2008/11/26

自作料理4

 食事を作るのは、人として最低限度の行為である。自分が食べるものを人任せにするのは、人生を人任せにするのと同じだ。こんなことは、分かりきったことであったはずだ。そんな、基本的な事を俺は忘れていた。本来ならば、素材も0から作らなければならない。自分で畑を耕し、種を撒き、毎日、朝に夕に手をかけて作るべきだ。かつて、裏の畑で、ばあちゃんが丹精込めて作っていた野菜を覚えているか、きゅうり、茄子、トマト、パセリ、など、様々なものがあった筈だ。ばあちゃんは、よくその畑付近で草むしりをしたり、水をやったりして野菜を可愛がっていた。おまけに、茄子やきゅうりと話もできる。猫までも、ばあちゃんには尻尾を立てて、ズリズリしている光景を良く見たものだ。歳を重ねた人には、植物や動物の微妙でわずかなメッセージを受け取ることが出来るようになるらしい。そのくらい、木目細かい感性を駆使して育てているのだ。

 そんなことを考えたら、このトマトをいただくのに、たいそう恐縮してしまう。ひょっとしたら、たった144円/1個で買ってしまったことに罪悪感さえ覚えるのだ。多くの人たちの愛情と手数によって、たまたま、今、俺の胃袋に納まろうとしているわけだ。同じ畑で育ったトマトの兄弟は、ひょっとしたら天皇陛下がお召し上がりになるかもしれないのだ(ないない!)。そんな大切なトマトを簡単に食べては申し訳がないし、何の社会的貢献もない俺に、それを食べる資格があるかどうかさえ不安になる。もし、今、この隣にトマトを育ててくれた人や、運んでくれた人にがいたら、「いいすか?、本当に食べていいすか?」と問いかけるに違いない。今日はそんな気持ちで、創作活動に入ることにする。

 トマトを使うとするならば、トマトジュース缶やトマトのホール缶を使えばいいじゃないか、と思われるかもしれないが、それは大きな缶違いである。生のトマトは生きている。皮もついているし、種もある、芯も残っているわけだし、何しろこの生き生きした生命力が残っているのだ。料理になってしまえば、結果的には同じように見えるかもしれないが、同じように見えても異なる物体はいくらでもある。物事を外見だけで判断してはならない。そして、もちろん最終的な状態だけで判断するのも良くない。農薬をたくさん使ったものと、そうでないものは簡単に見分けがつかないし、ばあちゃんは、昔から、ばあちゃんであったわけではない。様々な経験を通してトマトの話に耳を傾けることが出来るようになったわけだ。

 今のトマトは温室である。この不景気でまだ油の高い時期にトマトが風邪をひいてはいけないと思い、暖かくしてくれているわけだ。だから、マーケットに並んでいても元気なのだ。そのような本質的な違いを、自分の五感でかぎ分けらないとすれば、感性に欠けるし、この生のトマトを食べる資格はない。

 と、生産者側のことを考えながら、結局、自分でトマトを作ろうとすると、長い経験と愛情を持つ専門家には絶対にかなわないのである。それを認識した上で料理を始めようと思う。この生のトマトの持つエネルギッシュな生命力を生かすために、細心の注意を払おう。 そして、食べてその違いが分かったら、今こそ「このトマトを育ててくれた人」に感謝しようではないか。
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