2010/03/30

平和記念資料館

 ここを外して広島を語るわけにはいかないが、ここだけをみて涙が流れるとしたら、やや知識不足である。しかし、それは、くさい物にフタをして、何もなかったことにしようとする隠蔽体質の日本社会に根付くものであり、個人の責任ではない。当時の日本の軍閥には、それなりにやましい事があることを、ここを見て自覚してもらえば、今はそれでよい。

 また、戦争中は何も広島と長崎だけが空爆の被害を受けたわけではない。それ以前にも全国各地でじゅうたん爆撃が行われてきた。東京では、昭和20年3月10日、空からガソリンをまいた後に焼夷弾を投下して皇居以外を 焦土にしている。この死者10万人といわれ、当時は、あたり一面に黒焦げの焼死体が溢れていたという。これが東京大空襲として語り継がれている。わずか終戦の5ヶ月前のことである。その後、大阪、神戸、名古屋など全国各地にある67都市を順番に次から次へと、余った焼夷弾を投棄するように空爆が行われたのである。これらは、米軍にとって終戦後利用価値のない、人々が密集した市街地を狙っての攻撃である。また、運送船の往来の多い湾や海峡には、大量の機雷を投下して効率的な破壊を行っている。沖縄の空爆も同3月23日に始まり、その後、上陸作戦に変わる。1,500隻の戦艦の艦砲射撃、55万人の米兵によって、地形が変わるほどの壊滅的な攻撃を受け、洞窟などに隠れた人々は火炎放射器で焼き殺された(死者18万7000人)。4月1日には、米軍は嘉手納に上陸している。この時点で日本は全国焦土と化しており、以降、すでに軍事的には原子爆弾を使うまでもなかったが、ソ連参戦に対し戦後の日本の管理を不動にすべく、米国のソ連に対する権力誇示に使われたのである。勿論、背景には、現実の都市で威力を試してみたいという要求があった事は言うまでもない。

 さて、平和記念資料館には、原爆被害のみならず、原爆自体についても詳しく触れている。これは、焼夷弾などによる被害とは本質的に異なるためで、人が人を殺傷する手段としては、1.未来に希望を託す科学技術が関与していること、2.地球規模で人類にもたらす影響が大きいこと、そして、3.被害が人を半世紀以上苦しめて、今なお続いていること、などの理由に他ならない。平和記念資料館の中を一通り見学すると、以下の事が分かる。

 原爆開発は1939年ドイツから亡命した科学者シラードによって、アインシュタインの署名と共にルーズベルトに提案されている。1942年8月に始まったマンハッタン計画(原爆開発)は、ウラン濃縮やプルトニウムの生産に大規模な工場が必要なため、化学、金属、電機、石油、建設、自動車などの様々な分野の大企業が参加し、動員数12万人、約20億ドルが投入された国家プロジェクトであった。原子爆弾とは、質量の重い物質で核分裂を起こすウラン235が使われている。この原子核は、1個の中性子が衝突すると分裂し2~3個の中性子が飛び出す。この時のエネルギー量は、アインシュタインの質量・エネルギー等価の法則 「E=mxc2乗」を裏付け、核分裂によって消滅した質量はエネルギーとなり、熱と放射線を放出する。飛び出した中性子を次の原子核に次々と衝突させ、この核分裂を連鎖的におこし、強大なエネルギーと大量の放射線を瞬間的に放出させる。これが原子爆弾の動作原理である。PDFの左側に原子爆弾の構造を載せた。

 この爆弾が8月6日午前8時15分に広島地上600mで、目がくらむせん光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球となった。火球の中心温度はセ氏100万度を超え、1秒後には最大直径280mの大きさになり、その時の地表面温度は3,000~4,000度に達したとある。したがって、せん光が光った瞬間に爆心地から500mほど先では、コンクリートの建物は完全崩壊し、瓦からあぶくが発生し、人は蒸発して姿が消えている。爆発の次の瞬間には、周囲の空気が急激に膨張して超高圧の熱爆風となる。これが、遠く約1.4km先の建物を破壊し、窓ガラスを粉々にし、人々は致命的な大やけどを負い、同時に東海村の臨界事故のような傷害を被る。この状態は、誰も手の施しようがないものである。やけどの度合いと放射能傷害は、爆心地からの距離によって異なるが、ちなみに、爆心地から1.2km先では、その日のうちにほぼ50%が死亡している。この破壊力をTNT火薬に換算すると約16,000tになるという。これらの直接被害によって同年12月末までに14万人が死亡したと記載されている。そして、爆発時の直接放射線被害は約4km先にまで及んでいる。その後は、直接放射線あるいは残留放射線によって、次々と多くの被爆患者が亡くなっていく(広島死者24万7,000人)。これらの被害を、館内では実物、写真、当時を思い出して描かれた絵等を展示し分かりやすく説明している。これらは、想像を絶する痛ましさがあり、中でも、一番辛いのは、「大やけどによって、人は、溶け始めた体をひきづりながら、水を欲しがり大田川へ集まていく姿である」。死ぬまでの時間は長く苦しかったであろう。そして、大田川は死体で溢れたのである。

 ところで、個人的にここでも気になった事がある。それは、広島でも三菱重工広島造船所、広島機械製作所は被害を受けていないことだ。これは、全国的に見ても特定の軍事工場が無傷であるのに似ている。勿論、長崎も、呉も同じである。

 そして、復興へと続くが、戦争が終わって子供達が生き生きと育っている姿を見ると、涙目のまま笑ってしまうほどの慰めになるのは不思議である。PDFの右側の写真の廃墟になった街は、その子供達の手によって現在の広島になったのである。全国67都市も同じなので、そう思ってご覧戴きたい。
 一方、これらの体験談を被害者自身が自分の言葉として伝えるのは、精神的にも苦痛を伴うと思うが、記念公園の中では、ボランティアとして記念碑の前で1つ1つ丁寧に体験を語り継がれている光景は、誰がみても痛々しい。
 こちらに、説明の概要を並べた。
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21577&app=WordPdf

 さて、広島・長崎に投下された原子爆弾は、今から考えると4t程度の超小型の爆弾であった。それでも、あの巨大な破壊力を持っているのだから、もし、原子力発電所で超臨界が起きたら、地球に穴が開くといわれるのもうなずける。日本全国には、原子炉は64基あり稼働率65%である。国内消費電力の30%をまかなっており、貢献度は高い。一方、耐用年数を越えて稼動を止めた発電所は、そのまま放置することも危険を伴うが、しかし、解体するにしても放射能汚染した原子炉や周辺設備、コンクリートにまで及ぶ大量の廃棄物を地下深く埋めなければならない。その解体作業自体も作業員は大きく被爆の危険を伴うし、その運搬も同じである。そして、深くて巨大な廃棄穴の、場所の選定にも困っている現実があり、この件に関しては、既に日本でも行き詰っている。ヨーロッパ等では、早くから廃止の方向を決めている。チェルノブイリ事故を思い出すと、至極当然の決断である。

 そしてまた、有事やテロには、原子力発電所は攻撃対象そのものであることから、これ以上原子力発電所の新規建設は、危険を増大させる。いくらCO2削減に世界一貢献したとしても、世界一攻撃を受けやすい国にしてはならない。たとえ、1基攻撃されても、大気汚染で農作物、酪農、海洋資源までも、汚染され食べられなくなる。次の世代の子供達に引き継ぐ為に、ここは原発を減らす方向で検討してもらいたい。

 今日で広島を離れるが、勉強だと思って、1度は平和資料記念館(入場料50円)を訪れて自分の目で放射能被害を確かめて欲しいと思う。しかし、現代では、何に注意すべきかと聞かれると1番に「放射能は目に見えない」ということなのである。
補足:軍閥 本来与えられた軍の職務を越えて、思想を同じくする者同士が組織内で結びつき、事実上の権限を行使して、自由に軍内部を操ったり、その権限により何らかの思想的、あるいは自衛的見返りを得ようとする集団のこと。