2009/11/27

忘れかけたもの

 外国人サッカー選手の中には、ゴールした後、胸に十字をきる人がいる。帰化した選手は、君が代を真剣に歌う。食事の前に手を合わせる人がいる。これらは、目に見えない「万能の存在」を認め、その意向に従って人生を過ごすことが一番良いと考えているのである。日本にも、昔はお天道様が見ているとか、罰があたる、など、僅かな悪いことでも戒められることがあった。大人になると、日常の現実に振り回され、いつしかその「万能の存在」を忘れてしまうのである。

 ところが、歳を重ねてくると、様々な経験の中から、ひょっとしたら「そのような存在」があるかもしれないと本気で思うことがあるらしい。それは、本人、あるいは、家族にしか分からない事が多いようだ。ある時、偶然が幾つも重なったり、自分では無理だと諦めていた事が実現したり、ずっと苦しみ悩んでいた事がある日突然解決したり、良いことばかりでもないらしいが、そんな過去の偶然にも似た体験が、いくつか思い出されることで、自分の力を越えた何かを実感しそのような「万能の存在」をにわかに信ずるようになるらしい。

 我々は、社寺仏閣に入ると「見られている」ような錯覚を持つ。私は「よい子」なんですと言わんばかりに手を合わせ、そこの仕来たりに従う。歳を重ねれば重ねるほど、細部にまで「よい子」ぶりを発揮する。そんな、偉そうに言う私も全く同じ事をする。深大寺の元三大師堂では願いを込めて手を合わせ、おびんずる様にも挨拶をして、時折、開山堂に上がり手を合わせる。どれだけのご利益があるかは具体的に説明できないが、とりあえずその場は、それによって少し心が安堵するのである。それにしても、あくまでも自分の勝手な都合で、神仏を尊び、敬意を払い「優しく見守って欲しい」と、お願いする。これも、自分の宗教観を象徴する行動なのか。

 やはり、今の自分の力では、どうにもならないことがあるとしたら、「願うしかない」と思う。その、その願いとは、僅かに近づいてくるチャンスを待つことなのかもしれない。願わなければ、そのチャンスを見過ごしてしまう。偶然なのか、運命なのか、それは誰にも分からないが、願い続けることによって、その中身は、よく整理され、単純化され、より譲歩し、徐々に実現しやすくなるのである。その願いを簡単な言葉で伝える対象に、神仏が存在しているのである。

 今日の写真は、熱心に決められた時間に規則正しく「願う人」を撮影したものである。この情景は、たまたまいくつかの偶然が重ならなければならないけれど、道を挟んだ隣の公園にレンズを向けファインダーを覗いて、このシーンを見つけたという訳である。興味本位で撮影したと思われても仕方ないが、迷わずシャッターを切り連写した。この願う人は、我々の宗教観とは全く違う人達なので、何とも補足説明のしようはないが、その願いの根本は我々と同じ筈だ。いくつか本人に取材したいと思い、滑り台を掛け降りて探したが、既に建設工具を満載した車は発進してしまった。その後ろ姿を見送りながら、「何とか現場で怪我などせず、稼いだお金を無事に家族に届けて欲しい」と願うしかなかったのである。
 ではこちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21382&app=WordPdf