テレビの解説者が「ちょっと今の判定はおかしいですねー」とか「あのタックルは怪我をさせますね、まずいですよ」などと言っているにもかかわらず、審判は注意もせず絶対的な権威を持って平然と裁いている。審判の判定品質がゲームの品格を決定付けると言っても過言ではない。
1:1でも、複数対複数でも勝ち負けを決定するスポーツは、そのくらい審判の役割は大きい。参加チームの世界ランキングがあるならば、審判自体の「評価システム」を公表すべきだし、「世界ランキング」を付けるべきだ。現在は様々な角度からテレビカメラがゲーム進行を追いかけている。審判の「誤審や見落とし」をいくらでも検証できる。また、数名の審判で行うとしても、それぞれの審判の責任を明確化すべきだ・・・・と日本人は審判にとても厳しい。
それは、日本の選手は「正々堂々と戦う」ことに美学を持っているし、日本古来の審判は、自ら責任を取る究極の姿「腹を切る」と言う概念を持ち合わせていたからだ(勿論今はない)。つまり、審判は 「もし間違った判定をした場合は、腹を切ってお詫びをする」 その覚悟をもって審判は「判定に責任」を持っていたし、その覚悟のある審判の下でなら、選手も「命がけの勝負」が出来るという、極めて明確な論理だ。
日本の国技でもある大相撲は、審判=立行司はそのために「短刀」をいつもさしているし、判定に文句を付ける「物言い」という立場の人もいる。正に高い次元でガラス張りの「勝敗追求システム」が機能しているのだ。
ということで、今日は予想外の話になったと思うけれど、その「大相撲の名立行司」として歴史にその名を残す、「第二十二代 木村庄之助」にあやかった「軍配扇形最中」の紹介である。
それは、こちら
http://www.nextftp.com/suyama/%E5%BA%84%E4%B9%8B%E5%8A%A9/%E5%BA%84%E4%B9%8B%E5%8A%A9.pdf