2009/08/25

深大寺蕎麦3


 深大寺へ参拝される方は、年配の方々も多いが、意外に若い女性も多い。元三大師堂の中に上がり、願い事をされている。若いうちは、悩みや心が傷つくことも多いのだろう。わかるなー、というか、でも、それが無くなったら、人は「おしまい」である。おしまいになれば、お願いなんぞしなくても、「天からお声がかかる」手筈になっている。人は、生きている限り立ちはだかる様々な課題を克服し、前進する使命がある。毎日、悩みながら苦労をしてこそ有意義な人生であり、終了してから振り返る価値があるというものだ。そんな人生の修行に苦しむときこそ、深大寺を訪れるのが良い。

 ・・・・・我々は、いくつかの課題が重なった場合に、経験不足から時として予想もしない過ちを犯すこともある。あるいは、人を傷つけてしまうこともあるだろう。その大きさに係わらず、そんな時は深大寺に参拝して懺悔するとよい。その証として自分の魂をソケットから取り出して寺の水で隅々までよく洗い、清め、透明感を取り戻して再びセットする必要がある。時には、元三大師堂に上がり、バージョンアップされたファームウエアを受け取り、それをロードしてみるのも良い。機能が拡張されているはずである。信心深い人や宗教家だけが、そのような行為をするわけではない。自分の道を模索するときは誰でもそれが必要になる時がある。それを特別視する必要は無い。

 また、自分一人で苦しみを抱えていても仕方ない、時には、住職の「いい話を聞いて」大らかで心地よい気分になり、ストレスを解消すべきである。何かつまらないことにこだわっていたな、もっと大きく捕らえればよかったな、なんてことにも気がつくはずだ。自分の人生を楽にできるのは、自分でしかない。また、改心しようとするとき、周囲はとかく邪魔をしようとしたり、引き戻そうと覆いすがるが、そんな理屈を一から十まで聞いてはならない。

 信心は、組織や集合に参加することではない。自力で自分を信じることであり、「自分から信じてもらえる自分を創る」ことである。また、そのために日々努力することでもある。人からどのように思われても、いつも自分の志向する「あるべき姿をイメージ」しながら、自分を磨かなければならない。

 そして、もっとも重要なことは、人生の第四コーナーを回り、坂に差し掛かったことを実感するようになったら、この深大寺の静寂の中で自分が本当に「やるべき事、好きなこと、あるいは信じる事をやってきたか」振り返ってみることだ。もし、僅かでもやり残しがあるなら再びアフターバーナーに点火しエンジン全開で、もう一度、それをやり遂げるよう努力すべきである。深大寺はその精神を歓迎して見守ってくれるはずだ。

  ・・・・・ そんな、自分に不釣合いで偉そうな事を深大寺の蕎麦屋で考える事がある。そうやって、何年も深大寺に足しげく通い、知らず知らずのうちに歳を重ねた先輩方も多いと思う。蕎麦屋では、そんな古い知り合いに遭遇して懐かしむこともあるようだ。そんな時にこそ、この寺を囲む蕎麦屋の持つ役割は大きい。若いときには、そんなことはつゆとも知らず、ただ空腹を満たすために蕎麦を食らっていたわけで、なぜ、どの店も腰のある蕎麦を出してくれないんだろう、これじゃ手打ちじゃないよ、蕎麦つゆはもっと辛くてもいいのに、と思うことも多かった。しかし、通い続けながら周囲のお客を眺めることで、やっと、ここの蕎麦と蕎麦つゆの持つ背景が分かりかけてきたような気がする。この場所のマーケティングは、ここに座ることで初めて見えてくるのだ。

 ということで、随分遠回りの話になってしまったが、やはり今日も蕎麦の話になる。いわずと知れた「スーパーにある深大寺蕎麦を自宅で楽しむ」の第3弾である。最近、深大寺で見かけなくなった「にしん蕎麦」を京都風に再現してみた。使われている写真は、いつものように我アーカイブスの膨大なスナップの中から選び出したもので、あくまでイメージ写真である。コダクローム64でフイルム調の懐かしさも満喫してもらいたい。ここで言うフイルム調とは、「子ずれ狼」風という意味である。ここまで深大寺の写真が集まると、写真集でも出したい気分になってくる。ちなみにタイトルは「深大寺蕎麦修行列伝」 といったところかな。
ではこちら
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