世の諸先輩方は、最近、海上自衛隊の護衛艦や潜水艦に興味を持っているようだ。このブログでも江田島 幹部候補生学校の参照が増えている。書店では、軍事兵器を特集した雑誌が豊富に並べられ、それを食い入るようにページをめくる年配者は多い。そんな姿に引き寄せられて、平積(ひらずみ)になった雑誌の表紙を目で追ってみる。尖閣での衝突から、そんな特集の本が徐々に増えて、ひそかなブームが続いている。今の軍備で「戦わずして勝てるか?」、あるいは「艦内で虐めをする悪い奴がいる!」とか、「集団的自衛権で米国の犠牲」になりそうだ、などの漠然とした心配に尽きるようだ。そして、もっと兵器開発の予算を増やしてハイテク化やロボット化を進められないのか、知りたいのだろう。私が幼いころ(昭和36年頃)の呉の海上自衛隊は、大東亜戦争の面影が残る古臭い小さな巡洋艦が数隻浮かんでいた程度で、とんと活躍することもなさそうな雰囲気を滲み出していた。当時は「戦争はせんのんじゃけえ、あれでええわ」と思っていたが、これからは、そうはいかない。
かつて戦艦大和を建造したとされるドック=現在IHI(石川島播磨重工業)では、当時から、出光(いでみつ)用などの巨大なタンカーを製造していたのを覚えているが、そのドックの建造中の戦艦大和を休山(やすみやま)側(旧海軍工廠:こうしょう)から撮影した写真(昭和16年暮頃撮影)が載った雑誌を見付けた。その写真には見覚えがあって、46cm 3連装の大砲の、甲板から下に隠れた巨大な砲弾の装填メカニズムを知っていたので、そんな凄いメカニズムを微塵も感じさせず、覆い隠すかように甲板には木目が張ってあったり、艦首には天皇陛下の御所有を表す「菊の紋章」があったり、また魚雷攻撃から浸水を防ぐとか、急旋回に対する水平復原力保持のため左右舷側水線部に膨れた構造(=バルジ:補足参照)を備えているのを眺めながら、それが、なんともさりげなく、大日本帝国海軍の戦艦を象徴しているようで、「ええ構造やなあー、最近の護衛艦とは造りが違うわ」と感銘を受けていたのである。
実は、今回も同じ様な写真(昭和16年暮頃撮影)に引き込まれてしまった。その写真のフイルムサイズとして4x5(シノゴ)なのか、8x10(エイトバイテン)なのかわからないが、解像力はめっぽう優れているし、それにもまして背後には、呉湾の向こう岸の丘(地域名→川原石:かわらいし)までもが鮮明に写し込まれている。日本光学のレンズなんだろうと、あれこれ考えているうちに、川原石方面を観察しながら、そうそう、その先の狩留賀(かるが)にある特別養護老人ホームには、母がいるなあと思い出していた。十数年前から私の顔を見ても誰だかわからない老婆になってしまって、そんな虚しさも手伝って、会いに行くことも減ってしまったが、「元気かの~ぉ」と思いを寄せ、胸が締め付けられるような気持に変わってしまった。
それから、しばらく平穏な日々が続き、その写真のことをとんと忘れかけていた昨日、ふと、テーブルの上に「野菜にディップ」と書かれた瓶詰めが3つ置いてあった。味噌加工品と書いてあり、「こんなもんを野菜につけて食べるんかー」と呟きながら、原材料の欄を追いかけようとすると、創業大正6年というのが目に入った。「おーっと老舗だな」と呟いた。だいたいその年は、祖父が海軍工廠から英国の保社へ魚雷の勉強に行った年だったので、数字として印象深く覚えていた。そして、な、なんと、製造者の住所を見て驚いた。呉市吉浦本町と書いてあったのだ。吉浦とは、川原石と狩留賀の間にある地域である。何でこのような品物がここにあるんだと、つい、あの写真を思い出しながら、この地域の歴史上の事実と、それらをわざわざ線で繋ぎ、私に突きつけているような気配に、不吉な予感とでもいうべきか、1つ1つに責め立てられた気分になってしまった。まるで母からの伝言かのようである。気を取り直して、今日はその逸品を紹介しておきたい。
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補足:バルジ=重心が高い船とか、重量のある荷物を運ぶ船には、水平復原力保持のためにあえて設けられた左右の弦側にある外側に向かって膨れた構造物。