恐らく、この病院の敷地の上に立つのは、53年ぶりぐらいになるのであろう。何でまた、よりによって、この病院へ来ることになったのだろうか不思議なのである。この街には、他にもたくさん病院はある。勿論、仕事で来たわけではない。見舞いである。ところで、話を分かりやすくするために申し上げるが、私は昭和28年生まれである。
この病院に、当時4歳で肺炎で入院していた私は、生死をさ迷っていた。父は、担当医から「もう手のほどこしようがない」と告げられていたが、一時期医学を志していた父は、どうも納得がいかなかったようで、自ら調査研究をし、幾つかの手立てを試みて、自分の手で息子を回復へ向かわせたのである。私自身も、父から何やらいろいろな物をスプーンで呑まされた記憶はある。さしずめ、父の臨床試験体になっていたのかもしれない。しかし、少し病気が回復してからの「ある出来事」は、忘れようとしても脳裏から離れない。今でも、鮮明に覚えている。
そこは2人部屋で、隣は7歳ぐらいのお姉ちゃんだった。お姉ちゃんは、平素は全く元気そのもので、何故この病室にいるのか分からないほどだったが、時々調子が悪そうになる。しかし、また、すぐに元気に戻るようだった。そんな、お姉ちゃんは、私を弟のように可愛がってくれて、病棟では寂しく思うことはなかった。しかし、ある日、お姉ちゃんはベットから起きれなくなってしまった。病気が急に重くなり、お医者さんと看護婦さんがたくさん集まってきた。私は、心配でたまらなかった。いつもの看護婦さんが私に、「お母さんは、どこにおってんかねえ」と問いかけ、私は、「お風呂」と答えた。「はよう、よんできてや」と言われ、大急ぎで同じフロアーにある女風呂へ走り、「おばちゃん!お姉ちゃんが・・・・」と叫んだのである。風呂場は、丁度銭湯の洗い場のようなところに何人か並んで体を洗っていたが、私の声を聴いてすぐにおばちゃんは、私の方を向き、怖い顔で2回ほどうなづいた。私はその顔を見て益々不安を覚えた。すぐに部屋に戻ったが、お姉ちゃんのベッドは既に空っぽになっていた。廊下で、おばちゃんと看護婦さんは何か話していたが、二人はすぐに走って行った。お姉ちゃんは、結局、その日も次の日も戻ってこなかった。そして、3日後、おばちゃんは、お姉ちゃんの荷物を片付けていた。私は、「お姉ちゃんは、何処へいっちゃったん?」と聞くと、おばちゃんは、窓の外を指差し「今、あそこで焼きょうるけえ」とつぶやくような声が漏れた。私は、意味が良く分からず「わしも、そこへ行く」と泣きながら、おばちゃんを困らせ、そこへ連れて行ってもらった。病院の敷地に火葬場があり、良く分からないまま、そこで一緒に「のんの」した。思えば、それは、病室の窓から右前方にあり、時々煙突から煙が出ていた記憶もある。しばらくして、白い風呂敷包みを下げておばちゃんは戻ってきた。おばちゃんは涙を浮かべ、私に「はよう、ようなりんさいよ」と頭を摩りながら、病棟を後にした。 昭和32年頃の話である。私の幼い時の記憶は、このあたりから始まっている。
今、病院内で風呂場とか火葬場とか、こんな話をしても、誰にも信じてもらえない。戦後64年の常識からは想像すら出来ないからだ。私自身も仕事がら全国の古い病院(特に大学病院)を訪れる度に、興味本位でその様な形跡を探してみたが、どこにも見当たらなかった。勿論、シャワー室のようなものならどこにでもある。そして、いつしか、このことは夢だったのではないかと、記憶を消し去ろうとまでしてきたのである。勿論、誰にも話したことはなかったが、今、この病院の前に立って「赤い十字」をみると、やはり夢ではなかったのかと疑問にさえ思い、誰かに聞いて確認したいと思うのである。恐らく、現在80歳ぐらいの、この病院の関係者はご存知だろう。くどいようだが、今、この病院の前に立っている自分が不思議で仕方ないのである。なんで、この病院に来なければならなかったのか。 (つづく)
ということで、今日は、広島へ来ているので、数回はこちらからの投稿になる。まず、当時の面影すらないこの病院を紹介しておこう。
この広島赤十字病院には、原爆患者を専門に治療する目的で、昭和32年に原爆病院が併設されている。原子爆弾による放射線は、直接人の染色体を傷つけ、あるいは切断する。そして、染色体は元に戻ろうとするが、異なる染色体同士が結合することがある。ここが手をつけられない要因になるのである。一方、強力な放射線を浴びた物体は放射線発生源にも変化する。つまり、あの「黒い雨」も大量に放射線を含んでいたし、家族を探しに現場に入った人達も被爆した。さらに、患者自体もそうであり、看護をした人達も被爆したのである。また、被爆後、数十年にわたりこの影響と思われる症状が出る。5年後白血病、10年後甲状腺癌、20年後乳癌、肺癌、30年後結腸癌、骨髄腫、などあらゆる悪性腫瘍が発生する事が統計的に証明されてきた。したがって、広島や長崎で当時治療に携わっていた人達で、現在広島、長崎に在住されない方でも原爆症は出ているし、原爆症の患者さんの子供さんやお孫さんにまで影響が及んでいる。数十年後になって、それが分かったということなのである。 これは、当事者にとって今なお続く「長くて終わりのない拷問」である。
その原爆症を専門に取り扱ってきたのがこの病院である。したがって、そんじょそこらの「がんセンター」よりも、圧倒的に豊富な経験を持ち、おびただしい標本を残している。つまり、国内、いや世界でも3本の指に入る腫瘍の病理判定と治療に長けた施設といえる。この病院は、爆心地から1.5kmのところにあり、壊滅的な被害を受けたにもかかわらず、被爆直後から被災者救護の拠点として活躍し続けてきた。まさに、スタッフ全員が命がけの救護治療だったといえよう。そして、救護治療に携わった看護師、医師など多くの犠牲の上に成り立ってきたのである。
今日は、この病院に関係した資料を数点拾ってみた。興味のある方はどうぞ。
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21565&app=WordPdf
補足:広島原爆投下は昭和20年、西暦1945年の8月6日。終戦は同15日。