2013/01/08

多摩川2

  大河の縁の空気は冷たいし、いくらか風もある。正月過ぎの人出は少ない筈なのに、今のここはそうでもない。しかも、歩いたり走ったりする人ばかりではない。ハーモニカとギターで昭和のフォークを奏でる人。自転車のギアチェンジをしてスピードを楽しむ人、徐々に近づく掛け声とともに、走り抜けていく学生達、川向こうまで響くような金管楽器の練習をする人、そんな想い々の人が自分の得意技を披露している。漠然と周囲を意識することで、より自分の世界に集中できるのであろう。いつもと違った場所で創作意欲を膨らませ、自らの可能性を高める為に技術を磨くのである。いやいや、この広大な空間を試合や本番の舞台と想定しているのかもしれない。


  人は、やはり本番で輝く時を常にイメージすべきである。趣味でも仕事でもそうであったほうが気概を継続させることに繋がる。それがどのような根拠で達成できるか早道を考える必要はないが、少なくとも、その為に今の自分に「足りないもの」を探し続けることが、今後の人生を豊かにするかもしれない。また、それが雑多の中から本物を嗅ぎ分ける能力を養うことにも繋がる。昔の人は、芸術的なものを趣味だと決め付けていた。趣味だから「こんなもので良いとか、妥協は仕方ないとか、時間やお金が掛けられないとか」様々に採算性とか言い訳なるものを考えがちだが、趣味こそ本物を目指して努力しておきたい。そのような一歩踏み出す気持ちが、この場所で「微妙な姿」を魅せ付けているのである。

 微妙な姿とは、例えばギターを奏でながら歌っている人を見かけたら、ウォーキング途中でも足を止めて耳を傾け、拍手や励ましの声をかけたり、「応援している」という意思表示をする、あるいは、音は聴こえているけれど、興味もないし聴こえていない顔をしたほうがよいのか、そういう、どちらを望んでいるのか、こちらが対応を迷う「相手の姿」のことである。おそらくそれは、路上からどのくらい離れた距離にいるのかということと深い関係があるに違いない。路上から遠くにいれば無関心でいて欲しいと思っているし、路上から近くにいれば、足を止めて少し興味を示して、応援してくれた方が嬉しい、と思っているかもしれないのである。あくまで仮定だが、こちらに十分な知識のない分野の対応は、逆に邪魔になるので無関心でいたほうがよい。

 そんなことを歩きながら考えていると、三脚を路上のアスファルトにかけて絵を描いている人を見つけた。上記の考えの延長線上で対応するならば、「声をかけて、賛辞を贈る」とかしなければならない距離になる。果たして、こういう場合の対応はどうすればよいのか、しかし、対応の方針が出てこない。足を止めて 「いいすねー」と挨拶ぐらいしか出来ないかもしれないし、面倒に思われるぐらい色々質問したり、根掘り葉掘り取材をしてしまうかもしれない。もちろん相手次第ではあるが「絵が描けるのが羨ましい」と感じている程度の当方としては、いつか言葉を失ってしまうに違いない。逆に「話しかけないでくれ」と言われると後々気分もよろしくない。そんな難しい対応が刻々と近づいてくる。果たしてどうすべきなのか。
それがこちら
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