2009/08/28

低GI食品3

 今年は早々と友人達にお中元と称してSOYJOYを贈った。先手を取れば、贈答品の品種選定の迷いが減る。みんな恐らく糖尿病予備軍の資格保持者に違いないし、女性はダイエット食品として、子供達にはお菓子の扱いでいける。饅頭、水羊羹、ジュース、食料品など、昔の様に色々考える余地は無かった。お前のせいで健康診断で引っかかったよとか、嫌味の1つも言われたくないからである。だいたい、我々の世代は、何かにつけて責任を他に押し付けるのが得意だ。先輩方のように潔い良い男は減っている。これもまた難しい世代だと自分を省みながらの行動であった。

 そんなこともすっかり忘れていたある日、荷物が届いた。そうそう、以前に「ディスカバリー」で紹介した「おやつはカールのおじさんに似た髭のオヤジ」である。なんだろなーと思いながら開けてみると、ナッツの缶の詰め合わせが入っていた。「ふーん。こういう物もあるんだ」、と思いながら、右手で携帯に手を伸ばし、たまには電話をしてみるか、私がビールなんか飲まないのを知っているはずなのに、彼のことだからきっと何か意図があるのかもしれない。「俺だよ、荷物受け取った、ありがとう」。「おお、着いたか」と元気そうな声が飛び込んできた。すこぶる調子が良さそうだ。背後でブラームスが鳴っている。相変わらずだ。電話で分かるはずも無いが「いい音出してるじゃないか、前より良くなってるよ」。「そうだろう、箱を変えたんだ、低音が出るようになってね、レコードを片っ端から聴きなおしてるんだ。で、アンプの方にも手を加えたりして、一寸忙しくて、遅くなって申し訳ない」。「ナッツって、なんか訳あんのか?」「おお、お前のブログ観ながら考えたんだ、すぐに分かっただろ」「ええっ?」、これがさっぱり見当がつかなかったのである。

 彼が言うには、SOYJOYで健康を気遣ってくれた事は、すぐに分かったと言うのである。しかし、それは、送り主である私がそれを強く意識していることに他ならないということもわかったらしい。だから、好物の甘味も止めて、SOYJOYよりも、もっとGI値の低い物を返してやろうと思ったのだそうだ。SOYJOYはGI=55なのだが、ナッツのGI値は15-30だと言うのである。彼は昔からオーディオでもコンピュータでもスペックを重視する男だった。さすがに、これはSOYJOYの「約半分の値」である。昔から健康の事なんか口にした事の無い男だった。だから、真空管アンプだけではなく、自分の体にも気をつけるようにと、余計なお世話だとは思いながら、意を決して贈ったつもりだったが、完全にコースを読まれて打ち返された感じである。 

 彼が言うには、米国には昔からこの類のものは、いくつかあったと言う。SOYJOYのような形のものも見た事があるそうだ。20年以上も前から太った男は駄目だと言われ、自分も水泳をしたり、夜の食事制限をしていたというのである。逆に自己健康管理の手法をいくつか伝授されてしまった。スペックで負けた以上素直に聞くしかなかったのである。

 今、そのナッツをボリボリ食べながら原稿を書いている。ナッツは、栄養価も高いが油分もあり、ちょっと食べるだけで空腹感はすぐに無くなる。確かに腹持ちも良い。ただ、歯ごたえが心地よいので、次から次へと後を引く、案配を考えながら戴くことにしたい。
ではこちら、当時の彼の実践ダイエットの話を簡単にまとめた。
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2009/08/25

深大寺蕎麦3


 深大寺へ参拝される方は、年配の方々も多いが、意外に若い女性も多い。元三大師堂の中に上がり、願い事をされている。若いうちは、悩みや心が傷つくことも多いのだろう。わかるなー、というか、でも、それが無くなったら、人は「おしまい」である。おしまいになれば、お願いなんぞしなくても、「天からお声がかかる」手筈になっている。人は、生きている限り立ちはだかる様々な課題を克服し、前進する使命がある。毎日、悩みながら苦労をしてこそ有意義な人生であり、終了してから振り返る価値があるというものだ。そんな人生の修行に苦しむときこそ、深大寺を訪れるのが良い。

 ・・・・・我々は、いくつかの課題が重なった場合に、経験不足から時として予想もしない過ちを犯すこともある。あるいは、人を傷つけてしまうこともあるだろう。その大きさに係わらず、そんな時は深大寺に参拝して懺悔するとよい。その証として自分の魂をソケットから取り出して寺の水で隅々までよく洗い、清め、透明感を取り戻して再びセットする必要がある。時には、元三大師堂に上がり、バージョンアップされたファームウエアを受け取り、それをロードしてみるのも良い。機能が拡張されているはずである。信心深い人や宗教家だけが、そのような行為をするわけではない。自分の道を模索するときは誰でもそれが必要になる時がある。それを特別視する必要は無い。

 また、自分一人で苦しみを抱えていても仕方ない、時には、住職の「いい話を聞いて」大らかで心地よい気分になり、ストレスを解消すべきである。何かつまらないことにこだわっていたな、もっと大きく捕らえればよかったな、なんてことにも気がつくはずだ。自分の人生を楽にできるのは、自分でしかない。また、改心しようとするとき、周囲はとかく邪魔をしようとしたり、引き戻そうと覆いすがるが、そんな理屈を一から十まで聞いてはならない。

 信心は、組織や集合に参加することではない。自力で自分を信じることであり、「自分から信じてもらえる自分を創る」ことである。また、そのために日々努力することでもある。人からどのように思われても、いつも自分の志向する「あるべき姿をイメージ」しながら、自分を磨かなければならない。

 そして、もっとも重要なことは、人生の第四コーナーを回り、坂に差し掛かったことを実感するようになったら、この深大寺の静寂の中で自分が本当に「やるべき事、好きなこと、あるいは信じる事をやってきたか」振り返ってみることだ。もし、僅かでもやり残しがあるなら再びアフターバーナーに点火しエンジン全開で、もう一度、それをやり遂げるよう努力すべきである。深大寺はその精神を歓迎して見守ってくれるはずだ。

  ・・・・・ そんな、自分に不釣合いで偉そうな事を深大寺の蕎麦屋で考える事がある。そうやって、何年も深大寺に足しげく通い、知らず知らずのうちに歳を重ねた先輩方も多いと思う。蕎麦屋では、そんな古い知り合いに遭遇して懐かしむこともあるようだ。そんな時にこそ、この寺を囲む蕎麦屋の持つ役割は大きい。若いときには、そんなことはつゆとも知らず、ただ空腹を満たすために蕎麦を食らっていたわけで、なぜ、どの店も腰のある蕎麦を出してくれないんだろう、これじゃ手打ちじゃないよ、蕎麦つゆはもっと辛くてもいいのに、と思うことも多かった。しかし、通い続けながら周囲のお客を眺めることで、やっと、ここの蕎麦と蕎麦つゆの持つ背景が分かりかけてきたような気がする。この場所のマーケティングは、ここに座ることで初めて見えてくるのだ。

 ということで、随分遠回りの話になってしまったが、やはり今日も蕎麦の話になる。いわずと知れた「スーパーにある深大寺蕎麦を自宅で楽しむ」の第3弾である。最近、深大寺で見かけなくなった「にしん蕎麦」を京都風に再現してみた。使われている写真は、いつものように我アーカイブスの膨大なスナップの中から選び出したもので、あくまでイメージ写真である。コダクローム64でフイルム調の懐かしさも満喫してもらいたい。ここで言うフイルム調とは、「子ずれ狼」風という意味である。ここまで深大寺の写真が集まると、写真集でも出したい気分になってくる。ちなみにタイトルは「深大寺蕎麦修行列伝」 といったところかな。
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2009/08/21

自作料理16

 以前、アントニオデリというお店の「4種のチーズ・ソースのリガトーニ」を紹介した事がある。チーズソースが「たまらなく美味しい」という記述も残している。今日は、それを思い出し、よく整理して自己流を取り入れ、朝食に応用してみる事にする。朝は、これから体が活動状態になるので、こういう時間帯にこそ高カロリー食品を用意して休日を自由奔放に過ごしたい。ウォーキングにも出なきゃいけないので瞬発力が出て、途中でお腹が空き過ぎて気力がなくならないよう、休日の朝は、腹をほぼ満タン仕様にする。

 4種のチーズ・ソースのリガトーニを食べる前は、ペンネなんて何が美味しいんだろうと思ってきた。そもそも、何でこのような形状のものが存在するのか疑問にさえ思っていたのである。しかし、最近これが大変便利な事が分かってきた。そんなの当たり前だよと言われるのかもしれないが、1.小分けにしやすい。2.箸でも食べられる。3.鍋に収まりが良い、等よく考えられていることにやや感銘を受けている。次は食感なのだが、いつも、少々「硬いなっ」て思っていたのである。いわゆるスパゲティーやフィットチーネは、少々歯ごたえがあったほうが美味しく感じるのに、ペンネの硬いのは何故か受け入れ難たかったからだ。それがあのアントニオデリのリガトーニを食べて、「そうだよ、これくらい柔らかく弾力があるほうが美味しい」と思ったのである。それから俄然ペンネが好きになった。残された課題は、茹でるときの塩分をどうするかである。いくらウォーキング中に汗をかくといっても、食事の塩分濃度は低い方が良い。もし、不足しているようであれば、あとでいくらでも補給する手段はあるからだ。

 これらの事を配慮しながら、自分なりに手順を考えて作業に入るが、まず、湯を沸かすことから始める。そして、いつものようにベビーリーフをお皿に敷く。これは、サラダを別に用意しなくても済むし、ソースを出来るだけ無駄にしない、後でお皿が洗い易いなどのメリットがあるからで、自分で皿やフライパン、鍋などを洗うようになってから自然にそうなった。これも、偉そうに申し上げると地球環境に優しいって感じなのだが、実は自分が後々楽なのである。また、ベビーリーフ自体も少々苦味があってなかなか後口も良い。ペンネは、20cm程度の鍋で作業が出来るので、比較的少量の天然水で茹でられる。天然塩は使わない。通常の茹で時間は9分と指定されているが、何回かの実験の結果30%増の12分ぐらいが最適と判断した。これは好みなので時間自体に特別意図は無いが、多少長めの方が良い結果が得られやすいと思う。

 その他に準備する食材は、チーズは2種、ハインツのホワイトソース1袋、パセリ、ミニトマト等である。チーズは、溶けやすいモッツァレラと、最後に粉末で追加するブラックペッパー入りゴルゴンゾーラを使用した。ホワイトソースは少量作るのが面倒なので、あのハインツ製を使用する。小分けにした4袋が箱に入っている商品で、案外便利に使いこなせる。このホワイトソースもハインツ流の味付けである事をご承知おき戴きたい。自作では得られない「くどさ」というか「味の強調感」があり、単独で使用するのは少々抵抗がある。そこで、モッツァレラ・チーズと混ぜ合わせると、強調感は薄れて丁度よい感じになる。ブラックペッパー入りゴルゴンゾーラは、ここでは半分溶かし込んでしまったが、実際は、削りだす程度の使用で済ませるのが良い。出来上がりは、写真を見ていただくとして、ポイントは、塩分量を可能な限り抑えることと、ペンネの茹で時間は少々長めにすることで、これさえ抑えておけば、消化も早く、食後の激しい運動時にも苦しむことはない。
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2009/08/18

JAZZ喫茶 咲蘭房


 我々の世代は、諸先輩方の言われるとおり仕事をこなしてきた。仕事だけではない、生きる理屈や人生観まで教わったような気がする。諸先輩方とは、現在60~65歳ぐらいの人達を指すわけだが、若い人たちから眺めると、50代後半も60代前半も大した違いはないように見えるかもしれないが、実は、何かにつけてポリシーある・なしで、まるでスイッチON/OFFぐらい「人生の取り組み方に違い」が存在したのである。かつて、会社のそんな先輩から、少々小難しい理屈を聞き、軍隊のように「難しいことは分かりませんが、要は、その通りやればいいんですね」と、やや投げやりに実行しても、豊富な経験に基づき理屈もしっかりしているから、成功もできるわけである。おまけに、「よくやった」と誉められる。こんな「楽ちんで嬉しいこと」はない。その繰り返しで仕事をこなしてきたような気がする。いずれ先輩は多くを語らず、仕事だけを渡すようになる。当然、教わったいくつかのパターンでやれば、必ず上手く行ったものだ。そして、それが自分の実力だと錯覚をしてきたのである。

 そういう先輩の年代60~65歳は「扱いにくい世代」でもある。俺の考えていることなんぞ、みんなお見通しで、行き詰ると次から次へと先回りして新たな手口を用意しているのである。結局到達点は、先輩の手の内にあるわけだ。今でも、この手の先輩の訓示は、無抵抗主義になり「素直に受け入れる事」が早道である。抵抗すればするほど遠回りをすることになるからだ。この世代の人たちは私と何が違うのであろうか、歳を一寸だけ多く重ねた違いだけではない、何か理由があるはずだ。今日は、改めて身近にいる「先輩の年代の人たち」からその「こだわり」を少し覗いてみる。今、この年代の人は、世の中にあふれて、いたるところに存在している。しかし、出来るオヤジはやはり少ない。

 好むと好まざるとにかかわらず、そんな人に出くわすと、なぜか低姿勢になることがある。人は「侍のように、その場の間合いを読む力」をDNAとして受け継いでいる。立ち会った瞬間「お主できるな」と思わせる瞬間のことである。あるいは、ちょっとした挙動で「こいつ駄目だな、チェッ」とピンとくる瞬間である。まあ、後者は安心できるが、前者はいくら「物腰が柔らかく」ても適度に緊張を伴うわけである。むしろ、その物腰が柔らかい分只者ではないことが多い。しかし、そんな人に親しく話しかけてもらうと、たいへん「嬉しい」のも事実だが、余計緊張する事もある。

 ここ「咲欄房」のマスターもそんな尖ったオヤジの一人だ。しかし、そんな尖る前の写真を見せてもらいながら、その全体像に迫ってみたい。上の写真の「可愛いい、ぼくちゃん達」をみて欲しい。自分達のバンドで演奏中のスナップである。校舎と校舎の間で演奏する彼らは、きっと飯よりも演奏が好きだったに違いない。左端がマスターの若き日の姿であるが、この「ぼくちゃん」が、その後、捨て身で上京し、トロンボーン1本で快進撃を続けてきた。いえ、今もバリバリの現役で二足の草鞋を履く男なのである。今日の紹介は、JAZZ喫茶の「咲欄房」なのだが、そのマスターの人なりや経歴を知ることは、このお店を把握するのに近道でもある。
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2009/08/14

三輪素麺

 いまどき、儀礼的に頂戴しても、食べるのに苦心する物がある。確かに日本の伝統的な食べ物には、低カロリーなものが多いわけで、低GI修行中の身には好都合なのだが、こと「そうめん」だけは、扱いにくいと思われる。幼い頃は父、母、祖母と一緒に食べた記憶があるが、すでに自分の気持ちの中では、昭和の遠い思い出になってしまっていた。しかし、そんなものを頂戴したらどうすればよいのであろうか。珍しく考え込んでしまったのである。包装も手の込んだもので、恭しく戴くことを示唆するように、薫りの良い木枠に入っている。古式豊かな食べ方でないと、どうにも許されそうに無い感じもあり、このあたりが、いかにも日本式というのであろうか、外堀を埋められたようで、形から入るというか、まるっきり逃げ道の無い方向感をかもし出してくる。

 とりあえず、木枠を外し中身を開いてみると、予想もしなかった紙切れが入っていた。料理法が載っているのである。そうか、誰でも同じ様に困ると思っているに違いない。製造者でさえも、この熟練された技術を活かす方法を模索しているようだ。そこを鑑みて、用意されているのであろう。このあたりにも、日本人の優柔不断というか妥協的な性質が覗いている。これで、食べ方まで決められていたとしたら、それはもう、お届け物として次は無い商品となってしまうからだ。

 開いてみると、あまり綺麗ではない調理写真と材料の記述があり、趣向別に構成されている。和風では「すき焼きそうめん」、「にゅうめん」、「冷やしそうめん」このような食べ方が、標準なのであろうか。洋風では「きのこ炒めそうめん」、「なすのトマトソース和え」、これらはパスタに近い感じだ。中華風もある「カニあんかけそうめん」、「白菜の中華風サラダ」これなら御飯の方がいいのではないか。駄目押しに、エスニック風というものまであり、「タイ風焼きめん」、「バンバンジー風そうめん」、ここまでくると、もう調理写真を見ただけでお腹いっぱいになってしまう。

 それにしても、素麺が届いたのも何かの「縁」である。送り主はきっと喜んでもらえると思っている筈だ。その意をくんで一生懸命調理して食べようと思う。そして、堪能した証として、多少なりとも美味しそうに見える写真を残しておきたい。木箱の中には、「三輪の神杉」という素麺12束(1束50g)、「杉の雫」というつゆ(2倍希釈)が同梱されていた。とりあえず、1束を普通の冷やしそうめんにしてみるが、つゆの力でやっと食べたという感じである。次の1束は、暖かい「にゅうめん」にしてみた。どちらかといえば、こちらの方が自分には適している気がするので、独自の麺つゆを作って食べることにする。

 つゆは、同梱されているものを希釈して使用しても良いが、やはり、ここは1つこだわりを活かしたい。鰹節の削り節と、椎茸をアルカリイオン水を使ってだし汁を作り、帆立だしの素、日本酒、本醸造の醤油、を加えて煮沸させる。アルコールが飛んだところで火を止め、椀に移しておく。次に素麺を茹でる。素麺は、お湯の中で自ら動き回るので調節は火力だけである。1分で取り出し、冷たい流水で洗う。水をよく切ってから椀に移す。上に乗せる物としては、玉子焼、きぬさやえんどう(あらかじめだし汁で煮ておく)、かまぼこ、椎茸の甘辛く煮たもの、彩の為に寿司ネタ用の海老など、好きなものを用意したいが、ちゃんとした下味をつけておく必要があり、それぞれ別々に味付けしておくなんて「そうめん」は結局和のぜいたく品である。 まあ、美味しく戴くには手間と時間は仕方ない。上に乗せる物は、できるだけ種類を多くして飽きが来ない方が良い。

 出来上がった調理例を写真に撮ってみた。椀の中の僅かな範囲をシャープに出して、他をぼかしてみた。鰹節の削り節から出た旨味がたっぷりの上品な麺つゆは、素麺を1ランク高級品にしていると思う。どうかな、美味そうに見えるかな? おっと、甘辛く煮た椎茸を入れるのを忘れてしまった。
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2009/08/11

夏カレー

 八百屋の前を通りかかるとラジオから、「麦わら帽子は、もうきえ~た。たんぼの蛙は、もうきえ~た」と、聞こえてきた。そんなメロディーに哀愁を感じ、ふと西瓜の前で立ち止まり、湧き上がるように「待つことの楽しみ」への想いが溢れてきた。「夏休み」という言葉は、いつ聞いても興奮する。そ、そうだ、もうそんな時期なんだ。まじかに迫るお盆の帰省は、義務感から、いつしか楽しみに変わっていく。その枯れた同郷の歌声に、つい自分も口ずさみながら田舎へ想いを馳せる。徐々に気分が和らぎ、どうゆう訳か周囲にも優しくなれてしまう。これが、この歌と共に生きてきた人達に共通する、素直な反応なのではないだろうか。田舎では、時間の流れがどこか違う。蝉時雨中で絵日記を手伝い、西瓜を一緒に食べ、夕方水まきをし、花火を見守る。もちろん、みんなで墓参りもする。ただ、残念なことに、その楽しい「夏休み」は長くは続かなかった。今や、姪っ子たちも成長し、もう、帰ってくる「東京の激辛カレーおじちゃん」を待つことも無いだろう。

 3個入りネットに包まれた玉葱を見ながら、ふとそう思ったのである。みんな一緒にカレーを作るのが夏休みのイベントだった。汗だくになりながら、辛いの、甘いの、肉なし、にんじんなし、じゃがいももっとなど、それぞれの好みを主張して少しづつ違うカレーを用意する。みんなで手分けして野菜を切るが、時には、互いに口喧嘩をしながらも、怒ったり、泣いたりしながら、なかなかはかどらない。そういう時間を一緒に過ごすことで周囲への思いやりも芽生え、やがて成長していくのである。

 今、目の前の立派な「むっちゃんのパプリカ」「つがる・百笑苦楽分25人の会、自然環境農法EST・1905」と袋に書いてあるパプリカにじっと見入っている。なかなか由緒正しい育ちのようだ。そこでは、「そうねー、青森から来たんねー、そりゃ遠い処から大変じゃったね」とふるさとの母の気持ちにも似た語りかけになっていた。ならば、これを使って夏向きの「辛らーいカレー」でも作ろうかと、自分の胃袋に尋ねてみる。眠っていた胃袋はすぐに目を覚まし、期待を高めている。やや上ずった声で、「おばちゃん、ゴーヤもいいのある、茄子も、」・・・と声をかける。八百屋を出ると、さっきまでいい天気だったのに、どんどん空は暗くなってきた。ゴロゴロと遠くで雷も鳴っている。やばい、来るぞと、いそいそと家路を急ぐ。それにしても、今日は、いい物が手に入った。夏カレーは、どう作っても失敗はしないが、素材は良い物を選びたい。こういう品物が入ると、自分なりに、より完璧な仕事に挑みたい気持ちが湧いてくる。そうそう、予定外の割り込みになるが、これもついでに写真を撮ってブログに載せてみよう。みんな元気を出してくれるかもしれない。そう考えているうちに、ポツポツと雨が額に当たり始め、家に着いたら、あっという間に豪雨になっていた。

 夏場の調理のポイントは、調理中は熱が出るので、煮込む材料の玉葱のみじん切りや南京は3分程度電子レンジで、前加工しておくと後が早い。そして、煮ている物は1度ぐらぐらときたら、無神経に火を小さくするだけではなく、火を止めて余熱を利用する。炒め物も、先にフライパンの火を止め、余熱を使って最後まで上手に具材に熱を通す。そうやって、汗をかきながらも熱量の伝達バランスを考えるのも、一種のストレス解消になる筈だ。

 できたぞーって、お皿に、自分の好きなものを好きなだけ乗せてみた。あたかもバイキングのようなカレーになってしまったが、お味は飛び切り想像通りである。みんなー、ガッツリ食べて元気を出そうぜ。
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2009/08/07

銀座梅林

  先生、「カツ丼」が食べたいんですけど、「そ、それは、無理、ですよ」と、口元に笑みを浮かべながら、先生は言葉を並べ、聞き流すように無心にカルテを書いていた。私も、ちょっと無理だろうなと思ってはいたものの、「小さなカツ1枚ぐらいならいいですよ、その体で食べられるなら」とか、「手術が終わって20日も経てば、大丈夫ですよ」とか、何か「先生の愛を感じる患者への慰め」を期待していたのである。1週間ぐらい、お腹が痛くて食事が出来なくなると、食欲と大脳の幻覚のような駆け引きが露骨に見えてくる。大脳は今まで食べた物の中から、僅かでも美味しかったと記憶に蓄積されたものを、次から次へと呼び出して、すっかり忘れていたことも、鮮明に再現する。きっと、何かを食べさせて食欲をなだめようとしているのである。

 この時は、腹膜炎で緊急手術患者として紹介され、大学病院の外来を訪れたときの話で、無性に「ヒレカツ丼」しかも、「神田の松栄亭(神田シリーズ未公開)」のが食べたかったのである。このまさに「筋金入りの食意地」といってよいほど、生きるか死ぬかの時に、もし、食べれば、すぐに吐き出してしまう状況だったにせよ、目先の食欲だけは、旺盛に活動していたのである。ただ、腹部の方は病名どおり内部が化膿して全体がひどく腫れ上がっていた。

 しかし、あんなに食べたいと思っていた松栄亭のヒレカツ丼も、手術が終わると、すっかり思い出すことも無く記憶から消滅していた。そして、今この銀座梅林のカツ丼の具を食べながら、ふと、7年も昔の手術前の状況を思い出したと言うわけである。我々は、時々食べたい物を標的のようにロックオンしてしまう事がある。前の日から明日のお昼はビーフカツを食べたいと考えていたとする。それは、時間と共に体の隅々までも、そのイメージしたビーフカツを受け入れようとして、あたかも潜水艦の艦長の指令のように、次から次へと「明日のお昼はビーフカツ」という指令が体内を駆け巡るのである。そして、いかなる誘惑的攻撃を受けようとも、「明日のお昼はビーフカツ」は死守されるのである。ところが、待ちに待って出かけてみたら、そのお店がお休みだった。その時の落胆度は極限に達し、それ以外の何を食べようとしても、それ以上に大きなイベントなり、インパクトが無い限りロックオンを解除できないのである。

 最近は、そんな、ちょっとだけお安くて美味しいお店が、あの価格で提供できなくなったのか、客足そのものが向かなくなったのであろうか、わざわざ電車で来たのに、シャッターが下りているケースが増えた。そこで、そんなこだわりのある食材は、冷凍でも何でも計画的に準備しておくと良い。そうすれば、いえ、そう単純ではないが、いつでも冷凍庫から出して食べればよいという精神的なゆとりが、むやみにロックオン・ボタンを操作してしまうことも無いのである。今日は、梅林のカツ丼の具を準備してみた。これも小ぶりで一寸戴くには便利で、お味は「ちと甘い」かもしれないが、添える物に工夫をすることで、なかなか美味しくいただける。

 これで目先の欲求は解消できるとは思うが、たっぷりと味わいたければお店へ出かけるなり、自作するなりして欲しい。
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2009/08/04

私の青汁

 タイトルに「私の青汁」とあるのは、あくまで今日紹介する「商品の名称」で、私が好きだという意味ではない。たまに胃腸の調子が悪い時に仕方なく飲むくらいである。青汁は、健康志向の人が野菜不足を解消するために飲む、一種の精神安定剤ではないかと傍目に思っていた。それにしても、ここまで飲み辛い物を「もう一杯」と喜んで飲む神経が分からない。現在の健康状態は、今までの偏った食事や運動不足が影響していると考えがちである。さらに、加齢に伴い「風邪をひきやすくなった」とか、「膝を痛めた」とか、実感を伴うために、不安もよぎる。しかし、いずれも本質を外しても安易に解決出来ればと思い、健康食品を試してみたい気持ちになるのである。

 しかし、いつもこれらを目の前にして、やや情けなく感じることがある。それは、どこか自分の中に健康に対するそこはかとない願望が呼び起こされ、この世の中に大した貢献もなく、存在価値の無い自分が、「無意味に長生きしたい」、しかも今まで、自由奔放に細胞分裂させてきた反省もなしに、何の努力もせず、ただお金で健康を買えると思ってしまう「いやらしい衝動」にかられ、おまけに「みんな同じだから大丈夫よ、今からでも遅くないから、ただし3箱までよ」と、訳の分からない理屈にさえも、気持ちを揺さぶられてしまうのである。もっとも、青汁だけではなくて、健康食品全般に対してそう感じるのである。まさに、無神経なオヤジの「他力本願型の健康依頼心」をくすぐる商品に見事に引っかかってしまいそうなところが、自分で情けないのである。

 それにしても、健康食品のように「信じて」習慣的に食べたり飲んだりするものは、「効能があるなら明示せよ」そして、「食べてはならない人がいたら明示せよ」と思うのである。そこに製造者としての責任を果たすべきで、それを顧客が認識し、自分で体験して価値を判断すればよいのである。せめて、正しい根拠の理論武装で説得して欲しいのである。そのようなプロセスを踏むと、健康食品に対する「虚像を追い求める依頼心」も無くなり、無知を振り回すオヤジくささも消えてしまうのではないだろうか。そして、自分の健康を自分で保守する主体性というか、自己診断を充実させ、一般の食品に対する認識も広がり、不足している物を補ったり、食べ過ぎている物を控えるなど、正しい知識の下で口にする物を取捨選択するようになる筈だ。そんなことより、早い話、現代社会では「食べすぎ、飲みすぎ、吸い過ぎ」を止めることで、もうすこし健康的になれるのではないだろうか。

 という、屁理屈による試行錯誤と猜疑心の駆け引きの末に、つい、何もしないよりは良いはずと思い、これらに手を伸ばしてしまうこともある。私の場合、「確かにこの青汁は胃腸に良い」傾向がある。理屈を並べれば、色々とあるのかもしれないが、私にはその根拠を正確に説明することは出来ない。それでも、この臨床的優位性は、「不調が続く中でも胃腸が再起動し、粘り強く動いてくれる」というところだ。そこにヤクルト製ならではの特徴があるのかもしれない。そして、もう1つ、この青汁を飲むのが辛いから、できれば避けたいと思い、胃腸が機能停止に陥りそうな「冷たい物、甘い物、油物、カフェインの多い物」などを極力減らすことに注意を払うようになったのである。これも優れた側面で、つまり、健康食品を取らないですむように考えて、それを目の前に用意しておくこと、これこそが、健康食品の本質的な健全性ではないだろうか。

 とかく、健康食品を食べているから、あるいは飲んでいるから、「何を食べても良いし、沢山食べても良い」と言う人も少なくない。それは、あたかも堅牢な肉体維持のためにお金を使っているという本人の自慢かもしれないが、自分の認識不足を周囲へ宣伝しているようなものである。そんなことを発信する前に、その「ヒキガエル」のようなお腹を何とかした方が良い。
 ただ、この青汁は、飲めるものならいくらでも飲んでいいんですよ。慣れてくると、美味しく感じるという習慣性もある。ではこちら
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