被写体と撮影者の間には、「何らかの関係」がある筈である。むしろ、そうでなければ、撮影する前から論理的に空虚な作品になる。撮影に至る前に、その長短を問わず 「まつわる物語」 があってこそ1枚の写真として成立するのである。そこでは、写真の「上手い下手や、カメラの良し悪し」などの物理的な要素は小さなことである。そして、それが、その写真の真価をより高いものにする。また、これがカメラが単なる遊び道具で無い要素になる。
誰しも、自分の幼い時の節目となる記念写真を眺めながら、撮影者(殆どが父母)が自分に寄せる愛情とか思い入れや、一種の期待感のようなものを痛感する事ができ、自分に運命付けられた使命を素直に認めたり、脈々と流れるDNAを感じて、もっと頑張らなければならないと決意を新たにすることも少なくないだろう。あるいは、内輪の家族だけが全員で並んだ、なんの変哲もない写真を見て、そこにあった「幸せの時間と空間」を思い出すこともある。これらは、時の流れを一瞬切り取ったものだが、親子や家族といった作り直すことの出来ない関係を端的に示しており、自分にとって大変価値があるものといえる。
一方、自分で撮影した写真は、そのときの回りの環境、あるいは心情や葛藤などが、どこかに潜んでいて、撮影後にもそれは影を潜めることは無い。そして、それは後々興味深いものとなる。つまり、今となっては、「そんなつまらないことで」と思うような平常心を装っていても、その写真を撮影したときには、何か大きな意味を持っていたという証が出てしまうのである。私事で恐縮だが、ちょうど30年前の自分達の作った雑誌を見ると、「よくもまあ、こんな写真を撮っていたな」なんて、その頃の「集中した熱意」を感じ、今となっては絶対に撮れそうもないと、いたって冷静に思ってしまうのである。写真は、そのような時間軸と被写体との係わり合いを自然に包括しているので、「僅かな関係」でも無視することは出来ない。後々、残念な想いをすることにならないようにと、注意深く心がけるのである。
前置きが長くなったが、このシリーズでも、ただ、「絵面」を追っかけた写真に留まらず、撮影者の動機についても言及してみたいと思う。 本来、写真には、そんな「心の叫び」が含まれており、それなしでは、絵面だけのつまらない写真と思えるのである。
人は誰しも、落ち着いて物事を考えてみたいときがある。今、熱くなった場所から離れ、理屈だけでは納得しえず、自分の人生観と照らし合わせてみたり、父母の遺言にも似た言葉との整合性を図ろうとしたり、自分を取り巻く人達の幸せとは何か、など、悩みと言うより一歩前に進むために整理しておきたい課題が時々訪れる。そんな時、1人でじっくりと時間をかけて、心穏やかに、「さっき、導き出した結論を確認するように、もう1度考え直してみたい」と思うこともある。人は、そういうプロセスを踏んで、納得したいのである。そんな、考えをまとめる、私の隠れ「茶屋」を紹介してみたい。以来、幾度と無く通い詰めた場所だが、誰にでもそのような大切な場所はあるはずだ。スケッチ代わりに写真にしておこうと思ったのである。いつか、忘れ去ってしまったり、突然無くなるかもしれないからである。
そして、ここにも、撮影時に参考になる部分がいくつか存在する。だから、あえて「好ましくない代表的な部分を1箇所」紹介しておきたい。 このシリーズはこちら。(初めての方は、続デジタルカメラ3の本文を参照のこと)
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