「こま」には2種類ある。1つは将棋の駒、もう1つは、紐を引って回転させる独楽である。今日のこまは、こちらの独楽である。ろくろに「瓢箪(ひょうたん)」を取り付けて、回転させて削っている様子を連想すると、ひょっとしたら、そうやって「瓢箪から独楽(こま)」が出来るのでは、と思うかもしれないが、それは勘違いである。普通は、「瓢箪から駒」である。これでも、まだ、意味不明なところがあり、ひょっとしたら出来るかもしれないが、「瓢箪から米」、「瓢箪から仔馬」というと、やっと意味が通じて、そりゃあ無理でしょってことになる。冗談で笑い飛ばした「ありえない話が、まれに現実になる」ことを、「瓢箪から駒」という言い方をする。しかし、まったく根拠のないことから冗談が浮かぶわけもなく、やはり、どこかに僅かな可能性を残していて、それを面白可笑しく話してみる探求心があるからこそ、万に1つでも、「瓢箪から駒」が出来る可能性が残されているのである。
その、「独楽の形をした最中を作ったらどうか」と考えた人がいたようだ。作る難しさに加えて、それを珍しがって買ってもらい、採算に乗せるところまで考えると、独楽を見ながら考え込んでしまったに違いない。しかし、難関を乗り越えても、それを実現できたとしたら、まさに「瓢箪から駒」と言っても良いのではないだろうか。そうやって、難しい独楽の形をした最中を作ることで、珍重され商売に広がりを見せてきたのである。その最中の洗練された外形には、鉢巻きがされている。1個、1個複雑な形状に餡をまんべんなく馴染ませ、2つ同じものを作り、張り合わせて鉢巻きをして組み上げる手間は、一般の最中とは工程の繊細さに大きな隔たりがある。しかも、この独楽の形をした本格的な最中は、他に類がないのである。
神奈川県の大山阿夫利神社では、参拝者向けのお土産として「大山こま」が販売されてきた。これは、お土産屋が名産を縁起物にすり変えた、「奥ゆかしい市場刺激策」の1つだったと考えられる。独楽は、円い型にしっかりした芯棒を付けることで、よどみなく金運が回る、と独楽へ独自の解釈とこじつけを加えて、縁起物として親しむ要素を組み込んだのだろう。参道の両脇にはお土産屋が並び、参拝した帰り際は、気持ちが楽になることから、お参りに来た証として、縁起物のお土産を買って帰ると言う習慣が定着してきたと思われる。独楽を中心にしたお土産は、それだけなら、単なる郷土民芸品で終わってしまうが、独楽にまつわる菓子や饅頭などもお土産にすることで、市場規模はさらに拡大すると、当時の人は考えたに違いない。
今日は、その大山参りに行ったわけではない。PDF写真の品物は「尊敬する先輩からの戴き物」である。箱に詰めてあるのは、丁寧に作られた珍しい「大山こま最中」のほか、「大山まいり」(バター風味の生地で甘露煮にした一粒の栗・梅を包んで焼き上げた焼き菓子)。白と緑の包は栗、赤の包は梅が入っている。それ以外に別包装の「桃山」と言う、栗、桃、梅が入った饅頭である。どれも、なかなか上品なお品で美味しいが、「大山こま最中」は、その中にあって圧倒的な存在感で魅かれるものがある。ではこちら
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