家族の写真は、行事等の後に整理してアルバムに収めてあるものだが、仕事で使わなかった古いポジ・フイルムは無造作に缶の中にはいっていた。幾つもの缶にバラバラになって20年くらい眠っていたので、分類をするつもりで整理を始めたら、懐かしいのがいくつか出てきた。ついつい、見入ってしまうことも多い。ライトボックスの上にフイルムを置いて覗き込む。これ自体も今では懐かしい手法だが、そのフイルムの中からは、つい昨日のように古い記憶が次々とあふれ出す。画像と記憶というのは極めて密接な関係を備えているようだ。
当時は、ページレイアウトをしていくと、まれに原稿の文字数が少なくて、空きスペースが出来てしまうことがある。そこで、そのスペースの穴埋めを用意しておくようにする。一般的には、関連するイラストを作ってもらって挿入したり、本文に関連する用語解説の原稿を起こしたりするわけだが、いつも、素材選びに苦しむことが多かった。そんな背景もあって、常々主たる目的は無くても、ちょっとした写真を撮って準備しておくことがある。趣味で撮影しているわけではないので、ある程度の許容範囲を持った写真でなければならない。テレビのニュースなどでよく使われる「参考映像の類」と同じ用途になる。ここにあるのは、そんな目的で撮影され、実際には使われなかった没の写真群である。それでも、今は楽しかった思い出である。「自分で同僚を撮ったもの、同僚が私を撮ったもの、カメラマンに注文つけて撮影してもらったもの、など様々だが、写真を並び替えると、当時自分が発した言葉や行動まで思い出される。
・・・・・雑誌作りや編集には、素朴な疑問に応えられる探究心が重要な役割を果たす。人は、どのような世界に身を置いても、ごく素朴な疑問を解き明かすために、時間がかかる事がある。この時間は、修行にも似た苦痛を伴うが、いつしか幾つもの要素が1つ1つ繋がって連携し、全体を見通せたときの喜びはひとしおである。たとえば、NTSCのカラー信号の3.579545MHzと水平同期信号の15734.24Hzの関係を知った時のようなものである。あとは、推理力と根気さえあれば、自力で知識を整備する事が出来る(付随する記憶まで戻ってきたようだ)。雑誌の役割はそのあたりまでだが、それを理解したいという動機が生まれるまでが大変なのである。それには、手順が密接に関係してくる。学ぶべき知識は、自分が考えなくてはならないし、趣味でも仕事でも同じだが、どこか「興味とか面白そうな部分」を見つけることである。その時初めて、自分に足りない物が分かってくるからだ。
雑誌は、伝えたい事をひた隠しに隠し、少なからずそのテーマに絡んだヒントを提供し、次から次へと引っ張ってゆく。読者の「毒解力」に任せ、自ら考えてもらい、そして、何らかの衝動を引き起こさせるのが狙いだ。そこで、原稿には常に「おおっ」と思われる様な鋭利な切口や「そんなの嘘だ」と思えるような提案が必要であり、写真には、それらしい現実味を加える重要な役割がある。どのページを開いても、眺めただけで読者が興味を見出せる仕上げになっていなければならない。そこに、読む、観る、手持ちの知識と関連付ける、といった立体的で「妄想のような要求」が生まれ、深く掘り下げて本質に迫ってみたいと渇望するようになるのである。このような編集手法は、知識人ほど引きこまれやすい。
MOVEment を読んでくださった方々は、まさに、そんな読者が多かったと思う。映像技術にこだわるあまり、製品の構造や形状、部品配置にも一歩踏み込み、スペックには表れない僅かな性能差を探求し、さらにその実質的な価値判断にまで言及する。時折、アンケートはがきで、意表を突くようなリアリティーのある反応に、当時は閉口したものだ。しかし、その期待に少しづつ応えていくことで、いつしか、自分もその本質が良くわかってきて、気付かないうちに、成長していたのである。実際に読者の人たちが、全てあのような映像機器を駆使していた人たちばかりではなかったと思うが、編集方針ともいえる検証、あるいは実証主義的なコンセプトに共感していただけたと考えている。また、そのような、徹底したこだわりのある人たちを巻き込めたことが、当時の編集屋としての誇りになっていた。読者を育てるつもりが、実は、自分が読者に育てられていたのである。
ということで、今日はかつて「読者だった人への専用ページ」を作ってみた。没写真によるリメイク版「撮影現場編」といったところかな。読者で無かった人でも、機材を見て懐かしく思われるかもしれない。
ではこちら
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