連休も後半になると、メガホンから出る声がうるさい。「こちらは素材ゴミの回収車です・・・」という大き過ぎる声が飛び込んでくる。そんなにボリュームを上げなくても、分かっている。いつかきちんと整理して渡すから「それまで、待っといてやー」と自分に言い聞かせるように呟く。誰でも歳を重ねると、家の中にゴミが溜まる。しかし、捨てられない物もある。使わないなら、捨てればいいのにと、どこからとも無く聞こえてくるのだが、数年前ぐらいの物なら案外捨てられるが、わが青春の1ページと言えるような物は、そう簡単には捨てられないのである。もちろん、部屋を広く使うには、捨てるしかないのだ。 そんな気分にさせるのも、たるんだ連休だからか。
自分の愚かな戒めとして、あくまで、自分にとってという前提として、趣味というか、コレクションというべきか、それらについて考える。他人から観ると無意味なものに見えるし、家族から言わせるとガラクタである。もっとも、50歳過ぎると自分自身が産業廃棄物であるわけだから、むしろそれとは仲間である。仲間としてそれを捨てるのは、自分自身を捨てるような気持ちになるのかもしれない。だいたいその様な趣味人の過去は、同じような傾向をたどってきたようだ。それは、自分では余り意識できなくても、友人を見ていると良く分かる。同世代の友人に自分を投影してしまうのである。だいたい、購入して最初の頃は夢中になり、いたくご満悦であるが、ある一定の期間保有すると、悪いところが気になったり、他にも目が向く。そして、同系列の物をさらに追加で購入したりする。同じ物は何個も必要ないのだが、高揚した気持ちと期待感がそうさせる。加えて、使いもしない物を、少しづつ理由をつけては、拡充してゆく。これを、専門家に言わせると、このような衝動が起きる根本は、幼少期のおもちゃに端を発するという。欲望を抑えられない、わがままな性格で、しかも、一寸触ってみたいだけで、すぐ飽きるのだそうだ。構造や仕掛けがわかれば、それで満足してしまうのである。そうやって、ガラクタは増えてゆく運命を辿る。愛する物からガラクタになる分岐点は、おおよそ短くて2~3ヶ月、長く続いて1~2年と決まっているらしい。
それほど短い運命とは思わないが、愛するものがある限り、人は自由で快活な人生を歩み、長生きもできるとも言われている。あなたが、何をイメージするかは別として、おっつ?お金?それは何よりも、よろしい。努々つまらない物を買い集めないように。 お金は使い方次第で何にでも形を変えられる。将来の自分への投資にまわしてこそ価値が出る。
なんだか、じじくさい話になってしまったが、今日は、今や何の価値も無い物の集合である。このような記録済みメディアに関係するものは、繰り返しの歴史なので、他人事というように笑い飛ばせない一面があり、みんな多かれ少なかれ同じような事を繰り返している可能性がある。胆に銘じて欲しい。この写真のミュージックテープは、現在、おおよそ170本ぐらい残っている。当時のクラシックのミュージックテープは、殆ど買い求めた。その後も、再び、異なる演奏者の同じ曲をレコードでも買い求めている。さらに最近は、これまた同じようにCDを揃えてきた。クラシックは、素人的には200~300もあれば十分であるのに、結局、録音が違うとか、指揮者やオーケストラが違うとか、手軽で便利になったとか、色々理由をつけては、二重、三重に買い求める羽目になる。
そのような時代であったと言ってしまえばそれまでだが、いつか来る、捨てる時のことも考えて揃えるようにすべきだった。と大いに反省。 ただ、これら夢中になった青春時代は、大変充実していたことも忘れられない。だから、この様な物は、誰しも大切にとってあるに違いない。
ではこちら、今更コメントはない。
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