ここ数ヶ月左手のひじが痛んで仕方なかった。あまり使わない左手で重たい物を持ち続けた結果である。持って歩いているときは、さほどでもなかったが、翌々日ぐらいから、ねじった動きをすると、どうにも悲鳴を揚げたくなるぐらい激痛が走る。「あいでー」としゃがみこむような状態になってしまう。左腕のメカニックがいったいどうなっているのか良く分からないまま、右手で想定される患部を探しても見当がつかない。あまりいじっていると周囲の筋肉まで痛みが広がるようになった。意識しないでいられる平穏時もあるのだが、不意な動作での激痛は往生する。もう1ヶ月もすれば治るだろうと思いながら、何ヶ月もかかってしまっているのにも閉口している。三脚を長く持った後は、ひじを取り外したいと思うぐらい痛むのである。
悪化はしていないようだが、何ヶ月もこのような状態が続くと、不安になるものだ。外科に受診しても良いが、以前、もっと酷い腰痛で受診した時に、落胆してしまって、病院に期待は出来ない。あの時は、柔道部の顧問のような先生だったので、カイロプラクティックではないが、ゴリゴリ、ポコポキと一発あるのかなと期待はしたけれど、患部はおろか、顔さえ見ずに、コンベンショナルなX線画像を観るだけで、「大丈夫ですよ」と一言。サロンパスの大きなヤツを貰って帰ってきたという経験をしている。そうそう、あの腹膜炎で手術をした大学病院である。それでも、人の体はよく出来ていて、患部をカバーリングするように他の筋肉や細胞が強化され、補うようになり、腰は悪いままなのに患部を避けるように、筋肉が再構築して痛みは減るようになる。しかし、平素から鍛えていない左腕はそうはいかない。
痛みを抱えていると、何かにつけて行動が消極的になる。いや、むしろ、言い訳を自分に言い聞かせ、「自信が無い」という答えを自然に導いてしまう。まるで、考え方まで壊滅的になる。そんな折、今度は左右の親指を分解中の液晶パネルの縁でつるっと切ってしまったのである。止めどもなく溢れるように出血し、みるみる液晶パネルが真っ赤になってしまった。止血はしたもののズキズキ痛むようになってしまった。これで使える指と、腕の動かせる範囲がかなり狭くなってしまった。まさに踏んだり蹴ったりである。こうなると、宗教家でもないのに、もう、「信心が足りないのではないか」と自分を責めるようになるものだ。
そして、今日、悔しいやら、情けないやら、いらだつ気持ちを抑えながら再び深大寺に向かったのである。そして、あまりにも自分の不甲斐なさに涙を浮かべながら、しみじみと手を合わせ、お願いをしたのである。自分の事について神仏にお願いするのは、今まで不謹慎だと考えていた。なぜなら、自分自身で解決しなければならないことだからである。それは、「自分ではどうにも手立てが無い時にお願いするもの」だと強く教えられていたからでもある。それでも、もう、これはそれに「当てはまる」のではないかという気持ちになっていた。
そしてついに、「おびんずる様」の手を摩りながらお願いをしたのである。おびんずる様は、「本気で頼んでる?」と言いたそうなご様子だったので、「信じてますので、お願いします。何でもしますから」と覆いすがるようにお願いをした。ちょうど空腹時の猫さんが飼い主にズリズリするような姿に見えたのかもしれない。傍から若い坊主が笑みを浮かべながら眺めていた。一寸恥ずかしかったが、しょうがない。これが注意散漫な俺の生き様だと開き直る。
恐らく、その坊主にとってみれば、「そんな説明書きを本気にして、なわけないじゃん」って思っていたのかもしれない。しかし、その時は信じてお願いする他に選択肢はなかったのである。階段を下りて数歩進む間に、「背後」から、「今日は、開山堂へ行かないのか?寄って行け」といわれたような気がしたので、開山堂へもお願いに参上した。
ではこちら、うーむ、やっぱり頼れる俺の最終兵器「びんずる尊者」である。
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