何が「癒し」に繋がるかわからない。バジルや朝顔は、これといって特別な事はしなくても元気に育つが、初めての大豆は気になってしょうがないのである。毎朝早起きしてベランダに置かれた「大豆の木」を眺めては「よしよし」と呟き、ある時はサンダルを引っ掛けてスタスタと近づいてみたり、あまり陽が当たると暑いだろうから日陰に移すとか、軟弱に揺れるので添え木を刺すとか、メジャーで寸法を測ってみたりと、360度周囲への観察に余念がないのである。何か小さな白いものが見えるけれど何だろう、そういう「単純な興味」が面白いと思えるのである。
恐らく、これは、自分の思考ルーチンとして「単純な興味→観察行動→未来を予測する」 と言う流れになっていて、人間本来の願望を「何度も何度も」呼び起すようにDNAに組み込まれているようだ。単純な興味とは、「易しく理にかなっているシナリオ」を指す。背景は、概ね予測もしないような事態は起こらないことを意味していて、大前提に「安心」と言う流れがある。これは、人としてとても大切な事のようだ。
もちろん、想定外の事態が起こらないのは分かっているけれど、まれに説明書とは少し違う事が起こってほしいとも、願っているのである。それが、一種の「観察行動を起こさせる要因」なのである。何か説明書には無い、自分だけの発見を期待しているのかもしれない。そう、説明書には「紫の花が咲く」と書いてあるのに、この「白いのは何故」であろうかとか、また、説明書の花のイラストは葉と同じぐらいなのに、この白い実物は、ずっとずっと小さい花のように見えるのだ。何か違いを発見することは、さらに興味を引くと言う事でもあり、知識欲を刺激するはずだ。
そして、「未来を予測する」。この大豆の木を例にとって観測を続けると、花が枯れ始めるとサヤが少しづつ伸びてくる。そうやって次から次へとサヤが増えるのである。このまま放置して枝豆として食べられるくらいの大きさになったら、楽しいに違いないと、ほくそ笑んでいるのである。そして、さらに、そのまま木が枯れるまで放置しておくと大豆になる。説明書には、大豆の水煮の作り方の記述があるのだが、そんなことはしたくない、せっかく育てたのに「もったいない」と思うのである。
そこで次を考えるのである。その実った大豆をまたこの鉢で育てたら、次はソイカラになるかもしれないし、うーむ、夢は次々と膨らむわけである。こういう何段階にも面白さが繋がっていく流れは、それまでキットとして楽しんできたけれど、次は、自分にとって未踏の世界が広がるのである。そうやって経験を積みながら、そこから得られる「癒し」を自分なりに広げられるのである。
ではこちら
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