今日は、渋谷の東急ハンズの帰りに駅前地下の「東急フードショー」に寄って、弁当を買ってきた。ここも所狭しと様々な種類の弁当が並ぶ。新たな食材を使ったもの、古典的料理だが容器や量に違いのあるものなど、色々工夫が見られるが、いくら合理的提案があっても、弁当は、あくまでも、自分にとって如何に馴染み易いかで選ばれているようだ。味の異なる食材を少しづつ配置して、おかずの種類を増やした弁当(幕の内風)は、自分で作ると大変な作業になるため、それなりの価値を認めざる終えない。しかし、食べたい気持ちは、また別の価値感と言える。1.美味しさは知っているが、ちょっと高いし、いまどき贅沢だ。2.美味しそうだと常々考えているが、失敗が怖いために、無難に、いつものやつでいい。3.しばらく食べてなかったから、また食べてみたいが、前と何か一寸違う。と人それぞれだ。やはり、「これしかない、これを食べたい」と思う衝動が起こらなければ、清水の舞台からは飛び降りるわけにはいかないのだ。大脳は、なかなか難しい処理を要求しているようだ。
私だけかもしれないが、美味しいと思ったものは、飽きるまで食べる習性があり、新たな弁当を観ても、つい、いつものそれと比較してしまうのである。当然、浅草今半の「牛肉弁当」が基準、「すき焼き弁当」が上級ランク、東京大丸の「うなぎ弁当」が最高ランクになる。そんな価値観で店頭を覗いて歩く。やはり全体的に物価上昇の兆しが際立ってきた。そんな中から、今日は、小安い弁当で、自分でも作れるし、馴染み深い「故郷の味の炊き込みご飯」の1例である。その弁当の中に活かされた、東京でも通用するプロの仕事を知りたいと思ったからである。
そもそも、炊き込みご飯とは、大量に収穫されて、余って行き場のない食材が、ご飯と一緒に炊き込まれたという歴史的背景をもつ。最近は、収穫されたものは、すぐに都会に輸送されてしまうが、かつては、大量に採れたものは処分に困ったわけだ。畑の肥料にしたり、干してみたり、燻製にしたり、乾燥させたりと工夫されていた。さらに、炊き込みご飯にすれば、家族全員でご飯と一緒に食べるため、消費量が増え無駄にする事がないと考えられたものだ。大量に採れる時期を旬といい、旬を食べる郷土料理として多くの人に親しまれてきた。味が染み込んだ炊き込みご飯は冷えても美味しく、おかずは、味噌汁と漬物ぐらいでよい。小腹が空けば、いつでも好きなだけ食べる、というのがこの炊き込みご飯の特徴といえる。昔は、おやつ代わりに食べることもあった。また、弁当やおにぎりにも広く応用された。
炊き込みご飯は、実はみんな好きである。秋刀魚を焼いて一緒に炊き込んだり、たけのこ、松茸、栗、芋、鯛、鶏、銀杏、帆立、など単品から、それらを組合わせたものまで多種多様あり、制約などはない。アイデア1つで、誰にでも簡単に作る事が出来るが、炊き込む具が少量では美味しさを堪能することは出来ない。炊き込む具を大量に使うのが「故郷の味」を再現するポイントになる。 最近、松茸などは、珍重されて高級なものになっているが、子供の頃は、田舎では山中で沢山採れた。私も、毎年母の実家の山へ松茸狩りに出かけたものだ。当然、その場で焼いて食べても、炊き込みご飯にしても、そんなに美味しく感じたことはないし、取れる場所と同じ薫りが漂っているため、その薫りをかぐと、ちょっと日陰のかび臭い場所を思い出す。どうせなら、伊勢海老、蟹、穴子、鯛、秋刀魚などの海産物を炊き込んだ方が、はるかに「美味しい」と思っている。もちろん、人それぞれだが、今となっては、採れる場所や採る行為の難しさが、「美味しさ」の連想資源となっているのではないだろうか。そこまでして炊き込む必要などない。
ではこちら。
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=0FF68288DD53524E&resid=FF68288DD53524E%21819&app=WordPdf