2013/03/12

ディスカバリー9

  テレビ放送開始60年とかのスポットが流れて、そんなことを「うーむ、あっという間だった」と実感できるのは黒柳徹子さんぐらいではないかと思うのである。勿論、今でも毎日のようにスタジオでライトを浴びている(継続56年ぐらい)と言う事実が背景である。制作側にいた関係者は、35年も経てば現役を退いているはずだし、当時を懐かしむ人は殆どいないに違いない。そんなわけで、私が生まれたちょうど2日後に放送が始まった(昭和28年2月1日)という説もあって、画面に「60」と表示が出る度に、まんざらでもない喜びに浸るわけである。もちろん自宅にテレビが来たのは7歳ぐらいで、それまでは、当時官舎住まいということで、隣の所長の家で見せてもらっていた。黒柳さんがアダブラ~カダブラ~と「魔法のじゅうたん」に乗って都内を飛びまわる姿が思い出される。それにしても、当時から黒柳さんは、あの様に「空を飛びまわるほど快活で、おまけに早口だった」と思うのだが、「今だ衰えを感じさせないどころか、益々早口でパワフル」なのが凄い!と関心するわけである。観ているこっちの方が先に逝っちまいそうだ。少なくとも、私より20年ぐらいは先輩である筈なのだが。その後、テレビが昭和37年にカラー化されて、「あたり前田のクラッカー」で登場した藤田まことさんは、必殺シリーズでも長い間活躍されたが、黒柳さんと同じ年の生まれにもかかわらず、残念ながらさっさと逝ってしまわれた。

  そういえば、これが将来のテレビですと「1125ハイビジョンTV」をNHK技研へ取材に行った時、ついでに、私が生まれる前の昔話を聞いたことがある。今となっては、その取材自体も相当昔の話になってしまったが、手帳が出てきたのでそれを見ながら当時を思い起こしてみると、日本国内の放送に関する研究は、日本放送協会の技術研究所の開所(昭和 5年)に始まると考えられる。それは、ラジオ放送の研究で始まり、戦時中は海軍や陸軍からのレーダー装置の共同開発や、潜水艦の電波吸収体の研究などが行われていた。戦後はそれらをマイクロ波中継技術に応用している。戦前から進められていたテレビ・カメラと受像機の研究は、GHQの理解もあって昭和21年から再開されている。実験的な放送を始めたのは昭和25年である。当時の機材や設備は、全て手作りだったと「苦労なのか自慢なのか、手に汗握る様な話」を聴いた。最も重要なデバイスなのに寿命が短かったのがカメラの撮像管で、当初は輸入品であったイメージオルシコン撮像管(RCA)も、昭和27年には国産化に成功し、海外製カメラと一緒に現場で運用されている。その撮像管は、撮像部が2インチの巨大な真空管であった。この撮像管の製造には、当時の化学、物理、機械、電気、真空、防塵などの総合力が問われ、専門筋でも国産化は難しいとささやかれていた物である。

  撮像管とは、テレビカメラの画像を電気信号に変換する光電変換のための真空管のことで、光の入る先端部の光電変換膜に映像が映ると、それに比例して一面電荷が蓄積される。そこに背後から電子ビームで走査すると、その走査の順に電荷が放電して微小な電気信号として得られる。NTSC方式だと、525本の電子ビームで走査して画像を取り出す仕組みになる。昭和30年代には、イメージオルシコンは様々な改良を施され、将来のカラー化に伴い2管式、3管式、あるいは4管式などに伴う画質、寿命なども検討されたが、昭和40年代にはプランビコン(1+1/4インチ)が主流の座に着く。プランビコンは、光電変換膜の材料に酸化鉛(PbO)を使い、色再現、S/N、ダイナミックレンジが良いとされていた。その後の昭和47年に、NHK技研は独自技術で新撮像膜材料を使ったサチコン撮像管を完成させる。

  昭和53年頃からは、リアルタイムの自分の記憶になる。この2種の撮像管は、固体撮像素子が主流になるまで何度も々改良が加えられる。ピン出しによるLOC化、ダイオードガンによる高解像度化、自動のビーム量の制御回路によるワイドダイナミックレンジ化、さらにはMS化を進めて図形歪の改善や画像周辺の解像力の改善など、プランビコンとサチコンは互いにしのぎを削ってきた。


  上の写真は、昭和59年頃信頼性の高いと言われた2/3インチ型プランビコン3管式カメラの代表的な内部の構造である。緑色の基板の奥に高屈折率の3色分解プリズムがある。それに放射状に配置された撮像管のシールドが見える。プランビコンはオランダのフィリップスが開発した撮像管で、多くの製造特許に縛られており、国内では松下電子工業㈱だけがライセンス生産をしていた。一方、サチコンの量産は日立製作所で行われた。放送用カメラに、固体撮像素子が使われるようになるまでは、どこの民放も殆どプランビコン3管式カメラが使用されている。しかし、夜景などの撮影時、カメラを振り回すと明るい部分が赤い尾(コメットテール)を引いて見苦しかった。サチコンは、NHKでは綺麗な画像を提供したが、東京のローカル局で使ったメーカーのMSサチコン3管式カメラは、野球のニュース取材で飛んでゆくボールの残像が目立ってしまい不評だった。

  話が横路に逸れてしまったが、戦後、このような映像技術への憧れと旺盛な開発力によって、世界屈指の映像機器メーカーが育ったと言われている。現在は、そのようなメーカーも時代と共に姿を薄くしてしまい、今やコアな話になってしまった。そこで、もっとコアな写真を用意した。この手はもう殆ど観るチャンスはないと思う。
ではこちら
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%211253&app=WordPdf

補足1:戦時中=一般的に大東亜戦争中のこと。アメリカ、イギリス、中華民国の連合軍と戦った昭和16年12月~昭和20年8月のこと。
補足2:RCA=Radio Corp. of America アメリカの当時最先端の電子機器メーカーのこと。
補足3:GHQ=General Headquarters 日本を占領して駐留していた連合軍の総司令部のこと。
補足4:ライセンス=認可のこと。認可を得るには、応じた数に合わせて奉納金を支払う契約が多い。
補足5:上の写真は池上通信機HL-95。後部にVTRやハードディスクなど記録装置が装着された。この写真は、当時MOVEのカメラテストに試用した時のもの。こちらの方が綺麗なカット。