こんな事を書くつもりではなかった。しかし、本棚を整理していたら「HPウエイ」-シリコンバレーの夜明け-という本に目が留まり、懐かしくペラペラとめくっていた。デーブ・パッカードとビル・ヒューレットの作った会社の1934年~1994年の間の出来事、課題の解決、人材育成などの革新的な事が描かれている。その会社とは、先日も聴診器の事を書いたヒューレット・パッカード社である。いくつかのページに、文章の横に線を引いてあるところを、再び目で拾ってみた。 15年ほど前はこんなところが面白かったのかと、妙なノスタルジーを覚えるのであった。
初めて読んだ頃は、デーブ・パッカードが米国国防総省副長官に任命されたところあたりまでで、それは覚えていたが、詳細なことは忘れてしまっていた。それは同社の製品に関することではなかったからだ。そこで、・・・へー、と思いながら続きを読み返してみる。デーブ・パッカードが国防総省においてHPの社内管理方針を適用し、兵器システムの調達や、プロトタイプ(F16/17戦闘機)プログラム、通信機器の信頼性向上などに係わっていたことについて読み進んだ頃、そこに、どこか見覚えのある、こんな記述を見つけてしまった。
その本文をそのまま転載すると、<各軍司令部の中でも重要なのは、ネブラスカ州オハマに本部のある「カーティス・ルメイ将軍」の戦略空軍司令部と、その傘下でコロラド・スプリングスのシャイアン山にある核戦闘司令部である。ルメイ将軍は、強力なリーダーなので、これらの司令部は上手く機能していた>・・・・つまり、それ以外の各軍司令部と統合司令部の関係はあまりよくなかったという説明であった。その状況の中でもルメイ将軍の司令部は、特に指示命令系統がしっかりして優れていた。ということのようだったが、話は続いていて湾岸戦争の頃にまで至るのだが、私は、この「ルメイ」という名前が出た瞬間、琴線に触れたように愕然と読む事を停止してしまったのである。
かつて、このブログの中の「広島の平和記念資料館」のところで、こちらも文章をそのまま転載すると、<・・・・全国各地でじゅうたん爆撃が行われてきた。東京では、昭和20年3月10日、空からガソリンをまいた後に焼夷弾を投下して皇居以外を 焦土にしている。この死者10万人といわれ、当時は、あたり一面に黒焦げの焼死体が溢れていたという。これが東京大空襲として語り継がれている。わずか終戦の5ヶ月前のことである。その後、大阪、神戸、名古屋など全国各地にある67都市を順番に次から次へと、余った焼夷弾を投棄するように空爆が行われたのである。これらは、米軍にとって終戦後利用価値のない、人々が密集した市街地を狙っての攻撃である>。・・・・とある。もっとも自分で書いているので忘れるはずも無い。
実は、この空爆を指揮したのが、当時のルメイ少将(米軍第21爆撃兵団司令官)だったのである。では、なぜ私の琴線に触れたのであろうか、それは、当時の彼の「皮肉な報告発言」を思い出したからである。そして、既にこのHPウエイの本では、戦略空軍司令部の将軍になっていたことだ。その頃は、ベトナム戦争真っ只中であった。
ではこちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%21753&app=WordPdf
補足 HPウェイの本をめくる寸前は、しみじみと敗戦記念日を前にして、ついつい関連する放送番組を拝見して、「ただただ、酷いこと事をした、だけじゃ進歩が無いんだけどな・・」とか思いながら、心を鎮めてお盆を過ごすつもりでいた。しかし、たった、3文字(ルメイ)の名前を見つけたがために、再び怒りが沸々と燃え上がってしまった。