最近は、あえて人が寄り付かないような場所で写真を撮る事が多い。どうゆう訳なのだろう、自分も人格的にやっと一人前になったのか、人の邪魔にならないように心がけているのである。こんな謙虚で真摯に撮影をする自分に、大人になった誇りを実感するのである。
一般的に撮影によい場所は、人が集まるものだ。この場所で撮影しておけば間違いはないと考えているか、あるいは、絶対に外せないと最低条件として考えているのだろう。天邪鬼な自分としては、目的も対象も違うので、そんな場所には余り興味は無い。しかし、あえて遠く離れてカメラを構えていても、立派なカメラを首から提げた「おっさん」が、通りすがりのような顔をして2~3カット連続で流すように、目の前を撮り去ることもある。また、じっくり構えている時に限って、「カメラを持ったおばさん」が寄ってきて、レンズの方向と同じように眺め、「ここいいわよ~」と大声で仲間を呼んだりするのである。「あんた、そのレンズでは無理だよ」 とも言いたいが、全く「自分の独自性や考えの無い」撮影をする中高年が多い。加えて、そんな連中に限って「高級一眼カメラ」を持っていたりするので、マナーの説教もしにくい。
今日も、人を嫌い、近くにある誰も近寄らない桃畑で撮影をしようと出かけた。いくつか対象になりそうな木々を探しながら歩き、周囲を眺め、人がいないので、遠慮もないし、気分も良いと満足し、心が弾む。日差しは強く、一寸汗ばむ陽気で、微風が初夏を思わせる爽やかさであった。しばらく散策して、1本の桃の木の前で静止する。「ほうー」と思い、何故かその木の前でしばらく、じっと眺めながら、「どうしたものかな、どのように撮ろうか」と考えながら、おもむろにカメラを取り出し、液晶モニターを片目で覗く。立体感を片目で確認するためだ。大きな深呼吸をして、ため息を付き、「このカメラでは、難しいな」とつぶやく。ちょうど昔、母の育てた庭の花を撮影させられ、うるさい事を言われたなあと、懐かしく思わせる被写体である。やっぱり、折角だから、とりあえず撮影をしようと、カメラの位置を模索する。太陽光の状況を見極め、しばらく時間を置くことにした。太陽の位置が少し後の方が良いからだ。じっと眺めながら待ち、しばらくして撮影を始める。
なにやら、後方遠くで少し人の声が聞こえたが、悪い事をしているわけでもないし、撮影禁止のような場所でもないので、気が付かない振りをしながら、あえて撮影を続ける。声をかけられて邪魔が入る前に一通り撮り終えておきたいと思い、1台目の液晶モニターの構図を確認しながら、急いで2台目を撮影する。2台とも露出を変えて数枚ずつ撮影するので、短いときで2~3分、長くても4~5分である。
終わって液晶モニターを確認しながら、再び深呼吸をしながら何気なく振り向くと、驚いた。大勢の車椅子の「じいちゃんやばあちゃん」がいるではないか。しかも、私の背後を囲むようにしている。総勢15人ぐらいはいそうだ。ずっと、後ろで黙って見守ってくれていたのか?「ええー」と声が出そうになったが、みんな車椅子の後ろには、眩しいような白衣の看護士さんを従えている。つい、私の方から「すんませーん」と声を発してしまったが、何故、俺が謝るのかわからなかった。一人のばあちゃんが、私の方を向きながら、「やっぱり、この木が一番いいわよねー」と声をかけてくれた。 「そ、そ、そうですね」と言いながら、後ろに下がる。恥ずかしさも、その言葉で救われたようだった。ひと気の無い、遠くに飛行機の音や鳥のさえずりしか聞こえない場所で、こんなことに遭遇するのは、大変奇妙な感覚である。自宅に帰って撮影したものを見ると、救われるほどいい写真ではなかったが、イメージに近い状態で撮れていた。枯れたばあちゃんには、その生命力が羨ましかったのかもしれない。かつて、母から何度も取り直しをさせられ、一番苦労した「立体感の再現」は、合格していると思う。 やはり、どのような面倒な被写体でも、状況をよく見極めると、それなりに経験は生かせるものである。
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