2009/02/24

続デジタルカメラ19

 今日は、今年2度目の神代植物園へ来て、北側エリアにいる。前回来園したときに、どうしても、この木の曲線に引き止められ、シャッターを押したい気持ちになったのだが、時間不足で撮影できなかった為である。これは、夏場に美しい花を咲かせる「サルスベリ」という木である。花が咲いている期間が長いので「百日紅」といわれ、赤、白、桃色、赤紫色の花が咲く。その時期は、あまり珍しくもないので撮影する人は殆どいない。それなのに、素っ裸になっている今頃撮影しても、「全くしょうがない」が、この弓のように曲がった曲線と表面の皮のツルツルの感じが、なんともいえず、可愛らしくもあり、逞しくもある。かといって、そのまま撮影しても、フレーム全体に色味が少なく、つまらなく写るので、夕日が落ちかける頃まで粘って撮影した。夕方は、風も強くなり、この木の弓のような曲がり具合の背景も少し分かる。この姿は、逆境に耐えて、成長していく人の姿のようで随分印象的だ。

 人は、社会に出て直接被害を被ったり、周りの人に係わり合いのあった事件を通して学ぶ事が出来る。そして、歳を重ねるごとに少しずつ「様々な学び」を通して賢くなる。それは、社会の仕組みや組織にまつわる問題、人の心の中に潜む集団心理、競争の中で生き延びる方法、など様々な社会現象に及び、自分なりに分析・応用、あるいは防衛できるようになる。これを社会に「もまれる」とでもいうのであろうか、そのような経験を繰り返しながら50歳ぐらいを契機に、やっと一人前の大人になれると言う人もいる。大人に成長するには、随分苦労するらしいし、長い時間も必要だ。しかし、一方で、80歳過ぎまで、元気で順風満帆の人生を歩み、大した苦労もなかったという人も少なくないようだ。こういう人達は、口先では簡単そうに話すが、実は、生と死の狭間の「戦争」を経験してきたのである。また、その後のドサクサの中で 「もまれ」 生き延びた人達だ。少々のことでは驚かない免疫が出来ているし、食糧事情の悪い時期にも、たくましく生きたのである。だから、どう見ても防衛能力に優れている。いや、戦闘能力にも優れているに違いない。これらの精神力が、現代社会を生きぬく底力になっている筈だ。改めて考えると、人はどこかの時点で、それ相当の苦労をして成長できるのかもしれない。

 そんな歳を重ねた人達は、口を揃えて言う事がある。「50歳ぐらいは、まだまだ洟垂れ小僧だ。これからが本当の実力だ」と仙人のように言われる。 これは、返す言葉に困るほど、なかなか奥深い言葉ではあるが、この殺伐としたご時世で今後どのような戦略をもって成長すればよいのか、よく見えなくなっている。果たして、そんな先輩方には、どのような目標意識があったのであろうか、現在は、人材を単なる設備のように扱ったり、機械のように償却してしまうのである。これからも、それは助長されるに違いない。

 ならば、将来は、それらに対しリアクション的な生き方をするだけでよいのだろうか。それ自体に必然性があるかのようだが、それで自分が本当に納得できるのであろうか。はなはだ疑問である。何もかも全て駄目だと、まとめて取り扱うような考え方は、社会の構図を注意深く捕らえているとは言えないし、分析も十分ではない。社会の中には自分の身の丈を意識し、その中で自分が納得する生き方をしたいと願っている人たちも少なくないのである。やはり、国や企業を含めた、その状況や対象をよく分析して、それに適応できる幅の広い対応力を備えることが必要と思われる。ある時は、厳格な「裁判長」のように、あるいは悟りを開いた「僧侶」のように、またある時は、「日本無責任男」のように、そしてまたある時は、悪に立ち向かいピンポイント攻撃をする「スナイパー」のように、そういうきめ細かい対応を図りながら、あくまでも自分を見失わないことである。これも人生の修行と心得る。今こそ、国内でも、地域でも、街中でも、社内でもグローバル精神ともいえる、より幅広い多様性が求められているのではないだろうか。

 この写真に写っている「百日紅」を見ながら、自分は、「まだまだ洟垂れ小僧」かあ・・と、妙にそれを受け入れてしまうのである。この木の姿の中にある、その必然性というか、事実を1つ1つ積み上げて育った形状は、植物公園の中で手厚く育てられているはずなのに、いったい何故、このような形になったのであろうか。 (初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)このシリーズはこちら
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