今日、新宿のホテルの喫茶店で人を待っていると、一眼レフのカメラを抱えた「年配の集団」が入って来て近くに座った。全く騒がしい。耳が遠いのか興奮しているのか分からないが、みんな声が大きい。聴こえてくる話の様子から、どうも、カメラ教室のようで、カメラを始めた生徒さん達である。撮影練習で、課題が与えられているらしい。とまあ「お金と時間」があり余っている人の集団だ。さしたるテーマや目的も無く、カメラを購入し、おまけに使い方まで教わる。うまくいかないと「そのカメラか、あるいは教え方」が悪いように言われかねないが、全ては、すぐ「次のカメラを買ってもらう」ためで、先生方も言い訳に忙しそうだ。
写真が楽しいのは、本来その数倍人生を楽しんでいる状況があるからで、たとえば、夫婦で世界一周旅行でもしていれば、カメラの活躍する場所はある。ただ、本当に「お金がある」ならカメラマンを雇いたいところだ。あるいは、身近な話題では、何か習い事でもしていて、先生の創作物の完成プロセスを写真にしておきたいとか、自分も習い始めの記録として残しておきたいとか、写真は、あくまでも対象に付随するもので、その範疇を越えることはないと思うのである。勿論、冠婚葬祭、お孫さんの撮影には大いに利用できるが、身の回りにそれほど撮影する対象は無い筈である。 美しい物なら、やはり実物が良いに決まっている。
ただ、撮影を始めるとか、創作に時間を使うということは、自分に「足りない物を探す」とか、自分が「新たな発見をしたい」という向きには、とてもよい手段だと思える。「優れた写真を見て、自分も同じように撮りたい」と思ったときに、初めて向上心が湧き、そのために、あらゆる努力をする。その努力こそが楽しみなのであって、1つ1つ階段を踏みしめて「技術と感性」を磨き、その貴重な時間を実感し、生涯続けても時間が足りないほどの充実感を味わえる、と思えるのではないだろうか・・・と推察する。推察を続けると、ある時、そうやって積み重ねた足跡を振り返ると、かつての発言や作品の中から「自分の未熟さが露呈し」恥ずかしく思ったりするわけで、そういう反省を含めて、あらゆることに謙虚になれるのである。また、人から何か教わろうとしたときに、その価値を十二分に知ることになるのである。 それにしても最低限度の「熱意とやる気」が必要なことは言うまでも無い。
さて、デパ地下で購入する弁当も、私にとっては、その「優れた写真」の1例のようなもので、お手軽で優れた料理を色々食べてみることが、自分で何か料理を創作するときの一種の勉強なのである。その手口というか、創意も大いに参考になるからである。ちょっとした工夫に感動し、自分の知識に加え、いつか真似っこ、あるいは応用してやろうと思うのである。また、和食のお店で「これは美味いなあ」と思っても、ただ「美味しい」だけで終わってしまっていては、向上できないし、「料理長がいかがでしたか?」と感想を求めに来たときに、ちょっとした会話でもして、何かを教わりたいし、そのときのためにも「基礎知識を養成」しておきたいのである。そのために、平素からトライしているのであって、そんな、越えることの出来ない一線を意識しつつも、限りなく近づきたいと願うことで、初めて「感性が磨かれ、成長できる」と思うのである。
そういう観点で、写真も、料理も、趣味といえる自覚があるならば、安易に「自分が満足すればよい」と言い放っていけない。それを耳にした人は、なんだ「それだけの、つまらん おっさん」と思うに違いない。何のために歳を重ねてきたのか。やはり、常に「熱意をもって、目の前の実体から学び取り、それに挑む」心構えと真剣さが必要なのである。今、「隣にいる年配の集団」に、そんな激を飛ばしたい気持ちである。 「渇」!
今日は、ホテルオークラの6月の新メニューである。ありがちなメニューだが、なかなか真似のできない遠い2品である。
ではこちら
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