たいがいの小説には、若干の「無理」がつきまとう。中でも、その、「ありえない、きっかけ」が面白いのである。「若手気鋭の検事(小野木)と、年上の美女(頼子)。偶然に出会う二人は、やがて恋に発展するが・・・・。頼子は人妻であり、小野木は、自分が携わる事件の捜査線上に、頼子が深くかかわっていることを知る。・・・」 我々は、その文章の描写力と非現実性に酔いしれ、その「ありえない、きっかけ」を、運命の必然性であったかのように思い込んでしまい、「こういうことも、あるんだあっ」と、知らず知らずのうちに事件に巻き込まれてゆくのである。その「砂の器」を描いた「おっさん」はいったいどんなやつなんだ。
老舗の蕎麦屋には、「その蕎麦を愛した人達や、その蕎麦のいわれ」が書かれてあることがある。一種の「美味いんだぞ強制力」というか、悪あがきな「宣伝」と流してしまいがちだが、その人達を知っている客人には、大いに親近感が湧くのである。そして、そのいわれを知識の一部に加えて、時々「ひけらかす」のである。かつての文豪と呼ばれる人達は、とても蕎麦とのかかわりが深く、蕎麦をこよなく愛していたらしい。どうも、このおっさんも蕎麦好きで、深大寺を幾度と無く散策取材し、原稿の構想を練ったり、その「門前」で蕎麦を楽しんでいたようである。そして、いつか、「はるか遠くの点と、この門前を、蕎麦好きという線」で結び、新たな蕎麦を創造してしまったのである。この、奇想天外な発想力は、やはり只者ではなかったようだ。
ここ、調布の深大寺と島根県の亀嵩(砂の器)を粗碾の線で結んだのである。それは、普通 「ありえない、きっかけ」でもあり、若干の「無理」があると言われるかもしれないが、彼には、そんな強引な距離感が普通のことであったに違いない。そんな、その島根県 亀嵩の蕎麦を、今、この深大寺でいただけるとしたら、それ自体、やはり「小説より奇なり」と思えるのである。その蕎麦こそ、深大寺の「門前」で出されている「粗碾そば」である。つまり、この蕎麦をいただくことで、文豪 松本清張のこだわりや嗜好を垣間見ることが出来る。その食は人であり、その「ひとなり」から描き出された、「個人の中に潜む魔性」の意図するところを、自分も深く心に戒める事が出来るのである。
深大寺へ来たら、この「粗碾そば」を絶対に外してはならない。さらに、松本清張ファンなら、数々の著作に共通する「予想外の展開と高い論理性」が、この蕎麦の持つ「薫り高き、こしの強さ」に息づいていることを知るに違いない。そして、さり気なく、商業ベースに乗った蕎麦とは、品格の違いを知ることになるだろう。
ということで、年末年始で時間に余裕のあるときに是非訪れて、壮大な「創作ロマン」に浸ってもらいたい。オーダー時は、あくまでも、「粗碾そば1枚」で済ませよう。オプションの天婦羅は論旨から外れているし、それは食べすぎである。
今回ページは、「画像比較シリーズ」と混同してしまいA3になってしまった。だから、拡大は出来ないが、ご覧になるときは、画面の隅にあるグレースケールの黒とその隣が区別できるよう(レベル50相当)に「画面の明るさ」を調整していただきたい。終わったら、元に戻す(レベル30程度)ことをお忘れなきように。 ではこちら
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