奏者仲間が集まって演奏をすることを「セッション」と言う。セッションは、奏者の楽しみでもある。そのためには、音楽的素養が同じ奏者が集まることはもちろん、互いの感性に合わせて演奏ができることが要求される。音楽的素養とは、幼い頃から培われ、体に埋め込まれた「正確な音程感」と「楽器を操作する技術」である。音程は物理で言うと周波数だが、奏者は相対的な音階(イタリア式:ドレミ・・・)でコミュニケーションする。譜面を見て演奏するには、正確に音(周波数、大きさ、長さ)として再現する能力が必要になる。これを生かすのが「身につけた音楽センス」である。音楽を専攻するには、最低限、譜面が読めること、正確な音程を再現できること、楽器の操作が正確に行えることなどが必須になる。それでも、セッションをするには、曲を暗譜しておく方が良い。
音楽を提供する奏者は、誰でも譜面を見てその音を瞬時に組み立てる作業を行う。何か手本の真似をすることではないので、基礎が出来ている奏者が更に技術を磨くには、練習あるのみといえる。また、その練習も、1人では限度があるので仲間とセッションする必要がある。しかし、下手な仲間といくらセッションをしても上手くなることはない。だから、常に優れた仲間に入りたいと考えている。趣味なら、この程度の思考で十分に歌唱や楽器演奏を楽しむことができるが、頂点を目指して「それで飯を食う」ということになると、やはり最後に問題にされるのが「執念にも似たやる気とそれを支える不屈の精神」になる。つまり、指導者から鞭で何度打たれても、目標を見失うことなく這い上がってゆく精神力が必要だ。セッションの原題のWHIPLASHとは、「鞭で打つ」と言う意味である。
全米屈指の名門校のシェイファー音楽院を舞台に、入学したばかりのドラム専攻の生徒アンドリュー・ニーマンと鬼教師と言われるテレンス・フレッチャー教授の間で繰り広げられる「執念の熱血指導」を描いた作品。公式ホームページはこちら
http://session.gaga.ne.jp/
フレッチャー教授は、ある日ニーマンの練習を見て、才能を発掘すべく目を付ける。数日後、全員バラバラの音を出しているニーマンの所属するバンドに現れ、それぞれ奏者の音をチェックして、ニーマンに自分のバンドに移るように指示する。それからフレッチャー教授の狂気にも似た指導が始まる。ある時は、バンドのトロンボーンの僅かにずれている音程をメンバー全員の前で責めたて、メンバーからはずす。それをみて、ニーマンも震え上がる。一方、ニーマンへは、テンポが違うと何度も何度も罵られる。そんなフレッチャー教授の仕打ちにもめげず、偉大なドラマーへの夢を叶えようと、ひたすら血の出る程の練習に没頭する。・・・と、あまりくどく説明するより、こちらを見てもらったほうが早い。
https://www.youtube.com/watch?v=65P_HY_3aF0
それにしても、フレッチャー教授の狂気の指導は、学生の才能を発掘して偉大なミュージシャンを育てるための1つの手段でしかない。しかし、現実にはこのような指導は通用しない可能性がある。だから、この作品は、一種の「指導者のロマンであり、学生の目指す究極の夢」と言えるのではないだろうか。今は、仮に学生に野心があったとしても、指導者側の熱意が行き過ぎたり、周囲に誤解されると、先では職を失うリスクさえ抱えているので、不本意ながら慎む傾向になる。そこは無難に、そこそこの演奏で、「良かったよ」と教授が褒めれば、「そうか、これでいいんだ」と判断するだろうし、有頂天になり、それ以上を望む活力さえ薄れてしまう。一方、貶されれば萎縮してその道から離脱することもある。僅かな勘違いであったとしても、そんな精神薄弱な学生に、教授は付き合うことは出来ないだろう。作品の冒頭から、そういう構図を見せ付けられるが、ニーマンは耐えに耐えてフレッチャー教授に必死に喰らいついていく。しかし、行き着くところ、ニーマンは退学、フレッチャー教授もシェイファー音楽院を去ってしまう。
それでも、フレッチャーは、ニーマンの才能を見捨てられずにいた。もちろん、彼の不屈の精神にも可能性を見出していたからだ。フレッチャーは、ニーマンの住む街の近くのクラブでライブを開催し、彼が来るのを待ち構えていた。ある夜、街にはライブの音が漏れ聴こえて、ニーマンはその音に吸い込まれるように店に入り、フレッチャーを見つけてしまう。後ろめたい気持ちでニーマンは店を出ようとするが、フレッチャーに呼び止められる。酒を飲みながらフレッチャーは、「今までの仕打ちの背景と、それを後悔していない」ことを打ち明ける。別れ際には、フレッチャーはJVC音楽祭で、彼に代役を務めることを持ちかける。迷ったがニーマンは再びそれをチャンスにしようと立ち上がる。
この作品の「セッション」の意味するところは、そのJVC音楽祭のステージの最後で「ニーマンとフレッチャー2人のセッション」として演出されているところだ。かつてこのようなエンディングは見たことはないが、観る者を少しだけ安堵させてくれるところが嬉しい。
音楽作品(風?)なので、音響にそれなりの期待をしていたが、シンバルの音が訛り、パルシブな音も潰れていたりと、音を加工しすぎではないだろうか。あるいは、ドルビーシステムの影響なのだろうか。また、カメラが追う楽器と違う楽器の音を拾っていたりと、画面から伝わる緊張感とちぐはぐに感じ、そのあたりに「作品が安作りの印象」として見えてしまう。珍しく「心に突き刺さるような力作」だけに、フレッチャー風にもう少しちゃんと音に拘って「品位の高い隙の無い作品」に仕上げて欲しかった。