2012/10/30

来年のカレンダー

 最近は、早めに手に入れないと無くなるものが多い。欲しいのは卓上カレンダーである。いよいよ、来年早々還暦を迎えることになった2013年であるが、歳を重ねたせいか必要な物はすぐ近くにないと困る事が多い。こまごました物を卓上に並べ、コックピットの様な状態にしておくことで、安心な気分なのである。それらは、充電式電池、LED懐中電灯、時計、ラジオ、モニターTV、卓上カレンダー、ウォークマン、メガネ、携帯電話とかで、一口でいえば日常設備である。この手の配置は、年寄りが、盆栽をいじるのに似ている。もし、今、巨大地震が襲ったら 「せめて、愛するそれらと一緒に運命を共にする」ことができる、ということで安心なのだろう。でも、何処へ行くにしても、日常設備と一緒でないと、すぐに困るだろうと思う。

 社会的な視点でカレンダーを眺めると、その年を占う傾向があって世相も反映しやすい。もちろん、戴き物で十分と言う、大昔から「変らない習慣と感性に縛られている人」も少なくないが、女性は、好きなカレンダーを購入する「トレンドに敏感な価値観」を持ち、用途や趣味に合わせて室内が数種類のそれでコーディネートされる。男性は、常々憧れる対象を近くに置きたいと願っているが、そう簡単にできない物が多いのでカレンダーの写真で楽しみたい。特に、機械物は人気が高く、スピードやデザインなら高速列車関係、歴史の象徴としては世界遺産、科学なら火星や探査機といった宇宙開発と様々に憧れが反映される。ところが、来年は、戦闘機、イージス艦、迎撃ミサイルといった軍事関係のカレンダーが売れるとお店側は見ているらしい。ま、せいぜい写真を見ながら心を静めてほしいものだ。

 そんな世相に逆らうように、京王電鉄とSuicaのペンギンのカレンダーを購入してきた。全く平和主義に徹する「おっさん」なのだが、やっぱり、なんのかんのと言っても、あの「8.18 京王線地下を走る」の頃から、来年の京王線のカレンダーには、どのような写真が使われるのか、例年にはない興味を持って購入したわけである。すると、「ああ、やっぱりな!」と思う写真が表紙を飾っていた。さすがに、もう「2度と撮れない地上の調布駅」の写真である。おまけに、現行の3種類の車両つまり、7000、8000、9000系が、全て揃って入線しているという、緻密に「計画性の高い写真」といえ、最後の記念写真としてもふさわしい。

   Suica カレンダーは、13ページ(上が表紙)全てオリジナルのイラストで構成されていて、ペンギンは様々に表情を変えている。カードの場合は、何回叩かれても変らぬ愛嬌を振りまいているが、カレンダーには意外に多様な表情が見てとれて楽しい。実際に近づいて観るとその世界に吸い込まれていくようだ。知らず知らずのうちに、作者の意図を思い浮かべたり、それを題材にして12ページにも及ぶ長編ストーリーを考えてみたり、観る側の創作意欲を掻き立てるようだ。こういった愛嬌のあるものは、絵の中に一緒に入って、自分勝手に想像を巡らせ、自然に魅きこまれてしまうのである。誰でも、何となく日常から離れて楽しい気分になれる筈だ。
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2012/10/26

大長みかん


 この大長(おおちょう)という所は、全国でも有数の美味しいみかんの産地である。瀬戸内海のほぼ真ん中に位置する大崎下島にあり、古く知る人は、広島県豊田郡豊町(ゆたかまち)大長といった。それが、最近2005年3月広島県呉市に編入されてから、私にとって、今や地元の「みかん」の産地ということになったのである。そんな背景もあって、急がないので、ついでがあったら、「初物が欲しい」と伝えてあったのが、ようやく一昨日届いた。やはり、初物は格別に美味しい。昔から瀬戸内海は、美味しいみかん、檸檬など柑橘系が豊富に採れる自慢の地域なのである。

 どういうわけか、葡萄や梨、あるいはみかん等のみずみずしい果物は、温暖な気候で、雨が少ない地域、さらに、水はけのよい場所でなければ、美味しく育たないと言われている。あたかも苦難の路を歩み続けることによってのみ開花する人生のようなものである。少なくとも、温暖という条件では、瀬戸内海は絶好の場所である。日本海側の冷たい風を中国山地が遮り、四国の石鎚山と剣山山が太平洋側からの強い風を遮る、まさに、のどかで静かな海域なのである。さらに瀬戸内海は年間を通して降雨量が少ないという好条件が重なる。そしてもう1つ、「大崎下島」独特の地形に恵まれて、水はけがよい急峻な斜面で育てられている。

 今日の写真のみかんは、そんな場所で育った初物で、大きさはまちまちだけれど、樹の上で完熟したものを収穫してある。もちろん、そのために、ワックス掛け、ブラッシングや洗浄を一切行っていない。まさにその場所に出向いて口にするような印象の薫と新鮮さが漂う。急な斜面を滑りながら登ることもなく、途中、小虫に襲われる危険もなく、部屋の中で大人しくテレビを見ながら戴けるのである。自然な果汁が迸り溢れ、故郷に想いを馳せながら美味しさに浸ることができたのである。不思議なくらい、何個食べても飽きることがない。

 この大長のある大崎下島へは、仁方から下蒲刈島→上蒲刈島→豊島の3つの島を経由して今や橋で繋がっている。途中、「恋が浜海水浴場や県民の浜海水浴場」があり、昔、そこの「安らぎの館」の温泉へ入りに何度か行ったことがある。夕日が瀬戸内海の島々の間に沈む姿をお風呂から望める、まさに癒しを絵にかいたような場所である。美味しいみかんを食べながら、秋から冬にかけて温暖で美しい瀬戸内海を楽しめる場所として行楽にもお勧めである。ついでに、平清盛ゆかりの場所を尋ねる旅にしてもよい。
ではこちら
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補足:蒲刈=かまがり。
注意:仁方から下蒲刈島→上蒲刈島→豊島→大崎下島への路順は、正確で最新のGoogle地図で参照されたい。
補足:平清盛ゆかりの場所→呉市の音戸の瀬戸(再載)右上写真
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    同じく廿日市市宮島町の厳島神社の大鳥居(再掲)
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    さらに詳しくは、呉ナビ参照のこと
http://www.kurenavi.jp/index.html

2012/10/23

今、新蕎麦が美味しい

  深大寺門前あたりのお店では、かつて若旦那達がお店を引き継ぐ世代交代の時期だったと思うが、じわじわと蕎麦も工夫され、美味しくなってきたという現実がある。それには、お店ごと特徴付けが割り振られて、単純な構図で競争するのではなく、「個性を出しあって」新たな蕎麦街を深大寺の門前に展開しようと、腕をふるってきたのである。もはや単なる蕎麦屋の域に留まらず、深大寺蕎麦文化と例えられそうな店が軒を連ねている。勿論、その背景には技術の修練、蕎麦の品質向上、競争意識など、評価は店ごと異なるにしても、数十軒ある蕎麦屋が「深大寺蕎麦」という一種のブランドとしてまとまって、広く集客に貢献していると思われる。しかし、まだまだ若旦那達の向上心は留まるところを知らないようだ。
 
 「年末年始の頃に、ブログで蕎麦の話をするのはタイムリーなのかもしれないが、美味しいのは、いつ頃なのか」という質問が意外に多かった。確かに、時期的な食べごろというのも重要には違いないが、それぞれのお店が「個性を出しあって」いるので、お店ごと味わい方が異なるということも忘れないでほしい。経験的には、一年通して一定の水準は保たれていると考えて差し支えないと思う。むしろ、季節によって戴くものを選ぶことが大切だ。ただ、あくまで時期的な食べごろが、参拝のきっかけになるとすると、深大寺蕎麦が今どのような状況なのか、ひとっ走り、参拝がてら取材してくることにしたのである。

 今日は、季節がら気温は丁度よい案配で、寒くもなくお出かけ日和でもある訳だが、深大寺は特別に日が暮れるのが早いので、1枚上着の準備が必要だ。平日だと言うのに何だか「深大寺周辺も、蕎麦屋も」大変混み合っていた。11月15日に向けて七五三の祈願を受け付けているようだ。因みに、祈願料は5,000円~とのことで上限は無い。これで「健やかに成長して、出世してくれる」なら、お安いものだ。しかし、晴れ晴れと着飾った子供達は見当たらなかった。おおよその参拝層は、やはり、年配の人が一番多く、次が定年を過ぎたくらいの御夫婦、若い二人ずれ、子供連れの夫婦などの順である。こういう場所でも、「定年を過ぎたくらいの御夫婦」が増えているということは、今後まだ20年くらいは、深大寺への参拝客も増えそうである。


 さて、この時期は既に「新蕎麦」が出ていて、お店によっては100%蕎麦粉使用、つまり「新蕎麦で十割蕎麦」が用意されている。十割蕎麦は、都内の蕎麦屋で取り扱う事はないので、一種の珍しさが人を集める。製造方法も難度は高く、様々のノウハウが積み重なってお客に提供されている。これがいわゆる「若旦那が腕をふるう」証なのである。それには、蕎麦粉を超粉末にしなければならないとか、蕎麦打ち、茹でなどに神経を使うし、にも拘らず、決して食べ易い蕎麦麺にはならないからだ。つまり、時間と手間がかかる割には、評価する人が少ない。しかし、薫は高く、喉越しにも独特の食感があり、お好きな人にはたまらない「究極の蕎麦」と言えそうだ。ということで、今日はとりあえず、一休庵で十割蕎麦を堪能してもらいたい。時間帯は早めの11時半以降か、午後なら14時以降がよい。
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2012/10/19

多摩川を望む


  ゆったりと歩きながら大きな川を眺めることが、これほど気分転換になるとは、思ってもみなかった。今は、「そんなつまらんことは考えなくなった」が、かつて若い頃は、課題が増えると多摩川の河川敷に出かけて気分を宥めた。その壮大な空間と果てしない川の流れを眺め、それに今の課題を重ねると、様々な想いが湧き上り広がっていった。そのうち、日が暮れる頃には、ちっぽけな人生観に呆れ、お尻にくっついた砂埃を払いながら、再び立ち上がって前に進んでいたのである。誰でも、穏やかに見える川の流れに、戦略もなく1人でボートを浮かべたら、やはり早い流れにのみ込まれてしまうに違いない。

  どのような時間を過ごしてきても、同じ毎日、同じ場所、あるいは、同じ人間関係にいずれ飽きることがある。その様な環境は、微妙なバランスでとりあえず秩序を保っているように見える。だが、結局、それを毎日許容して生きていることで、時たま消化不良を起こし、体調を壊すこともある。そういう事を何度も繰り返しながら、そのうち、漫然とした平穏な日々に、「この環境でよかった」と思う事もあるだろう。一方で、「新たな刺激」を受けると、果たして、今のこれを「そのまま続けて、先行き何になるのだろうか」と思い返す事もあるはずだ。人生は、そのような気分の浮き沈みが続くものだが、毎日漠然と「先が見えない不安」を恐れているのである。

  川に浮かぶ浮草の様に、時の過ぎゆくままに身を任せていると、時折、誰か将来の青写真を見せて、自分を導いてほしいと思う事もある。しかし、それはない。「絶対にない」のである。そのくらい今の社会には、リーダーは不在といって良い。むしろ、早く自分を諫めた方がよい。なぜなら、自分を意識的にそう導かないと、「見えない巨大な力が自分の毎日を管理」し、好むと好まざるとに関わらず、行くべき道筋や存在する秩序を勝手に決めて、その先へ押し出そうとするからである。不本意にも、その巨大なエネルギーに押しつぶされそうになりながら、いずれ敵わないことを悟り、観念して、逆に「それが一番いい」と思うようになってしまうのである。・・・それも悪くは無いが。


  日常の巨大なエネルギーの中では、みんな同じ方向に同じスピードで移動しているために、小さな変化にしか気が付かないことが多い。小さなことにばかりこだわるようになる。まして、羅針盤を持ち出して方向性を問題にすることは皆無といってよい。だから、知らず知らずのうちに全員で迷路に進むのである。そこから離脱するためには、常にその場所から離れて自分を眺める必要がある。

  人は、どういうわけか巨大な自然に敬意を払ったり、その存在に対して自分の立ち位置を見直そうと努力することがある。それが「離れて自分を眺めるために、大いに役に立つ」ことになる。川の流れや、潮の満ち引き、あるいは太陽の動き、我々にもそんな大いなるエネルギーが影響しているからだ。それは、他人の考えの及ばない「不変で継続的な刺激」だと思う。その自然界の刺激は、かつて我々の祖先もそうであったように、それは「明日への希望がわき上がる様」にDNAに組み込まれているのである。日々の努力を一種の徒労感に終わらせないために、明日の為に今の時間を大切にしておきたい。

 ・・・・ そんな事を考えていた昔を思い出し、今日も、20分でいける巨大な空間「多摩川」へ久々に出掛けて来た。ぼーっと釣り人を眺めていると、いつの間にか、また日が暮れてしまった。
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2012/10/16

麺の力 ちゃんぽん

    サンヨー食品は、ついに「太麺の美味しいちゃんぽん」を完成させたようだ。この領域まで来ると、もはやマルハニチロ食品の冷凍「レンジだけ!ちゃんぽん」とか、日清食品冷凍の「海鮮ちゃんぽん」さえも少し影が薄くなってくる。もちろん、専門店のちゃんぽんも同じだ。リンガーハットは、長崎発祥の「ちゃんぽん専門の全国に展開するお店」である。だから、そこそこのお値段で、ちゃんぽんの代表的な美味しさが実感できると言えよう。もちろん、全国展開に当たり、必ずしも伝統的な美味しさのみで店舗数を拡大してきたわけでもなく、やはり、何らかの工夫や地域社会のニーズの違い、あるいは、競争原理などを経て現在に至っている筈である。ならば、やはり「地元の長崎にあるリンガーハット」で食べる「ちゃんぽん」が、一番バランス感覚に優れていると考えるのは自然である。・・・うー、よくわからんが。

 前回、「麺の力 中華そば」を紹介した時にも強調しているが、「坦々麺とちゃんぽん」は、サンヨー食品の長期にわたる、袋めんへの思い入れを垣間見る製品といえる。実際の台所における「袋めんの最大活用術」というか、難しいのは、いずれも袋めんの持つ「少しだけ手を加えて美味しく戴く作法」を顧客が活用できるかという点にある。もちろん、同社が別売りしている「坦々麺の具」とか「ちゃんぽんの具」を併用して、手軽に本場の気分を味わうのも1つの選択肢に成る筈だが、いまだその優位性は不明である。しかし、早々に使ってみたいと思っている。

 ちゃんぽんの歴史を紐解いて、材料の魚介類や野菜、つまり「いか、えび、あさり、豚肉、キャベツ、もやし、玉ねぎ、かもぼこ・・・」などを揃えようとしても、案外面倒である。種類の多さだけではない、これだけの種類を使って1食分のみ作るのは、少量過ぎて返って煩わしい。かといって、お仕着せの具だけでよいか?と聞かれると、そこに何か自らの手を使って 「自由で気ままなお腹を満足させたい」と願っている筈である。ともあれ、そこは、自分の好みを生かして、どのように仕上げるかにかかっているし、それを考える時にこそ「少しだけ手を加えて美味しく戴く作法」という、一種の賢さが生まれるのである。

  今、この手近にあって、ちゃんぽんに最適な食材としては、シーフード(いか、えび、ホタテ)の冷凍食材とか、ベーコン、玉ねぎ、キャベツ、焼き豚、メンマぐらいなので、それを使って何とかまとめてみたい。結局、今回のPDF写真では、麺が隠れてしまう野菜は取り除いている。手順としては、シーフードを電子レンジで解凍し、「麺の力 ちゃんぽん」に入っているスープの素を少量加えて炒める。また、ベーコンをフライパンでカリッとするまで炙る。その後、そのフライパンで玉ねぎ、キャベツを炒め、それぞれの具材は別々に保管し、麺の上に載せるときに一緒に盛りつける。どれも、余った材料を再利用できるように保存しておく。「サッポロ一番の味噌ラーメン」にも利用できそうである。
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2012/10/12

続 天下鯛へい

 秋は、歌会や俳句、あるいは短歌など、自らを表現する文芸や文化と関わり合いが深い季節である。暑さから解放された安堵感によって、感性がすこしづつ湧きあがり、一種の言語手法を通して想いを巧妙に表現してみたくなるのである。俳句や短歌は、季節の移り変わりの美しさを言葉として表現することが多いが、そのイマジネーションをさらに際立たせるために、それを背後で操っているのが季節を感じさせる和菓子なのである。つまり、自然の風景の変化や、漂う冷たい空気感のみならず、喉越しから得られる幸福感も、それには重要な役割を果たしているのである。

 喉越しから伝わってくる季節の薫りは、時折、古くて遠い記憶を呼び起こすことがある。年配の人たちが、毎年季節の変化を感じさせる果物やお菓子を好んだり、それに同世代の人たちと会話を通して協調性や共感を求めるのは、そういった、かつての古い記憶と自己の抱えた感性や感受性を再認識し、一種の安心感や歳を重ねた充実感に浸ろうとする行為そのものである。そこに、季節の美味しいものが重なって、ついつい感動を呼び起こす源泉になっているのではないだろうか。逆に、年中、同世代に共感を求める年配者も多い。ま、それは季節とは関係なく、一種の老化にほかならない。

 人は徐々に歳を重ねて、季節を感じさせる僅かな趣向でも感動できる感性が備わり、その心地よさが少しづつ分かってくるらしい。特に秋は、周囲にあるものは何でも美味しく見えたりするし、事実美味しい季節だが、私のように、何か取り違いをして、食卓を前にして「秋こそビーフカツだとか、アウトレイジ ビヨンドだ」とか馬鹿な事を言っているようだと、いつまでたっても大人になりきれないと思うのである。一方で、仕事か何かに没頭し、忙しなく日々が過ぎてしまったりすると、いつのまにか季節の移り変わりさえも見逃してしまったという、何か美味しい物を食べ忘れて損をしたような気になることもある。やはり、日本人の季節感には、食欲に通じた強い欲求があるに違いない。え、俺だけ?

 今日は、日本橋屋の和菓子「天下鯛へい」を再び登場させるが、同社の商品は今回で4度目になる。意外にも「柿乃木坂」が人気があるようだが、今頃は季節感のある「天下鯛へい栗餡仕様」が販売されているようで、これを手土産で頂戴したのである。戴き物で恐縮だが、私も栗系は大好物で、一度に沢山はいただけないが、何気なく季節感を感じるお菓子なので、やはり嬉しい。お味の方は、普通の「こし餡の天下鯛へい」と比べると、栗餡の方が塩分が控え目で上品な甘みに仕上げてあり、やはり、今頃はとても美味しく感じられる。
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2012/10/09

オーディオマニア29


  人は興味のあることについては、日常的に改良を行うとか工夫するのが好きである。特に継続できる趣味のオーディオでは、細かいパーツに分けて検討し、改良とか交換することができる。それによって、低予算でアップグレードすることも可能になるので、それを楽しみにする場合も多い。黎明期から続く歴史的背景を持ったセオリーで、自分の考える「理想を実現するために、それにそぐわないものは交換すれば」よいという考え方である。それを何度も繰り返しているうちに、いつしか理想に近づくと、都合良く考えたのである。しかし、その手法は、理論的に最終的な姿を明確にしてこそ実現可能になるが、やみくもにそれを繰り返しても、ただ時間の浪費に終わってしまうこともある。それも、趣味性が高ければ高いほど顕著になるが、オーディオを趣味とした大半の人達のたどり着く執着点なのかもしれない。

    スピーカにおいて、誰にでも分かりやすい性能向上は、再生周波数範囲の拡大である。しかし、1980年代でもそうたやすいことではなかった。まず、周波数の低い方を拡大するには「オーディオマニア23」で紹介したような、巨大な低音装置が必要になる。しかし、一方の高い周波数はこのタイトル写真にある様に、既存の装置に付け加えればよいわけで、誰でも簡単に実験を始められた。あえて気をつけるとしたら、楽音でスピーカが破損しないように不要な低い周波数をカットしてからシステムに組み込むぐらいである。今でこそ20kHzの再生は、さほど珍しいことでもないが、当時はレコードにその様な周波数が記録されているかどうかさえ不明であった。また、前回の「インパルス応答」に関連づけるつもりはないが、正確な波形伝送という概念からは、高い周波数のレスポンスは、Hi-Fi再生条件の1つと考えられていた。

  当時は、トゥイータより高い周波数を受け持つスーパートゥイータとして使える存在は無く、あくまでも、現状のトゥイータを、僅かに高域再生に優れたものと交換するぐらいのことであった。それは、例えばユニット全てがコーン型なので、トゥイータだけでも能率の良いホーン型に交換してみると言うようなケースである。その背景の1つが、物理的な制約で、トゥイータは実口径30mm 程度では、13kHzあたりまでしかレスポンスがない。それは、ここでも紹介ているJA-0572(アル二コマグネット)等も同じである。それを実口径13mm程度の口径にできれば、20kHz あたりまで再生できる可能性がある。しかし、一方で能率が極端に低下してしまい、いくら磁気回路を強力にしてもそれを補えるほどではない。さらに製造も難しくなって、聴こえない周波数を扱う割には、高価すぎるという結果になるのである。

  そんな諦めかけた時、パイオニアがリボントゥイータを、遅れてテクニクスがリーフトゥイータを発売して、高い周波数応答への関心をぐっと引きよせたのである。人は、「強い関心を持っている時ほど盲目的になりやすい」、そのお陰で、超高域再生への足がかりとなるリボントゥイータやリーフトゥイータは飛ぶように売れていた。さらに、雑誌などでも評論家の聴感レポートは数多く紹介され、それらの殆どが賞賛されたものになっていたのである。ただ、それで期待通りの結果が得られたのかはなはだ疑問であった。一方で、個人的には、全く必要性を感じていなかったが、現状のシステムに簡単に付加して楽しむ人たちの為に、何か役に立つ接続方法が考えられないのか模索し、実際に無響室にシステムを持ち込み、クロスオーバー・ネットワークの定数を変更しながら、高い方の周波数特性を拡大する実験を試みたのである。最終的には、8kHz前後で-6dB でクロスオーバするのが最も無難で聴感上も良いという結果になった。(おっと、この話は1983年の話である)
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2012/10/05

世羅梨

 弟から梨が送られてきた。ここんとこ度々果物が送られてきて、色々考えてしまうが、ま、素直にありがたみを感じている。この梨は「世羅梨豊水」である。世羅とは、その梨が育った土地の広島県世羅郡世羅町で、豊水という梨の種類である。決して珍しい梨というわけではないが、優れた環境で丁寧に作られていて、「たいへん美味しい」ので有名である。梨の種類としては、一般的に幸水、豊水、新水、二十世紀などが知られているが、特に幸水、豊水はどこでも収穫されている。

 我々の世代で、広島あたりで育った者は、二十世紀梨がもっとも一般的で、梨は緑色だと信じて疑わなかったが、40年前、東京へ来た当時は、二十世紀梨の入手が困難だったので、広島から送ってもらったりした。しかし、東京で長十郎、幸水、豊水を知ってから、茶色の梨にはやや抵抗があったが、口にしてみると、見た目より美味しいので驚いたことを覚えている。以降は、もっぱら幸水を好んで戴いている。

 幸水は、大小を問わずいずれも美味しい。特に酸味は少なく、甘い果肉が緻密に入っていて、シャキシャキした食感とみずみずしさが特徴と言える。最近は大量に水分を含み、果肉が果汁で満たされ透明度が増したものがあり、冷やすと天然のシャーベットのようになる。夏から秋にかけて「口にできる自然のみずみずしさ」は、格別の美味しさと言える。梨の種類による美味しさの違いは、よく酸味と歯ごたえとして比較されるが、豊水は幸水に対し甘み、酸味いずれも抑えられて、さっぱりしたみずみずしさが特徴で、果肉は少し柔らかく丁度よい。その違いは、誰にでも分かりやすい。

 二十世紀梨は、それに適した土地で日本海側の鳥取県近郊のみで作られているが、世羅郡世羅町は、丁度三次と瀬戸内海の中間に位置し、三原から少し内陸に上がったところで、長い日照時間、昼夜の温度差、適切な雨量などが梨や葡萄の栽培に適している。やはり、山梨と似た気候といえそうだ。瀬戸内海という冬場でも独特の温暖気候も加わって、将来は、年間を通して様々の果物の栽培が行われるようになる筈である。
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補足:8月には三次ピオーネの温室栽培が贈られてきたのできて紹介したのだが、今回は、9月から収穫できる露地栽培の三次ピオーネ(同じ生産者)が贈られてきた。2つのピオーネは少し違っていたので補足しておきたい。確かに温室栽培の方が「甘味の強いピオーネ」で、果皮や果肉がやわらかく上品な感じであるが、露地栽培は、「果皮や果肉がしっかりしていて、1粒々が大きくみずみずしい」やや強い生命力を感じる。温室栽培の方が高価になるがその分美味しく感じる。

2012/10/02

甘栗アイス

  今日は、甘栗アイスバーを登場させる。単なる栗ではなく甘栗である。テレビのCMは数えるほどしか見なかったが、ふと秋を感じさせるアイスバーだと思った。ま、夏場のアイスケースは競合他社の「強烈な冷え冷えアイス」で溢れかえっているから、これからの季節を美味しくいただける商品は価値がある。まさに、「栗という秋のイメージ」をはっきりと打ち出していて、しかも「ほっくり焼けた甘栗」という追い打ちをかけるダブル攻撃で、CMのみならずパッケージにも「この期間に食べないと、食べれませんよ」というメッセージが込められて、アピール度も優れている。

  時の流れとして、確かに栗が豊作だった年でも、甘栗で使用するだけでは十分な消費には繋らなくなっている。確かに、昔から甘栗はむくのが面倒なので、綺麗にむいてあったら売れると考えた時代もあった。でもそれは、恐らく40年前のニーズで、まだまだ、店頭で「天津甘栗」と称して回転台で焼きながら、甘い薫りを周囲に漂わせながら購入意欲をそそった時代のことである。最近は、徐々に甘栗の売り上げは下降線をたどりながらも、その味覚を楽しむ一部の年配の人たちによって、一定の消費量を確保していると推察されるのである。

  一方で、どうやって甘栗の美味しさを広く掘り起こすか思案したに違いない。柔らかい食べ物ばかりで、噛み砕くことに慣れない子供たちにとって、甘栗を噛み砕いてそしゃくしながら食べる美味しさは、なかなか理解できるものではないだろう。ならば、子供たちの好きなアイスバーに餡子状にして仕込んだらどうだろう。昔は、栗アイスというものはあった。ただ、栗と小豆がアイスクリームの中に離散している状況を想像してもらうとわかるが、この状況では、微妙な栗の味は、小豆とアイスクリームにかき消されてしまい、小豆と栗の区別がつきにくかったのである。

  その反省からかどうかわからないが、こちらは、栗餡仕立ての贅沢なアイスの中に、さらに空洞を設けて、そこに特製の「甘栗ピューレ」をたっぷり挿入して、甘栗の美味しさと栗餡の絶妙なハーモニーを楽しみながら、甘栗の美味しさが際立っているのである。やはり、ポイントは、甘栗と言う二次加工品を上手に使ったということに尽きるわけで、あの「白くま」に使われた甘納豆と同じ着想である。この栗餡アイスに甘栗ピューレを組み合わせることで、甘栗を口の中いっぱいに実感できる美味しいアイスバーになっている。子供たちだけではない、ずっとずっと年配の人たちにも愛されるアイスである。
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