2013/02/26

月世界

   我々は、幼い時から様々な月の姿を眺めてきて、深い親しみを持っている。実は、月と言うのは、我々人間を守っている巨人が持ったカンデラで、そのカンデラをこちらに向けると満月で、遠くに向けていると三日月になる・・・というようなおとぎ話だったり、月の裏にはUFOの基地があって、地球にどんどん宇宙人を送り込んでいる。それを迎撃するのがシャドウと言う組織で、それを率いる偉い人がストレイカー長官である・・・そんな話を信じていた年頃もあった。いずれにしても、月に寄せる気持ちは、人それぞれ歳相応に違うにしても何かあるに違いない。

  そんな月と言う言葉が引き金になって、再び偉そうに戴き物を紹介する事になった。自分で取材もせず、身銭も切らず、虫のいい話だと思われるかもしれないが、これからも当面は富山方面へ出向くこともないだろうし、折角お土産に戴いたので、食べるだけでは「一瞬の出来事」で終わってしまう心細さから、写真に撮ってページに追加しておきたいと思ったのである。富山と言うと、以前にも「薄氷」という銘菓を紹介したことがある。どちらかと言えば、今日の「月世界」は、あの「薄氷」と甘味が酷似していて、同じように扱われるかもしれない。確かに、甘味の原材料は同じなのだが、趣向が異なるお菓子と推察される。

  うーむ、それは、作法とも言うべき「歴史に裏打ちされた味わい方」に違いがある様にお見受けした。「お主、分かるか?」と問いかけられているような気分になってしまうのだが、何が「味わい方の違い」かと言えば、そのプロセスを洗い出すと納得できそうだ。やはり、お菓子には、どうしても「お茶とか、さ湯とか」、なにかその喉越しを助けるものが必要な時がある。もちろん、それには「一切の糖分」が含まれてはならず、あくまでも喉の通過を助ける程度でなければならない。そこに、お菓子に含まれる甘味が溶けだして、口の中にほのかに広がりを見せ、喉を甘味が通過して行く実感によって、幸せな気分も広がっていくというわけである。

  お菓子は、糖分と様々な混ぜ物とが織りなすハーモニーであるからして、例えば、そこに大納言や少納言の豆の香りと混然一体となった甘味が存在し、さらに、周囲にまぶした砂糖の粉末などもあって、そこへ、一緒に喉を通過する「抹茶の苦み」が加わって、非日常の口どけを味わうことが出来るのである。あくまでもそこには、段階的な味わいも存在し、大納言や少納言のように実体を噛み砕きながら、そこから広がっていく甘味を感じ取る「粉砕型の味わい方」と言えるものがある。一方で、今日の月世界のように、口の中で1つ1つがじわっと広がりを見せ、甘さが急激な変化をせず長続きがする、抑えた甘味を「潤いの中で味わう浸透型」といえるものである。この二つの両極端の間に、様々の作法が存在していたのである。

  甘味の作法や楽しみ方は様々だが、やはり、上品で、何処からか体自身が欲しがっているような甘さを感じさせてくれるのが、この「月世界」である。ここは宣伝文句から引用するが、「月世界は明治のなかばに創製され、独自の世界を形作ってきたお菓子で、じわっと静かに口の中で広がり、日本茶のみならずブラック珈琲にも良く合う」と記述されている。原材料は、和三盆糖、白双糖、鶏卵、寒天という凄く単純な原材料が用いられていて、技術的には和三盆の作りかた1つとっても難度は高く、筆舌に尽くしがたい貴重な甘味である。個人的な感受性を加えてみると、意外にも「個性のある甘さ」で、軽くてじわっと、静かに口の中で溶けて、刻々と変化する甘味がいつまでも続きそうな広がりをみせる。甘味自体も思ったより強いので、甘みに鈍感になった現代人にも好まれる。今日の写真の1包程度が1回分として丁度よい。くれぐれも慎重に楽しみたい。
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補足:著名なお菓子である。人生一度は口にしておきたい。ロンドン国際菓子博でグランプリを得るなど、国際的にも好評を得ているようだ。


2013/02/22

多摩川3

    多摩川との付き合いは長い。自然で僅かな流れの変化や、人工的な護岸の変化も見守ってきた。この場所に来ると、雑多な周囲の喧騒を離れるせいか、その小さな変化とか、平素無関心なことでも気に留まり、先々のことまで詮索することがある。時折、新たな工事を見かけると、素人ながら、余計なことだが「そこよりも、あちら」の方に手を入れたらどうか?などと思うこともある。


     去年の10月中旬から多摩川低水護岸工事が、進められてきた(上の写真は工事前の様子)。この場所は、上布田町あたりで、調布駅側から望むと、ちょうど電気通信大学のグランドの裏にあたる。ここの草木をはがして縁石ブロック、カゴマット、コンクリート・ブロックで護岸を造成するのである。そこには、ちょうど、川の中ほどに孤島があって、そこの流れはいつも緩やかで、夕方になると糸をたれる人が集まり、穏やかな釣場になっていた。その孤島との距離は、おおよそ20~30m程度で、孤島と平行した土手部分は70m~80m程度、そこをふさいでせき止め、水をくみ上げて工事を進めるというものである(下の写真は12月末頃の水をくみ上げている時の様子)。ただ、そんなことが、今、本当に必要なのだろうか。


 それにしても、ちょうど去年、東北の復興予算を他の事業に転用するのがニュースで話題になって、ここの工事開始もタイミング的にも一致して始まったことから、それに該当するのではないかと心配した。できれば、これからは、案内看板に「予算の出所」も明記して、ガラス張りにして余計な心配をさせないで欲しいものである。もしかしてここは、35年前の「岸辺のアルバム」時代からの悲願の護岸工事だったとしたら申し訳ないが、ここは急激な流れになりにくい場所なので、自然を残したままでもよいはずだ。


  さて、建設業を初めとする、不動産業、製造業、情報産業など、多くの業界が期待を寄せる中、政府は声高々に金融緩和、財政出動に続き、成長戦略を打ち出そうとしているものの、しばらく読めそうもない景況感に不安を隠せない庶民は多い。株価・為替を眺める目線は、上を向いているが、足元で輸入頼りのガソリン、公共料金など円安の影響を実感すると、酔いがさめるかのように、現実に頭を抱えてしまうからだ。ま、あたり前だが「金持ちは少しだけ金持ちに、貧乏はより貧乏へ」と格差が広がるだけで、国民全体が平等に豊かさを享受出来ることはない。企業も同じで、資産や内部留保の多い輸出企業には少し潤いになるが、中小企業の倒産は増えるといわれている。また、成長戦略には、規制緩和がつき物だが、所詮は新たなルールで競争を促し「敗者もしくは弱者を消す」これが経済成長に繋がるのである。

  ここ20年ぐらい、重機が朝早くから暗くなるまで大きなエンジン音を発して稼動している姿を見ることは少なかった。最近は、この地域の特殊性でもあるが「京王線の地下化工事」を端から眺めて、「なんか、活気があっていい」と思っていたし、このように綺麗で便利な駅ができると将来も発展しそうに見える。さらに、あちこちで建設、土木、河川、ビルなどの工事が始まると、ふと昭和のバブル時代を思い起こさせ、日常にある現実とは大きな隔たりを感じながらも、何かそれが懐かしく、高揚感さえ沸いて来るから不思議である。あの頃は、よかったと思う人も少なくない筈だ。そのような風景を作るのも政府の狙いかもしれない。

  その気分を忘れないうちに、今の高揚感を象徴する絵を撮っておきたい。きっと将来、「そんな多額の借金をしてまでやるべきことではなかったし、他にもっと、もっと、やるべきことがあった」と反省するに違いないが、かすかな期待感に寄せる思いと、昭和のバブルを髣髴とさせるイメージが重なる絵を探して、教訓として残しておきたい。
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2013/02/19

ポンスケ

  TVの座談会の中で、たまに奇妙な言葉が横行する事がある。もちろん話の前後からニュアンスは十分理解できるので、それを「専門筋が使う言葉」としてそのまま鵜呑みにすることがある。さらに、多少なりとも気が引けるけど、その言葉の持つ「イメージを大切にすればよい」と納得しながら、「わかるから」とか「ま、面白いから」とか、自分なりの理由を付けて使ってみたりする。一度、その言葉を様々な場面で使ってしまうと、意識して修正をしない限り、時間経過と共に自己都合を拡張して、無意識に間違った使い方をする可能性があり危険である。しかし、正確な意味を知ると、案外つまらない内容だったりして、かえって意気消沈しまうこともある。

  TVタックルでお馴染みの三宅先生は、よく「ポンスケ」と言う言葉を使われた。殆どは、話が「ポン」とすれ違わないように、「話をよく聴いて真意を知れ」と言うニュアンスが多分に含まれていたのである。そして後部の「スケ=助」というのは、侍の名前などによく使われているので、人のことを指すのであろう、と推察できるわけで「ポンスケ」は、意外にも知的で高慢な若者をさしているような気がしていた。豊富な知識を有し、熱意を込めて縦横無尽に反撃できるにもかかわらず、無駄な労力を使いたくないので、小馬鹿にした額面どおりの反応で三宅先生の話をはぐらかしたり、時代が違うとかで、腰を折ったりする曲者を指しているのである。まあ、せいぜい「ポンスケ」と言われないように、何事にも真剣に取り組み、大先輩の話は真摯に受け留めてほしいと思っていたのである。

 実のところ三宅先生は、「ポンスケ」という言葉の持つ意味をもっと簡単に○○者とか説明をされていたのが、他に多用する人がいない限り、三宅先生の得意な口癖の一種と考えてよいと思っている。それによって更に解釈に親しみが深まったと言えよう。それが「おい君!私の話をとりあえず素直に聴け!」でないと承知しないぞ的な「威圧する意味の言葉」なのである。つまり、「せっかく学問をちゃんとしてきているのに!という敬意を払いながらも、なのに何故その様な結論に達するのか、おい君!君の考えに欠けている物はこういう考え方じゃないのか?」 これが長きに渡り日本の政治を眺めてきた「政治評論者としての見識だ!どうなんだ答えよ・・・」と渇を入れながらも、相手の反応に屈することなく、日本人的なイデオロギーを要求していると感じていたのである。

 ここの「おい君!」に相当するのが「ポンスケ」なのである。逆に言えば、そのような使い方が適切なのだと思う。単なる口癖なら、安倍総理のように、「○○○・・・、そのことにおいてですね」という、やや「折り目正しい表現のようなニュアンスをかもし出し」ながら、全く意味も無く単に次の言葉への時間稼ぎ的な接続詞に使われているだけ、つまり「聴こえてる?」と同じように映るはずである。もう、「ポンスケ」を使いこなす三宅先生の姿を見ることは出来ないが、かつて先生が使われるたびにその共通点を模索・集約して完璧な解釈を組み立てようと試みているのに、WEBで検索してみると「ポンスケ」とは、何か「強い火力でポン」と変形したような菓子の事を指していることがわかった。三宅先生の言葉の解釈を拡張してきたにもかかわらず、想定外な側面を発見し、「まじかよ」と、やや残念な面持ちで、それでも何か関連した枝葉の解釈があるのかもしれないと想い、それを「食べてみたい」と興味を持ったのである。

  それが今日紹介する「ポンスケ」という油菓子(袋に表記)である。果たして、美味しいのか?と外見からだけでは疑問をもたれるかもしれないが、意外にも「素朴で大変美味しい」のである。正直申し上げて「かっぱ海老せん」以上に次々と弾むお菓子なのだが、そこに三宅先生の「ポンスケ」と言う言葉との共通点を見出すことは出来そうもなかった。しかし、お菓子自体が「あまりにも、お安くて、それ以上に美味しい」ので、無心になって口に運ぶことで、日本の駄菓子の原点を探り当てたような気分である。これが、いわゆる日本人的イデオロギーの一端を担っているのかもしれないのである。
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2013/02/15

詰替えバリューパック

 メーカーとしては、出来るだけ単価の小さな商品を多品種用意して、月別の売上げを安定したものにしたいと考えている。そのために、「売り場」を「異なるコンセプトの自社商品」で埋め尽くしておきたい。それは、「どの商品を買っても、うちの売上げだ!客には、せいぜい悩んでもらいたい」と余裕をもって待ち受けられるからだ。勿論、顧客の価値観に合わせた商品コンセプトをブランド別に事業化し、激しい売上げ競争を社内で展開している。社内で競争し合うことでより強力な商品が生まれ、技術革新も進む。もはや他社は敵にあらずというレベルまで社内の競争意識を高めて、安定した商売を継続しようとしているのである。最近のCMで、メーカー名よりも商品ブランド名を強調しているのは、そのような理由によるものだ。

 一方、消費者の価値観は価格にも目が向く。それは、「同じものでも、たくさん買ってもらえばお安くします」よ、という売り手の基本商法を突くことである。消費者は、変質したり腐らないものであれば、ある程度は安くまとめ買いをしておきたいと考えている。近くにあるホームセンターでは、そんな「大容量の詰替え商品」を用意してその合理性を訴えている。自家用車で来店した時は、4回分、6回分、8回分と割安な詰替え商品を検討してみたらどうか?というものである。スーパーや小売店で扱われる2回分の詰替え商品とは、スケールの異なる戦略で顧客獲得に励んでいるのである。

 度々買って帰るのが面倒だという人ばかりではない。最近は、そのような商品を上手に活用して、いまだ底をつかない「デフレ時代を生き延びる手立てにしなければならない」と考えている人も少なくないようだ。だから今、人気が急上昇している。特に、奥様の気持ちをくすぐるような食器、台所、お風呂場、トイレ、床磨き用などの洗剤は、豊富に大容量詰替え商品が陳列されている。一方、洗濯用の洗剤等は、ある日突如「洗浄力や薫り」が改善されたものが発売されることもあるので、お徳用の詰替えパックは2回分と1種類のみ。また、自分自身を磨く奥様向けブランド商品は、やはり品質重視で、少々お高くても売れるせいか、シャンプーなどは、せいぜい10%増量程度の商品しか用意されていない。

 それにしても、節約の方法には、上手に使う、つまり1回の使用量を減らしても、それには限度があったり、そのため逆に手間がかかるとか、他に負担が増えるという側面もある。そこでは、最後に残された改善すべき点として「調達時のコストダウン」しかないのである。目の前に並べられた食器洗い洗剤を、詳細に4回分、6回分の内容量対コストで検討してみると、かなり大きな優位性を見出すことが出来る。今日買い求めてきた6回分+90mlの詰替えの特大パッケージは、恐らく1度買っておくだけで計算上は5~7ヶ月ぐらい使えそうである。価格は、598円前後のようで、それでも、お店によって価格は100円程度異なると言う現実もある。

 いつも同じ場所で同じ物を、同じ値段で買うというのは、社会の秩序を護っている事に繋がる。そんな安心感や信頼性を重視する反面、世の中のバリューな流行から置き去りにされる危険性が高い。メーカーとしては、生産を継続するために、あくまでも物作りの論理で、あの手この手で商品が掃ける工夫に余念が無い。これが製造者が目指す本質といっても過言ではない。つまり、「在庫を0にして、常に効率のよい一定のスピードで商品を作り続けていたい」のである。僅かでも在庫を残したくない為に、度々、理由をつけては在庫を減らす手立てを施みるのである。だから、その戦略に乗っかって、小安くなった商品を素直に買うのも賢い消費者といえるのである。そのために、いつも覗かない店にも、たまには寄ってみる必要はあるということである。
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2013/02/12

坦々麺の具

  最近は、ここで即席ラーメンを扱う事が増えた。それも、単なるイノベーションとして片づけられないほど即席麺が進化して美味しくなったからである。その環境の変化よって、少しづつ眠っていた「食魂」が目覚め、にわかに興奮状態が続いているのである。はるか昔、学生時代に食べていた即席ラーメンは、やはり遠い昔の想い出になってしまったが、時々「昔ながらの」という言葉に魅かれて食べたい気持ちになることもある。しかし、その「昔ながらの」という言葉を使うこと自体が「最新の製造技術に裏打ちされた」という意味が隠されていて、私の昔とは無縁である。むしろ「今の、若者が無性に食べたい味がある」と思う商品に仕上げられているに違いない。

  たぶん、同世代の人は同じだと思うが、学生時代は下宿生活をしていたので、ラーメンの上に載せる具のチョイスに苦慮し、調理も面倒だった。もちろん何を乗せても麺の食感は変化するはずも無い。当時は、どこのメーカーの麺は画一的で、違いはスープと調味油ぐらいしかなかったが、各社溢れるほど種類の商品をそろえていたのである。同じ物の食べすぎは、体に良くないと言われながらも、それでも、友が集まればラーメン、夜食にもラーメン、と食べるに食べて、いつしか「飽きてしまった」というのが実情なのである。そんなことを思い起こすと、当時は、学食も「切ないメニュー」のオンパレードだったような気がする。

   袋麺に対する40年前の当時の期待感を振り返ってみると、今のような麺の質の向上は全く考えられなかったし、諦めていたというのが本音である。まして「三層構造の麺を作って生麺に近づける」なんて夢にも思わなかった。一方、既にフリーズドライや、濃縮還元の技術が確立していたので、麺の上に載せる具やスープには、将来に対して漠然とした期待は寄せていた。「そういう、もう少し美味しくなる渇望感」は、どのような即席食材にも付きまとっていた時代なのである。勿論、ラーメンに入れる具材に関しても、それが、今も当時と変わらない「袋めんが売れるための条件」かと問われれば、もちろん、それ自体が主役にはならないことは承知しているが、製造者も消費者も共有する「悲願」ともいえる「即席ラーメンに関する1大課題」であったことは間違いない。

  今日は、そんな、袋めん業界の「後のせビジネス」の一役を担う「坦々麺の具」を取り上げてみた。この具には、肉そぼろ、青梗菜、しいたけ、ザーサイ、金ゴマ、唐辛子の6種類の乾燥食材が入っている。フリーズドライ状態なので、「お湯で戻して麺の上に乗せる」ことで美味しくいただける。この袋裏の表記には、控えめに※麺とスープは、「サッポロ一番 坦々麺をご使用いただきますと、一層美味しく召し上がれます」とある。でもそんな、売れ行きを制限する表記をするぐらいなら麺と同梱すべきで、そうではなく、むしろ逆で、各メーカー協調して「袋めん」の楽しさを広げるため、どんどん他社の袋めんを意識して使える「別売りの具」を競って商品化してもらいたい。ラーメンの種類に向けた用途だけではない、子供向け、若者向け、おやじ向け等と世代によってもニーズは違うはずだ。この即席麺用の具には、いつでも熱い視線が注がれていることを知ってもらいたいのである。
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2013/02/08

牡蠣の味噌煮

  呉を故郷に持つ私が言うのも変だが、牡蠣は三陸産の方が美味しい。ほんまか!と思われるかもしれないが、牡蠣は水質によって味が変わる。水温、汚濁、潮の満引きなどが牡蠣の生育に影響を与え、寒い海で、汚れ少なく、流れのある場所で採れた物が美味しい。一昨年の東北の震災の影響で、三陸産の牡蠣は、まだ出回っていない。そんなことから、広島、宮島、江田島、倉橋島、神戸などの牡蠣が市場を席巻している。そのパッケージ群を眺めると、故郷のイラストが懐かしいと思う反面、一寸寂しさを感じる。その場に三陸産の牡蠣が無いだけではなく、いまだ、たくさん「採れない現実そのもの」に寂しさを思い起こさせるのである。そこには、過去のイメージが大いに影響しているかもしれない。

  都内では、かつて三陸産の「殻付きの牡蠣を仕入れ、それを使って牡蠣フライを作ってくれる」お店が幾つもあった。お店の前に「三陸の殻付き牡蠣入荷」と看板が出ると、勇んで入店したものだ。勿論、それが「大変美味しかった」のは言うまでも無い。調理の仕方として、フライにしたのでは広島産も三陸産も同じでは?と思われるかもしれないが、「いいや、違いは明白」である。生食はもっと分かりやすいかもしれないが、それだけは遠慮している。さらに、採れた後の経過時間は大きな味の違いになって現れる。したがって、当日、お店に入荷している殻付き牡蠣を、注文を受けてから処理して、新しい綺麗な油で揚げるのは、理屈的にも「大変美味しい」ということになる。これは、たった5~6粒ほどの少量なのに、とても高額だったが満足できた。そして、また食べに来ようと思えるのである。

  実は、牡蠣の生食の危険度は、殻付きだからとか新鮮さとは関係が無い。「牡蠣は元々毒性を持っている」からである。したがって、採れたものを生食用として商品化するためには、殺菌工程が必要である。生牡蠣でお腹を壊すと酷い目に合うので、できれば加熱処理をお勧めしたい。加熱すれば、逆に牡蠣の鮮度の違いが分かりにくくなると思われがちだが、牡蠣は加熱しても鮮度の違いがはっきり出る。特に、殻付きの牡蠣は、採った後1週間程度ならば、痩せても生きている。つまり、殺菌しなくても、活きの良い状態を過熱して食べるのが、一番安心で美味しいということになる。

  ここで、話をまとめると、1.殺菌した牡蠣と、採れたままの牡蠣は、安全性に違いがある。2.活きの良い牡蠣と、時間が経った牡蠣には、味に大きな違いがある。ということである。したがって、それぞれ食べ方を変えるのではなく、必ず、新鮮な物を入手して加熱して食べるのが一番美味しく安全である。また、すぐに食べない時でも、入手したらすぐに火を通しておくことも美味しく戴く手段でもある。鍋に使う場合は、多少臭みがあってもまぎれるが、牡蠣飯は、そうはいかないので、すぐに出汁で煮るなど手を加えておきたい。

 そんな危険で日持ちのしない牡蠣でも、「男の料理として」お勧めできるのは、牡蠣飯か牡蠣の味噌煮である。今日は、最も安易に調理できる「牡蠣の味噌煮」を紹介しよう。牡蠣を鍋物に使うのは割りとポピュラーだが、牡蠣以外の野菜をたくさん入れると、味が散漫になるので色々入れない方がよい。ここでも、材料としては、牡蠣の剥き身、焼豆腐、白菜、彩の為に豆苗、生姜少々程度の構成にした。これらの食材は、それでも、たくさん水分が出て味が薄まるので、濃い目の出汁と八丁味噌をよく練り合わせたものを用意しておく。味の濃さは、名古屋の「味噌煮込みうどん」をイメージしてもらえばよい。かなり濃ゆい筈である。特に八丁味噌は、牡蠣や食材の臭みを消す効果があるので、牡蠣の臭いに敏感な人でも美味しく戴けるはずである。少し甘くしたければ三温糖(精製前の砂糖)を加えるとか、刺激が欲しいなら生姜を増やすとか、そこは工夫してもらいたい。御飯の用意はせず、最後にうどんを入れて締めるのも良い。

  PDF写真は、生のままだと牡蠣がだらしなく観えるので、少し火が通った時点で撮影をしているが、食べ頃は、豆腐に火が通り、上に乗せた豆苗が萎れる頃がよい。
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2013/02/05

弁当シリーズ7

  日本の食文化の一端を担うお弁当は、競争の激しい商品と言える。限られた大きさの容器、売りやすい価格設定、短い消費期限など、あらゆる角度から厳しい制限を受けている。にもかかわらず、顧客からは「楽しみが潜んだ期待値の高い商品」として位置づけられている。一体この関係はどうやって築きあげられたのであろうか。この日本伝統の弁当商売は、米国から輸入した「最大公約数的なマーケティング」と「価格競争力に頼る」販売手法では、おおよそ到達し得ない領域と言える。それは、磨き上げられた職人技に裏打ちされ、季節の変化や場所、あるいは、口にするまでの流れを重視した「食文化に根づく思想」があるからに他ならない。

 お弁当は、単にご飯とおかずを折りに詰めただけのものではない。人はそれぞれお弁当の楽しみ方をすでに購入前から考えている。その「要求に応えられそうなお弁当」だけが売上を伸ばすのである。お客は、「こういうお弁当が欲しい」と要求を言葉にすることはない。そんな「はしたない事」は、日本の歴史上許されていないのである。それは、あくまでニーズの先を慮(おもんばか)って作られるからである。この「先を慮る」という行為が、古くからある日本的なマーケティングなのである。この食材を使えば、喜んでくれるだろう、この味付けは、お母さんを思い出して馴染み易いに違いない、これこそ高級料亭の味だ、また、こんなに色が揃うと綺麗に思える、そして、量は少なくても、これだけの種類のおかずを揃えれば、必ずや満足してくれるに違いない。その様な様々な想いが1つ1つ形や色を変えて結集しているのである。

 今、欲しがっている物を慮れるのは日本人の優しさなのである。時として「おもてなしの心」であり、関わっている人を喜ばせる美意識といえる。その想いや気持ちを、電車に乗る前に買い求めるから旅が楽しくなるのは当然である。ビールを飲みながら、幾つかおかずをつまみ、さかなにする。だから、おかずは種類が多い方が良い。そして、小腹が空いたら、いよいよ御飯に手をつける。御飯はおかずのいらない味付きがよい。そんな、ビジネスライクな食べ方ばかりでもないが、車窓を眺めながらの時間は、じっくり考え事も出来るし、何かそういった平素味わえない食感を堪能してみたい気分なのである。寒い時に温泉が恋しくなるのと同じ様に、電車に小一時間も座ろうものなら、弁当はどんな物を用意すればよいか、おのずと欲しいものは具体化される。

 さて、本題が最後になってしまったが、あのシウマイで有名な「崎陽軒」がこんな弁当を出しているというのが今日の話である。この写真の中で特に美味しいのは、金目鯛の照り焼きの乗った「金目鯛の御飯」である。少々味付けは濃い目に仕上げてあるが、これだけで「十分お値打ち」を感じさせる会心作で、二口目からは「美味いっ、と笑み」がこぼれてしまう程である。それでも崎陽軒の存在感を印象付けるのに、どちらの弁当にもシウマイが添えられている。しかし、間違ってもこれに最初から箸をつけてはならない。最後の「締めに残すのが崎陽軒の作法」だからである。値段が違うと言ってしまえばそれまでだが、金目鯛の御飯はたいへん美味しい。自宅へ「持ち帰り弁当」にする場合は、金目鯛の御飯を取り出して少し蒸してやると、御飯が柔らかくなって俄然美味しい。
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2013/02/01

このブログへ来るきっかけ4

   あまり意味を持つ話ではないが、いつものレビューの4回目である。半年ごとに過去1年を振り返って、アクセス量の多いタイトルをランキングしてみる。期間は2012年1月1日~2012年12月30日。この過去1年間の様子を見たものである。並べられたタイトルのリリース日はまちまちで、古いタイトルの方が若干上位に位置づけられやすい。おおよそタイトルでランキングされているが、中には、同じ内容がタイトルとラベルに分かれていて、ランキングされても上位から外れているケースもある。

  順位を並べてみると、20位→IBM-EXP400(ディスクアレー装置)、19位→おでんで勝負する、18位→腰痛治療、17位→京王線地下を走る、16位→オーディオマニア18(カセット・テストテープ)、15位→マルちゃん正麺、14位→紅葉の深大寺、13位→素材の力で美味しい、 12位→オーディオマニア26(YAMAHA JA-0572、JA-0870)、 11位→ディスカバリー5(1インチテープ)、10位→野菜ごろごろ祭り、 9位→オーディオマニア24(スピーカシステムの測定) 、8位→オーディオマニア15(ソニーTC-K88)、7位→贅沢ヨーグルト、 6位→オーディオマニア22(YAMAHA B3)、5位→黒ミルクとミルフルッツ、 4位→ダニサバタークッキー、 3位→オーディオマニア25(Lo-D L205)、 2位→長崎ノスドールのお菓子、1位→EF28-70mmF2.8Lの白濁現象、となっている。今日は、これらのPDFのサムネイルをBMPファイルに並べた。全体として、やはり時流を反映した「流行もの」と、普遍性の高い「古典的なもの」との2つに分れている。これらは、ヒットするようになると、自動的に掲載順位が上がり、益々ヒットするようになるので、このランキングは、その様な性質があることも配慮しておきたい。また、あくまで「原稿がよかったとして評価された順位ではない」ので、誤解のないようにお願いしたい。加えて、定期的にこのブログを閲覧している常連さんのアクセスは一切含まれていない。

  上位を眺めると、1位は、「EF28mm-70mm F2.8Lの白濁現象」だが、これは、キヤノンEFレンズの白濁で困っている人が多いと言う事がうかがえる。次の2位は、長崎ノスドールのお菓子、4位も、5位もお菓子の話である。そして、その次がオーディオ関連から、という傾向になっている。このような順位は、世の中の人の興味の矛先はどちらに向いているのか、あるいは、どの様な言葉で検索し、何に興味を持っているのかを知るのには、ある程度適している。一見するとこれらの順位は、扱う商品、タイトルなど、探している情報との関連性が強いように思えるが、実はそうでもない。あくまでも、その文章中にある「単語または文字列にヒット」しているだけで、決して内容でヒットしているわけではないからだ。その内容とは、文章から得られる「対象の明解な輪郭」のことで、言い換えれば、そこで「感じえたもの」ともいえる。だから、それは自分が納得するページへたどり着くまでは分からない。そうやって、何度も検索を繰り返すことで、すこしづつ価値のある情報に近づくようだ。

 余談になるが、ブログは、あくまで自分の志向の1つの覗き窓のような物で、そこに何の興味も持たない対象というのは存在しない。だからと言って、ここに登場する対象全てが興味津々と言うわけにもいかない。まれに、その存在を掘り下げて観察しつつ、「視野を広げる」難しさが浮き彫りになることもある。それは、やはり「日々の訓練」で改善するしかないが、いつも事実と創作の狭間をさ迷いながら、自らを奮い立たせることを探し、揉み返すと言うか、丁度蕎麦を何度も伸ばしたり、畳んだり、捏ねたり、を繰り返すように、無心になって作業すことで、より洗練されながら 「創作の中から真実を少しづつ切り出す」喜びのようなものを実感できればいいと思っている。どうも、それが自分の満足に繋がっているようだ。うーむ、ようわからんが。
 サムネイルはこちら
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補足:期間を2012年1月1日~2012年12月31日までのアクセス統計結果だが、当然それより前の年のラベルやタイトルも含まれている。