たとえ10年経っていようとも、何も変わらない場所がある。そこに訪れると、昨日の続きのように錯覚してしまうことがある。そして、そこに住んでいる人も、変わっていないような気がする。今にも昔の知り合いが顔を出し、昨日の話の続きをしてくれそうだ。これが、変わらない風景の寛大さなのだろう。 京都は、そういう意味で、変わらない良さがある。しかし、その反面、何だか考えさせられるところでもある。今まで自分が「避けて、忘れかけていた」事を、今更のように突きつける。そんな冷たい風が、いつも前をよぎってしまうのだ。自分の気持ちが変わってしまっているのを、どこかで「恥ずかしく、悔いて」いないか、問いかけられているようだ。そこが、ちょっと気になる。
それは、古くから吾家にあった、掛け軸や茶道具、あるいは、鯉幟、ひな壇や人形隊、いまどきもうこんな古臭いもの格好が悪いし、と、祖母が大切に管理してきたものを、時代が変わった、新しいものに変えよう、「新しいのは、こんなに便利だし、綺麗だ」といって、簡単に古いものを捨ててしまった「後味の悪さ」に似ているのである。そして、そういえば、もう1つ、祖父が愛していた庭も壊してしまい駐車場にしてしまった。煉瓦の塀を壊し、生簀も潰し、松の木も石灯篭もみんな壊してしまった。理由があってしたことで、決して責められるほど悪いこととは思わないが、 その価値観と動機に引っかかるのである。果たして、その選択は「経緯として」正しかったのであろうか。 それを私に問いかける。「祖母が生きていたら、なんて言うのだろう」。そんな、何もかも変わってしまった家に「お盆には、戻ってきてくれるのだろうか」。京都の風景の中には、それを後悔させるように、古いものが沢山残され、きちんと管理されているのである。
あの西本願寺の門にある「オレンジ色に光り輝く木札」を見たときに、その「答えを教わった」ような気がしたのだ。これなら、今の人も、年配の人も、そして、木札の役割を神聖に受け止めてきた昔の人達も、ここに戻ってこれるのである。信仰のあった人達にとって、こんなに「ありがたいこと」はない。そして何も変わっていないことに安堵し、いつでも現世でお世話になった住職に、堂々と「成仏できない未練」を相談しに来れるのである。デジタル電光掲示板では駄目なのだ。人が長い間、心の中で大切にしてきた風景やその実体を、むやみに破壊したり、変えてはならないのである。京都を歩くと、そんな事を「まじめに」考えてしまうのだ。
さて、今回で「京都旅の報告」は最後になる。怪しい案内役で申し訳なかったが、少しは楽しんでいただけただろうか。いつか、この続きを報告できるようにしたい。京都は、何故か憧れ、魅力があると言う人は多いが、これは、至極当然のことである。我々には、戦国時代の武将のように、京へ向かって出陣し、迎え撃つ敵と戦っても、上洛したいと願うDNAが残っているのである。だから、ふと何か思い出すように 「そうだ、京都に行こう」 と血が騒ぐのである。訪れば、訪れる程に何か新しい発見があり、そんな雅な美しさを土産話にできる。こんな、一貫した習性が他にあるだろうか。いや、それだけとは限らない、京都をこよなく愛する人の中には、ひょっとしたら、前世で何度か訪れていたかもしれないし、住んでいたかもしれないのである。初めて来たけれど、何故かこの道に見覚えがあったり、その風景を懐かしく感じたり、この道の先は行き止まりである事を知っていたり、そんな場所に遭遇するかもしれない。ここは、どんな不思議な事があってもおかしくないのである。
みんな、それぞれに感じ方、見方も違うし、楽しみ方も違う。しかし、どの場面や情景でも、自分の感性が刺激される街であることは間違いない。さらに、より深い知識を持って訪れることで、ある時、「鳥肌が立つような喜び」を味わえる予感さえ覚える場所である。
最後も、例のごとく、食べ物の紹介で締めくくることにする。もっとも、他にも、「おばんざい」や珍しく「京都ラーメン」、「京の和料理」も頂いたが、また経験を積んで屁理屈が書けるようになってから扱うことにする。「阿弥陀如来」の前で合掌し、ちょっと謙虚になったかもしれない。いや、もう十分反省している。そんな気持ちで、京都駅地下街の「洋食屋 東洋亭」を紹介する。駅前なので、列車やバスの時間調整にも使えるので、チェックしておきたいお店の1つだ。
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