2009/10/13

ウォーキング2

 いつも同じ路を歩いていても、少しづつ風景は変わって行く。四季の変化、建設中の建物、道路を走る車量の変化、ここは多摩川の周囲にある遊歩道である。ちょっと大袈裟になるが、手持ちのウォーキング・コースは3種あり、季節や天気などによって度々予告なく変更されている。予告なくとは、周囲に伝える必要は無いという意味である。途中で、脳梗塞を起こそうが、心筋梗塞で倒れようが、背後から自転車にぶつけられようが、当事者の自分以外は誰も知ったことではない。そのまま行き倒れも運命と心得ている。死ぬときは誰でも一人だ。

 最近のコースは、昨年5月に紹介したコースより短めになった。体力が低下した訳ではなく、交通事情によるところが大きい。ウォーキングは、大道を行くのが良い。信号や横断歩道が整備されていて、人気があるところが、やはり安全なのである。それにしても、休日をウォーキングで楽しむ人がここ2~3年急激に増えてしまった。動物的習性なのだろうか、何故か同じ方向に向かって歩くと、その先には、きっといいことがあると漠然と期待してしまう。そして共通の目標意識は、妙な連帯感を生むのである。といっても、人が多いところではトラブルも多い。最近は、自転車に乗ってこの道を高速走行で楽しむ人が増えた。人それぞれ考えがあってのことなので、批判するつもりは無いが、運転は正しく常識の範囲で行った方が良い。道路の構造上、歩行者も自転車運転者側もいずれも危険である。多摩川のこの遊歩道では、毎年何人もの死者が出ている。まさに、ここは機敏に反応できない人たちの「三途の川」と化しているのだ。だから、もう単なる遊歩道などと悠長なことは言ってられない。まさにインディージョーンズさながらの、命がけのアドベンチャーなのである。 みんな気をつけて歩こう。

 そんなことに気を配りながらも、歩いている時は、どうゆう訳か「大脳に爽快感」が満ち溢れる。そして、壮大な風景を観ながら歩くことで、益々元気が湧いてくる。
 歩く前は、歩く行為そのものに退屈感を抱えている人も少なくないと思う。私自身も、歩くことで手持ちの時間が減ってしまい、今日やらなければならないことが、先送りにされるとか、何の役に立つのか、本当に体に良いのか、今日じゃなきゃいけないのか、もう一人の自分が私に問いかけることがある。これは、7年間歩き続けている今でも変わらない。忙しいときは特にそう感じる。そこで、心理的な葛藤の末の苦し紛れにステレオ・イヤホンを付けて歩く人もいる。しかし、これももはや危険な行為である。お勧めは、せいぜい、今自分が抱えている「最も大きな課題を考える」ために歩くと思ったほうが良い。

 さて、意を決して歩き始めると、少しづつそれらの不安が薄れ、前回の続きのように軽快な足の運びに変わる。体が勝手に歩く事への喜びを覚えているのである。しばらく進んで調子が出てくると、目の前にあった「課題、悩み、あるいはネガティブな発想」が汗となり、秋空に少しづつ蒸発していくようだ。無心になり、次々とギヤチェンジをしながらスピードを上げていくと、左右の足や腕が、心肺のリズムに合わせて同期するようになる。精神は、やや興奮気味で強気になり、軽快に何処までも、何処までも、無限に歩けるような勇気にも似たファイトが湧いてくる。これが、快楽物質の放出し始めるタイミングなのだろうか。この快楽物質が大量に放出され、徐々に体の隅々にまで行き渡り、毛細血管にまで浸透する頃には、魂に日常潜んでいる「欲求不満や多くの煩悩」までもが影を潜めていく。これをコース上で例えれば、丁度第3コーナーを回った頃(半ば過ぎ)である。ついつい、前を歩いている群れが煩わしくなる。いつもの休憩所まであと少しだが、疲れは感じないので続行したい気分である。しかし、それをあえて休憩するのが紳士的で健全な行為といえよう。足を止めて水分を補給し、時計を眺めて今後の運行計画を再検討する。十分予定通り進んでいるようだ、と、いつもと同じ風景を眺めても、何か新鮮さを感じる。5~6分休息したら、よし行くぞと、再び歩き始める。休息の後の再起動はつらい。これは、肉体的にどん底から這い上がるような苦痛を伴うが、ちょっと気合を入れて徐々に軽快なスピードにまで戻そうとする。もちろん、快楽物質は、すでに体内に蓄積された乳酸が食べつくしたような状態で、足の筋肉に蓄えてあったエネルギーまでもが底をついている。太陽は少しづつ西に傾きはじめ、群青色の闇が背後から追いかけてくると、少し焦りを感じ始める。そして第4コーナーに差し掛かる頃、あと残されている区間も僅かな事を知り、再びエンジン全開で気合を入れなおし、軽快に動き続けるのである。ここまでくると、すでに足の筋肉に少し疲れを感じているが達成感が上回り、終盤はあっという間に訪れる。この最後の伸びしろが自分の健康状態との相関が強い。状態がよければ、まだ、少し続けたいような気持ちも残っているが、終了しよう。歩き終わったら、軽いストレッチをしながら、とぼとぼと、その先にある「壮大な日暮れの風景」に近づく。ここが、ウォーキングの最後の区切りといえるものになる。そして、風景を眺めながら、俺って、「何か今すぐ解決しなければならない課題を抱えていたかな」と、すっかり忘れていた事を思い出そうとすのである。すると、「そうか、そうだった。 だったら、まじめに正面から突破するようにしよう」と、ひどく前向きな自分になっていることに気がつくに違いない。

 この文字を追いかけながら、危険を顧みずここまで読み続けられたら、ついでに多摩川の日暮れを一緒に眺めて欲しい。最初の、歩き始めは左の京王線の鉄橋の向こう岸あたりから始まり、ずっと右へ進み、小田急線の手前の多摩水道橋まで行く。そこを渡って、ここまで戻ってきた。

 次回は、本気で歩いてみようと思っている方々の為に、予定には無かったが、このウォーキングを始めた動機と、継続するための注意点を補足しておきたい。
注)画像の右下が赤く見えるのは、フードが短いために起こるレンズのフレア。
ではこちら
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