「和の食材」を扱う大手食品メーカーは、全国津々浦々まで、「美味しいと評判を呼ぶ」ような商品の企画に苦労している。それほど「和の地域性」を「全国統一的に扱う」ことのできる食品に仕上げるのは難しいようだ。人にはそれぞれ「故郷の味」があり、さらに「お袋の味」もある。それらを超える「美味しさ」を掌握して、更に独自の味を打ち出す事だからである。しかし、最終的な味付けをお客に委ね、半製品に留めてしまえば、後の処理は、母さんが「故郷の味、あるいは、その家の味」に仕上げる事ができるのである。そこに「一手間掛ける美味しさ」が浮かび上がってくる。昔の話だが、「京都のデパ地下」を眺めて、「紀文の惣菜」が幅を利かせているのに驚いたことがあった。
時たま、故郷の牡蠣飯の味に舌鼓を打つことがあるが、広島で戴く牡蠣飯よりも、少々お高いが渋谷で戴く牡蠣飯の方が味も濃いし、美味しいと思うことがある。これは、東京に合わせた味付けをすることで、「東京の牡蠣飯」になっているのであって、広島のそれではない。元々、商売は客の求める先を読んで、それを付加価値とすることで優位性を確保することが出来る。つまり、広島の牡蠣飯をそのまま東京へ持ってきても誰も見向きもしないし、東京のお客は、醤油味の濃いのが好きで、旨みにもうるさい。そういうマーケティングの下で工夫されなければならないのである。それゆえ、その牡蠣飯に入っている牡蠣は燻製になってしまったのだ。
それに引き換え、「美味いと言うのは、こういう味」なのだと、かたくなに食材の品質や味付けに拘り、「我が食材が一番」を誇りにしている老舗食材店もある。老舗は、長い伝統に裏打ちされ、度重なる試行錯誤によって完璧の域に達し、厳しい職人技が幅を利かすのである。しかも、長い間その同じ味を継承することで、安心・安全という漠然とした信頼感で覆われているのである。そこに、老舗の暖簾を大切にする食材思想が脈々と流れ、一味も二味も美味しいと言わしめる背景が描かれてきた。その評価は時と共に広く伝わり、老舗の味として、誰が口にしても口を揃えて「美味しい」と言わせたのである。また、職人はそこに心意気を感じてきたと言えるのである。
今日紹介する、「京風ちらし」の素は、そのような側面を持つ商品の1つと言える。作り方は、炊き上がったご飯に混ぜるだけの簡単なもだが、特徴は、具の中に「じゃこ」が入っていることで、じゃこの微妙な美味しさが広がるところにある。ただじゃこが入っているだけではない。そこに、非日常の味わいが存在するのである。中でも、ちらし寿司の「お好きな人」には、1度是非にでも試してもらいたい。さらに、この揃えられた「様々な素材から滲み出る旨みや、酢の優しい酸味」など、わずかな違いがもたらす微妙な味わいが、独特の風情をかもし出し、一線を画した違いが新たな発見に繋がっていく。素朴だが品の良い美味しさに溢れ、ちょっとだけ嬉しい気分になるはずである。
ではこちら
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