線を支える「仕事人」が、それぞれのコーナーにたくさん登場して、そのプロが真剣に新幹線の現在と未来を支えている様子や、それに取り組む意気込みが紹介されている。この本は、何と言っても「ここが素晴らしい」と思う。全国に散らばって、責任を果たそうとしている大勢のスタッフが、それぞれの部署で、常に新幹線の到達目標に向かって力を合わせている様子が伝わってくるのである。
 ではこちら
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補足:ビュッフェとは、立ち食いで軽食を出すスペースのこと。ちなみに、ホームにある蕎麦屋もビュッフェと言える。 文章中の走行速度の表記は、壁に組み込まれたスピードメーターの記憶で、最高スピードと思ってもらって良い。
 

2010/04/27

昭和の流行歌3


 前回に続き、我が青春真っ只中であった70年代に流行した歌謡曲を振り返ってみたい。丁度、17~27歳なので、記憶もかなり鮮明である。当時は、第2世代のオーディオ装置へマイグレーション中であり、本格的な音質の追求に向かって動き始めていた。学生だったのでお金は無かったが、知り合いが文化放送で仕事をしていて、補修パーツとして2S-305のユニットTW-25とPW-125 を手に入れてもらった。そんな古い型名を挙げても分からないと思うが、三菱電機の放送局用のモニタースピーカで、早い話、よく聞こえるスピーカ だったのである。このスピーカのお陰で、当時は、クラシックと歌謡曲をよく聴くことになった。このとき、ランサー101 やLE-8Tを買っていれば、聴いた音楽も変わっていたと思う。いやー、その影響で、人生そのものも変わっていたかもしれない。

 2S-305 は、キャビネットの回折効果まで改善した設計で、人の声の明瞭度はとても滑らかであった。低音は当時、Q=1 とすることになっていた。これは、自由空間でf0まで周波数特性を平坦にする条件だが、バスレフでは、ポート内の空気が共振するため、過渡特性はやや引きずる感じになり、パルシブな低音再生には不向きだったが、弦楽器の低音は厚みが増して実態に近い感じが得られた。キャビネット内の空気のスティフネスとバスレフ・ポートによる共振特性に関しては、定数を変えて、時間の掛かる計算を何度も繰り返した記憶がある。その後、Q=0.7 → 無限大バフルとQ=0.5 へと過渡特性を重視する時代へ向かうことになるが、その頃は既に面倒な計算を、当時生まれたばかりのパソコンに任せ、プロッターで周波数特性を描かせるようにして、その結果と、実際の無響室での特性を簡単に比較できるようにした。これによって、スピーカ・ユニットやキャビネットの形式によって、正確な定数さえ分かれば、おおよその低音の周波数特性と過渡特性がイメージできるようになった。そういう意味で、当時は複雑な計算を行わせるのにパソコンは凄く役に立ったという印象がある。
 どんどん話が横道に逸れて行きそうだが、今、この「青春歌年鑑70年代」を聴きながら、「そんな、謎を解くような、面白くてしょうがなかった」時代を思い出すのである。

 さて、つまらんことはこのくらいにして、当時、日曜日の朝に「スター誕生」というTV番組があって、そこでコメントを出している、何やら、とてつもなく怖いおっさんがいて、しかも、彼の言う事は、理にかなっていて「うーん、含蓄のあるおっさんやなー」と、どこか魅かれ、印象に残っていた。彼は、なぜ、「そんな、軽く偉そうなことを言いながら、人を納得させられるのか」、当時は、不思議で仕方なかったが、後々になって、本当に「凄まじく、恐ろしいおっさん」であった事を知るわけである。

 そんな印象で占められていたのが、上の写真のおっさんである。勝手に写真を使うと肖像権の侵害になるので、申し訳ないが、CDのジャケット紹介風に仕上げて、引用にさせていただく。このCDは、彼の代表的な作詞作品がビクター自慢の歌手の歌声で収められている。例えば、森進一が「津軽海峡・冬景色」を歌うとか、「北の宿から」を青江三奈に歌わせるとか、かつて無いような凝った作品になっているが、一方で、歌手の基礎歌唱力が露呈して、落胆してしまう歌手も多い。CD番号は、VICL-62668-69 ビクターエンタテインメント株式会社。 もっとも、誰が歌っても彼の詞は、人の心を鷲づかみにする情景描写に特徴があり、強烈な印象を残す。幾つか代表作を挙げてみると、「ざんげの値打ちもない」、「白い蝶のサンバ」、「舟歌」、「青春時代」、「せんせい」、「どうにもとまらない」「勝手にしやがれ」、「絹の靴下」、「みずいろの手紙」、「また逢う日まで」、「ブーツをぬいで朝食を」、「五番街のマリー」、そして、「UFO」などピンクレディー全曲など、そのバリエーションの広さと、さらに、そのインパクトの強さは群を抜いている。作詞数はもちろん歴代第1位である。つまり、このおっさんの言葉の魔術で、70年時代の若者達は、ひどく大胆で開放的な青春を過ごせたと言えよう。

 だいたい、どんな優秀な人でも、何か独特の一種の繰り返しによって作品の量産効果を高めようとするが、調べれば調べるほどに、次から次へと、これも、あれも、ええー、これもかよ、というぐらい彼の作品は多種多様に発掘でき、手抜きがない。その作品を読みながら、よく、この様な表現が出来るなぁと、尊敬の念を懐き、腰が抜けそうになるくらい、素晴らしい表現力に打ち震えてしまうのである。そこで、70年代の歌謡曲を、「阿久 悠」という著名な作詞家を基軸にして、歌詞を楽しみながら、色々分析するのも面白いと思う。

 ここでは、前回に引き続き1970年代の流行歌をまとめた青春歌年鑑70年代「総集編(ポニーキャニオン PCCA-02094)2枚組み」2,980円と、1970年ベスト「演歌歌謡編(テイチク エンタテインメント TECE-19525)」1,980円 を紹介したい。 この2セットのCDは、前回同様デジタルリマスターリングで、当時のLPよりもはるかに綺麗な音になっているが、60年代ほど新鮮に感じられないのは、既に音の1つ1つをしっかり、記憶しているからだと思われる。もちろん、前回同様この3枚のCDで、ぐぐーっと楽しかった1970年代に引き戻されてほしいが、60年代の歌詞に比べて、いささか言葉が現実味の強い表現に変化してきていて、現在の作品に近い印象を受ける。さらに、70年代は歌謡曲の全盛時代なので、切り取る断面は様々にあり、別の機会にでも異なる断面で何度か取り上げてみたい。
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2010/04/23

昭和の流行歌2

 今日紹介するのは、「青春歌年鑑」という年代別寄せ集め型の歌謡曲CDである。内容が分かりにくいという点において、このタイトル名が適当かどうか分からないが、このシリーズは、総計62種のCDが年代別にラインナップされている。つまり、その「タイトル名の年に流行」した歌謡曲をレーベルに関係なく集めたというもの。

 概要として、まず、基本盤として1960~1990年まで1年ごとに、ヒット30曲が収められたCDが31タイトル用意されている。次に「総集編(2枚組)」というのがあり、1950~1990年まで10年ごとに5タイトル用意され、加えて「演歌歌謡編(1枚)」が同じ年代ごとに5タイトル用意されている。これらは、年代別セットだと思えばよい。しかし、演歌のお好きでない方には、総集編のみでも楽しめるし、かたや演歌歌謡編を5年分揃えると、カラオケで困ることはない。そして、さらに続編として1970年~1990年まで1年ごとにヒット20曲が収められたCDが21タイトル用意され、これが「続・青春歌年鑑」ということになる。 この70年~が歌謡曲全盛時代であったことからも、追補版と解釈できる。

 このように、1950年頃から1990年頃までヒット曲が集めてあり、例えば、1940年生まれの人、つまり70歳以上の方も青春を思い出す事が出来るという計算になる。しかし、その様な大先輩は、きっと1950年代に流行した曲を耳にすると、大昔の記憶が甦り、元気になれるかもしれないが、逆に戦後の辛い時期を思い出されるかもしれない。いずれにしても激動の時代に違いない。私の知っている、この時代の歌い手さんを敬称略で並べてみると、美空ひばり、藤山一郎、コロンビア・ローズ、フランク永井、石原裕次郎、島倉千代子、守屋浩、若原一郎、江利チエミ、雪村いづみ、ペギー葉山、三橋美智他、水原弘、等が挙げられる。私は日本テレビ放送網の開局と同じ1953年1月生まれなので、小学校へ上がる前あたりの記憶ということになる。曲がヒットする期間は、思った以上に長いので、さらに実際の曲を聴けば、もっと記憶は甦るかもしれないが、やはり、当時、よく車のラジオから流れていたり、歌番組で歌われていたという印象ぐらいだと思う。

 個人的には、記憶に残る青春の時期は、1970年以降とばかり思っていたが、意外にも1960年代に流行した曲も、かなり懐かしく感じる事が分かった。理由の1つとして、曲の一部がそれぞれ頭の片隅に残っているらしく、空白の部分や不鮮明な部分を補って、今の音質で通して「完成した曲を聴いてみたい」という願望も沸き上がって来るのである。たとえば、潮来笠、アカシアの雨がやむとき、王将、銀座の恋の物語、スーダラ節、君恋し、いつでも夢を、高校三年生、自動車ショー歌、ウナ・セラ・ディ東京、あんこ椿は恋の花、ラブユー東京、夜霧よ今夜も有難う、世界は二人のために、小指の思い出、恋のハレルヤ、虹色の湖、ゆうべの秘密、ブルーライトヨコハマ、愛の奇跡、夜明けのスキャット、人形の家、といったところになる。これらの曲の特徴的なフレーズ、あるいはさびの部分は、少しは口ずさむことは出来るものの、その続きは絶対に出てこないと思われる。 特に、自動車ショー歌は聞いてみたい曲の1つでもある。

 さて、当時から長い間ヒットを飛ばしてきた歌手などの、ベスト盤のCDを購入すると、デビュー曲から最新まで収まっているので、当然この60年代に流行した曲も入っているが、特別には時代を意識せずに聞いてきた。例えば、美空ひばりさんの港町十三番地、真赤な太陽、人生一路、等は、日本コロンビアのPCM録音でなじみ深いが、これが、どれもいつ頃ヒットしたか記憶はないのである。そんなことはどうでも良いが、調べてみると、港町十三番地は、私の生まれた年の1953年、真赤な太陽は1967年、人生一路は1970年と並び、人生一路はステージのエンディングで、歌い続けられていた事も分かる。この3曲はなかなか良い曲だが、ただ、真赤な太陽は、黛ジュンに歌ってもらった方が良かったと思うし、人生一路の曲調は水前寺清子風で、ぼーっと聴いていても、自然に気合が入るところが勇ましい。これを、ひばりさんが歌い続けた理由は、唯一弟さん作の「一発曲」だからだ。

 どうでもよい話は、このくらいにして、今日は、その1960年代の流行歌をまとめた青春歌年鑑60年代「総集編(東芝EMI TOCT-10970~1)2枚組み」2,980円と、1960年ベスト「演歌歌謡編(日本クラウンCRCN-40885)」1,980円 を紹介したい。 この2セットのCDは、デジタルリマスターリングで、当時のLPよりもはるかに綺麗な音になっているように思える。この3枚のCDで演奏時間は、約2時間半ぐらいになるが、ぐぐーっと1960年代に引き戻され、自分の青春オールウエイズを眺めるような気分に浸れ、知らず知らずのうちに心が開放されてくる。こんなに、俺の青春Hi-Fi じゃなかったが、全ての曲が当時より高音質で新鮮に感じられる。
 ではこちら
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補足:大手レコードメーカー13社共同企画なので、CDごとメーカー名と型番が異なる形式になっている。レコード店には、62タイトル全て揃っているところはないので、購入時は、タイトル指定だけでは、間違う危険性がある。CDのメーカー名と型名をよく確認のこと。マイナーレーベルは参加していないので、曲目もよく確認してから購入のこと。
次回の昭和の流行歌は、70年代の青春歌年鑑を紹介する。

2010/04/20

まれに受信する時もある

  前回の途中からの続きである。これでつづきも最終回 になる。雑誌などで見かける、コラムとか後記のつもりで、軽く読んでいただきたい。また、同じ様な体験をされたことのある方は、是非教えていただきたい。

  誰でも、背後に視線を感じて振り返ると、友人が遠くから見ていた。とか、逆に友人を遠くから眺めていたら、本人が視線を感じて、気が付いてくれた。という経験をすることがある。また、昔の友人の事を色々思い出していたら、翌日電話がかかってきたとか、大して用があるはずもないのに電話してみたら、母が電話を欲しがっていた。なんて経験もあると思う。このような、目には見えないエネルギーというかパワーは、何て説明すればよいのか分からない。個人的には、とんとその様な事を深く考えることもなく、そんなの「偶然に決まっている」と思って今日まで生きてきた。しかし、今回、この研修センターに宿泊してから、ほんの少しだけ考え方が変わった。

 やや方位というか、方角が記憶と一致するので、その建物の場所が気になっていた。早目の夕食を済ませると、そんなこともとんと忘れ、夜7時には研修センターの管理人さんが来るというので、それにあわせて研修センターに行くことにした。玄関の鍵を開けて中に入ると、受付カウンター奥に灯があり、色々ルールを聴いておかなければならないので声を掛けた。「今日から3日間、よろしくおねがいします。初めてなのですが」というと、「はい、はい、それでは、簡単に説明しますので、靴を脱いでおあがりください」と親切な面持ちで対応してくださった。部屋は3階で、説明といっても、給湯諸設備などの操作やテレビカード(全電気利用)の使用方法で、難しいところはない。ドアを開け部屋に通されると、入口が板の間1畳程度が付いた、8畳の広い部屋である。中には押入れとテーブルが各1つあるだけで、使用済み寝具の扱い、部屋の掃除、ごみの分別など、普通の住居と同じルールになっている。元々、この研修センターは、医師や看護師など他の病院から研修に来る人達の宿泊施設として用意されている。また、遠くから患者の看護に来る人も、ここを宿泊施設として使用できるらしい。

 取り立てて、今すぐしなければならないこともなく、テレビをつけて、部屋のまん中にぽつんと1人座り込み、そのまま倒れるように、仰向けにねっころがる。時間はまだ早い。テレビは、7時のニュースが続いていた。それにしても「悪性じゃなくて良かった」と再び安堵する。ただ、先の事を考えると手放しで喜んではいられない。炎症性病変も将来癌化の可能性もあり、うーむ、経過観察も必要に違いない。そう思ったとき、あ、そうだ、「おじちゃんを鞄から出しておかなきゃ」と、戒名が書かれた、木札の入った手製のケースを、鞄から取り出しテーブルに置いた。私は、これを今までずっと「おじ」だと思ってきた。広島の歯科医専へ通っていたおじは、20歳そこそこで原爆で亡くなっているので、人生を楽しむこともなかったと思いながら、旅行にはいつも一緒に行くことにしている。さほど信心深いわけでもないのに、いつ頃からか、ただ、そうしたいと思うようになったのである。

 やや、張り詰めた緊張感がほぐれ、移動の疲れも手伝ってか、少し気が緩み、うとうとした時のことである。大勢の人が廊下の向こうの階段を上がって戻ってきたような気がした。ああ、やっぱりこの時間に研修が終わって、皆さん戻ってくるんだなあ、少し賑やかになるなと思ったのだが、締めたはずのドアが開いているのだろうか、冷たい風の流れを感じた。しょうがないなとふと目を上げドアを見ても、きっちりロックされている。あれー、じゃあ、喚気の為に少し窓が開いているのかなと、ブラインドに隠れたサッシを触ってもロックされている。その時、ふと誰かに呼ばれたような、背後に視線を感じたのである。気のせいかな。それにしても疲れているのか、妙に寒く感じるので布団を敷こうかなあ、しかし、8時過ぎたら風呂へ行かなきゃいけないし、やはり、一寸だけでも、と思って布団を敷いた。それにしても、どこからか見られているような気がするのである。なんだろうか、どうも1人や2人の視線ではない。部屋の四方八方から見られているような感じなのである。「俺の着替えを見てもしょうがないだろう」と思ったのだが、その視線はどんどん増えているような気がする。いかんなー、と8時を十分過ぎたので、意を決して部屋を出て風呂場へ向かうが、誰かが付いてきているような感覚もあり何度も振り返る。丁度、人気のある歌手を追っかけてくるファンの人達のような感じで、怖いと言うような感覚ではなく、何故か1人なのに大勢の人と一緒に居るような感じなのである。見えないが、ぎっしりと背後に混み合った廊下を1人先頭で歩いているのである。

 建物のほぼ中央に階段があり、その手前がトイレ、さらにその手前がコインランドリー、反対側に洗面所、奥が風呂場という配置なのだが、これから向かおうとする風呂場から、濡れた長い髪の女性が出て、小走りに音も立てず、すーっと廊下の先の部屋に入った。もう8時を十分過ぎてるのに、ルール違反はいかんなあと思い、風呂場を確認するが、お湯を使った形跡(蒸気がよどんだ感じ)がない。体を流しながら、そうだよな、ルール違反じゃなくて、洗面所の方で洗髪をしたんだと思った。しかし、こんな狭い風呂場でも僅かに視線を感じるなんて、おかしいなあ、耳鳴りもするし、どうなってんだろう、と頭を乾かしながら、髪の毛が頭から少し浮いたような感じのまま部屋に戻る。しかし、部屋の中はもっと多くの視線で溢れていた。丁度、授業に遅れて来た学生が、クラス全員から視線を感じるような感覚である。すでに、その状況に先に心臓が反応し、ドックン、ドックンと大きくなっているのがわかる。うーむ、まずいところに泊まることになったと、その時、初めて怖さを感じたのである。その夜は、深夜まで何か大勢の話し声のようなざわめきで1時間おきに目が覚め、寝汗もびっしょりで、朝方4時過ぎまで眠れなかった。 きっと、相当疲れていたに違いない。

 いい歳をしたおっさんが「何か怖いから」という理由で、宿泊を断るわけにもいかず、朝、玄関でたまたま管理人さんに出くわす。「寒くはなかったですか?、よく寝られましたか?」と見ていたように話かけられ、「は、は、は、はい」と、返事をしながらも、妙な返事になったのに気付き、つい心にもなく「今日と明日と、またよろしくおねがいします」と言い直してしまった。しかし、その日の夜は、視線を感じることはなかったが、怖さの後遺症のような症状は少し残っていた。テレビを見終わった9時には、コインランドリーで洗濯をすることにして、部屋とコインランドリーの間を何度か往復する。そして、3回目の時に、ご婦人2人連れが揃って洗面所で歯磨き中であったのに気づかず、いきなり廊下から乾燥機の前に入った。鏡越しに私を見た2人のご婦人は、驚いて目を丸くし、体が硬直したようだった。むろん歯磨中なので声は出なかったが、手が止まっていた。「すみません、驚きました?」というと、2人は怪しい者を見るように、同時に軽くうなずく。それにしても、「ここ、何となく怖い感じがありますよね」と言うと、今度は、2人とも安心した様子で、同時に深く2回もうなずいた。なぜか、気持ちが分かり、昨日の俺みたいだと、一転して今日は、自分の気持ちに余裕を感じていた。

 翌朝、洗面の帰り、その2人のご婦人は、すれ違いに玄関に向かっていた。「おはようございます」と声を掛けたのだが、2人とも「おはっ・・・」と、詰まったように、かすかな言葉を発して慌てるように階段に吸い込まれていった。首をかしげながら、「俺って怖いのかな」と思ったぐらいである。そして、まだ何か感じる物があるのかなと思ったが、その日の夜は、全く何の視線も感じなかったし、部屋の中も、「あれー、こんな部屋だったっけ」と、改めて部屋を見渡したが、何故か別の部屋のように見えてしまう。初日はなんだったんだろうと、思い返す余裕すらできて、そうか、ひょっとしたら「私か、あるいは、おじが皆さんを呼んでしまった」のかもしれない、お騒がせして申し訳なかった。視線を感じないと、それはそれで別の寂しさもある。

 研修センターの前は道路で、道路を挟んで病院である。右へ100mほど行くとロイヤルホスト、反対の左へ50mほど歩くと大田川である。やはり、何となく「平和記念資料館」を取材しなければならないとその時ふと感じたのである。 

2010/04/16

因果関係はないのか

 ずっと前、3月19日の続きである。恐らく、殆どの方は(つづく)を無視してしまったに違いない。さらに、こういう話を嫌う人も多いと思うが、頭の片隅に残して欲しいと思うので、随分迷ったが、やはり話を続けようと思う。では、話を少し戻してから始めよう。

 電話の向こうの彼は入院していた。救急で搬送された時は脳梗塞と聞いていたが、その後、しばらくしてMR、CT、血管造影などの検査から画像診断では、「神経膠腫(こうしゅ)」と告げられたという。脳梗塞と神経膠腫では、素人が聞いても随分その画像に違いがあるように思うのだが、診断が一転していることから、いくらプロの見立てといっても不審である。もっとも、細胞組織を調べてみないと何とも確定診断できないが、転移性脳腫瘍、リンパ腫、炎症性病変なども考えられる。そのためには、いずれにしても開頭腫瘍摘出手術が必要で、その摘出した組織から病理診断を行い、病名を確定して治療を進めることになる。病変は直径3cm程度あり、日々肥大傾向にあるという。状況によっては、ガンマナイフによる治療も考えられるが、その治療者側からも、まずは治療指針となる細胞組織の病理診断を希望されていた。

 追い詰められた彼は、この時点で、「私に会って別れを告げておきたかった」ようだ。開頭手術には、様々なリスクを伴う。しかし、仮に「神経膠腫」だとしたら、手術そのものより、その後の治療に掛かる時間は長く、生還できるか霊安室行きか、いずれにしても先は少し時間がある。手術自体の後遺症やその後の治療方法については、担当医から説明を受けたようで、「わしも、もう、なごうないわいや」が口癖であった。私も、仕事柄何度か開頭手術に立ち会った事があり、難しさも知っていたが、明るい声で「何ようるんや、わしも何回か見たけど、今は簡単じゃし、そこの病院なら心配ないわ」と何度も電話に向かって激を飛ばした。「それに、まだ時間はあるし、手術では死なんけえ、とにかく、手術を早ようしときんさいや、手術が終わって、少し元気になった頃、次のステップを相談しに行くけえねえ」と、電話を置いたが手は震えていた。

 手術当日も、朝から般若心経をあげて、とりあえず手術がうまくいくように祈った。 日本人は、平素は見向きもしないのに、こういうときだけ神仏にお願いをする。実は、ここの脳外科病棟では、古くから手術当日6人以上から般若心経を上げてもらうと、結果がよいというジンクスがあるらしい。手術の後のことについては、知り合いのドクターからも、「神経膠腫なら、前にいた病院の仲間が免疫療法を研究していて、結構いい成果を出しているので、それを試してみたらいい、協力するから」と言う話を貰っていたので、手術後は、それを勧めようと思っていた。 そして、3日後、53年ぶりにこの懐かしい病院の敷地に足を踏み入れたと言う訳である。前置きが長くなったが、今日はそこからの話のつづきになる。

 病院正面に向かい、「昔の私のように、彼も生還させて下さい」と手を合わせて、やや緊張感を伴い病院に足を踏み入れる。どのような姿を見ても、驚いた顔を1つとしてするつもりはなかった。いつもの仕事のように、極めて冷静に、しかも明るく対応する自信は持っているつもりである。それにしても、病院は全く様変わりしていて、普通なら見当も付かないはずだが、妙に親しみが沸き、あるはずもないが、どこかに当時の面影のような物を、きょろきょろ探しながら進む。おおよそ嗅覚にも似た方向感で案内版をよそに、自分でも意外なほど、すいすいと歩き進む。脳外科病棟は、この辺だろうと思って、ええっと311だったなあと、とりあえずエレベーターに乗り込み3階で降りる。

 そこは、本館とは全く違う雰囲気を持っていた。木製なのにエンタープライズ号のコックピットのような曲線を描いたナースセンターの窓に、とめどもなく懐かしさを感じる。へえーって、一瞬、頭の中では古い記憶と照合作業のような事をしているが、当てはまる記憶はなかった。それにしても斬新さを求めた古めかしい作りである。こんな場所じゃないよなぁ、と首をかしげ、もう聞いてみるしかないと、看護師さんを探したが、遠くから大きな声で名前が呼ばれたような気がした。振り返って目を細めると。廊下の向こうで、手を上げているおっさんがいる。これには驚いた。近づきながら「おい、おい、大丈夫かぁ?」と心配する私をよそに、「頭の圧迫感がのうなって、楽になったわいやー」と握手をする手は暖かかった。何年ぶりだろうか。そして、自慢そうに手術の跡を見せ付けるのである。「それより、腹減っとるじゃろう、ロイヤルホストが近くにあるけえ、後で行こうや」、この予想に反する展開に、私は心配の中にも、少し嬉しかった。しかし、確かに手術で大変なのは、するほうで、される方ではない。少々大脳を切り取っても、そこ自体で傷みはなく、頭蓋の外の縫い合わせた部分が痛むくらいである。そう考えながら眺めていると、いきなり電話での約束を確認するように、「おお、えんじゃろ、泊まってけよ、3泊できるよう研修センターを予約しといたし、退屈でしょうがないけえ、おってくれよな」。その時は、安堵した気分でそのまま承諾をしてしまったのである。手術後3日目の本人のわがままである(次回に続く)。

 それにしても、病変の周囲は余裕を見て切り取ってあるはずで、足腰は元気でも、頭の機能を心配したが、私を連れてフロアーを歩く彼からは、話しぶりも、視界も、記憶も全く異常は見受けられなかった。 「ここが、便所、ここが風呂」、私は、「ええっ風呂」と絶句してしまった。確かにそこには、男女別に温泉マークの暖簾がかかっていた。それを見て、走馬灯のように記憶が蘇り、一瞬立ちすくんでしまったのである。そうそう、こんな感じ。やはり、まだ一部残っていたのだ。

 さて、病気の話に戻そう。病理検査の結果は炎症性の病変で、悪性の癌ではなかった。やれやれと、胸をなでおろした。ナースセンターで脳外科部長から一緒に話を聞いた。MRとCTの画像を見せてもらいながら、最初救急で運ばれた時は、やや広がりがあったので脳梗塞だと診断し、その後落ち着いてからの画像診断では神経膠腫の疑いを持ったという。しかし、腫瘍の場所としては、あまりに症例として一般的ではないとも感じていたという。病理検査では、どう見ても炎症としか言いようがないと報告されたと言う。手術後も、何か原因を探るための検査もしたが、何も出てこなかったという。そこで、恐る恐る「原因は他に何が考えられるんですかね」の問いに、「全くわからりません」と自信にも似た言葉が返ってきたのである。私は、うんうんと小刻みに首を縦に振りながら聞き入っていたが、シャーカステンに乗せられたMRの画像を眺めていると病変の位置は、右前頭葉の下奥で、割合目と耳の間辺りであった。病室へ戻る廊下で、滅多なことも言えないが、万が一と思って、すぐさま、振り向きながら「おい、携帯電話どのくらい使うとるんや、仕事で1日何回もなごう使こうたらいかんので、電磁波の障害知らんのか、と声を荒げてしまった」。本人は、「そうらしいなあ、知らんかったんよ」とつぶやき下を向いてしまった。とは言うものの、その携帯電話の電磁波と炎症性病変(あるいは脳腫瘍)との因果関係は明確になっている訳ではないが、 医学的あるいは生理的要因が分からなければ、答えを自らの生活習慣に求めるのは、必然的な思考といえる。

 彼は、社内で全国でもトップの営業成績を誇って忙しく、数多くのお客を抱えていた。入院中も廊下に見舞いの行列が出来るくらいで、時折ベッドの上では、すでに携帯電話にイヤホンが装着され、手を伸ばして、それに向かって大きな声でしゃべっている。仕事の話のようだが、どこか滑稽な感じであった。もちろん、私が相手をする時間的余裕はあまりなかったが、本人は、その後も、「原因がはっきりしない」ことに不安を覚え、私の勧める、すでに必要もない免疫療法に従うつもりになっていた。それは、体の傷は治っても、心の傷がうずくのと同じで、あるはずもないが、医療スタッフ全員が何か隠しているのではないか、あるいは、この病院の医療レベルに問題があるのではないか、そして、体のどこか他の部位に悪性腫瘍でもあって、頭に転移してきたのではないかとか、不安を募らせていたからだ。そのくらい、追い詰められた病名は人生を投げ出すほど衝撃的でもあり、そう簡単に精神状態は戻らないようだ。しばらくの間、脳外科部長の言葉もなかなか納得していなかったが、最後にPET検査をして、小さな癌の予備軍のような物でさえ何処にもない事が分かって、少しずつ落ち着きを取り戻した。退院後、4月から元気(まあ、まあという)に会社へ通っているそうだ。そして、何か新たな事が分かったら捕捉、追加できるかもしれない。

 携帯電話の電磁波の影響については、今でも「関連性を捨てきれないとする報告」と、「特定できる因果関係は見当たらないとする報告」がある。しかし、それらは、あくまで脳腫瘍の患者から得た統計結果であり、携帯電話を使っている人達の健康状態をつぶさに追跡調査をしたわけではない。この事を前提として考えると、仮に何らかの影響があったとしても、その健康被害は、利用頻度や体質、そして累積利用時間等によっても変化するかもしれないし、それも分からないが、いずれにしても、かなり時間が経過しないと、何か「影響ある、なし」の結論めいたことも分からない。しかし、逆に僅かでも影響があるとすると、これから成長して長い時間利用する可能性のある子供達には、無条件で早くから携帯電話を持たせるのは控えた方が良い。

 携帯電話という製品から少し離れて、電磁波そのものに関する人体への影響は、昔から話題になることも多く、携帯型パソコン等では、やはり多少なりとも不安を感じることもある。今日の話をきっかけにして、是非ご自分で納得できる方法を講じておいていただきたい。

2010/04/13

季節限定あんまん

 3月9日にミニパンシリーズを紹介した。今度は、季節限定の「ミニあんまん」である。こちらは、本当にこの金額で良いのですか?と問いたくなるように、4個入りで95円前後で販売されている。「どうだどうだ参ったか!」と言わんばかりの商品である。この価格だと、誰でも横に並べてある他の種類も買って、味の違いを楽しんでみたい気持ちになれる。これが、ヤマザキの狙いではないだろうか。普通の菓子パンとかコンビニにあるアンマンは、いくら好きでも、選ぶのに迷う事がある。それはやはり大きすぎて、お腹がいっぱいになるからだ。しかし、こちらは、小さいので腹の具合と相談できる。だから、とりあえず3種類買っておけばよい。そうすれば、普通なら手に取らない商品の美味しさも知ることが出来るし、種類を食べ比べる事は実に楽しいのである。

 ここで紹介しているのは、よもぎの生地に練上げたつぶあんを包んだ「ミニよもぎまん(つぶあん)」、桜の葉から抽出した香料成分で桜の風味をつけた生地で、こしあんを包んだ「ミニ桜風味まん」、練上げた酒こしあんを、酒風味の生地で包むダブル攻撃の「ミニ酒まん」である。いずれも季節限定商品で、春先のおやつにぴったりである。 美味しい食べ方は、いずれも、電子レンジで、ほのかに暖かくなる程度にするのが良いと書かれている。例えば、500Wの場合1個なら10秒、2個なら15秒、4個なら25秒となる。古くなった電子レンジではもう少し掛かる。この電子レンジで暖める場合に、霧吹きをしてからラップにくるむのが良いそうだ。最近は、蒸し器が流行しているので、そちらの方がもっと良い。実は、この秒単位の管理はとても重要である。小安い商品だからと言ってなめてはならない。特に、大雑把な血液型B型 諸氏は注意をされたい。時間厳守で、時間が長すぎると中のあんこが乾燥してしまうのである。したがって、提示されている時間は、回りがふわふわ、中はしっとりとしたあんまんになる条件なのである。

 かつて職人の手によって作られてきたこの手の商品が、優れた製造技術と大量生産がもたらす低価格化、そして配送網の拡充など、さらにスピーディな商品企画と相まって見事に季節感を商品に封じ込めている。 その適応力の速さという視点で眺めても、大変コストパフォーマンスに優れた商品の1つと思える。ヤマザキは、パンの系統の商品だけではなく、和菓子、洋菓子、お弁当、お菓子、お茶など飲料水、デザート類、水羊羹、みつ豆、くず餅など、日本の食文化を包括するような商品群を揃えている。勿論、中華まんなども以前から知られている。これらの製造技術を匠に生かし、時代のニーズや価値観に合わせて商品のバリエーションを拡大してきた、まさに、やる気満々の会社といえよう。

 今日のPDFは、3種のあんまんと3種のお茶を並べてみた。よもぎあんまんには、懐かしさを組合わせた伊藤園の「おーいお茶」、桜風味あんまんには、あくまで優しくオーガニックに「六条麦茶」、酒まんには、コントラストを強調してダイナミックにサントリーの「ウーロン茶」を用意してみた。もっとも、そんな組合わせは、どうでもよいのだが、お茶(80円)にもあわせたい種類がある。これぞ、まさに根拠なきソリューション、つまり趣味なのである。それでも、写っているもの全部で合計525円!なのだ。
ではこちら 
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2010/04/09

神代植物公園6

 「おじちゃん!何を撮ってるの?」と背後から子供の声がした。振り向くと小学生らしい2人の男の子が、照れくさそうにニコニコして動き回っている。暗闇の中の逆光ではっきりとした顔は分からないが、私のカメラに興味を持ったようだ。その一瞬の動作が私を緊張からほぐしてくれた。半球状に飛び出したスーパーワイドレンズの表面に写り込んだ桜の夜景が不思議に見えたらしく、どうぞと言うと、近づいて「すげえ~、目玉オヤジだあ」と興味深く覗き込む。「いや、これでね、宇宙人を呼び出すんだ」と、いい加減な事を話しても、今の子供達は納得などせず、今度は、素早くファインダーを覗き込んでいる。ここは、既に日が暮れてライトアップされた神代植物公園の桜の樹の下である。
 
 今日は、午後から雨がぱらついて寒かったので、人出は少ないかと思っていたが、まるで逆だった。桜は今だ散りそうもないが、ライトアップは今日で終わりだそうで、カメラを持った人が多い。昔は、数えられるほどしかいなかったが、デジタルで高感度になったカメラは、創作意欲を夜間にまで拡大したようだ。予定していた場所は、既に無数の三脚で埋められていた。仕方なく、どんどん奥へ行く。閑散と開けた場所でロケーションを決め、カメラをセットして、さあ、シャッターを切るぞと思っていたら子供達に声をかけられたと言うわけである。とにかく、周囲で動き回られると落ち着かないし、ぶれてしまうので、まるでお客様をもてなすように、納得して戴くまでお相手をすることになる。そうこうしているうちに、三脚を担いだおっさん達が集まってきたのである。おっさん達は、平気で人の前に陣を張る。せっかく14mmのスーパーワイドレンズで広々と撮影しようと思っていたのに、このままだと、はげた後ろ頭が光ってしまい、うーむ、そんなものが無数に入ると奇怪な写真になる。仕方なく、レンズを17mm交換する。声を掛けてくれる可愛いい子供達に対して、あつかましい無言のおっさん達には、いつも閉口するのである。

 さて、最新の高感度カメラでは、日が暮れてもAUTOで撮影できるので、周囲ではあちこちで露出中の警告音がピッピ、ピッピ、ピッピ、ピッピーッとうるさいが、私は静かに得意のバルブ撮影で撮る。使い慣れた方が安心するからである。まず、色温度の設定だが、昔、タングステンフィルムで撮った時には、やや青くなってしまった。これで、照明の色温度がわずかにそれより高い事が分かっている。しかし、照明用の球は切れるまで使うだろうし、隣同士の球が必ずしも同じ色温度とは限らないので、カメラの色温度を300度づつ3段階づつずらして撮ってみることにする。露出は経験的に4,8,16sec と3段階ぐらいとして、1シーン9カット撮影した。空の色は、肉眼では既に暗闇になっているが、それでも撮影すると青味が残って出る。それは、刻々と変化し、シャッターを切った時刻との関係で、背景色は成り行きになるが、その時の色は、画面構成上重要な役割を果たす。あまり、遅くなると背景は黒く落ち込んでしまう。本番ぶっつけで背景色を決めるのは難しいので、あらかじめ、別の日に、日が暮れたあと近くの公園で撮影して時刻における露出時間と空の色の関係を掴んでおいた。

 最近のマニアは、後で画像処理ソフトで何でも修正できるという人も少なくないが、想定とかけ離れた状態での画像処理は画質を少なからず劣化させる。それは、夜景などの高感度撮影モードでは、既にカメラの中で様々な画像処理が行われているからである。小さな液晶モニターでは分かりづらいが、ノイズ除去のため、高感度にすればするほど画像劣化が大きくなる。ニコンD3Sの様な特殊な機種は別として、色の分解能を重視する場合は、事実上ASA800ぐらいが実用範囲と考えた方が良い。この場所の条件として、昼間は曇り時々雨で、今は風がないので、できれば低感度設定で長時間露光が望ましい。今回は、経験からASA160に設定している。いつの時代も、撮影の基本は、あくまでも動かない物を撮影する場合に限るが、少ない光を贅沢に使うという相反する操作が望まれる。いやいや、おっさんの後ろ頭の反射光まで利用しろと言っているのではない。

 まず、暗いレンズはファインダー内の視野やピントが見辛いので明るいレンズを実装しておきたい。しかし、実際の撮影ではレンズの開放近くでは使わないで、適度(f8前後)に絞ることである。特に、夜景は一般的にコントラストが強い被写体なので、平素の撮影では気が付かないレンズの物理性能の悪さが露呈することがあるからで、加えて、明るい被写体が点光源であるため、センサー側で点光源の周囲が崩れる可能性もあり、色収差と点光源のにじみが重なり、後処理では色収差も補正しにくい形状になる。出来るだけ収差を減らすため絞っておいたほうが無難である。さらに、撮影後に画像処理ソフトで修正しようとしても暗い画面は、補正操作自体も面倒でもあり、不必要に時間がかかることもあるようだ。ということで、撮影から画像処理まで全てを通して考えて、ポイントを抑えておきたい。まあ、余裕をみて出来るだけ素直で良い条件で撮影しておくのが基本になる。実際に撮影した画像は、色温度を変えているので、少々赤いもの、青いもの、そして露光時間も変えているので、少々アンダー、ややオーバーとなっており、どれでも修正可能範囲と思えるが、細部では適正なのだけれど、全体としてアンダーぽく見えてしまうとか、オーバー側は、迫力があって見栄えは良いが、細部が飽和しているとか。これらは、画像処理ではごまかせない。PDFには、一応中心のカットを使ったが、それでも少しアンダーに感じるかもしれない(添付グレースケール基準)。

 余談になるが、写真が趣味で、将来自分のアルバムを書籍にしてみたいと考える人達も多いと聞いたことがある。そのような目標がある場合は、なおさら製版法での強調あるいは修正の為に、ニュートラルでノイズの少ない撮影をしておかなければならない。この時の写真素材(原稿という)は、そのまま見ると、割合つまらない事が多いが、その様な原稿でもオペレータの手にかかると見違えるような写真になることがある。オペレーターは、スクリーン線数や紙質を考慮してあるため、素人(ここでは全てのカメラマンを指す)があまり元の原稿を触らない方が良い。

 今日の写真は、前回のフローラルガーデンとほぼ正反対の暗い画面になっているが、明るい画面の中に黒い物(前回)、あるいは、暗い画面の中に白い物(今回)は、経験や実績よりも、理屈をちゃんと組み立てられれば、贅沢なレンズと高価なカメラを余裕を持って使うほど良い結果が得られるという、当たり前の話である。ただ、実際に肉眼で見える範囲だけを問題にするのではなく、見えない部分についても理屈で考えて余裕を残しておくなど、配慮することも重要である。写真はテーマさえ決まれば、理屈が80%、感性が20%と言っても良い。しかし、この理屈の通用しない20%を埋めるためには、最終的には、自分を磨く必要があるようだ。
ではこちら
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補足 バルブ撮影:シャッターをレリーズを使って開き、そのまま希望する時間だけ撮像素子に露光させる撮影方法。大昔は、フイルムの感度が極端に低かったので、長時間露光 のために使われた。現在は、カメラに内蔵された露出計の性能が良くなって、暗い画面でも短い時間で正確な露出値が得られるため、AUTOで露光時間が決められ、ちゃんと撮影できるが、星座等の撮影では、ストップウォッチを併用してバルブ撮影をする人はまだまだ多い。露光時間は絞りとの関係で経験測になる。 撮影技法としては、歴史も古く、ごく自然な撮影方法で、これも1丁目1番地と言えるぐらい基本中の基本といえる。

2010/04/06

京王フローラルガーデン3


 前回このフローラルガーデンへ来た時のブログには、「この寒々とした時期にこそ、しっかり準備しておかなければならないのであろう。スタッフは、あちこちで忙しそうに木々の手入れに余念がない」と残している。だから、もうそろそろ、その成果が出始めた頃ではないかと思って足を運んだのである。片道38分歩いて来て、休まず園内を歩き5カット撮影して、すぐさま再び帰路に着く。園内には十数分しか滞在していないが、ストップウォッチで締めて1時間39分である。実は、それ以上撮影に時間を掛けても、結果は変わらないし、途中で休憩を取ってしまうと意欲も薄れてしまうからだ。少々体力的にきつい条件とかロケーションの悪い方が頭をよく使うし、その工夫が結果的には自分の納得感に繋がるわけである。仮に、それでも不満が残るようなら、「撮影しない時にこそ、しっかり準備して道具の手入れをしながら、撮影イメージでも膨らませておいたほうが良い」と思う。そういう意味では、まさに造園作業と似ているかもしれない。

 造園作業については、私には分からないので、写真を撮る側から推察すると、どちらも最終的な結果がイメージできていなければならない筈である。そのイメージを実現するために、今日も地道に努力することになる。造園にも写真にも、たまたま条件がよくて良い結果が得られることもある。しかし、継続してよい結果を出そうとすると、本質的なことが分からないと良い段取りが取れない。まさに、行き当たりばったりになる。しかし、何度も同じ事を繰り返すことで少しずつ本質が見えてくる。最初は曖昧模糊として捉えていても、経験を重ねると自然に感覚として身に付いてくるものである。それが、頭の中で統計的処理が行われ、幾つかに分類され、更にそれらが階層化され、繰り返すことによって状況がさらに細分化されて、状況ごとのシナリオが出来上がるのである。そして、また、出来上がったものをよく分析する事も重要である。普通、失敗した時には何故失敗したかを考えるが、それだけでは十分ではない。成功した時も何故成功できたかを分析する必要がある。この2つをバランスよく整理して誰にでも説明できるようになると、セオリーが分かってくるし、不意な失敗要素といえる自分の弱点も見えてくる筈だ。その自分の弱点こそが重要な鍵になることがある。
 道具つまり、ここからはカメラをさすが、できるだけ単純な構造の物が良い。それは、撮影時に細かいところまで気を配り、自分なりに理屈を組み立てて工夫をするからである。今、置かれた状況を把握し、色温度、感度、画角、絞り、シャッター速度、全て自分で何とかしなければならないと思った時にこそ、面白みが出るのである。そして、数多くを経験することで「自分に足りない能力、あるいは不足している知識が何であるかも自覚する」ことができる。それを1つ1つ解決して明日に臨むから、長続きするという理屈になる。そういう意味で、今まで、このブログに掲載してきた写真は、「全て練習結果」と言ってよい。それは、自分の弱点が分かっていて、「次の写真は間違いなく良くなる」という根拠を明確に把握しているからである。

 不用意な失敗も経験する。大昔、仕事で初めて写真を撮らなきゃいけなかった時、ニコンF(露出計のないカメラ)で、先輩方から、「シャッターを切れば写るから」と励まされた。「まいったなあ、撮り直しが効かない取材で、そんな恐ろしい事を言われるなんて」とビビって出掛けた事を思い出すが、その時は、緊張感が漲っていたので失敗とまでも言えず、何とか現像で助けてもらったが、失敗は意外にも、そのずっと先の経験をつんだ頃不意に襲ってくる。なぜか経験も積み上げたのに、「余裕をかましている時とか、被写体をなめている時」に発生するのである。それは、フイルムが巻き上がっていなかった、とか、動く物を撮影するのにSSを持ってきたとか、緊張感のない時に起こしてしまうのである。そんな基本的な失敗は、1度でもすれば懲りるし悔いが残る。そして、それは失敗せずに今日まで来た時ほど危ういと思う、それもセオリーと言ってよい。現代のカメラに当てはめると、状況分析をせずに、何でもAUTO に頼って撮ると、35%ぐらいは失敗作、50%は中途半端な結果になるのと同じである。

 さて、話を本題に戻すと、今日の写真は、このフローラルガーデンで、早くからたくさんのつぼみを蓄える樹で、日本では木蓮と言われているが、ここでは、マグノリア系の「さよなら」というらしい。といっても、私は認識がなかったが、幹に「さよなら」と書いたプレートが巻きつけられていた。細い枝にすずなりに実った、大きなつぼみが溢れる様子に圧倒され、のどかさ中にも迫力を感じる。つぼみは、徐々に開き最大180度まで開くが、今は、根元にやや赤みを帯びて、遠くからでも丸みを感じる。 ここが美しいが、花自体のクローズアップ写真は、何処にでも載っているので、ここでは、持ち味の「迫力と立体感」を失わないように、全体を縦位置で捕らえた。大地に植えてある水仙の花がそれを囲む。そんな造園者の気持ちを伝えたい感じである。そこで、今日の話をまとめると、例えばこの写真が、このフローラルガーデンの造園者であるスタッフのイメージに一致していたら良い写真と言えるかもしれない。 どうかな。
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2010/04/02

やさしいダイズ、これはスゴイ

 東京に戻ると、広島で何か大仕事をしてきたような気持ちで、気力が薄れてしまったが、やはり、平和で健康が一番である。さっそく、気を取り直して話を進めることにする。今日の話題は「まるごと大豆飲料」である。今まで、どうしても好きになれなかったスゴイダイズ・シリーズだが、大豆は人を引き寄せるだけの魅力がある。大豆に含まれる成分がどうのこうのという前に、日本人は古くから、大豆の加工食品である醤油や味噌、豆腐、納豆、ゆば、きな粉、おから等を口にしてきた。さらに、枝豆、もやし、なども食べてきたし、これほど食卓で活躍している食品はない。最近は、若い女性のダイエットや、中高年の健康志向から再び大豆の良さが見直されて、ハンバーグなど二次加工食品への利用も盛んになった。そこには、健康維持というレベルを超えた、成人病予防のために動物性脂肪から、植物性脂肪への食の転換も大きく関与していると思われる。

 さて、今日紹介するのは、ミルクフレーバーを使用して、ミルクのように優しい飲み心地を実現した「やさしいダイズ」である。これによって、過去に豆くささや飲みにくさによって敬遠していた人も、黙って飲まされると、若干の渋みが残るので、牛乳ではないことは分かるが、喉越しは美味しく乳製品の一種のように思うに違いない。しかし、牛乳では実現できないコレステロール0、乳脂肪分も0、さらに、牛乳に比べて30%少ないカロリーということである。そして、カルシウム、たんぱく質(こちらは植物性)は、牛乳と同等量を含み、加えて大豆特有のイソフラボンや食物繊維を大量に含んでいる。つまり、大豆成分の良いところは全く逃さず、牛乳成分の良いところを併せ持つということのようだ。

 人は、体にとって不要な成分として、動物性脂肪、カロリー、糖分、塩分を挙げ、一方、必要不可欠として天然から摂取したい成分としてビタミン、カルシウム、ミネラル、コラーゲンなどを挙げる。このようなニーズは、健康維持の為に得た医学的な根拠に基づくものであり、これらに配慮した食品企画は、マーケティングとしても大変優れていると思われる。しかし、最も大切なことは、やはり飲みやすくしたことに尽きる。とにも、かくにも、継続して飲んでもらわなければ良さも分かってもらえないわけで、そこに苦労の跡が見受けられる。

 今までも、このブログでは大塚の商品は数多く紹介してきた。会社は私が子供の頃から馴染んでいるし、先進的な商品作りで信念を感じる優れた会社である。しかし、過去の商品を振り返ると、今でこそ定着したが、どれも最初は受け入れられず苦労している。そして、この前のスゴイダイズにも、「言い訳にならない批判めいたこと」も書いてきた。その、どうにもこうにも受け入れにくかったものを、飲めるようにしてくれた功績を個人的に評価したい。そして、このミルクのような優しい飲み心地は、消費は減っているものの、体に良いと信じている根強い牛乳消費者にも受け入れられるし、健康維持のため豆乳には興味があるが、飲みにくさで閉口していた人達にも受け入れやすいと思う。

 一方、大塚は、これまで健康に関心のある人達を、徐々に自社の商品の虜にしてきた。あるいは、その様な人達を育ててきたと言っても過言ではない。そのため、健康に興味を持った熱心なファンからの注目度は高いし、彼等は、商品の成分にめっぽう鋭い視点を備えている。成分1つ1つを眺め、これは、なんだろうとか、何のために入っているのだろう、という疑問を持つのである。だから、商品には、何らかの補足説明が必要で、最初だけでも「商品の構成を説明した補足冊子」でも付けて欲しいと思うのである。この商品裏に書かれた詳細は、PDFに記載したが、成分のおおよその予想は付くにしても、なぜ、このような成分が必要なのかは、明確にはわからないのである。そしてもう1つ、1度にたくさん飲めないので、キャップ付きにして欲しいとか、紙パックにもう少し工夫があっても良いと思う人も少なくないと思うが、紙パックを丸ごと捨てられるから地球環境に優しいと考えたのであろう。いずれにしても、大塚の商品にもっと理解を深めるための、詳細な説明を欲しがる人は多い筈である。ファンであればあるほど納得したいのである。これが健康オタクの心理である。

 ただし、この商品の販売エリアは関東甲信越地域、発売日は3月8日で、賞味期限は製造日より90日、保存方法10度以下要冷蔵となっている。

 余談になるが、最近は商品開発にお金を掛けず、古いヒット商品を再び登場させる食品メーカーが多い。これは、新商品を投入しても、浸透するまでに時間がかかることに他ならないが、それでは、復活商品は、なぜ現在まで継続できなかったのであろうか、健康オタクは、その要因こそ、会社自体の体質に問題があるのではないかと疑うのである。つまり、会社の体質も人の体と同じだと思うのであろう。自信のある「優れた商品」ならば、成分調整をしながらでも、ちゃんと販売が継続できるはずである。やはり、人の口に入り、すぐに吸収される液体系は、特に影響は大きいし、効き目が早い。だからこそ、現在までに解明されてきた「健康維持の要件を先取り」し、現在の技術で実現できる「いつも優れた商品」を自信を持って提供してもらいたいものだ。
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