そろそろ、湿っぽい季節になってきた。じめじめした日が続く。そういう時期に必ず思い出すのが「あじさい」である。雨にぬれていても、活気のある花を咲かせ、際立つ美しさは印象派の代表格である。雨のしずくが花や葉の間に残り、レンズのようにキラキラと輝く。「あじさい」は雨降りの日が特に美しい。
神代植物園では、先週あたりから「あじさい」が咲き始めている。カレンダーを眺めながら、そろそろ写真を撮りに行くのに良い時期かなと考えていた。あじさいの花はタイミングを逃すと花の外周部から徐々にきばんでしまう。ただ、最近はどうも本能的に、人ごみの風景を嫌うようになってしまい、今ひとつ踏み出せなかった。おまけに、背の高いあじさいは撮影しにくいし、雨の日に脚立を持って撮影に行くのも難儀だなぁ、と自分に言い訳ばかりしていた。
そうこうしているうちに、ある日、家内が大きな袋を提げて帰ってきた。春先あたりから、次から次へと幾つもの鉢植えを買って来ることがあったので、また、花の鉢植えだと、おおよそ見当が付いていた。ただ、家に来た鉢植はしばらくすると、すぐに枯れてしまうので、そろそろ、植え替えをするシステムにしないと駄目かと考えていた。家内は、花があると上機嫌で、花を褒め称え、日々が楽しそうに見える。枯れると機嫌が悪くなり、再び新しいのを買ってくるというのが習慣になっているようだ。
最近は、花が枯れるたびに人のせいにする。私の体から「花が枯れるような毒」が出ているからだというのである。確か、昔からそのような逸話がささやかれていた背景もあるのだが、あるテレビ番組で、三輪さんが花や木は部屋に置くと「邪悪なものを吸い取る」と話していたので、益々それに関連付け、主張に大いなるバックボーンを得て自信を増したように訴えている。
その大きな袋には、「あじさい」の鉢植えが入っていた。玄関に設置し、「よし」と気合を入れながら、これで「しばらくはもつわ」と、いたくご満悦のようであった。 私は、責任を感じたわけでもないけれど、朝に夕に水をやり葉水も欠かさなかった。暑い日は、風通しの良いところに移動させたり、時にはモーツアルトも聞かせた。小さな鉢植えだと、ついつい給水や日光の事を忘れてしまいがちだが、大きい鉢植えだと存在感もあり、家族のような気持ちで世話をするようになる。まあ、私の「毒を吸い取ってくれている」と思えば可愛いいもので、 愛情を注ぐ甲斐があるというものだ。
しばらく日が経過しても、珍しく「あじさい」は元気一杯で、頑張ってくれている。やっと花も咲きそろい始めたので、神代植物園は諦めてこちらを撮影することにした。大きな「あじさい」の室内撮影は照明が面倒だが、それでも、撮影中ことあるごとに声を掛けて誉めると「輝きを増してくる」のは不思議だ。
ではこちら
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