蕎麦好きは、「どのような蕎麦」でも、それなりに美味しく戴くのが上手である。「どのような蕎麦」というぐらいだから範囲は広く、神田まつやのような老舗蕎麦店の「もり蕎麦」に始まり、お酒をかけて解して頂く近所の蕎麦屋の蕎麦もある。一方で、凄く簡単に電子レンジでチンして薄いフイルムを引き抜くだけのセブンイレブンの天ぷら蕎麦もあるし、また、せわしなく駅のホームで戴く駅蕎麦もある。そして、カップの乾燥蕎麦麺へお湯を注いで3分などもある。さらに、乾燥麺を茹でて、その様子を見ながら、かまぼこ、天ぷら、九条ねぎなど、自分の好きなものを用意して作る暖かい蕎麦もある。そこには、それなりの風情が漂い、想い出に浸れる背景があるし、その納得できる価値観で啜れば益々美味しく感じると思うのである。
どういう訳か蕎麦好きにとって、初めてのお店でお蕎麦を戴くときは、それを目の前にするまでは、かなりワクワクするものである。まるで、餌を待つワンちゃんのように例えられる。とは言うものの、いざ啜ってみると、どこかで冷ややかな側面も備えていて、その時の食感や風味とか、今まで待つに至った時間とか、その味に対する好みとか、様々なきめ細かい評価が渾然一体となって頭の中に湧き上がるのである。そして、重要な1つの自分の基準に照らし合わせて、満足感が構成される。たとえば、お店に入ると「いらっしゃーい」と山彦のように響くお店では、その雰囲気と、椅子の座り心地や、畳の上のお座ぶの感触までも勘定の一部であると思えるようになるのである。
蕎麦好きになるには、何かきっかけが必要で、「何度か美味しい想い出」と言うか、それなりの「経験の積み重ね」があると思う。自分も、神田淡路町の会社へ勤めるようになってから、神田の蕎麦の経験が始った。しかし、「ひどく辛い蕎麦つゆだけど、これが旨い」と思えるようになるには、案外時間は掛からなかった。それは、神田近辺の鰻屋だとか食事処は、やはり辛口の味付けになっていたからである。昼、夜、その辛口に浸っていると、連綿と続く江戸前への拘りやその根底に流れる醤油の旨みを追求したり、その奥深い味に多少なりとも理解を示す気分になってくる。あるときは鬼平犯科帳の長谷川平蔵の食べているものに共感したり、「うーむ、こういうのも美味いって言うんか!」と自らの基準に対する認識の変更を余儀なくされたり、それに一種の憧れとか、誇りを覚えたりもしたからである。ただ、いずれにしても池波正太郎は、それほど美味いものを食べていたとは思えない。
余談ばかり長くなってしまったが、今日の「どん兵衛 生蕎麦食感」の見方だが、生蕎麦食感が得られる茹で時間は非常に範囲が狭く、湯上げの時間的難度は高いとみた。時間が短いと一部に丁度良い案配のところが生まれるが、未だ硬いところが残ったり、逆に、少し時間が長いと、伸びた感じが隠れていたり、鍋の中で麺を躍らせながら、ほんの僅かな違いを見逃せないのである。いまだ合計で7食程度しか口にしていないが、生蕎麦食感はカップめんのピン蕎麦のほうが良く出来る。出汁は少々甘めで、鰹だしと醤油の「かえし」は、馴染みがやや曖昧で「関東風の切れ」が足りない。かといって関西風としては、「色と味が濃すぎて」通用せず、どこをかえしのターゲットにしているかわかりにくく、全国展開の苦しい側面が推察される。ここは、はっきりと関西風に別れを告げるべきで、関東風一筋で味に拘って欲しいものだ。今回は、関東の蕎麦の基準に合わせ、少々辛口になってしまったが、「同社の関西風うどん」とは大きく異なる商品価値に対する期待感の表れとして理解されたい。
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