2010/07/06

オーディオマニア11

  かつて、神妙な顔つきで、鋭利な刃物を振り回すようなサウンドに聴き入る時代があった。その突き刺さるような心地よさは、若い時しか得られない刺激である。JBLスピーカは、音を前にはじき出す様に鳴り、それが国産スピーカには無いリアリティーといえる。みんな、国産には無い刺激を海外スピーカに求めていた。JBLに痺れた人達は、きっとその魔術にかかったに違いない。当時、舶来のスピーカが置いてあるJAZZ喫茶は、学生達の熱気で溢れていたし、アルテック、タノイ、JBLなどを鳴らした店を回り、仲間と議論したものだ。

 個性的なスピーカには、「鳴らすのが難しい」といわれる物が数多く存在する。アンプをとっかえ、ひっかえしながら、試行錯誤するわけだが、なかなか思うような音にならない時にその様な表現がなされる。かといって、アンプを変えても、時間が経過しても音が良くなることはないが、しばらく音を出していると、オーナーはやっと馴染んできたと喜びながら話す。それは、「オーナーの耳が慣れた」だけで、物理的にはエージングが済んだぐらいのことなのである。たとえ、オーディオという勝手な趣味の世界でも、その製品の目的、歴史的背景、そこに使われている技術、などを詳しく知ることで、何故そうなうなのかを知り、上手に使いこなす根拠を理解できるようになる。しかし、殆どのお金持ちは、そんな面倒なことはせず、アンプを交換してみるくらいである。

 メーカーが提供する製品の全てが同じコンセプトとは限らないし、製品に関しては、出来の良いものもあれば、そうでないものもある。それを一緒くたに扱うのは不適切と思うが、趣味だから何でも許されると考えられてきた。そのJBLなり、アルテック なりを好きになれば、1.少々楽器の音が違って聴こえても、2.低音が出なくても、3.歪の多い部分があっても、4.人の声がかすれて聴こえても、さほどそれを問題にすることはなかったし、レコードに記録されている元の音を知らないというのもあり、最高峰のスピーカと同じブランドだという、「一種のすり替え」で満足していたのである。 昔から「優れた特性=良い音」という構図が成り立たないのが、多くのファンを抱える趣味の世界である。ファンの楽しみ方や感性にばらつきがあるので、統一的な理屈をこねても何も結論は無い。むしろ、ファンの気持ちをいつまでつなぎとめられるかが大切なのである。

 さて、前置きが長くなってしまったが、今日紹介するアルバムのように、他人の曲をカバーするというのは、海外スピーカの使いこなしに似ている。全く忠実に音を出してもらう必要は無いし、それは、むしろパラゴンでクラシックを、オートグラフでJAZZを再生するようなものだ。やはり、本来の得意な持ち味で表現して欲しいと思うのである。別の魅力とは、今までと違った歌い方だけでもないし、不本意な表現までして欲しいわけではない。ああ、やっぱり彼女なら、あるいは彼ならその様に歌うんだ!と解釈の違いによる魅力を引き出して欲しいのである。数年、あるいは数十年の時を越えて現代に甦らせ、改めて楽しむには、それなりの新たな感性やセンスのよさで攻めて欲しいと思うのである。だからこそ、カバーなのであって、元より印象が悪くなっては商品価値は無い。そこで、歌い手よりもアレンジャーの役割の方が、はるかに重要な鍵を握っているのかもしれない。 良いアレンジは、何度聴いても歌い手の楽しさが伝わってくるが、そうでないと、やはり無理をして、苦しそうに聴こえてしまう。

 今日は最新のアルバムである。1つ目は、高橋真利子さん(以降敬称略)のNo Reason 2 ~もっとオトコゴコロ~、男性ボーカリストが歌ってヒットした曲を高橋真利子が歌い、別の味わいを響かせたもの、そしてもう1つは、徳永英明のヴォーカリスト4である。こちらは逆に女性ボーカリストが歌ってヒットした曲を徳永英明のムードで包み込んだものである。2人とも前作からタイミング的に、そろそろ新譜発売の良い時期に来ていると思われる。 感想はPDFで。
ではこちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21709&app=WordPdf

補足 「一緒くた」:大雑把な範囲の中で、ルール無く一緒にすること。