大昔、食品会社に勤めていたことがある。その頃は防腐剤を担当していたので、それに関係したことを、ここで何度も書いてきた。今日は、また別の話になるが、食材は一生関わり、何かにつけて興味が湧くので、いつも屁理屈を書いてしまいそうである。
さて、当時の先輩の教えは、今でも役立っている事が多い。その1つに「食材は新鮮なもの同士を組合せると、特別な調味混合をしなくても、それ自体あるいは塩少々で十分美味しい」というものである。これは、製造ベースでの話なのだが、新鮮さに欠けたり、混合に時間の同時性、僅かな手順等で妥協すると、「研ぎ澄まされた顧客の感覚」を満足させることはできず、自然に顧客が離れるという教訓でもある。つまり、顧客が味に慣れると僅かな品質低下も見逃さないと言う事なのである。
若いうちは、サンプル程度を口にしても、品質が良いのかそうでないのか味付けに騙されて判断出来ないことも多いが、歳を重ねてくると、なんだか自分の体に良くない食材への反応だけは鋭くなってくる。特に、最初は分からなくても、何度か口にしてみると、「これはもういいや」と首をかしげる商品も出てくる。実はそれが「研ぎ澄まされた顧客の感覚」へ繋がる刻み込まれた食材履歴なのかもしれない。最近、そんなことを、しみじみと思い知らされることがある。若いころには、決して体感できなかった事なのだが、色々食べて来たという経験や、長い間生きて来たから反応すると言うのもあるだろう。食べ物ぐらい、そういう自分を信じて、自然の反応を大切にしたいと思う。うっ、遅いか!。
そういう感性は、自分で食事を作ったり、食材に興味を持つ、あるいは、厳選された食材を色々試すことで、磨かれていくものである。やはり対象に「探究心を持つ」必要があると思える。与えられたものを「ただ口にする、大人しく食べる」そんな役割をこなすだけでは、それは磨かれない。最初、「美味しい」と思っても、結局、次も食べたいと思うか、あるいは、もう駄目と思うか、際どい選択が待っている。特に、作る側に関与したことはないのだが、肉を使った加工品のハム、ハンバーグ、ベーコン、ソーセージ、焼き豚などは、それが顕著になりやすいと言われている。
今日のPDF写真は、その代表ともいえる立派なソーセージである。一般的に、ソーセージと言えばドイツなのだが、これは原産国=アメリカのソーセージである。元々、米国の牛肉等は日本人の好まない強い臭いがあるという印象が強い。あの臭いが平気で食べられる食文化そのものを全く信用していないのである。このようなソーセージもきっと何かそういった原材料に癖があるに違いないと決めつけていたのだが、このソーセージには、それを感じることはなかった。米国産でも「意外に美味い」と見直したのである。そして、遥か昔の「冒頭の教訓」を思い出してしまったほどである。このような美味しいソーセージは、形こそソーセージだが、結局そのまま加熱した方が美味しいような新鮮な肉を、わざわざ使用して保存性に適応させるよう製造しているのであろう。そのような優れた背景こそが、新たな食文化に貢献できると好感を持ったのである。食べ方は様々に自由だけど、色々試してみた限りでは、この大きさだと満遍なく火を通し、脂を染み出させるため、少し切れ目をつけ、フライパンは少し弱火で時間を掛けて、じっくり焼いてから戴くのが美味しい。
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