2014/09/26

ディスカバリー13

   この場の状況を漫画で描くと「シーン」という吹き出しが書けそうな雰囲気だった。7階のエレベータの前にある小さな応接室に通されて、今、座っている。この応接で待たされるのは、初めてだなーと、そのきっかけを思い出す。彼は、電話ではとても無愛想な感じで、「雑誌は知ってます」、「いつでも結構です」と言われた。こちらも余計な話もせず、無機質に「では、来週火曜日にお邪魔します」と返事をしただけであった。だから、今ここ、1986年の暮れの大崎工場に座っていたのである。こういう空白では、これから始める「打ち合わせの流れ」を想定する時間に割り当てることが多い。きっと、オーディオ事業部と同じように、測定方法はこうしてほしいとか、測定結果を事前に見せて欲しいとか、色々難癖を付けられるんだろう、いつものように「注文」を突きつけられると覚悟しておこうと考えていたのである。かといって、こんな企画でも、そんな「うるさい奴等に」声をかけないまま実行すると、後で広報部から悔しそうな話をされたこともある。天邪鬼な、なかなか難しい業界なのである。
  
  彼は少し照れくさそうに笑みを浮かべながら現れた。それでも、やや緊張気味だった。私は名刺を出した後、初対面であることを忘れ、すぐさま今回の企画意図を話し始めた。しばらくすると、彼は、私の話をさえぎるように「シバソクさんも、3Qさんも出るんですね、いいですね~ぜひやりましょう、うちは、何をやっていただいても結構です」と軽く言い放ったのである。その唐突な言葉に私は耳を疑ってしまった。「えっ、そ、そうですか」と、「予想もしていなかった、まるで異なる反応に」戸惑いを隠せなかった。説明は、まだ終わっていなかったが、早々と彼はセットを用意してくれた。既に準備されていたのである。今まで、数多くのエンジニアと交渉してきたが、この会社で、話の途中で、ここまではっきりと言い切れる自信満々の設計課長は過去に一人としていなかった。「何をやっていただいても結構です」・・本当にそんなことを言って大丈夫か?帰りの車の中で、首をかしげながら、珍しく「凄いおっさんが」おったんや、と尊敬する気分で再び名刺を取り出して眺めてしまった。

  その時のモニターは、BVM-2000Aだったと思うが、その後継モデルの写真が出てきたので、彼の心意気を忘れないためにブログに残しておきたい。一般的に、放送局の調整室の中央に鎮座しているモニターをマスターモニターという。その場所取りをめぐって幾つかのメーカーが凌ぎを削る時代があった。池上通信機、中央無線、シバソク、そしてソニーである。本来、マスターモニターは計測器の扱いになるが、それに十分な性能を備えているものは無かった。例えば、マスターモニターに使用されるCRTは、周辺まで高い解像力が必要とか、IQ復調で無ければならないとか、面倒な要件を満たす必要がある。しかし、メーカー側は、製造コストに対して売り上げ的には、まったく魅力のない市場でもあり、全世界の放送局全てをシェアに収めても、たいした売り上げ金額でもなく、コストを無視したエンジニアの自己満足ともいわれる世界である。しかし、唯一最高の技術を顕示できる市場でもあり、採用されると誇りとなる。しかし、放送局としては優れた製品が出来たからといって、度々入れ替えるわけにも行かず、古くから製品を提供してきた会社の実績が評価されてきた。結局、それこそが「再び指名される理由」だったのである。その頃、後発のソニーとしては、何とかこの世界に入り込みたいと意気込んでいたのである。


    上の写真は、BVM-2012の前面の引き出しを手前に取り出して、取っ手の部分を下げた状態になる。同社は自社製CRTの強みを生かし、CRT内部まで積極的に手を加え、コンバージェンス調整まで自動化することに成功している。そして、これまで実装してきたカラー、コントラスト,、色温度調整等の数々の項目に加えコンバージェンスまで、一連の自動調整機構に組み込み、全てを1分少々で完了させることを実現している。CRT内部には、インデックス蛍光体とフォトセンサーを内蔵して、コンバージェンス調整の元となる図形ひずみを根本的に無くしたのである。まさに、自社製CRTの強みを生かし、最後の最後までトリニトロンという自ら開発した方式と製造技術に拘り続けた成果といえる。
  トリニトロンは、地磁気の影響を受けにくいと我々は刷り込まれてきた。それは、13インチの解像度340TV本時代の話で、高解像度化による課題は、加速度的に増えてきた。また、地球上どこでも最高の映像クオリティーを必要とする放送局仕様は、さらに本質に迫る技術を必要としている。それらの背景によって、900TV本という超高解像度ならではの課題としてオートコンバージェンスが浮き彫りになったと考えられる。つまり、世界中どこへ輸出しても、わずかな地磁気の影響でも、「いつでも、誰でも」簡単に図形ひずみ0、コンバージェンス・エラー0にできる「魔法のスイッチ」が必要だったのである。
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%211273&app=WordPdf

  話を戻すと、彼は、他社比較データーと出来上がった解説原稿を見てとても喜んでくれた。電話の向こうで、原稿の気に入った部分を、お経のように何度も何度も繰り返していたのを覚えている。しばらくして、原稿を英文に直して配布したい旨を聞き、快く承諾した。その後、事業部長になった彼は、席をはずす事が多いようだった。自ら世界の放送局を股にかけてデモンストレーションに、あるいは売り込みにと、情熱にも似た戦略の下、活動の幅を海外に拡大していったのである。

  彼は必ずしもエリートコースを歩んできた訳ではなかった。若い頃に、最終段階で不良になった家庭用テレビを別ラインで毎日手直しをしていたという下積みの話も聞いたことがある。言わばトリニトロンの叩上げだったようだ。

  時々、連絡を貰う事があった。北米でとてもいい評価を貰ったとか、ヨーロッパはやはり厳しいとか、少ない言葉の中にも、活動の様子が手に取る様に伝わってきた。一方、噂では、彼は当初から、かなり体に無理をしていたとも伝え聞かされていた。そんなことを、直接聴くのは失礼かとも思っていたが、とても気がかりだった。ある時、別件の打ち合わせで大崎テクノロジーセンターへ寄った時には、彼の入院と病状を知らされた。少なからず予想はしていたものの、何故かとても悔しい思いに浸ってしまった。

  「あえて、難しいことに挑戦するから生き甲斐ができる。反対していた奴らも驚く程の技術革新を見せつければ、みんな共に成長できる。だから、いつも「それは難しいことではない」と口癖のように説得してやり遂げる」。・・・そんな彼の声が今でも聞こえてきそうだ。