2012/10/19

多摩川を望む


  ゆったりと歩きながら大きな川を眺めることが、これほど気分転換になるとは、思ってもみなかった。今は、「そんなつまらんことは考えなくなった」が、かつて若い頃は、課題が増えると多摩川の河川敷に出かけて気分を宥めた。その壮大な空間と果てしない川の流れを眺め、それに今の課題を重ねると、様々な想いが湧き上り広がっていった。そのうち、日が暮れる頃には、ちっぽけな人生観に呆れ、お尻にくっついた砂埃を払いながら、再び立ち上がって前に進んでいたのである。誰でも、穏やかに見える川の流れに、戦略もなく1人でボートを浮かべたら、やはり早い流れにのみ込まれてしまうに違いない。

  どのような時間を過ごしてきても、同じ毎日、同じ場所、あるいは、同じ人間関係にいずれ飽きることがある。その様な環境は、微妙なバランスでとりあえず秩序を保っているように見える。だが、結局、それを毎日許容して生きていることで、時たま消化不良を起こし、体調を壊すこともある。そういう事を何度も繰り返しながら、そのうち、漫然とした平穏な日々に、「この環境でよかった」と思う事もあるだろう。一方で、「新たな刺激」を受けると、果たして、今のこれを「そのまま続けて、先行き何になるのだろうか」と思い返す事もあるはずだ。人生は、そのような気分の浮き沈みが続くものだが、毎日漠然と「先が見えない不安」を恐れているのである。

  川に浮かぶ浮草の様に、時の過ぎゆくままに身を任せていると、時折、誰か将来の青写真を見せて、自分を導いてほしいと思う事もある。しかし、それはない。「絶対にない」のである。そのくらい今の社会には、リーダーは不在といって良い。むしろ、早く自分を諫めた方がよい。なぜなら、自分を意識的にそう導かないと、「見えない巨大な力が自分の毎日を管理」し、好むと好まざるとに関わらず、行くべき道筋や存在する秩序を勝手に決めて、その先へ押し出そうとするからである。不本意にも、その巨大なエネルギーに押しつぶされそうになりながら、いずれ敵わないことを悟り、観念して、逆に「それが一番いい」と思うようになってしまうのである。・・・それも悪くは無いが。


  日常の巨大なエネルギーの中では、みんな同じ方向に同じスピードで移動しているために、小さな変化にしか気が付かないことが多い。小さなことにばかりこだわるようになる。まして、羅針盤を持ち出して方向性を問題にすることは皆無といってよい。だから、知らず知らずのうちに全員で迷路に進むのである。そこから離脱するためには、常にその場所から離れて自分を眺める必要がある。

  人は、どういうわけか巨大な自然に敬意を払ったり、その存在に対して自分の立ち位置を見直そうと努力することがある。それが「離れて自分を眺めるために、大いに役に立つ」ことになる。川の流れや、潮の満ち引き、あるいは太陽の動き、我々にもそんな大いなるエネルギーが影響しているからだ。それは、他人の考えの及ばない「不変で継続的な刺激」だと思う。その自然界の刺激は、かつて我々の祖先もそうであったように、それは「明日への希望がわき上がる様」にDNAに組み込まれているのである。日々の努力を一種の徒労感に終わらせないために、明日の為に今の時間を大切にしておきたい。

 ・・・・ そんな事を考えていた昔を思い出し、今日も、20分でいける巨大な空間「多摩川」へ久々に出掛けて来た。ぼーっと釣り人を眺めていると、いつの間にか、また日が暮れてしまった。
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