2013/01/25

たねやのぜんざい

 今、昭和の時代を振り返るようなTV番組が流行している。そこには、夕日に映る商店街、走り去るオート三輪、みんなで囲んだ丸い食卓、金属で出来た黒い扇風機、背中が熱くなる五右衛門風呂など、よく探して来たなと関心するものがあちこちに再現されている。そういった形や物によって、みんなが共有した昭和の記憶は甦る。だから、家族に起きたことを思い出すと、そこにあった物を簡単には捨てられられない。今でも大切に昭和の形や物の中で生きる人達もいる。巣立った子供達の思い出があるので、捨てるに捨てられないのかもしれない。そこにある形や物には、過去と未来を繋ぐ想いが染込んでいるのだろうか。

  しかし、本当に大切にしたいのは、そこにある形や物ではない。かつての、祖母を思い出す手がかりのようなもので、もはや自分にしかわからない「日常の思い出」の中に存在するのである。それは、果物の切り方であったり、料理の盛り付けであったり、豆の煮方であたり、ふとそれと同じ形や味がよぎる事があったりすると、じわっと遠い昔を思い出しながら、祖母が近くにいるように、その「ありがたみ」をしみじみと実感するわけである。そういう追憶を通して、自分の生き方というか、祖母からの指令のような期待感までもが、今更に伝えられようとしているのである。

 今日、デパ地下の食品売り場で珍しい「ぜんざい」を見つけた。少し前なら、と言っても20年ぐらい前になるが、「汁粉の元」はあった。最中種であつらえた樽の形をした容器を、椀の中に入れてお湯を注ぐと最中種が崩れ、中の汁粉の粉末がお湯に溶け出して、さっぱりとした「おしるこ」になる。それを思い出しながら「ぜんざいも、それに習ったものか?」と近づいてみる。どうもそうではなさそうだ。よく観ると「2月10日までの限定販売」とあり、当然即席ではない。そ、そうか、俺には時間が無い。こういう商品は、すぐに無くなってしまう恐れさえあるので、今日、買っておかなければならない。ついでに、その隣に置いてある「おはぎのような赤白の大福」も一緒に包んでもらった。これが、後になって意外に大きな感動を与えてくれたのである。

 おまけで買った大福なんか、大して気にも留めず小腹が空いてからにしようと思っていた。しかし、硬くなる前に口にしないと何が待ち受けているか分からない。明日大地震が襲ってきたら・・・、そんなよくある不安から、さっさと口に押し込んでしまったのである。もちろん、何も起こるはずはないと思っていた。しかし、その中の餡子からは、子供の頃を髣髴とさせる懐かしさと、上品な甘味がじわっと広がってきたのである。そうだ、餡子の小豆が口の中で崩れる硬さは、このくらいが好きだった。おまけに、手間の掛かる「こし餡」と「小豆の粒」を混合する割合で、美味さの印象が変わるけれど「この比率が丁度いい」。その食感に、ぐっと近くに祖母を感じてしまった。この上品な甘味と小豆がこし餡の中で崩れていく食感は、不思議なくらい記憶を鮮明に甦らせてくれたのである。

  今まで小豆の餡子を食べてきたけれど、こんなにも懐かしい味の餡子がまだ存在していたのかと、自ら遠い記憶を呼び起こそうとしていた。甘味は少し違うけれど、この感覚は、かつて「鶴屋」でも感じた事があったのである。既に、関東の甘味に慣れてしまっている自分の感性が「関西の老舗」の餡子作りに、ふるさとの昔の味が甦ったのかもしれない。

  そして、本命の「ぜんざい」は、やはり、文句の無いとびきりの「ぜんざい」であった。この、ややもすると「豆臭くて美味しくない」といわれる程に甘味が抑えられ、小豆があくまでも豆である事を実感させてくれる口解けがいい。豆本来の美味しさを引き出し、少しだけ甘味を加えることで喉越しが優しくなる、そんな食感がぜんざい本来の楽しみ方なのである。一口で、これは「素晴らしい」と思った。小豆の品質も揃っていて、伝説的とでも言えそうな技を感じる。ひょっとしたら、昭和30年頃からの職人さんが、今でもそのままの方法で作ってくれているのではないかと思わせるような、一寸びっくりするぐらい「豆の味を引き出す美味しさ」が漂っていたのである。
ではこちら
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