2009/06/26

続デジタルカメラ27

 雨上がりの今日、朝霧を駆け抜けるように、再び深大寺までやってきた。最後の坂道がきつかったが、境内にたどり着くと、ピンと張った空気の中に鳥のさえずりが響き、かすかな香の匂いも漂う。苦しそうな自身の呼吸音がひときわ大きく伝わってくる。まだ、早すぎたか。太陽の行方を見ながら、元三大師堂の前の階段にしばらくしゃがみこんだ。

 今日の目的地は「開山堂」である。その前に、前回撮影した「五大尊池」の前に行き、昨日の雨が流れ込んでいるのを確認する。この音を発てて溢れ出ている水源は気持ちが良いくらい綺麗である。こんな状態の時に写した方が良かったな、と反省。そして何かに惹かれるように、再び「深沙大王堂」を目指して歩き出す。近づくと大量の水が流れ落ちるような音が聞こえてきた。隣の「水神苑」という料理店の中庭に滝のように水が溢れ落ちている場所がある。木々の塀が中庭をさえぎりよく見えないが、どうも断層の中程の「深山茶屋」の下あたりから流れ落ちているようだ。山門の前を通る脇溝の水はここから来ているのだろう、水車小屋の方にも流れているようだ。 深沙大王堂の裏手から「深山茶屋」の方へ上がって確認したいと思い、階段に向かって歩き始めたときのことである、ごくごく普通の水溜りのような小池に向かって、初老の紳士が手を合わせておられた。おっつ、ひょっとしたら、ここが深沙大王の湧き水を祭った場所なのか。その奥には、芭蕉句の碑まであるではないか。うーむ、深沙大王は「鋭い切替えしで、俺を翻弄させたな」と、愕然とその、ごく普通に見落としてしまう小池を眺めるのであった。しばらくその前に佇み、その小さな池をくまなく見渡し、おもむろに納得しながら「元三大師堂」まで戻り始める。朝日の輝きに気を取り直して、そろそろ、大師堂の左端にある「開山堂」への道を上がる時間が来そうだ。今日は、そこで、いつものように1カットだけ撮って帰ろう。

 写真を撮ること自体は、力むほどのことも無く簡単な作業であるが、その前に自分の心構えが重要である。不用意に散漫な気持ちでいてはならない。そのために、まず、元三大師堂に向かい、「今日は、開山堂の写真を撮らせてもらうために参りました、いい写真を撮って帰りますので、お守りください」 と礼拝をする。特別に信心深いわけではないが、最低限度のマナーといえる。ブログで紹介する写真は、多くの人の目に触れるので、そのような気持ちになるのだ。写真撮影で、よく使われる「感性」とは、このように写真を撮る姿勢というか、撮影を見守る人たちへの配慮だったり、撮影対象の気持ちを大切に想うことであったり、あるいは、その出来上がった写真を見ていただく人に伝えるべきものを熟慮する「精神構造」のことである。

 勿論、カメラを向けてはならない方角や対象もあるし、時間帯もある。もっとも、写り込んでもらっては困る者もある。露出や絞りの前に、配慮すべきことは多い。また、案外自分の力量不足によるジレンマに苦しみ、目標が絞れなかったりする時もある。経験を重ねると、自分なりの流儀の必然性を実感するのである。

 礼拝をすませてからは、気が楽になる。何処か、かつての「報道関係の腕章」にも似た安心感と責任感の同居する微妙な気分である。すたすたと坂道を上がり、開山堂へ急ぐ。勿論、開山堂でも礼拝を忘れてはならない。ここでは、率直に「いい写真撮影の為に力をお貸しください」と手を合わせてお願いをした。そのお導きによるものか、ご利益か、ロケーションも難なく決まり、楽にシャッターが切れた。 この緑に囲まれた高台から、じっと調布市を望む「開山堂」 は、一際頼もしい姿に見える。深大寺を尋ねたら、蕎麦を食べて帰るだけではなく、必ずここ開山堂まで足を伸ばして欲しい。 ご利益はある。
ではこちら
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