日本では、「終戦の」という言葉を先頭に付けて「終戦のエンペラー」と題した映画を観た。誰もが知る「昭和天皇とGHQ最高司令官マッカーサーの会見」の様子を忠実に再現したものである。今日は、それの「60歳のおっさんの感想文」である。当然、年齢や成長した地域、あるいは知識や経験によって映画の捉え方も異なるので、「ふーん、そう」と言うぐらい、人によって異なるものである。
さて、その誰もが知っている話を、「いきさつ、そして、その場の陛下のお言葉の重みや漂う空気感」をどう表現してくれるのだろうか。その一点にしか興味は無かった。私は、陛下のそのお言葉を、おおよそ「54年ほど前に父から伝え聞かされたことがある」。それ以降、尊敬の念をこめて「陛下を天ちゃん」と気軽に呼んできた。国民が陛下のことを「ちゃん」を付けて呼ぶのは、大いなる親しみであるが、絶対の信頼を持っているという証でもある。しかし、そう呼べるのは、後にも先にも昭和天皇だけである。その当時は、貸本屋から戦争漫画ばかりを借りてきて、父に読んでもらうのをいつも楽しみにしていた。父は、解説を加えながら朗読し軍艦マーチを口ずさむ。漫画には、腹が減っても勇敢に戦う兵士達、世界で最も優れた軍艦や戦闘機が描かれ、一方「無能な大本営」という構図が浮き彫りで、陛下への情報操作、首脳陣の精神論や、国民のメディアに流され易い気運が浮き彫りになっていた。
さて、本題だが、結論から申し上げると、その会見の場の映像だけは、日本人として、「かなり満足できるもの」であった。自分のイメージどおりで、諸先輩方も納得してくれるに違いない。この映画には、歴史を忠実に再現したいと言う意図と、もう1つ、日米を対等に扱いたい意思が織り込まれている。にもかかわらず、明らかに「日本びいき」に仕上げられている。それは、冒頭の映像にも登場する原子爆弾投下の反省が背景にあるからで、その現実を見極め 「世界で最も危険な国が米国」であることを強調しているからに他ならない。また、キャッチフレーズにある「戦いの終わりに、分かり合えるのか」と言う言葉は、戦争前に対して「戦争を終えて、むしろ分かり合えなくなっている」と考えられる。今でも「米国は日本を敵国(補足1)として扱い、あるいは、日本は、米国を支配者」と考える人達が増えている。そのことに、もっと配慮すべきである。日本では、これを「根に持っている」という言い方をするが、年月が経ったからといって原爆2発落とされたことを忘れることは出来ない。
映像は、かつての戦争映画のように古めかしいものではない。どちらかと言えばギラギラしたデジタル調での作りである。原爆を搭載したB29エノラゲイが飛び立つ映像は、表裏反転映像で使用したと推察される。いずれにしても、そのリアルな表現技術を使って、東京の焼け野原を再現しているところは、つい「ため息をつくほど恐ろしくも見事」である。しかし、撮影カメラは、少し古いかもしれない。ヘッドライトが水平スメア(偽映像)となってしまい、観るものを邪魔する。さらに、戦前の日本の風景、街中、家財等の様子は時代考証も素晴らしいし、それも見所と言える。一方、マッカーサーの乗る飛行機が富士山を目指して飛んでいるシーンは、富士山がいかにも作り物で凄く安っぽく描かれていて、少し残念に思える。続けて、その飛行機が厚木基地に着陸して向きを変える時のジュラルミンむき出しの輝きはとても印象に残った。さらに、どうでも良いことだが、マッカーサーへの取材カメラは、リンホフスーパーテヒニカ(補足2)などが用いられていて、当時の米国における取材風景を思い起こさせる。
日本びいきとか、拘りと言えば、それはキャストにも現れている。マッカーサーにトミー・リー・ジョーンズが登場した最初の(飛行機から降りる)シーンは、一瞬ギャグかと思って笑ってしまった。きっと「この惑星のエンペラーは・・・・」とでも言いそうである。鹿島大将役の西田敏行の登場の時も同じである。この軍人2人は、まったく対照的に描かれているが、どことなく人間味が溢れていて共感できる。つまり、今の日本人の中には2人の価値観が共存すると思えるのである。次に、昭和天皇役の片岡孝太郎は、とても「それらしい印象、つまり=お言葉の重みや漂う空気感」をリアルに再現してくれた。マッカーサーの前で、「陛下が国民に対して責任を取ろうとする姿」にぐっと来て、涙が自然に溢れてしまった(うーむ、やっぱり素晴らしい)。そのほか、夏八木勲は、特に印象深く、彼ならではの表現力が輝いていたように思う(補足3)。
全体の流れとしては、戦後、米国が寄生虫のように日本の資産を吸い上げ続けていることを忘れさせるほど、日本人が気持ちよく(反感を持たず)観ることのできるストーリーになっている。こうやって振り返ると、その徹底して考え抜かれた構成に驚かされる。そこで、気をよくしてマッカーサーを通して米国に親しみを持ち、彼らの名誉さえも高めるところは、「日本びいき」とは真逆の米国のレトリックそのものであった。あと、これも余計なことかもしれないが、准将ボナーフェラーズが、愛した「あや」という怪しくも空想の日本女性は、何としても「日本を理解しようとする気持ち」を具現化したものとして捉えることができる。全体があたかも「あや」とのラブストーリのような印象を受けるかもしれないが、そこは、難解な日本人のメンタリティーに対する、米国人の分かりやすい「愛」を引き合いに出したものと思える。所詮ハリウッドの考えることは、この程度なので、あまり気にすることは無いが、あえて言わせてもらえば、それほど難解なメンタリティーよりも、愛の方が「価値が上だ」と騒いでいるとも取れる。
こちらは、予告編。
http://www.emperor-movie.jp/
補足1:少なくとも「日本は米国の敵国」と思っている米国人は多い。その理由として「いつ原爆の仕返しをされるか分からない」からだという。
補足2:ドイツ製の取材用の4x5カメラ。
補足3:今年5月に他界されている。